第12話 いつまでも続かない
彼女たちが写真に写ると知ったことをきっかけに、僕たち三人は暇を見つけては一緒に出かけるようになった。生きている僕にとっても、霊である彼女たちにとっても、写真は“たしかにここにいる”という証になった。きっとそのおかげで、僕たちは少しだけ安心感を得ていたんだと思う。もっとも、僕の小遣いの範囲じゃ遊園地やテーマパークのような金のかかる場所には行けない。行き先は、だいたい無料で入れる場所か、学生の財布にもやさしいところばかりだった。植物園、城、展望台、市営科学館のプラネタリウム――僕の部屋の壁の一角は、三人で撮った写真とさっちゃんの描いたカラフルな絵で、にぎやかに埋め尽くされていった。
「ハヤト、ちょっといいかー?」
部屋で宿題を片付けていると、ノック音と共に父さんが呼びかけてきた。床に寝転がって絵を描いていた水瀬ミヤコとさっちゃんも顔を上げる。騒がないようにと口の前で人差し指を立てて合図をしてから、ドアを開けた。
「どうしたの、父さん」
「ああ、エアコンのフィルター掃除しようと思ってな。外していっていいか? ちょっとのあいだ使えなくなるけど」
「フィルター? 言ってくれれば自分でやるのに」
「いいんだよ、他の部屋のぶんとついでだから」
部屋に招き入れて、部屋の隅へと向かう父の背中を視線で追う。――しまった、写真が丸見えだ。床に座り、緊張した顔で父の様子を伺っている水瀬ミヤコとさっちゃんの姿は僕にしか見えていない。部屋のあちこちに貼られている、一目で子供が描いたものだとわかる絵も父さんには見えない。でも写真は、彼女たちが写っている写真はこの世に実在している。あれを見られるのはまずい気がする。
「ちょっと待って父さ――」
「ん? なんだハヤト、この写真……」
遅かった。父さんが壁に近づき、身をかがめて写真を眺めはじめた。どう言い訳するべきか。同じ学校の女子とその妹に偶然会った、というのはどうだろう。……だめだ、偶然会っただけの女子とこれだけの枚数の写真を撮り、しかも部屋に飾るのはあまりに変質的。僕の人格が疑われる。
「それは――」
いっそ友達だと言ってしまおうか。いや、これも良くない。僕の交友関係は広くない、ほとんどいつも一人で行動している。それを知っている父さんに、親しくしている女子がいるなんて誤解されたら……絶対に駄目だ。なんの悪意もなく、うちに連れてきて紹介しなさいと勝手に盛り上がる。
「いい写真だな。どこで撮ったんだ?」
「えっと……銅戸アニマルパークとか、稜果洞植物園とか、烏夏城……いろんなところで撮ったよ」
「へー……。最近めずらしく外に出かけることが多いと思ったら、そういうことか。写真に目覚めたんだろ? 父さんも大学生の時ハマりかけたことがあるよ」
「そうなんだ……?」
「ああ。俺はもっぱらバイクか、|マユミばっかり撮ってたけどな。ハヤトは景色が専門なんだな。はは、良いなこれ、自分撮りまであるじゃないか」
マユミとは母の名前だ。大学生のころから付き合っていたと聞いてはいたが、バイクや写真の話ははじめて聞いた。少し興味をそそられたが、いまはそれどころじゃない。父さんのこの反応、間違いない。
「父さん、これなにが写ってるように見える?」
「ん?」
指さしたのは水瀬ミヤコがライオンに跨ってポーズを取っている写真だ。すぐ横にはさっちゃんもいる。一目見ればあきらかに異様なシチュエーションだとわかる一枚。父さんはそれをまじまじと眺めたあと、首をかしげた。
「ライオンだろ?」
「それだけ?」
「なんだ? ほかにもなにかいるのか? 動物? んー……? わからん……」
「……ごめん、気のせいだった。ライオンだけだ」
「ええ~?」
やっぱり、父さんには彼女たちが視えていない。印刷された写真ですらそうなのか。どういう理屈かはわからないが、霊感のある人間にしか二人の姿は認識できないらしい。
「よくわかんないけど、いろいろ手を出してみるのはいいことだと思うぞ。意外なものが長く続く趣味になったりするんだ。じゃあ、これ洗って乾かしたら持ってくるから」
「うん、ありがと」
エアコンの電源を切ってフィルターを外したあと、父さんは鼻歌交じりに一階に降りていった。部屋のなかの冷気が少しずつ失われていくのを惜しく感じながら、下手な言い訳をしないで良かったと安堵する。息を潜めじっとしていた水瀬ミヤコとさっちゃんが立ち上がって僕の周りに集まってきた。
「なんか緊張しちゃった。来栖くんのお父さん格好良いよね、スポーツマンなんだっけ」
「ああ。フットサルとか草野球とか、社会人になってもずっと続けてるって……元気だよな……君には僕じゃなくああいうタイプのほうがお似合いだろうに」
「えー、どうしてそんなこと言うの、私は来栖くんがいいの!」
「お兄ちゃんのお父さんには、サヨリたちがみえなかったの?」
頬を膨らませる水瀬ミヤコの隣、さっちゃんが壁の写真を覗き込んで不思議そうに尋ねてくる。
「そうみたいだ。でも、僕たちに視えてるならそれでいいよ。これは僕たちだけの思い出だから」
「うん、サヨリたちのひみつの思い出だね」
にっこり笑って僕を見上げてくるさっちゃん。頭を撫でてやりたい衝動に駆られて手を伸ばしかけたが、ふれることが出来ないことを思い出して引っ込める。すると水瀬ミヤコがさっちゃんの横に膝をついて彼女を抱きしめた。
「来栖くんのぶんまで私が撫でてあげるね。はぁ、可愛い、可愛いね、さっちゃんは。大好きだよ」
「えへへ……」
存分にさっちゃんを撫でまわしたあと、二人はまた床に寝転がりお絵描きを始めた。いつのまにかマシュマロが部屋に入ってきていて、僕の足におでこや体を擦りつけたあと二人の横で丸くなって眠りはじめた。めずらしく静かな一日だったおかげで僕の宿題も順調に終わりへと近づいている。
「さっちゃんそれ植物園で見たお花?」
「うん。ブーゲン……ビリア……? ピンクのひらひらでかわいかった」
「そうそう、ブーゲンビリアで合ってるよ。綺麗だったね。それにしても、短いあいだにいろいろ行ったねぇ。ほかに行きたいところとか見たいところある? 夏だし、つぎは海かプールも良くないかな?」
「おい」
手を止めて険しい表情で水瀬ミヤコを睨みつける。彼女はすぐに僕の意図を察して、笑みを引っ込めた。たしかにいろいろなところに行った。だけど、海もプールも川も、溺れるイメージに繫がる場所はすべて意図的に避けている。
「あっ……。ごめんねさっちゃん。さっちゃん溺れて死んじゃったんだもんね。海もプールも怖いよね……ほんとにごめん……」
「ううん。サヨリ、海もプールも行ったことないよ」
さっちゃんはまるで気にしていないふうに、次々と落書き帳の上にピンク色のブーゲンビリアを咲かせていく。
「えっ……、あれ、じゃあ、どこで溺れちゃったの? 」
「おふろ」
すっと、頭の芯が冷たくなる。それなのに、腹の底がぐらぐらと煮え立つような、手のひらがじんじんと焼けているような、全身の感覚のちぐはぐさが気持ち悪い。これ以上聞いてはいけない。あの家をたずねた日からずっと、拭うことのできない不安が付きまとっていた。成仏させるという本来の目的から遠ざかり、さっちゃんを楽しませてあげることに夢中になっていたのも、その不安を覆い隠すため。いつまでも続かないとわかっていても、今日みたいな日が来ることをできるだけ遠ざけたかった。
「まっ……待って待って、お風呂? どこの? さっちゃんのお家の?」
「うん」
「そう、なんだ……」
水瀬ミヤコの顔から表情が消える。体を起こし、唇を噛む。さっちゃんに向けられている視線の奥になにか鋭いものが潜んでいた。これ以上は駄目だ、もう戻れなくなる。静けさのなか、焦りだけが胸をがりがりと引っ掻く。
「……ねえさっちゃん、そのときまわりに誰かいた?」
「お母さんとおじちゃん」
「おじちゃんって、お母さんのお友達って人だよね……? お母さんとおじちゃんが一緒にお風呂場にいたの?」
「うん」
初田サヨリ。どこかで聞いた名前だった。あのときは思い出せなかった。思い出したくなかったのか、いまとなってはわからない。
「ねえ……ねえ、来栖くん、どういうこと……? なんで大人が二人もいて、さっちゃんが溺れてるのに気付かないの……?」
眉を下げ、動揺した様子の水瀬ミヤコが僕を見る。瞳が揺れ、いまにも泣きだしそうだ。
「水瀬……」
「ねえどうして!?」
部屋に響いた悲痛な声に、マシュマロが顔をあげる。
「お姉ちゃん……? お兄ちゃんも、だいじょうぶ?」
「落ち着け水瀬、さっちゃんを怖がらせるな」
「……っ」
不安そうなさっちゃんの顔を見て、水瀬ミヤコが制服のスカートを両手で強く握りしめた。悔しそうに眉を寄せうつむく。握りしめた拳が震えている。
「さっちゃんごめん。僕とお姉ちゃんは急いで行くところが出来た。少しだけマシュマロと一緒にお留守番しててくれないか?」
「……うん、わかった……」
初田サヨリ。新聞記事の見出し。夕方のローカルニュースと悲しそうな母さんの横顔。なぜこの子の名前に憶えがあったか、全部思い出した。