第17話 本当に知りたい?
音を立てないよう静かに鍵を回して玄関のドアを引く。腕時計の針は午後十時をとうに過ぎた時刻を指していた。明確な門限を決められてはいないものの、連絡もなしにこの時間に帰宅するのはなんとなく気が咎める。さっちゃんの成仏に対する喪失感と達成感。自分の感情にまだ頭がついていかず落ち着かない。両親に鉢合わせる前に部屋へ上がってしまおうと、わずかに開いたドアの隙間に体を滑り込ませる。
「おかえりなさい、ハヤトちゃん」
「……ただいま、母さん。遅くなってごめん」
暗い玄関、居間から漏れる薄明りのなかに母さんが立っていた。声色は優しく、僕を見るなり肩をすくめてやさしくほほ笑む。
「いいのよ。でも、次からは連絡してね」
「うん」
いちおう注意はした、という感じで、帰りが遅くなったことを責めたり追及する様子はない。母さんは昔からこうだった。僕の顔を一目見ただけで、なにか話したいのか話したくないのか、良いことがあったのか良くないことがあったのか、すべてを察してくれる人だった。いまもこうして、僕の心の揺れを感じ取りながらただ受け入れてくれている。心配をかけてしまったことは申し訳ないが、このあたたかな眼差しに触れると僕はいつでも安心できた。
「お父さん、心配して探しに行こうとしてたの。声をかけてあげてね」
「そうなんだ……。父さん、ただいま! 遅くなってごめん!」
靴を脱ぎながら、明かりと共にテレビの音が漏れてくる居間に向かって声を張り上げる。ばたばたと足音がしたかと思うと、すぐに父さんがやってきて壁のスイッチを押した。暗さに慣れていた目に照明の明るさが眩しく、目を細める。
「ハヤト、帰ったのか。 こんな時間までどこ行ってたんだ、心配したんだぞ」
「ごめん。ちょっといろいろ寄り道してたら、こんな時間になってて……」
「それだけか?……まったく、連絡しろよな……」
父さんは一度大きく息を吐き、悪い予感を振り払うように目を閉じて首を横に振った。それから僕の前髪をかき上げて、まじまじと顔を覗き込んでくる。なにか普段と違う雰囲気を感じ取ったのだろうか。妙に真剣で、探るような眼差しだ。
「大丈夫か? ぼーっとしてるな? 具合悪いのか?」
「大丈夫……。腹減ってるだけ……夕飯まだある?」
「ああ。ラップしてテーブルに置いてあるから……本当に平気か?」
「平気だって、ありがとう。飯、食べてくるよ」
これ以上の心配をさせないよう、努めて笑顔を作る。そそくさと台所に逃げ込み、食事を温めた。食欲はなかったが、ときおり居間から向けられる二人の視線が気になり無理に箸を動かす。なんとか皿をカラにして、普段と変わりないことを証明するためにゆっくりと風呂に浸かり、部屋に戻った。
「はぁ……」
疲労でなにもする気になれないのに、妙な高揚感のせいで頭が冴えている。常夜灯の明かりだけを残してベッドに腰掛け、天井を見上げた。エアコンの冷気が火照った肌の熱を奪っていく。見慣れたいつもの部屋で現実の温度に体が馴染んでいくほどに、神社で目にしたあの幻想的な出来事さえ夢の残滓のように薄れていく気がした。あれは本当に、起きたことだったのだろうか。
部屋の一角、にぎやかに飾り付けられた壁に目をやる。さっちゃんが描いた色とりどりの絵に、三人で撮った写真。あの光景もあの笑顔も、夢や幻ではなかった証拠。思い出は全部ここに残っている。
「……忘れないよ」
「……センチメンタルな来栖くんも好き」
小さく呟いた言葉に、同じく小さな返事が帰ってきた。いつのまにか現れた水瀬ミヤコが勉強机の椅子に座って頬杖をついている。いつもなら僕が寝支度を整えベッドに腰掛けると「おやすみ来栖くん」と挨拶をして、さっちゃんと一緒に姿を消す。だけど今日は消える気配がない。ただ物憂げに机の上を見つめている。
「休まないのか」
「うん」
「幽霊は眠らないんだったな」
彼女もきっと、さっちゃんとの別れをまだ整理しきれていない。失ったものへ思いを馳せるには、夜はあまりに長く静かすぎる。少しでも気を紛らわせるために誰かと一緒にいたい、誰かと並んで呼吸がしたい。僕もそれを探している。
「……少し話をしないか」
水瀬ミヤコが顔を上げる。無言のまま立ち上がって僕の右隣に腰を下ろした。いつもと同じ。彼女が座ってもベッドは沈まないし、軋む音も立てない。水瀬ミヤコは死んでいる――わかっている、わかっていたのに、いまこの瞬間は妙に胸をざわつかせる。
「……」
「どうした?」
なにか言いたげに見つめてくる彼女に問いかけても、答えは返ってこない。すぐに目を逸らされたと思ったら、またチラリとためらいがちに視線を送ってくる。それを何度かくり返した末に、彼女は観念したように一気に距離を詰めてきた。ぴったりと身を寄せられ、腕と肩が触れあう。そのまま僕の右腕を両手で抱きしめ、指先まで絡め取られた。
「おい……」
「……いまだけ」
頬が肩に押し付けられる。必要以上に密着されたことに声を上げるも、彼女は離れようとしない。甘えるような、縋るような、拒絶するにはか弱すぎる響きになにも言い返せなくなってしまう。息をついて、この状態を受け入れることにした。体温のない水瀬ミヤコの肌にはまだ慣れない。シャツ越しに伝わる頬の冷たさと素肌に絡む腕と指の感触は、死を想起させて背筋を這い上がる。それでも、もう以前ほどの嫌悪は感じなかった。むしろこの冷たさこそが彼女なのだと、納得している自分がいることに気づく。
しばらく、どちらもなにも言わなかった。エアコンの低いうなり音を聞きながら、ただ寄り添って今夜の出来事を反芻していた。いくつもの思い出や感情が浮かんでは流れていくなかで、それは次第に言葉へと形を変えてぽつぽつと外へあふれていく。
「さっちゃん、最後まで泣いてなかっただろ」
「うん……」
「僕たちとの別れや成仏することを、悲しいことだとも怖いことだとも思ってなかったからだ。これは間違いなく、君のおかげだと思う」
「私?」
「未練を無くしてあげることも大事だけど、心を満たしてあげる方法がほかにもあるなら、それも大事。さっちゃんは、君のおかげで生きているときには知らなかった楽しいことをたくさん知った」
絡められた指に少し力がこもる。彼女の顔は見えない。だけど、僕の伝えたいことはちゃんと届いている。
「僕たちと過ごす時間で、あの子は安らぎを得たんだ。だから、成仏して生まれ変わることに希望を持てた。……君が言った通りになったんだよ、水瀬。ただ母親のことを知っただけじゃ、きっとあんなふうに笑ってさよならなんて出来なかった」
「そう、かな。……うん、そうだね。さっちゃん、幸せそうだったね……」
「ありがとう、あの子を笑顔で送らせてくれて」
「来栖くん……」
言葉が途切れ、ふたたび沈黙が部屋に落ちる。いま、どんな表情をしているのか。たしかめるように自然とお互い見つめあう。水瀬ミヤコはなにも言わない。吸い込まれそうな潤んだ瞳が僕を捉えている。妙な雰囲気になってしまったと頭の片隅で考える。同時に、ここで吞まれてしまわないのは馬鹿だとも。
「君は」
「……え?」
「君は、本当はどうしてほしい。どうしたら心が満たされる? さっちゃんみたいに笑って成仏させてやりたい。僕になにができる?」
「っ、え、え? なに、ち、近いよ来栖くん……? なんでそんな顔近いの……!」
覗き込むように、こちらから少しだけ距離を詰める。それだけで水瀬ミヤコの顔はみるみるうちに赤く染まっていった。耳までほのかなピンク色。眉を下げ、視線があちこちへ泳ぐ。
「好きになって、君がもう死んでしまっていることを後悔すれば、それで本当に満たされるのか? 君の望みは、本当にそれだけか?」
「あの、あの、ちょっと待って、本当の望み……? えっと、私もあんなふうに成仏できるか心配なの……?」
「ああ。あのさっちゃんを見れば、そう思って当然だろ。美しかったよ。あの子みたいに満たされて、笑って逝ってほしい。僕が見てきた水瀬ミヤコはそれに値する人間だ」
まともに視線も合わせられないことに業を煮やし、少し前のめりになると彼女は慌てて顔をそむける。
「そんなの……なんで急にそんな、まって、本当にまって、ずるい……」
よわよわしい声で呟くと、水瀬ミヤコはようやく僕の腕を離した。自分の顔を両手で覆い隠す。指の隙間から涙目になっている栗色の瞳を覗かせる。
「ね、ねえ来栖くん。さっちゃんのこと好き……?」
「好きだよ」
「えっと、じゃあ……、さっちゃんと同じくらい、わ、私のことも好きになってる……?」
「……」
「……」
なにを言わせたいんだ、彼女は。さっちゃんへの好意と君への好意は種類が違う。そして、君へ抱いているこの感情のほうが、ずっと厄介で、面倒で、心が乱されるものだ。沈黙のなかで期待と不安をない交ぜにした瞳と見つめ合う。なんと言って欲しいかくらいは察しがつく。それでも、言えるはずがない。
「や、やっぱりいまのなし! あはは、なんだろ私、恥ずかし……」
まただ。焦った彼女がまた目を逸らす。逃げるような仕草に、体が咄嗟に反応する。
「少し」
「え?」
驚いてこちらを見た彼女をじっと見据える。手で掴まえられないなら、言葉で掴まえるしかない。
「前よりは少し、……好感を、持ってる」
「!!」
ただでさえ大きな瞳が、これ以上ないくらいに見開かれる。水瀬ミヤコはバネ仕掛けの人形みたいに勢いよくベッドから立ち上がった。おそらく反射的な行動で、このあとどうするかまで考えていないんだろう。立ち上がった本人も驚いたように足元を見下ろし、赤くなったまま固まっている。
いつもの余裕を完全に失った彼女の姿を、可愛いと思ってしまった。こんなものどうしろっていうんだ。僕も大概、単純な男で、一度意識してしまえば良いところばかりに目が行くし、喜びそうな言葉を紡いでしまう。この状況すら彼女の思い通りなのか、自分の意思でそうしているのか、いまはどうだってよかった。――だって僕はいま、雰囲気に呑まれているのだから。
「……前にも言っただろ。君の人となりをもっと知っていたら、少しは考えたかもしれないって……。いまは知っていってる最中だよ。まだ君の望む『好き』とは違う。でも、可能性がないとは……もう、言えない……」
「そ、そうなんだ、えっと、嬉しい……ありがと……好き、来栖くん……」
「うん……」
とはいえ、ここまでストレートに感情をぶつけられ続けていると、今度は僕のほうまでどうしていいかわからなくなる。なんとなくお互いに顔をそむけて、意味もなく床の木目を眺めた。
「ねえ、どうしよう……来栖くんの顔、見れないよ……」
「うん……。少し、喋りすぎたかもな。……そろそろ寝るよ」
「そ、そうして。じゃあ私、もう行くね……!」
慌ててベッドから離れていく華奢な背中を目で追う。動揺していて、少し嬉しそう。声色まで揺れていた。表情が豊かで、情が深くて、どんなときでも相手の気持ちに寄り添おうとする優しさをもっている。それは全部、本当。素直で正直で、どこからどう見ても非の打ちどころのない可憐な少女。それは、半分嘘。いつだって、彼女は他人に見せないなにかを隠している。
「なあ水瀬」
「なに?」
「図書館の帰り、君はどこにいた」
水瀬ミヤコが背を向けたままピタリと動きを止めた。彼女は幽霊。時間や距離は意味を持たず、どこへでも好きに移動できる。彼女の言葉と態度、胸のなかに覚えた僅かなざらつき。新聞で、さっちゃんを殺したあいつの顔を確認したあと、彼女はどこに消えた。
「本当に知りたい?」
ゆっくりと振り返った瞳に、ほんの一瞬、影が差した。それもすぐに消えてしまい、いつもの柔らかなほほ笑みだけが残る。
「……いや。やっぱり忘れてくれ。もう疲れたし、すごく眠い。きっと明日にはこんな質問をしたことも忘れてる」
「そうだね。きっとそうだよ。そのほうがいい。おやすみ来栖くん、また明日ね」
「おやすみ水瀬、また明日」
水瀬ミヤコは幽霊で、彼女曰く幽霊は怖くて当然。光があれば影がある、彼女の優しさの裏にひそむ些細な闇くらい受け入れるさ。僕は死者を好きになろうとしているんだ。まぶたを閉じて、あのあたたかな光を想う。成仏とは救いだ。未練をなくし、自由になる。この世との繋がりを溶かし、――僕から奪っていく。少しの切なさと痛みを秘めたまま、夜の深みに沈んでいく。
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なろうさんへはコンテスト応募目的で作品を置かせて頂いているので、設定等で文字数が加算されないよう本編以外の投稿を控えております。ご了承くださいませ。