第5話
夕暮れの中洲。屋台の灯りが川面に揺れる。
「それは、そうかもですけど、やってみなくちゃわからないじゃないですか。就職のこととか、そういうのは、いざ必要になってから考えたくて。……少なくとも今じゃないです」
霧真は言って、カシス・オレンジを流し込んだ。
「ふむ……」
綴は「ボクも年を取った」と、つい年齢のせいにしてしまいそうになるのを飲み込んで、自分の境遇と照らし合わせてみる。
「ボクも今まで必死にやってきたけど、霧真さんと同じような不安は常にあったよ。売れれば売れるほど、今の自分の立場がすべて失われたときのことを考えると、不安も大きくなっていってさ。なんというか、変化を恐がるようになったんだよね」
「それは、今もですか?」
霧真が綴に顔を向けた。
現状の綴は、ベストセラー作家として名が売れている。故に印税もあり、今すぐに食べられなくなるということはない。
そうした土台があっての安心感に目が曇りがちだったが、振り向いてしっかり見れば、土台の至る所に落とし穴はある。
綴は首を縦に振る。
「ボクは作家をやめたくない。それでも、この業界は数字を出せなきゃクビだ。自分の番がいつやって来てもおかしくない。もしそうなって、この年齢で他のことをしなくちゃならないとなれば、とても辛く感じると思う」
ウイスキーを飲む。
「逆にボクみたいな立場から言わせてもらうと、あの頃もっとこうしておけばって、後悔することになると思う。まだ身体が元気なら別なんだろうけどな」
「やり直せるのは若いうちで、変化に柔軟なのも若いうち……」
と、霧真はつぶやいた。
「年取りすぎちゃうと、全身がかたくなるし、変わろうにも変われなかったりする。自分のスタイルを時代に合わせられなくてペン折った作家、少なくない」
グラスの氷が、からりと音を立てた。
綴はそのグラスを口へ運んだ。
味はさらに薄まっていた。
霧真はグラスを見つめたまま切り出す。
「今のわたしの気持ちはどうすればいいんでしょうか? もっと年を重ねたあとで、若いときにリスクを取ってでも、絵に全集中しておけばよかったって、逆に後悔することだってあり得るわけじゃないですか……ゼッタイそう。……わたしはそう」
綴は頷いた。
「うん。若いうちから行動しないと、成功の確率が薄まっていくのも事実。だから、霧真さんが絵を描き続けたいなら、多角的に考えながら続けたほうがいい。少しでいいから、いつでも色を変えられるように」
綴は自分自身に言っているように思えてきた。
同時に、まるでわかり切っていたかのように、あらかじめ答えを用意していたかのように、大した間も置かず言葉を返した自分自身が、無色透明であるかのような虚しさを覚えた。
「色って、ぜんぶで何色あるかご存じですか? 1677万色です。少し色を変えたくらいじゃ、変化にならないです。でも大きく色を変えるとバランス崩れるし、難しい……」
「色だけで言えばそうかもしれないけど、自分の立ち位置とか、角度を変えるとかあるだろう? 多角的にっていうのはそれだよ」
綴はそこまで言って、はっとなった。
新作のヒロインがまだ動いてくれないのは、向き合う角度が違うからではないだろうか?
綴は霧真と向き合うことで、彼女と自分に何らかの良い変化を起こせるような、奇妙な兆しを感じた。