第10話 庇護欲
片手に紙袋、もう片手には百円ライター。帽子を目深に被り、薄暗い河川敷の高架下に立っている。落書きだらけの汚い壁が、近寄りがたい淀んだ空気を漂わせている。余程の用が無ければこんなところ近寄りたくもない。
「ねえここ本当に誰も来ない? 来栖くんって、ただでさえいつもなに考えてるのかわからない顔してるんだから。誰かに見られたらお巡りさん呼ばれちゃうよ」
「うるさいな。やれと言ったのは君だろ。誰も来ないよ、たぶん」
紙袋から、水瀬ミヤコに指示されてあらかじめ用意しておいた色鉛筆とらくがき帳を取り出す。それから先日の動物園でさっちゃんへのお土産に買ったライオンのぬいぐるみ。それらをまとめて地面に置いた。
「うまくいくんだろうな」
「それは来栖くん次第。私は、やり方を知ってるだけ」
「お兄ちゃん……ネコさんのぬいぐるみ、どうするの?」
「……燃やすんだよ」
***
銅戸アニマルパークに行った日から、僕の勉強机の上にはライオンのぬいぐるみが飾られている。さっちゃんは毎日ぬいぐるみを覗き込んでは、おはよう、こんにちは、おやすみ、とこまめに声をかけ、嬉しそうに笑う。その様子を見るたびに心が温かくなる反面、どこか切ない気持ちになった。物にさわれない以上、毛並みを撫でることも、抱いて柔らかな感触を確かめることも、おままごとの相手に見立てることもできない。見て楽しむ以外に方法がないのはわかっている。それでもだんだんと、子供にとってこの状態は酷なのではと思えてきた。
「君、お土産を買う前に言ってただろ……試したいことがあるって。さっちゃんに関係あることなんだよな」
「うん。言った言った。幽霊に贈り物を届ける方法、あるんだよ。そろそろいいかな。協力してくれる?」
「……内容による」
床に座り、さっちゃんの髪を編みこんでいた水瀬ミヤコがちらと僕を見上げる。さっちゃんの為になることなら、本当は二つ返事で快諾したい。しかしこいつには、僕にとって都合の悪い部分だけを伏せていた前科がある。さっちゃん本人を前にして心苦しいが、一応の警戒をしてみる。
「簡単。あのぬいぐるみ燃やしてほしいの。あ、それからさっちゃんお絵描き好きなんだって。ついでにその道具もおねがい」
「燃やす……? それだけか?」
「相手の事を想って、心を込めて燃やすの。さっちゃんのことを想う気持ちはきっとクリアしてる。あとは霊感の強さだけど……問題ないよね、来栖くんレベルなら。うん、届くと思うよ。やってみたい?」
「……ああ」
「じゃあ、問題は場所だけかな? そこはよろしくね。楽しみだねぇ、さっちゃん」
「……?」
さっちゃんが不思議そうに僕を見る。なにが始まるのか、なぜ自分のぬいぐるみが関係しているのかわかっていない、純粋な疑問の色だけが浮かんでいた。
***
水瀬ミヤコの言葉を信じ、普段から人の寄り付かないこんな場所までやってきた。とは言え、誰かに火遊びが見つかって咎められでもしたら面倒だ。早く済ませてしまおうと燃焼促進のためのジッポ―オイルを振りまき、ライターを点火する。
「ちゃんと、さっちゃんのことを想いながら燃やしてね」
「わかってるよ」
落書き帳の端にライターを近付け、小さな炎がじわじわと燃え広がるのを眺めた。紙が焦げる独特な匂いがして、薄暗い高架下が少しだけ明るくなる。オイルのおかげで火は問題なく勢いを増していく。
「ネコさん……」
ライオンのぬいぐるみへと火が燃え移ると、さっちゃんが寂しそうに呟いた。布地が燃え、ふわふわの綿があっという間に黒く縮み、形を失っていく。失敗すれば、さっちゃんはただお気に入りのぬいぐるみを目の前で焼かれただけという胸糞の悪い結果になる。責任は重大だ。
「大丈夫だよ、さっちゃん。このネコさんは、さっちゃんだけの物になるからね」
「サヨリだけのもの……?」
二人の会話を聞きながら、火の前に膝をついて目を瞑った。水瀬ミヤコに言われた通り、さっちゃんに意識を集中し、まぶたの裏に明確なイメージを思い浮かべる。彼女がぬいぐるみを傍らに抱き、僕の部屋に寝転んで楽しそうにお絵描きをする。そんな子供らしい姿を細部まで想像し、実現しろと心から願う。どれくらいの時間そうしていたのか、肩を叩かれて目を開けるとすべてを燃やし尽くした火は勢いを弱めていた。風が吹くたびに灰が舞い上がり、高架下の影に溶け込むように消えていく。
「あっ……!」
「見て! 来栖くん!」
燃えカスから顔を上げると、さっちゃんのまわりになにかが漂っているのが見えた。目を凝らし、徐々に輪郭をはっきりとさせてきたそれを見て、深く息を吐く。黒焦げになったはずのライオンのぬいぐるみとお絵かき道具たちが、元の姿を取り戻してぷかぷかと浮いている。
「……成功か?」
「そうみたい、やっぱりすごいよ来栖くん。ほら、さっちゃん、これ全部さっちゃんの物だよ。つかまえてごらん」
「さわれるの……?」
さっちゃんがゆっくりと両手を伸ばしぬいぐるみにふれる。すぐに驚きと喜びが混ざり合った明るい声が上がった。
「わああ……! ふわふわ! サヨリ、ネコさんにさわれる……!」
彼女はすぐにぬいぐるみを抱きしめた。毛並みをたしかめるようにおでこや頬を擦りつける。水瀬ミヤコの顔を見ると、彼女も嬉しそうに笑み返してくる。
「これもサヨリがもらっていいの?」
色鉛筆の入った箱と落書き帳も手に取ると、信じられないというように何度か表面を撫でて僕たち二人を交互に見上げた。
「そうだよ。さっちゃんがお絵描き好きって言ってたから、お兄ちゃんが用意してくれたの。よかったね」
「お姉ちゃん……お兄ちゃん……サヨリうれしい、ありがとう……!」
「どういたしまして」
「さっちゃんの絵、楽しみだな~! なに描くのが好き? 得意なものなあに?」
「えっと……お花とか、お空とか、お母さんとか……」
興奮気味のさっちゃんと水瀬ミヤコが話をしているあいだに、僕は現実的な作業、つまり燃えカスの後片付けを済ませることにする。持ってきた空のペットボトルに水を汲むため、雑草をかき分けて川に向かった。ボトルを水で満たし振り返ると、背の高い草の影に隠れるようにして蓋の閉まった段ボール箱が置いてあることに気付いた。こんな場所だ、人目につかないよう都合の悪いものを捨てに来る人間もいるだろう。僕には関係ないと、特に気にせず横を通りすぎる。
「――」
「……なにか、聞こえ……?」
「――」
「……!」
微かな鳴き声が聞こえた気がして箱に駆け寄った。ペットボトルを投げだして急いで蓋を開けると、中に白い子猫が横たわっている。目を瞑り、口から舌を垂らしてハアハアと荒い呼吸を繰り返していた。
「猫……!? なんで蓋を締めていくんだ、熱中症になったらどうするんだよ!」
高架下で影になっているとはいえ、真夏の段ボールの中に閉じ込められていた子猫はだいぶ弱っているように見えた。ボトルに残っていた水を指にかけて半開きの口元に伝わせてやると、一生懸命に小さな舌を動かそうとする。
「二人とも!」
「来栖くん!? どうしたの?」
「子猫がいるんだ……でも、弱ってる……」
そっと体の表面を撫でる。猫を飼ったことがなくてもわかる、この熱さは異常だ。
「体温が高い。熱中症になりかけてるかもしれない」
「来栖くん、そこの自販機で綺麗なお水買ってきて。それから涼しい場所で休ませないと……来栖くんのお家って猫ちゃん連れて帰っても平気?」
「いや、うちは……」
うちは駄目なんだ。昔から、動物は駄目という決まりだった。でも。
「来栖くん……?」
「いいよ、……大丈夫だと思う。連れて帰る。とりあえず水だな、買ってくる」
***
「みー」
帰り道にあるスーパーで買ったネコ用ミルクを小皿に注ぎ、猫缶を開ける。子猫は一声鳴くと、夢中で両方に顔を埋めた。
「ああ~、駄目だよお皿の中に入っちゃ。あはは、手までミルクまみれ」
「食い意地が張ってるな。無理もないか」
「ネコさん、ごはんおいしい?」
「にゃむにゃむ」
涼しい部屋の中で体を冷やし、水を与えて介抱したあと、子猫は少しずつ元気を取り戻していった。自力で立ち上がり餌に夢中になっている様子は愛らしく、生命の危機は脱したように見える。
「良かったね、ごはん食べてくれて」
「ああ。でも、心配だから獣医に診せてもらえないか父に相談してみるよ」
「お兄ちゃん、このネコさん飼うの?」
「どうかな……。家族に相談してからじゃないと、僕一人では決められないんだ」
「そうなんだ……。ネコさん、おうち見つかるといいね」
さっちゃんが少し残念そうな顔をしながら、子猫に優しく話しかける。その声がちゃんと届いているようで、子猫はまた小さく鳴いた。
「ねえねえ。この家にいる間だけでも名前つけてあげない? ネコー、だと呼びにくいしさ」
「お兄ちゃん、いい?」
「名前か……。飼えるかどうかわからないうちから付けて、余計な情が移ってしまうのは良くないと思うけど……」
「みー」
子猫の深い藍色の瞳がこちらを見上げている。膝に寄ってきて小さな体をもたれさせてくる姿を見ていると、感じたことのない庇護欲を掻き立てられる。いままであまり接する機会が無かっただけで、僕は自分が思っている以上に動物が好きみたいだ。
「いや……。いいよ。なにか考えてあげようか」