第18話 灰青に翳る
宵星珈琲館。どことなく格式を感じさせる紺地に金色のレトロな書体の看板を横目に、格子状のガラスがはめ込まれた扉に手をかける。駅から徒歩二十五分の灼熱を忘れさせてくれる冷房のやわらかな風が額や首筋を撫で、滲んでいた汗が一気に引いていった。やや重たい音を立てて背後で扉が閉まると、外の喧騒がゆったりとしたジャズピアノのBGMへと切り替わる。
「わぁ……、雑誌で見るよりずっと素敵。結構広いんだね。見て来栖くん、あの星可愛い」
「……」
僕の肩越しに店内を見渡す水瀬ミヤコが弾んだ声を上げた。夏の日差しから逃げ込むため適当に入った店ではなく、彼女が生前から気になっていたという喫茶店だ。重厚な木目調のインテリアと紺青色のベルベットのソファが並ぶ店内。天井からは星型のペンダントライトがいくつも吊り下げられ夜空の下にいるような薄明かりを落としていた。なるほど、宵星の名を冠するにふさわしい空間だと思う。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
黒のベストとソムリエエプロンを着こなした利発そうな女性店員がにこやかに話しかけてきた。視線は僕だけに向けられ、水瀬ミヤコの存在には気付いていない。
「一人です」
「どうぞ、空いているお席へご自由におかけください」
店員の言葉に軽く会釈を返し、店内を見回す。窓際で読書に没頭する女性や、カウンターで新聞を広げながらカップを口に運ぶ年配の男性。昼食時を過ぎているおかげか客は多くない。みな思い思いに静かな午後のひとときを過ごしている。カラメルに似た芳ばしく焙煎された珈琲豆の香りが漂ってきて、喉の渇きが一層増してきた。できるだけ人目を避けられる席を求めて奥へと足を進め、壁際の席に腰を下ろす。観葉植物が簡易的な目隠しとなり、声を潜めてさえいれば霊である彼女と会話をしていても注目を集めることはなさそうだ。
「君がこんなに落ち着いた店を選ぶとは思わなかった」
「意外?」
「まぁ……そうだな。駅の近くには学生が集まる流行りのカフェなんかがたくさんあるだろ。そういうところに行きたがるかと……」
「まだまだ私をわかってないね、来栖くん」
「そうかもな」
この雰囲気は嫌いじゃない。彼女の選択に感心しながらしばらく店のインテリアを眺めていると、さきほどの店員が水の注がれたグラスや革張りのメニューブックを置いていった。グラスの中身を一気に半分ほど飲み干して一息つく。冷たい水が体のなかを通って胃に落ちる感覚が心地良く、熱のこもっていた体が少し軽くなった気がする。向かい合って座る水瀬ミヤコから読めるようメニューを逆さにして広げると、長い髪を耳にかけながら機嫌良さげに文字を追い始めた。
「私は食べられないけど、気になってたもの頼んでいいんだよね?」
「いいよ。責任を持って僕が食べる」
「じゃあクリームソーダとフルーツパフェ。 あ、うーん……やっぱりここはプリン・ア・ラモードかな……。どっちも人気メニューだって雑誌に載ってたんだよね。んん〜、迷う」
「……甘いものだらけだな」
「それはそうだよ、喫茶店ってそういうところだし」
「そうか……?」
僕と水瀬ミヤコの思い浮かべる喫茶店のイメージには相違があるらしい。なかなか注文が決まらない彼女をしばらく待っていたが、長くかかりそうだと悟った。仕方なく呼び出し用のブザーを鳴らす。
「ああっ、まだ決めてないのに……!」
「いいから」
「お待たせしました、ご注文をお伺いいたします」
「ブレンドコーヒーとクリームソーダ。それからフルーツパフェとプリン・ア・ラモードをお願いします」
「コーヒーは食後にお持ちいたしますか?」
「いえ、一緒に持ってきてもらって大丈夫です。お願いします」
伝票にペンを走らせ注文内容を復唱した店員が席から離れると同時に、水瀬ミヤコがテーブルに肘をついて身を乗り出した。
「ねえ来栖くん大丈夫? 全部頼んじゃったけど、気持ちは嬉しいんだけど……! 普段からあんまり食べないほうだよね? あんなに頼んで平気? 具合悪くなっちゃったりしない?」
「甘いものは食った気にならないんだ。いくら食べても腹が膨れないというか……だから多分、平気だ」
「え〜? なにそれ別腹ってこと? 甘いもの好きでもないのに? 男の子ってそういうものなの? ……でも、それなら良かった。デートだからって無理してるんじゃないかと思って」
「……そんなことないよ」
気遣うような彼女の優しい声色に、少しだけ心がざわつく。デート。たしかに僕は水瀬ミヤコに提案されたそれを了承し、現在決行している。脇に寄せた荷物の一つ、いかにも若い女性向けにデザインされたショップ袋のなかには、ここに来る前にいくつかの店舗を連れまわされ、どちらがいいかと問われるたびに無難な返答を繰り返し、理不尽にセンスを批難されながらもなんとか無事に決まった一枚のワンピースが入っている。デパートで買い物をして、憧れていた喫茶店でお茶をして、夕方には彼女好みのホラー映画を観て帰る。健全かつ王道なデート。それが今日の予定。
***
平成二年、八月二十四日。あと一週間足らずで夏休みが終わる。窓から差し込む陽射しはまだ強いが、蝉の声はわずかに勢いを失っていた。宿題は片付いているし、提出物の準備も済んでいる。クリーニングから帰ってきた糊の効いた制服が押入れのなかで静かに出番を待っている。ベッドに寝転んで目を瞑ると、薄いカーテン越しに漏れる光と影がまぶたの裏に踊った。夏休みの終わりが近づくと毎年決まって胸に迫る、この独特な寂寥だけはいくつになっても慣れない。
「……」
さっちゃんが成仏してからというもの僕はなんとなく芯の抜けたようなぼんやりとした日々を過ごしていた。決して寂しさや悲しさだけが残ったわけじゃない。彼女が最後に見せた満たされた笑顔は美しかったし、僕たちの行動には意義があったと信じている。それでも……ふとした瞬間、マシュマロが舌を出したまま寝ているだとか庭先にいつのまにかコスモスが咲いているだとか、彼女が笑顔を見せそうな出来事に遭遇するたび無意識に小さな背中を探しては我に返る。その虚しさの繰り返し。あと何回これを経験するのだろう。さっちゃん、水瀬ミヤコ、それから――。優しい余韻よりも、少しずつ絡みついてくる焦りや恐れに気を取られ、気づけば些細な虚しさは息をするのも億劫になるほどの重さになっていた。
「――っ」
寝返りを打って枕に額を擦りつける。駄目だ。深く考えてはいけないとわかっている。いまは蓋をして目を逸らせ。暗渠のなかで出口を失った不安がじわじわと胸を満たしていく。いつか足を取られて溺れる日が来る。それがわかっていてもどうにもできない息苦しさに強くシーツを握りしめた。
「ねえ来栖くん、デートしようよ」
すぐそばから聞こえてきた声に目を開けると、水瀬ミヤコが隣に横たわっていた。さっちゃんを見送ったあの夜以降、彼女との距離が近くなったように感じる。それは心理的にも、物理的にもだ。抵抗がないわけじゃないが、侵入を許したのは僕自身だった気もする。追い払う気力も湧かず、何度か瞬きをして、うっすらと透ける彼女の輪郭を眺める。
「さっちゃん、天国から見てるかも。お兄ちゃんとお姉ちゃんが元気ないって心配しちゃうかも。このままじゃ、私たちがさっちゃんを縛り付けちゃうかも」
「かも、かも、かも……」
「だって私はまだ成仏したことないんだもん……正確にはわかんないよ」
さっちゃんは未練を手放し成仏したんだ。もうこの世の何者も彼女を縛り付けることはできない。そんなこと彼女だってわかっている。それでもこんな物言いをするのは、いつまでも腐っている僕を見かねて、なにか前向きで意味のある行動を取らせようとしているからなんだろう。
「……どう?」
「……」
できれば放っておいて欲しい、気が乗らないと背を向けたい。そうできないのはこの近すぎる距離のせいか、行く行かないの問答をする気力も湧かないせいか。
「……いいよ。しようか」
「え……本当?」
「うん……。悪いけど、予定は君が立ててくれ……」
「いいの? 私が行きたいところばっかりになっちゃうよ?」
「いい、よろしく……」
一日うまくやるだけ、それくらいなら大丈夫。ぎこちなくても体を動かし続けていれば、いずれ心は自分自身さえ欺いて鈍っていく。水瀬ミヤコの表情を確認するのも億劫で、またゆっくり寝返りを打ち腕で光を遮る。誰かの庭先で水を撒く音、時折通り過ぎていく笑い声と自転車の走行音、風に乗って届く風鈴の音色。遠いような近いような夏の終わりの音はいつだってこんなふうに穏やかで、どこか灰青に翳っている。