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第13話 ぬくもりの代わりに

 バスを降りた瞬間、むっとするような熱と排気ガスの混ざり合った空気が肌にまとわりついてきた。直射日光に焼かれたアスファルトが遠くで陽炎を揺らめかせている。目的地へと歩きだした僕のうしろを、暗く不機嫌そうな顔をした水瀬ミヤコが無言で追う。落ちつかせるため外に連れ出したが、これから向かう場所はきっと彼女にとって慰めにはならない。そこでさっちゃんの身に起きたことを知ることになる。耐えられるだろうか……わからない。


「中二の終わり頃……僕の母、入院してたんだ」


「……そうなんだ」


 湿った風がときおり通りを吹き抜けるが、この重たい空気を(さら)っていってはくれない。空返事にもかまわず話を続けた。

 

「僕はほぼ毎日見舞いに行ってた。母は読書が好きで……というかあれはもう活字中毒というのかな。とにかく読み物が好きなんだ。入院生活は退屈だろうと思って、よく図書館で借りた本を持っていったよ。でも、あっという間に読み終わってしまう。そのうち、毎朝いくつかの新聞を売店で買ってきて、隅から隅まで読み込むようになってた。おもしろいコラムや投書を見つけると、よく聞かされてさ――」


「……それとさっちゃんに、なんの関係があるの」

 

 少し歩くペースをゆるめて、冷ややかな視線を向けてくる彼女の隣に並ぶ。


「話を合わせるために、僕も当時はよく新聞に目を通してた。……初田(はつた)サヨリの事件記事もそのときに読んだ。母がすごくショックを受けてたから、覚えてる」


「事件……」


「一瞬だけ、夕方のローカルニュースでも流れてた。でも、そのすぐあとに政財界の人間が何人も逮捕される汚職事件が発覚して、ニュースは連日その特集ばかりになった。初田サヨリのは報道はあっというまに新聞やテレビから姿を消したよ。母がこれだけ心を痛めていても、社会は簡単に忘れてしまうんだと、妙に印象的だった……」


「……さっちゃんの事件って、なんだったの」


「自分の目でたしかめたほうがいい。ここに保管されてるはずだから」


 歩みを止めた視線の先、陽を受けて鈍く光る茶色いタイル張りの建物。正面の大きなガラス扉の上に青い文字で高甘(こうかん)市立図書館の館名が掲げられている。


「図書館……?」


「うん。……行こう」



 


 古いけれどしっかりと空調の効いた館内に入り、受付カウンターで過去の新聞の閲覧を申し出た。二年以上前の記事は書庫に保存されているため、所定の用紙に必要事項を記入して身分証を提示する決まりになっている。


「昭和六十三年で間違いないかしら? 何月(なんがつ)の記事が読みたいか決まってる?」


 書類と学生証に目を通した司書の言葉に、あれがいつだったか思い出そうと記憶を手繰り寄せる。たしか母の病室の窓から色づき始めた紫陽花が見えた。雨に濡れてその鮮やかさを増していた、そう、初夏の頃で、梅雨入りしたばかりの時期。いつだって雨音がどこか遠くで響いていた。あれは六月だ。


「六月……。六月から十二月までをお願いします」


「ちょっと待っててね」


「はい」


 書庫から資料を持って来てくれるのを待つあいだ、僕と水瀬ミヤコは一言も口を開かなかった。ここまで来てしまったらもう戻れないと知っていたから。昨日までの心地良い日々が終わるのが怖かったから。口を開けば弱音が漏れてしまいそうだったから。想いが交錯して、僕たちは口をつぐんだ。やがて戻ってきた司書から縮刷版の厚い冊子を七冊受け取り、人の少ない場所を選んで席に着いた。深呼吸をしてページをめくる。普段なら落ち着くはずのインクの匂いや紙の擦れる音が、いまはやけに神経に障る。


「……っ」

 

 昭和63年6月17日……覚えのある記事の見出しに手が止まる。初田サヨリの名前と事件の詳細が無機質な文字で綴られていた。あのとき、母さんの病室で読んだものと同じ。ベッドの上の悲しそうな母さんの横顔を思い出す。テレビには「初田サヨリちゃん虐待死」のニュースが流れていた。

 

 ――次はうちの子に産まれておいで。

 

 そう小さく呟いた母さんの声はとても静かで、胸を締め付ける哀憐(あいれん)を孕んでいたのを覚えている。

 

 

 

「これだ……」


「見せて」


 

 昭和63年6月17日 金曜日・友引。

 幼児虐待死、母親と内縁の夫を逮捕。住民「通報考えたが……」

 高甘市絹引町(きぬひきちょう)の住宅で、初田サヨリさん(6)が死亡しているのが発見された事件で、警察は昨日、母親の初田ミカ容疑者(30)とその内縁の夫である吉井マサオ容疑者(35)を傷害致死の疑いで逮捕した。

 調べによると、自宅の風呂場に沈められたことが直接の死因とみられている。司法解剖の結果、肺に多量の水が確認されており、警察は虐待による死亡と断定した。

 近隣住民からは「夜中に子どもの泣き声が聞こえることがあった」「家族に何か問題があるように感じていた」といった証言が寄せられており、日常的に吉井容疑者による暴力を受けていた可能性が高いという。初田容疑者自身は虐待行為には加わっていなかったものの、吉井容疑者を止めることもなかったとされている。

 取り調べに対し、初田容疑者は「しつけの一環だった」と供述しているが、一方で吉井容疑者の暴行を黙認する形となっていた背景には、彼との力関係や経済的依存があった可能性も指摘されている。警察は、家庭内での虐待の実態や動機についてさらに詳しく調べを進めている。

 近年、児童虐待による死亡事件が相次いでおり、本件もまた社会に大きな衝撃を与えている。



 無言でページの文字を一行ずつ追っていた水瀬ミヤコが、ゆっくりと僕を見た。底の見えない深い井戸を覗いているような、暗い瞳だった。


「これがさっちゃんの死んだ理由……? 虐待死……?」


「……」


「だって……だって、さっちゃん言ってたよね。お母さんのことが心配だって、ひとりで寂しくないか心配なんだって。なんで? 助けてもくれなかったお母さんなのに? さっちゃんのこと、見殺しにした母親なのに? そんな親のためにさっちゃん二年も成仏できないでひとりだったの? なによそれ……!」


 握りしめた彼女の拳が小刻みに震えている。怒りと悔しさに(さいな)まれ、瞳に張った涙の膜が揺れていた。

 

「落ちつけ水瀬……」


「落ちつけ落ちつけって、来栖くんはなんでそんなに冷静でいられるの? さっちゃんがどんなに苦しかったか考えた? 守ってくれるはずの大人に傷つけられて、助けてくれるはずの親に見捨てられて! しかも二人とも生きてるんでしょ? さっちゃんのことは殺しておいてこの人たちは普通に生きてるんでしょ? どうして? そんなのおかしいよ、許せない、落ち着いていられるわけないよ!」


 (せき)を切ったように彼女の瞳から涙が溢れ出した。両頬を濡らしながら、痛々しいほどに声を荒げる。八つ当たりに怒鳴りつけられても、気分が悪くなることはなかった。彼女の感じている怒りも悲しみも無力感も、すべてが理解できた。感情的になってくれる彼女のおかげで、いくらか胸が()く気さえした。


「僕だって、出来るなら二人をさっちゃんと同じ目に合わせてやりたい。でも、知ってるだろ。さっちゃんは仕返しをしてほしいなんて望んでなかった」


「!」


 「……それに僕たち二人とも、こんなことだろうと薄々気付いていたはずだ。予想もしていなかったなんて言わせない。君はそんなに馬鹿じゃない。僕たちは今日を先延ばしにしてきただけ、そうだよな? あの隣人たちと同じように、受け入れたくないものから目を逸らしていただけだ」


 誰もがなにが起きていたかを知っていて、初田サヨリに救いの手を伸ばさなかった。目を伏せて口を閉ざす、あの罪悪感と隠匿(いんとく)で淀んだ住人たちの顔。思い出すだけで反吐が出る。

 

「成仏できない霊を助ける、これはもともと君の案だろ水瀬ミヤコ。さっちゃんをこの世に縛りつけている未練から解放してやる。復讐がその方法じゃない。しっかりしろ」


 さっちゃんと過ごした時間を思い出すほどに、胸が押し潰されていく。彼女は肩を震わせながら大粒の涙を零し続けている。それでも言わなければいけなかった。しっかりしろ。それは水瀬ミヤコにかけた言葉で、同時に僕自身を必死に奮い立たせるための言葉だった。しばらくのあいだ彼女はただ嗚咽を漏らすだけだったが、静かに目元をぬぐい小さくうなずく。激情や混乱が影を潜めた、覚悟めいた翳りが差す瞳で僕を見た。


「うん……。うん……そうだよね。さっちゃんのために、ちゃんとやらなきゃ……」


「事件の判決が載った記事がどこかにあるはずだ。それを探そう。執行猶予がついたか実刑判決を受けたか、それだけでもわかれば……」


「うん……。あの、来栖くん……」


「なんだ」


「怒鳴って……、ごめんなさい……。来栖くんはなんにも悪くないのに……」


「君だってなにも悪くない」

 

 注意深く記事の確認をしながらページをめくっていると、隣からまた小さくしゃくり上げる声が聞こえてきた。声を押し殺そうとしているのはわかるが、この距離だ。涙を止める(すべ)もなく、ただ隣で見ている事しかできない自分に苛立つ。

 

「……僕は、君が泣いていてもなにもしてやれない。ハンカチを貸してやったり、涙を拭いてやったり、そんな簡単なことすら僕たちのあいだじゃ成り立たない」


「……っ、う、知って、る」


「だけど、いま君が望むならこれぐらいはしてやれる」


 ページをめくるのに使わない左手を差し出すと、彼女は一瞬だけ驚いた顔を見せた。


「……繋いで、いいの?」


「これで、慰めになるなら……」


「慰めたいって、思ってくれるんだ……?」


「……思ってる。いるのかいらないのか」


「いる……、ありがと」


 差し出した手を水瀬ミヤコの右手がそっと握る。頬は赤らんでいるのに、相変わらずなんの温もりも感じない死人の手だ。僕の体だけが熱い。この熱が移ってしまえばいいのに、そうしたら――。静寂の戻った図書館で、握り返すことのできない手を繋ぐ。ぬくもりの代わりに、独りでは飲み干せない痛みを分け合っている。

 

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