表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/20

第14話 ざまを見ろ


 インクの匂いが染みついた重い冊子を黙々とめくり続ける。目がかすみ、蛍光灯のちらつきに集中力が削がれていく。センセーショナルな見出しも小さな文字の羅列もただの黒い記号として視界をすべりはじめた。ところが、四冊目。ページの片隅に小さく載ったその記事を見た瞬間、かすんでいた意識のピントが強制的に合わされる。これだ――探していたのは。


 

「……見つけた。昭和63年9月25日……幼児虐待死判決、母親と内縁の夫に実刑」


「あの二人、どうなったの?」

 

 記事によると母親の初田ミカには懲役三年、内縁の夫である吉井マサオには懲役八年の実刑判決が下っている。検察側はそれぞれ五年と十二年を求刑していたが、それを下回る量刑となった。執行猶予はついていない。


「三年と八年……子供殺して……そんなので済んじゃうんだ……」


 記事には二人の小さな顔写真も載っている。感情の読めない母親と、ふてぶてしさすら感じる内縁の夫の顔。生気のない粗いモノクロの網点をじっと見つめながら、水瀬ミヤコが唇を引き結ぶ。怒りとも悲しみともつかない感情が瞳の奥で渦を巻いている。


「……刑法上は、これが限界だったんだろう……。執行猶予がつかなかっただけ、マシだと思うしかない」


 そう思うしか、ない。僕たちがどんな感情を抱こうが時間は巻き戻ってはくれないし、さっちゃんが生き返ることもない。

 

「母親の懲役は三年。まだ出所してない。いまも刑務所のなかだ。共同生活が基本のはず、ひとりで寂しがろうにもそうさせてもらえないだろうな。少なくともこれでさっちゃんの未練を晴らせる」


 感情を抑える代わりに、言葉の端には皮肉が色濃く滲んでしまう。自分のしたことを反省しているのか、さっちゃんのことをいまでも想っているのか。そんなことこの記事からは読み取れない。ただ、ひとりではないという事実があるだけ。自分がいま安堵しているのか虚しさを感じているのか、それすらよくわからなかった。

 

「うん……。もう、帰ろっか。さっちゃんが待ってる……」


 

 

 バスに揺られながら、窓の外に流れる景色をぼんやりと眺める。夕日が建物を淡い金色に染め上げ、街全体が一枚の絵画のように見えた。ふと気づくと隣の座席に座っていた水瀬ミヤコの姿が消えていた。まぶたを閉じて窓ガラスに頭を預ける。遠くで聞こえるエンジン音と振動が心地良く、徐々に思考をぼやけさせていく。僕には覗くことのできない境界の向こう側で、彼女はまた泣いているのだろうか。


 

 


「おかえり、来栖くん」


「君、姿を現さないと思ったら……先に帰ってたのか……」


 街頭の光がかろうじて届く自宅の門扉の前に、水瀬ミヤコが立っていた。急に消えたり出てきたりというのは時折あるが、彼女にとり憑かれて以降はいつも傍にいる気配を感じていた。完全に離れていると自覚した時間は今回がはじめてかもしれない。あの内容を知ったあとだと、一人になりたい気持ちもわかる。


「私もいま、ついたところだよ」


「どうしたんだ、なかに入らないのか?」


「……家のなかからさっちゃんの気配がしないの……いないのかも」

 

「いない? 気配でわかるのか?」


「うん。ちょっと待ってて、たしかめてくるから」


 そう言うなり彼女は空気に溶け込むように姿を消した。しばらくすると、また目の前に現れて首を横に振る。


「やっぱりいない。どこ行ったんだろう……いままで黙って一人で出かけたりしなかったのに。私のせいだよ、あんなふうに怖がらせちゃったから……」


 扉や壁をいくらでもすり抜けて探すことができる彼女がこう言うのなら、本当にいないのだろう。不安げに眉を寄せ、胸の前で両手を握りしめる水瀬ミヤコからは強い自責の念が見てとれた。さっちゃんを心から案じていることはわかるが、自分を責めたところでどうにかなることでもない。


「理由は本人に聞けばいい。とにかく探しに行こう」


「……うん」




 

 ジリジリとうなり声をあげる街灯の下、淡い橙色に照らされた公園が闇のなかにぼんやりと浮かび上がっている。息を切らして辿り着いた先、はじめてさっちゃんに会った場所、一人で来る可能性が一番高いのはここだと思った。遊具やベンチの影が地面に長く伸び、子供たちの明るい声の代わりにブランコが軋む音が響く。昼間の賑やかさを知っているぶん、不気味に感じるほどの静けさだった。

 

「さっちゃん!」


「さっちゃーん! 来栖くん、私、奥のほう探してくる!」


「ああ、頼む」

 

 声を張り上げながら、公園内を駆け回った。滑り台の裏やごみ箱の影、木々の隙間に公衆トイレのなか、隠れられそうな場所はくまなく探してみた。だけど、どこにも彼女の姿はない。


「いない……」

 

 つぶやいた声が自分でも驚くほど弱々しい。そもそも、幽霊であるさっちゃんが意図的に姿を隠しているのなら僕には見つけられない。ほとんど水瀬ミヤコ頼りなのだ。

 

「来栖くん!」

 

「いたか?」

 

「ううん、だめ。気配もしない、ここには来てないのかも」


「じゃあ、どこに――」


 公園の中央付近で水瀬ミヤコと合流したところで、彼女の背後に黒い(もや)が広がっていくのに気づいた。空気中に墨汁を垂らしたようなその靄は徐々に凝縮され、歪に人の形を成していく。空気が淀み、呼吸が詰まる。なにか禍々しい意思を帯びた、危険なもの――これには覚えがある。

 

「水瀬、後ろ――!」


「きゃっ!」


 最後まで言葉を発する間もなかった。短い悲鳴を上げて態勢を崩した彼女の首と肩に、干からびた皺だらけの両腕が巻き付いている。背後には濁った黄色い眼球を光らせ、憤怒(ふんぬ)の形相を浮かべるあの気色の悪い老人が立っていた。

 

「お前たちぃ……あの時のガキだなぁ……」

 

「うっ……離、してっ……」

 

「彼女を離せ、あんたの相手をしてる暇はないんだよ」


「生意気だなぁ……生意気だぁ……」


「離して、ってば……あっ!」


「水瀬!」


 老人が力を込め、水瀬ミヤコを引き寄せる。異様な力に抗えず顔を歪める彼女の肌に、爪を立てている。頭に血が昇るのを感じた。僕は二人にふれることが出来ない。僕では止めることも、引き離すこともできない。僕ではどうしようも――。怒りと悔しさが入り混じり、握った拳が震える。


 「ほおぉ……、小僧、いい顔をするなぁ……」


 悪意と嗜虐(しぎゃく)をあらわにした厭らしい笑みを浮かべながら、老人が愉しそうに僕を見る。その表情を目にして、頭の中でなにかがブツリと切れた気がした。僕には手が出せない、なら、彼女自身に託すしかない。なにを大人しく捕らわれているんだ、腹が立つ。君はそんなにか弱くも、素直でも、諦めがよくもないだろ。


「……僕のことが、好きなんだよな、水瀬ミヤコ……」


「くる、す、くん……?」


「その僕の前で、いつまでそのジジイに好きに触らせてる気だ……?」

 

「……!」


「僕は助けられるのを待つだけのお姫様に興味はない。強い女の魅力はどうした。さっさとやれ、水瀬ミヤコ!」


 一度、目を見開いた水瀬ミヤコが、ぐっと表情を引き締めた。老人の腕を掴み、一瞬で場の空気が変わる。素早く体勢を低くして腰を落とした彼女が、一歩後ずさり老人の懐へと潜り込む。

 

「いつ、まで……! 触ってるの……!!」

 

 掴んだ腕をしっかりと自分の肩に乗せ、そのまま全身を使って老人を背負い込む。浮き上がった体が弧を描いて宙を舞う。

 

「この変態!!」


「ぐううっ……!」

 

 ぶざまな(うめ)き声が公園内に響き、老人が地面に叩きつけられた。見事な一本背負いを決められた皺だらけの顔から胸糞の悪い笑みが消え去る。ざまを見ろ。水瀬ミヤコは煽り立てると本領を発揮する性格だ。自分でもなにをしたかよく分かっていないような顔をしながら、彼女が僕のもとへと駆け寄ってくる。


「来栖くん……!」


「格好良かったよ」


「……うん! 来栖くんが私のために怒ってると思ったら、なんか、力が湧いてきたの……!」


「そうか」


 彼女は頬を赤らめながら、上ずった声で興奮気味に話す。どこにも怪我や異常は見当たらない。


「お前らぁぁ……! か弱い(わし)にこんな仕打ちをぉ……」


「ねえ、ちょっと嫉妬した? 私がお爺さんにべたべた触られてるの見て、ムカついちゃった?」


「してない、調子に乗るな」


「でも、いまのは絶対、そういうやつだったよ?」


 水瀬ミヤコが首を傾げながら僕を覗き込む。瞳のなかに少しだけ、いつもの明るさと好奇心がきらめいていた。気を落とした姿ばかり見ていたせいか、彼女にほんの少しの元気が戻っただけで僕の心まで軽くなる気がする。


「おのれぇぇ……! お前たち……年寄りを敬う気持ちが無いのかぁ……! 儂はなぁ……戦争も経験して……苦労して生きてきたんじゃ……! お前たちみたいな青二才にぃ……こんな仕打ちを受ける謂れはないぞぉ……! 」

 

「うるさいんだよあんた! さっさと消え……まて、今日あの子を見たか?」

 

「あの子ぉ……? お前たちが連れていった……あの女の子かぁ?」


「あたりまえだろ、誰があんたとよその子供の話なんかするんだ」


「ねえ見たの!? 見てないの!?」


 食ってかかる僕たちに及び腰になりながら、老人がもごもごとと口を動かす。たとえ相手が生理的に受け付けない種類の下劣さ、吐き気を催す醜悪な人間性だとしても、さっちゃんに繋がる情報を持っている可能性は無視できない。この腐ったドブ川に沈殿するぬめりのような奴でも、僕たちにとって助け船になるかもしれない。

 

「あの子は……あの日以来……ここには来ておらんぞぉ……儂はこの公園にきた子供たちを毎日見ておる……どの子がどんな顔で笑い、どの子がどんな声で泣くのか……あの子は可愛かったなぁ……また来たら……儂が一番に声をかけてやったのに……」


 前言撤回だ、本当に気持ちが悪い。少しでも期待したのが馬鹿だった。

 

「じゃあ、さっちゃんの家か……?」

 

「どうかな……さっちゃん、お家に入るの怖がってたよね? いまなら理由がわかるけど……。あんなところに戻りたいって思うのかな?」

 

「まったく……最近の若いもんはぁ……質問に答えてもらっておいて、礼のひとつも……」


 未練たらしく陰湿な声を挟みこまれ、僕たちはほぼ同時に声を荒げた。

 

「また投げ飛ばされたいのか、あんた!口を挟むな!」

 

「ありがとうお爺さん! これでいい!? でも私、あなたのこと嫌いです!」

 

「なんなんじゃあぁ……お前たちはぁ……忌々しいガキ共がぁ……早く帰れぇ……!」


 老人は心底うんざりしたという顔で、僕たちに向かって虫でも追い払うかのような仕草をして見せる。言われなくても、さっちゃんがいないのならこの場所に長居する必要はない。

 

「ここから遠くないし、家のほうも探してみよう。いないなら他を当たればいい」

 

「わかった、行こう来栖くん」



 雲間から覗く月明りと、間隔のあいた街灯の明かりが静かな住宅街をたよりなく照らす。光と影の狭間を渡りながら僕たちは走った。遠くから聞こえる犬の鳴き声が生ぬるい夜気に吸い込まれていく。さっちゃんもどこかでこの夜を見ているのなら伝わってほしい。僕たちはもう、君に一人ぼっちの夜を過ごさせる気はないんだと。

 




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ