第8話
夜の帳が覆う中洲。屋台の灯りが川面に揺れる。
「近畿も中国も梅雨明け……北九州はまだか」
スマホの時事ニュースを見、無気島再起は呟いた。
予報では、今夜も遅くから雨が降るらしい。
「まぁ、軽く飲んで帰れば平気だろう」
無気島が歩くのは、中洲の屋台街。
いつもの店を見つけ、暖簾をくぐる。
「おう、再起くん! いらっしゃい!」
店主の後藤が威勢よく呼び掛け、無気島は会釈を返す。
「あれ? 今日、先生来てなかとですか?」
「惜しかったばい。さっき帰りよったとよ」
「あら。こんな早く帰るなんて、珍しかですね」
無気島は小柄な女性の隣に座る。
「いつもんとでよかと?」
「はい」
無気島が頷くと、後藤はハイボールを差し出した。
「なんでも、新作ば一から書き直すげな、目ん玉飛び出しそうになって帰りよったとよ」
「先週、締め切り間近で行き詰まっとーとかって言うとったと。調子戻ったのかな?」
と、無気島は御新香を受け取る。
「心配しとったと?」
「俺も読書しますし、小説家が飲み仲間なら尚更ですたい。ていうか、これから書き直すのか……人間技とは思えんな……」
無気島は頷いて、それとなくテーブルに置いていたスマホ画面――それが光ったことに気付いた。
課長からのラインだった。
「うわ、マジかぁ……」
「どげんしたと?」
思わず声を漏らす無気島に、後藤が聞いた。
「明日、土曜日で俺休みやけど、今課長からラインが来て、船の立ち合いをしてくれって。要は、休日出勤ですたい」
「ありゃ。再起くんは日勤やろ? 珍しかね」
「たまぁに、あるんですたい。こういう不意打ちが。ちゃんと手当出るから、全然いいんですけど」
無気島はラインを返信して、元の位置にスマホを置く。
その際、待ち受け画像にしているイラストが僅かな間表示され、隣の女性の顔が斜め下を向いた。
どうやら、無気島のスマホに表示された画像が気になってしまったらしい。
無気島のスマホに表示されたのは、フォロワー10万人級の人気イラストレーター・霧真梨希の力作。
隣の女性が、はっとしたように無気島の顔を見た。
「――?」
この女性が気になって、自分のスマホ画面を見てしまっただけなら、さほど気にしない無気島だが、振り返ってきたのにはさすがに驚いた。
女性と目が合ってしまう。
目鼻立ちの整った小顔は、まるで美少女。酒場に来たら、年齢を問われてしまうのではと思うほど、若々しい。
「絵とか、好きなんですか?」
無気島は気まずさから、そう尋ねていた。
「あ、は、はい……」
女性のほうも、顔を見てしまったのは失礼だと思ったか、頬を赤らめて前に向き直った。
(か、かわいい人だな)
学生時代は男子校だった無気島は、異性との交流経験が皆無だった。
(も、もう少し、話し掛けてみようかな? いや、けど、なんだか会話苦手そうな雰囲気もあるし)
(そも、この人、地元の人か? 博多弁でいいんか? それとも標準語? わからん!)
などと、ハイボールを飲みつつ考えていると、
「リキちゃんは、好きなイラストレーターおると?」
後藤が笑顔で聞いた。
(もしかして、この女の子もイラスト好きだったりするのか?)
無気島は突然生じた『共通の趣味』の可能性に、鼓動が高鳴る。
「ぴ、ピカ・ミキゾー先生とか」
リキと呼ばれた女性が躊躇いがちに答えた。
今度は無気島が彼女を振り向く番だった。
(ピカ先生! フォロワー100万人級の神絵師! 王道だけど、この界隈を好きな人の口からしか出ない名前じゃなかか!?)
「す、好きですし、ら、ライバル視、してます」
(なん、だと……!?)
無気島はリキを凝視した。
「もしかして、イラストレーターさん、とかですか?」
無気島は、気付けばそう聞いていた。
再び目と目が合う。
「――――」
彼女の答えを聞いて、無気島の鼓動はさらに加速した。