第16話 ばいばい
舌に乗せる言葉をこんなにも重く感じるのはいつぶりだろう。木々を抜ける風の音、葉の擦れるささやき、そんなものさえ騒がしいと思えるほどに神経が張り詰めている。何度も唾を飲み込んでは、まっすぐに見つめてくる少女に相応しい表現を探した。
「じゃあ、お母さんはひとりぼっちじゃないの……? さみしくない……?」
「うん。お母さんは、さっちゃんを守れなかったことを反省してる……そういう人たちがたくさん集まってる場所にいるんだ。時間はかかるけれど、もう誰も悲しい思いをしないように皆で頑張ってる。一人ぼっちにはならないよ」
「サヨリもそこにいける……?」
「さっちゃんは、行けない。大人しか入れない特別な場所だから、僕やお姉ちゃんも行けない。でも、そこにいる人たちは大勢で一緒に暮らしていて……お世話をしてくれる人もいる。だから、もう心配しなくても大丈夫」
「そうなんだ……よかった……」
ライオンのぬいぐるみを抱きしめていた腕の力が緩み、安心したように小さく笑むさっちゃんを見て、喉の奥が詰まりそうになる。どうして自分を見殺しにした母親をそこまで想えるのだろう。まだ子供なのに、……まだ、子供だから。
「あのね……」
「ん?」
「お母さん、サヨリが死んじゃったあともね……ずっと抱きしめててくれたの。お母さんをひとりにしないでって泣いてたの」
「……うん」
「だから、ずっといっしょにいたかったけど、しらない人たちがいっぱいおうちに来て……お母さん、どこかに連れていかれちゃって……。サヨリ……お母さんのこと見つけられなくなっちゃったから……、ずっとしんぱいだった。お母さんが泣くのは、いちばんいやだから……」
「……うん」
そうか。彼女をこの世に縛り付けたのは、母親の言葉だったのか。ひとりにしないでなんて勝手な言い分を、さっちゃんは当然のように受け入れて叶えようとした。自分自身の安寧を犠牲にしてまで母親を案じ続け、それが成仏を妨げる枷になった。まるで呪いだ。――でも、この子はそれを不幸だと思っていない。
「……さっちゃんは、いまも……、お母さんのことが好きなんだな……」
「うん。サヨリ、お母さん大好き!」
これまで見たどんな表情よりも明るい顔でさっちゃんが笑う。それはとても純粋で、嫌になるくらい透き通ったものだった。だから僕は揺らぎそうになる視界を手の甲で拭って、彼女のためにほほ笑んで見せる。
「そっか……」
隣から鼻をすする音が聞こえてきた。水瀬ミヤコは顔を伏せ、声を押し殺して泣いている。胸が潰れそうなのも、耐えているのも僕だけじゃない。これはさっちゃんのためなんだ。どんなに理不尽に思えても、彼女が子供らしく母親を慕う気持ちは守られなければいけない。僕たちの勝手な正義感で否定していいものでは決してない。
「お母さんがさみしくなくてよかった……。ひとりぼっちじゃなくてよかった……。おしえてくれて、ありがとうお兄ちゃん……」
「うん」
おだやかなさっちゃんの声に応えるように、どこからともなく小さな光の粒が現れ始める。夜空からこぼれ落ちた星屑のような、真夏の夜に降る雪のような幻想的な光が、明滅を繰り返しながら彼女の周囲に集まってくる。
「サヨリ、ずっと悲しかった。お父さんがいなくなったことも、お母さんがサヨリを見て笑ってくれなくなったことも、ずっとずっと悲しかった……。でも、もう……だいじょうぶ。もう……ぜんぶ終わったから」
「……うん」
ひとつ、またひとつと、光がさっちゃんに優しく寄り添う。きらめく軌跡を描きながら、細い糸で織り上げた繭のように彼女を包み込んでいく。ただ静かであたたかな光だった。きっとこれが彼女の痛みや悲しみを癒し、この世との繋がりを溶かしている。不思議と、そう理解できた。成仏。彼女を縛る未練が無くなり自由になる。喜ぶべきことなのに、もうその時が来てしまったのかと苦しくもなる。
「サヨリ、お空にいくね」
「さっちゃん……」
「泣かないでお姉ちゃん……。サヨリ、もう悲しくないよ。たくさんあそんでくれてありがとう。いつも一緒にいてくれてありがとう。いまここがとってもあったかい……」
さっちゃんが胸のあたりに手のひらを重ねた。その仕草が引き金になり、それまで必死に堪えていた水瀬ミヤコの口から泣き声が漏れる。何度も手で目元を擦っているが、涙は彼女の頬を濡らし続けた。
「たのしいこと、いっぱいおしえてくれてありがとう。サヨリ、もうこわくないよ。こんどは、お兄ちゃんとお姉ちゃんみたいにやさしいお父さんとお母さんの子供になるね。どうぶつえんにも、ゆうえんちにも、つれていってもらうね。……大好きだよっていっぱい言ってもらうね」
「……まって、さっちゃん、まだ――」
まだ、もう少し一緒にいよう。君の知らない楽しいこと、ほかにもいっぱいあるんだ。寂しいよ、もう会えなくなるなんて。水瀬ミヤコが言いたいこと全部、言ってしまえたら。でももう、さっちゃんの望みを叶えるのは僕たちの役目じゃなくなった。彼女はもう道を選んだんだから。
「引き止めるな、水瀬」
「……っ」
「こちらこそ、ありがとうさっちゃん。僕たちも楽しかった。君に会えて良かった」
「うっ、うっ、ありがと、さっちゃん、楽しかった、うぅっ、大好きだよぉ」
「……うん、えらいぞ」
しゃくりあげながら精一杯の想いを言葉にした水瀬ミヤコに囁く。震える手で強く握られた手が痛むけれど、その痛みが僕を冷静でいさせてくれる。さっちゃんは優しく目を細めて、幸せそうにうなずいた。次第に彼女自身の肌や髪、手にしているぬいぐるみまでが淡い光を放ち、ゆっくりと輪郭がほどけていく。
「お兄ちゃん。あのね……」
「ん?」
さっちゃんは僕を見て一度うつむいたあと、少し迷うようにしながら口を開いた。
「サヨリ、お兄ちゃんのお母さんに会ったことがあるよ」
「え……?」
「サヨリがケガして、びょういんにいたときにね、お話したの。とってもやさしかった」
「そう、なのか……同じ病院に……」
あの日、病室のベッドでニュース番組を見ていた母さんの横顔を思い出す。深い悲しみに当時の僕は困惑するしかなかったけれど――いまようやく理解した。母さんが感じた痛みと同じものが僕のなかにもある。
「うん。サヨリ、やさしくしてくれてありがとうって、ずっと言いたかったの……。だから、お兄ちゃんのおうちでまた会えてうれしかった」
「そっか……」
光のなかで少しずつさっちゃんの姿が視えなくなっていく。彼女も、もう別れの時を悟っている。僕と水瀬ミヤコを交互に見つめ、そして最後にこれ以上ないほどの笑顔を浮かべた。安らぎの中で旅立つ、これが彼女にとって満ち足りた終わりであることを伝えてくれる笑顔。
「ハヤトお兄ちゃん、ミヤコお姉ちゃん、大好きだよ。――ばいばい 」
光が消えた。さっちゃんの姿も、あたたかな輝きも、すべてが消えて夜が戻ってきた。まだ彼女の余韻を感じられる気がして、その場から動くことができなかった。初田サヨリ。君がこの世に産まれたこと、僕たちと出会ったこと、それにはちゃんと意味がある。いまはまだうまく言葉にできなくても、胸の奥深くから湧き上がる感情はこの先も消えることはないだろう。夜風が頬を撫でる。水瀬ミヤコのすすり泣く声が聞こえる。目を閉じて、心の中で祈った。どうか安らかに――君が望んだ幸せが、いつか本当になる日を願っている。
「ねえ、まだ親より先に死んだ子は石積みだと思う?」
涙で濡れた瞳のまま、水瀬ミヤコが問いかけてきた。親より先に死んだ子供は賽の河原で延々と責め苦を受ける、そんな話をしたことを思い出す。別に本気でそうなるかどうかを聞きたいわけでも、議論したいわけでもない。ただなにかを言葉にして確かめたい、彼女はいま心の拠り所を僕に求めている。
「……いいや、思ってない。さっちゃんは……天国で少し休んだあと、うちの子に生まれ変わるんだ。僕と未来の奥さんとのあいだで、幸せになる」
「……都合がいいね」
「信じたい事だけ信じるよ。幸せに生きるコツらしいから」
いつかの彼女の言葉を繰り返すと、水瀬ミヤコは口元をわずかに開いて、それからふっと笑った。さっきまでさっちゃんがいた場所に目をやる。
「……ふふっ。そうだね、私も、そう思う」
「帰ろう、水瀬。今度は消えるな、いま君まで――」
そこまで言いかけて口を紡んだ。いま君まで消えてしまったら――その先を口にするのが怖かった。棘は日に日に痛みを増している。さっちゃんを見送ったばかりの感傷のせいだと視線を逸らし、揺れる灯篭の影を見つめた。
「一緒にいるよ、来栖くん。さっちゃんの話しながら帰ろ。楽しい話、いっぱいしようよ」
「……うん」
僕の気持ちを察したのか、彼女自身の望みなのか、それはわからないままでいい。手を引かれて歩き出す。水瀬ミヤコが歌うように思い出を紡ぎ始める。それは悲しみではなく、確かに希望を伴う優しい響きだった。
さっちゃん編は次でおしまいです。