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第15話 彼女のような気がした


「さっちゃんの気配、感じるか?」


「ううん……感じない……けど……」


 まっ暗な初田(はつた)家を見上げる水瀬ミヤコの顔色は、いつも以上に青白く見えた。こわばった表情で、両手でスカートを強く握りしめている。玄関や窓からあたたかな明かりが漏れる周囲の家々、その並びにぽっかりと空いた違和。小さな命が誰にも守られることなく失われた家。さっちゃんの笑顔を思い出し、鳩尾(みぞおち)のあたりが重く沈むような感覚に襲われた。苦しい。悲しい。腹が立つ。きっと僕の顔も(ひど)く青ざめている。


「念のため、家のなか……見てくるね……」


「待て」


 覚悟を決めたように深呼吸をして、一歩踏み出した彼女を引き留めた。この家に足を踏み入れることのつらさくらい僕にだって想像できる。虐げられていたさっちゃんの生活を肌に感じ、殺害された現場を目にすることになる。これ以上、彼女に重荷を背負わせたくない。


「入らなくていい、見なくていい。気配を感じないんだろ? それを信じる。ほかを当たろう」


「……うん」

 

 小さく頷いて振り向いた水瀬ミヤコは、やはり無理に感情を抑え込んでいたのか、いまにも泣きだしそうな顔をしていた。さっちゃんがいないのならこんなところに用はない。早く離れようと踵を返したところで隣の家の扉がわずかに開き、暗がりに光の帯が漏れだした。まえに初田家について話を聞こうとした、エプロン姿の中年女性が怪訝そうな表情で顔を覗かせる。僕を目にした途端、眉間に皺を寄せ、慌てた様子で履物をつっかけて外に出てきた。


「あなた、このあいだも来てた子でしょう? 近所で初田さんの話を聞いて回ってたらしいじゃない。なんのつもりか知らないけど、嫌がらせはやめてちょうだい! いい加減にしないと警察を呼ぶわよ!」


「……」


 わかっている。彼らはただ初田家の隣人だっただけ。さっちゃんに直接手をかけた人間じゃない。「夜中に子どもの泣き声が聞こえることがあった」「家族に何か問題があるように感じていた」そう認識していただけの他人。この人たちがもっと早く声を上げていればだとか、ほんの少し勇気を出してくれていればだとか、そんなものは僕の勝手な言い分でしかない。


「……警察、もっと早くに呼んでいればよかったんじゃないですか?」


「なっ……」


 彼らにとって、隣家の不和は自分たちの日常を乱す不快な雑音でしかなかったのだろう。かかわれば余計な荒波が立つ、そうなるくらいなら沈黙を選ぶ。それも、生きていくうえでの利口な選択のひとつ。わかっている。それなのに、我慢できずに、思っていた以上に強く鋭い響きをもって、言葉が口をついて出てしまう。女性の顔色が変わり、言葉を詰まらせたまま唇をわなわなと震わせた。こんなの八つ当たりだ、わかっているのに。


「行こう、来栖くん。こんな人たちの相手しないで」


 水瀬ミヤコが背に寄り添い、耳元でそっと囁く。僕のなかの淀んだ感情を肯定する、彼女の声に宿る冷たい怒りが心地良かった。


 




 


 


「すごく嫌な気分だ」


「わかる。八つ当たりしたあとって、気分最悪になっちゃうよね」


「あれは僕が大人げなかった」


「まだ子供だもん、私たち。それに大人になったってきっと、もっと酷いこと考えるようになるよ」


「……君はたまに、怖い。なにもかも見透かしているみたいだ」


「だって幽霊だよ私。生きてる人にはわからないことを知ってるし、生きてる人にはできないこともできるの。怖くて当然」


 本気なのか冗談なのか測れない曖昧(あいまい)なほほ笑みを浮かべて、隣を歩いていた水瀬ミヤコが僕の前に立った。足を止めると、ひんやりとした両手に頬を包み込まれ、視線が絡むように顔を持ち上げられる。


「来栖くんはさっちゃんのために怒れる優しい人。私が知ってる。大人げなくていいよ、そういうところも好き。だからもう落ちこむのは終わり」


「……」


 励まされているのか、僕は。彼女だって同じ怒りや不安を抱えているはずなのに、気遣わせてしまっている。情けなさと申し訳なさを感じると同時に、見上げてくる真摯な眼差しにささくれた心が鎮められていくのを感じる。


「ね?」


 なぜだろう。急に、見慣れていたはずの世界がほんの少しだけ色を増したような気がした。頬に触れる手の冷たさも、光を透かす肌も、澄んだ瞳も、すべて知っていたのに――。そのすべてが、いまままで知っていた水瀬ミヤコとは違って見える。どうしてこんなにも胸がざわつくのか、自分でもわからない。苛立ちや後悔を置き去りに、ただ頷くことしかできなくなる。ほんの一瞬、彼女の存在が眩しすぎる気がした。ほんの一瞬、僕を救ってくれるのは彼女のような気がした。

 

「……うん。じゃあ、さっちゃん探そ? 公園と家以外に思い当たるところある? 私たち距離や時間を気にしないで移動できるから、もしかしたら思ってるよりすごく遠くにいたりするのかも……動物園とか植物園とか……さっちゃんが気にいってた場所、探してこようかな」


「……ひとつ、思い当たる場所が近くにある」


「本当?」


鷹角(たかかど)神社だ。あの爺さんから助けたときに連れて行っただろ。……さっちゃんにとって安全だと思える場所かもしれない」


「そっか! そうだね、行ってみよ来栖くん」


 




 



「いる……、さっちゃんいるよ! ごめん、さきに行くね!」


 石段をのぼっている途中でさっちゃんの気配を感じ取ったらしい。水瀬ミヤコが声を上げ、すぐに闇へ溶け込むように姿を消した。灯篭の明かりを頼りに、あとを追って数段飛ばしで駆けあがる。境内に辿りつき、息を切らしながら顎から滴る汗を肩でぬぐった。ああ、さっちゃんとはじめて会った日もこんな調子だったな。たった数週間前のことなのに、遠い日のように感じる。


 すぐに、拝殿の横に並ぶふたつの人影に気づいた。ひとりは水瀬ミヤコ、もうひとり、小さな影は間違いなくさっちゃんだ。見つかった。それだけで充分。張り詰めていた緊張の糸が切れる。夏の夜特有の湿り気を帯びた、濃い緑の香り。境内に漂う静謐な空気と二人の姿だけが、いま僕の世界を満たしている。終わらなければいいのに。どうか、そっとしておいてくれたらいいのに。誰にともなくそう願って、それは許されないのだと打ちのめされる。さっちゃんがさっちゃんでいられるうちに、彼女を成仏させてあげなければ。

 

「さっちゃん……」


「おにいちゃん……」


 重い足を無理に踏み出して、二人のもとへと向かった。両腕でライオンのぬいぐるみを抱きしめたさっちゃんが、また不安そうな顔をして見上げてくる。いいんだ、もうそんなふうに怯えなくて。もう君は誰にも傷つけられない。駆け寄って、抱きしめて、頭を撫でてそう言ってあげたい。でもそれはできないから、せめて彼女の不安が和らぐよう静かに膝をついて、目線を合わせた。


「探したよ、見つかってよかった」


「かってにいなくなって、おこってる……?」


「怒ってない。でも、心配した」


「……ごめんなさい」


 そう言うと、瞳を伏せてうつむいてしまった。ぬいぐるみを抱きしめる腕に力がこもる。水瀬ミヤコが慌てて僕の隣にしゃがんで、さっちゃんの顔を覗き込んだ。


「さっちゃん、私こそごめんね、急に怒鳴ったりして怖がらせちゃったからだよね? もう大丈夫だから――」


「……サヨリ、『めいわく』になりたくなかったの。お兄ちゃんもお姉ちゃんも好きだから、けんかしてほしくなかったの。お姉ちゃんのせいじゃ、ないよ」


「迷惑になんてなるわけないよ! なんで? どうしてそんなこと言うの」


「……おじさんは……サヨリが『めいわく』だから、いつもおこってた……」


「……あいつ……」


 低く押し殺した声で水瀬ミヤコが呟く。鋭さがこもった視線を一度地面に落とし、震える息を吐く。つぎに顔を上げたときには、表情からすっかり険が消えていた。さっちゃんを怖がらせまいと感情を封じ込めている。彼女のこういうところは、本当に……。

 

「あんな人、もう怖がらなくていいんだよ。もう絶対に、絶対にさっちゃんにひどいことできないから」


「うん……サヨリ、もう死んじゃったから」


「違うよ、私たちがいるから。いままでひとりでよくがんばったね。いまは私たちがいるから、もう絶対にさっちゃんに怖い思いさせない」


 水瀬ミヤコが手を伸ばし、さっちゃんの頬を撫でた。優しく滑る指先に、不安げな表情が和らいでいく。目を閉じて頬をすり寄せるさっちゃんの唇の端がわずかに持ち上がった。笑顔と呼ぶには控えめで儚いものだったけれど、それでも彼女の心が安堵へと傾いたのがわかる。



「さっちゃん」


 できるだけ優しい声で呼びかける。ゆっくりとまぶた開いたさっちゃんが、まっすぐに僕を見た。


「君のお母さんがどうしてるか、わかったんだ。いまじゃなくてもいい、準備が出来たら、いつでも話すから……」


 ぬいぐるみを抱く腕に力がこもる。水瀬ミヤコの手が、励ますように彼女の背を撫でた。


「聞きたい……。お母さんのこと。いま、おしえて、お兄ちゃん」

 

 この期に及んで、まだどこかで時間を引き延ばそうとしている僕とは違う。母親への純粋な想いが彼女のなかには灯っている。少しの胸の痛みとともにうなづいて、慎重に口を開いた。

 


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