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第1話 だって、あなたが



 白とベージュを基調に整えられたセレモニーホール。白菊とユリで飾られた祭壇。純白の花弁が、故人への最後の贈り物だとでもいうように優雅な香りを撒き散らしている。白檀のお香と混ざり合い会場全体にただようその香りに、頭痛を誘われて奥歯を噛み締めた。


 水瀬(みなせ)ミヤコ、享年十七。この葬儀の主役。彼女と僕との関係に名前はない。友人でもなければクラスメイトでもなく、覚えている限り、僕らは挨拶を交わしたことすらない。名前と顔を認知しているだけの同学年。それだけ。……そう、それだけだったはずなんだ。彼女が死んだ、あの日までは。


「うっ……うううっ……なんで、なんでぇ……」


 いまにも崩れ落ちそうなところを数名の女子生徒に支えられ、嗚咽を洩らしている人物が目に入る。林カナエ。僕と同じ図書委員で、水瀬ミヤコと同じクラス。一緒にいるのを何度か見かけたことがある。仲が良かったのかもしれない。


来栖(くるす)、前、進んでるぞ」


「ん? ああ……」


 男子生徒の声に促され、開いていた距離を詰める。水瀬ミヤコに対する特別な感情も、この場にいる義理もないのに、皆と同じく神妙な顔を取り繕って焼香の列に並んでいる。早く外の空気が吸いたい。この会場の供花(きょうか)と香の匂いが制服に移ってしまったらと思うと、気が滅入る。

 

 気丈に振る舞う遺族へ一礼、つぎに祭壇へ一礼。焼香台の前に立ち、指先で抹香を摘み取る。一連の形式的な動作を終えたあと、控えめな笑顔を浮かべる遺影を見つめた。水瀬ミヤコ。間違いなく彼女の顔。間違いなく、これは彼女の葬儀。


 


 


***



 


 葬儀会館を出た途端、視界が白けて夏の強烈な日差しが容赦なく照りつける。人の死など意にも介さず晴れ渡る空。耳をつんざくセミの鳴き声。あの場から解放されたのはいいが、今度はじっとりした湿気が全身を包み込む。


「……暑い」


 額に浮かんだ汗を手で拭い、ゆるやかな坂道を登り始めた。平成二年、七月二十七日。高校二年の夏休み、二日目。本来ならばエアコンを効かせた涼しい部屋で冷たい麦茶を片手に小説でも読んでいたはず。背中にシャツを張り付かせ、汗を垂らしながら土地勘のない道を歩く予定なんてなかった。


「なんで僕が、こんなことを……」

 

 ゆるやかな坂道を登り、道の先に見えてきた小さなバスの待合所に入った。黄ばんだ新聞が放置されている古びたベンチに座る。風はほとんどなく空気は生ぬるいままだったが、じりじりと肌を痛めつける直射日光から逃れることはできた。ここなら少しは落ち着ける。


「死んだのか、本当に」


 頭の中には笑みを浮かべる水瀬ミヤコの遺影が居座っていた。百合、白菊、位牌、線香、喪服姿の親族、泣き崩れる生徒、死んだんだ、本当に。うつむいて足元の砂利をぼんやりと眺めていると、ふと視界の端に女の足が現れた。艶のある焦げ茶色のローファーがつま先を揃えて僕の正面に立つ。

 

「満足した?」


 湿気た空気を切り裂くような凛とした声。目の前に立つ女が誰なのか知っている。でも理解はしたくない、確認もしたくない。これが現実でなければいいと、いずれは醒める悪夢の一場面であればいいと、心が逃避しかけている。

 

「……」

 

 沈黙を貫いても目の前の女は微動だにせず、行儀よく待ち続ける。あきらめて立ち去ってくれなんて、そう都合の良い展開は期待できそうになかった。観念して顔を上げる。予想通り、葬儀に参列していた女子たちと同じ白いセーラー服――僕の通う希蝶きちょう学園高等学校の制服を着た女が、こちらを見下ろし微笑んでいた。濡れ羽色の長い髪が風もないのにゆらゆらとなびいている。


「本当に死んでたでしょ、私」

 

「……ああ」


 葬儀の主役。飾られていた遺影のご本人。学園のマドンナと称されていた女、水瀬ミヤコ。全身がうっすらと透けている以外は生前となにも変わった様子はない。いや、花もたじろぐ十七歳。死してなお可憐さは衰えを知らず、人間離れした妖しい魅力が増してしまっているように見える。本当に、どうして僕がこんな目に。


 

 

***




 


「昨日、死んだの」


 七月二十五日、夜。とつぜん僕の部屋に現れた彼女は開口一番にそう告げた。あまりにも唐突な出現に僕は一瞬思考停止し、それから、どうやって部屋に入った、なんの冗談だ、いますぐ家から出ていけ、そんなことをまくし立てたような気がする。ほとんど面識のない女が許可もなく土足で自室に踏み込んだということに、なによりもまず腹が立った。


 けれども水瀬ミヤコは一歩も引かなかった。なにを考えているのかわからない澄ました顔で僕を見つめるばかり。整った顔の造形が、無言で佇む姿に妙な迫力と陰鬱さを添えていた。

 

「もういい、早く来い!」


 なにを言っても無駄だと悟り、力ずくで追い出すために彼女の腕を掴む。掴んだはずだった。指先にはなんの感触もなく、伸ばした右手は彼女の体を突き抜けて空を切る。


「……どうなってる」


「だから私、死んだの、来栖くん」


「そんな、馬鹿なこと、あるか」


 途切れ途切れに言葉を発する僕を見て、水瀬ミヤコが困ったように笑う。瞬間、一階の固定電話の呼出音がけたたましく鳴り響いた。静まり返っていたせいかやけに大きな音に感じられ、びくりと肩が跳ねる。


「ハヤトちゃん、いいかしら……」


 しばらくしてドア越しに母さんの声が聞こえてきた。部屋の真ん中に立つ水瀬ミヤコは親の登場にも動じず、逃げも隠れもしない。この余裕はなんなのだろう、見られてもかまわないのだろうか。少なくとも僕はこんな夜更けに黙って女子を連れ込んでいるなんて思われたくない。しかたなく自分の体で室内を隠すようにして少しだけドアを開いた。いつにも増して青白い顔をした母さんがこちらを見上げている。自分を抱きしめるように片手で反対の肘をつかみ、不安げに眉を下げていた。なにか悪い知らせを受けたのだと容易(ようい)に想像できる。


「どうしたの? 母さん」

 

「あのね、ハヤトちゃんと同じ二年生の……水瀬ミヤコさんって知ってる? 明後日、ご葬儀があるらしくて」


「……親しくはなかったけど、顔は知ってるよ。亡くなったの? どうして?」


 母は少しためらったあと、小さく答えた。


「それが……昨夜、ご自宅で首を吊ったって……」

 

「……そう。わかった、気が向いたら顔を出してみるよ。場所は?」


平花市(びょうかし)葬祭会館。大丈夫? 親しくはなくても、知っている子がこんな若さで亡くなるなんて……」


「大丈夫、心配しないで。ありがとう、母さん」


 安心させるため母さんの肩に触れようとして、思い直す。これ以上ドアを大きく開ければ部屋の中が見えてしまう。身動きが取れないままやり過ごし、階段を降りていく母さんの背中を見送った。


「はぁ……」


 重いため息をついて振り返る。僕と母さんのやり取りを見て、水瀬ミヤコはなんともいえない複雑な表情を浮かべていた。高校生にもなって母親からちゃん付けで呼ばれていると、たまにこういう顔をされることがある。仕方がないんだ、あれは。体の弱い母さんを悲しませて余計な心労を与えるわけにもいかず、強く抗議できないままズルズルと続いてしまっている。僕としても不本意ではあるが、いちいちこの女に弁明する必要はない。


「死んだなんて信じない。タチの悪いいたずらだろ。母まで巻き込むなんてなにを考えているんだ、ふざけやがって」


「……いたずらじゃないよ。私、本当に死んだの」


「本当だとして、どうして僕の前に現れるんだ。化けて出られる理由なんかないだろ」


「それは……だって……」


 水瀬ミヤコは視線を落として唇を噛んだ。おおかた夏休みを前に浮かれた連中が、僕のような人間をからかって楽しむために企てた余興なんだろう。学園のマドンナとやらも所詮はこんなくだらないお遊びに興じる程度の人間だった。軽蔑する。好きなように言い訳を並び立てればいい、どうせ聞く価値もない。しかし彼女の口から零れでた言葉は、僕が予想もしていなかったものだった。

 

「だって、あなたが私を殺したのに」





 


 

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