月ノ使者
暗い。
辺りは真っ暗で何も見えない。ただ、暗いからといって怖いという感覚はない。温かい、穏やかな気持ちになる暗闇。
しかし、どうしてこんなところにいるのだろう。いつからここにいるのかも分からない。忘れてしまったんだろうか。
自分の姿も、この暗闇では見ることが出来ない。自分が何者なのかすら思い出すことが出来ないのは、そのせいなのだろうか。
ここが何処なのか。今がいつなのか。自分が誰なのか。何故こんなところにいるのか。
――何も分からない。
しかし、この暗闇が心地いいから、何も気にならない。このままずっとここにいるのが、何よりも幸せに思える。
そうだ。今までそうしていたように、これからもずっと眠っておこう。そうすればいいし、そうしているのが当たり前なのだから。今までずっと眠っていたのだから、そうしていなければならなかったに違いない。
そう言えば、今まで何も気にせずに眠り続けていたはずなのに、どうして目が覚めてしまったんだろう。長い、心地よい眠りを妨げたものがもしあったとしたなら、それに対して少し苛立ちを感じる。
せっかく目が覚めたのだから、辺りを詮索してみようと思う。――が。何といっても、ここは相変わらず深い暗闇に包まれている。周りの景色の変化がないので、視覚でそれを知ることは出来ない。
自分がどれくらいの速度で歩いているのか、走っているのか。それどころか、進んでいるのか、立ち止まっているのかも曖昧な感覚のせいでよく分からない。
壁もない。
天井もない。
床も、ない。
全てが黒に染まっている。
果たして、目の前に空間が広がっているのかさえも疑わしくなる程、深く、限りなく闇に包まれている。
それでも、ここにいる自分。全て、自分の意識だけ。今は、この思考しか存在していない。
とりあえず歩いてみる。といっても感覚だけなので、実際に歩いているのかは分からない。だが今は気にしない。
その時、唯一働いているらしい器官が、刺激を受けた。
音が、聞こえた。
この空間でも耳は聞こえているらしい。しかし、それはとても曖昧なものだった。どの方向から聞こえたのか、何の音だったのか、何も分からない。それでも、不思議なことに聞こえたという感覚だけははっきりとあった。
――なんだろう。
しかし、一度きりしか聞こえなかったので気のせいだったようにも思う。きっと、気のせいだろう。
どのくらい歩いただろうか。やはり、何も分からない。
自分のしていることが何の意味も生み出さない、無駄なことでしかないということに気付いた途端、歩くことが嫌になった。疲れた、とでも言うのだろうか。
また眠ってしまおうか。ここには何もないのだから、いつ何処でどうしようが、何も関係ない。
その場に座り込む。そうしたはずだ。そして、寝転ぶ。そうしたつもりだ。実際には立ち尽くしたままかも知れないが、気にしない。
その時、何も変わらなかった視界に変化があった。
暗い、漆黒に包まれた世界に、ぽっかりと白い穴が開いた。
気にならないはずがない。横たえていた体をゆっくりと起こし、一歩ずつその光に近付いていく。
近付けば近付く程、何か音が聞こえる。それは何やら聞いたことのある、懐かしいもののように思えた。最早、懐かしいという感覚さえも霞んでいて、消え去ろうとしているようだ。
白い穴のすぐそばにたどり着いた。その穴は、少し屈めば楽に通れるくらいの大きさだった。まるで、何処かへ通じている抜け穴のようだ。本当にそうなのではないかと思い、その穴を通り抜けてみようとしたが、見えない壁に阻まれ、それは叶わなかった。
そしてその時、手を当ててみようとして、更に気付いたことがあった。
そこからは確かに光が射しているのに、それに反射して目に映るはずの自分の手が見えない。
でも、何故だろうか。別にショックでもないし、むしろそれが当たり前であるように受け止められた。やはり自分という存在は、感覚しか残されていないのだと。
しばらくの間、と言っても時間の感覚は曖昧なものだったが、その穴の前で佇んでいた。
その間、懐かしい音は断続的にこの耳に届いてきた。何となく、それを聞いていたい気持ちもあったのだろう。
そして、何度かその音に耳を傾けているうちに、それが言葉であることに気付いた。
つまり、それは声だった。
何処かで聞いたことがあるような声だ。何か言っているのは分かるが、はっきりとは聞き取れない。
――何を言っているんだろう。更に注意深く声に耳を傾けてみる。
「…… …」
「… ………」
やはり聞き取れない。しかし、何かを訴えているような感じがする。誰かに呼びかけて、何かを伝えようとしている、そんな感じだ。
――呼んでる? 呼ばれている?
誰?
誰が呼んでる?誰に呼ばれている?
誰を呼んでる?
「真夜」
呼ばれた。――私だ。
その時、穴の白い光が一層強くなった。ぼんやりとした優しい光は、強い刺激に変わろうとしているのか。
忘れていたものを思い出した。忘れていた私の名前。私の、存在。
私の名前は真夜だ。二十二歳の女子大生で、長かった就職活動が終わり、残り少なくなった大学生活を楽しむはずだった。
それなのに、こんなところにいる。感覚と、自分の名前しか分からない。そんな状況になってしまっている。
おかしい。自分の名前を思い出すまでは、心地良かったこの暗闇が、急に憎らしく思えた。
――帰らないと。
そう思っても、自分の帰るべき場所、いるべき場所が分からない。それを思い出そうとすればするほどに、今私がいるこの場所が、何故か一番それに当てはまる気がした。
けれど、そうは思いたくない。絶対に、他にいるべき場所があったはずだ。
何も分からない。思い出せない。
泣きたい。声をあげて泣きわめきたい。なのに、声も涙も出ない。
苦しい。それだけだ。
「……真夜… …」
相変わらず私を呼んでいる。白い眩い穴の前に佇んでいることしか出来ない私に、誰かが絶え間なく呼びかけている。
誰? 何故私を呼ぶの?
何処の誰だか分からないけれど、私に何を伝えようとしているの? ――あなたは、誰?
悲しい。何故だか分からないけれど、酷く悲しい。胸の辺りを強い力で締め付けられているような感じ。息が出来なくなる程、切なくて、悲しい。
私はもうこの暗闇からは抜け出せない。ずっと私を呼んでくれているあなたには、もう会えない。
決してそう決まった訳ではないのに、そんな絶望が私を襲う。
ごめんなさい。
ごめんなさい。もうあなたには会えない。だからもうそんなに呼ばないで。私をこの闇の中で静かに眠らせていて。
お願いだから。
私はもう、あなたには何も答えてはあげられない。だって、声が出ない。
私はもう、刺激を受けるだけで、自分から何かを発することは出来ない。こうして、考えることしか出来ない。
私にはもう、体が……
また、光が強くなった。
声がさっきよりも大きく聞こえるようになった。
「…真夜…」
「真夜……」
「真夜」
何度も繰り返し私を呼ぶ声が聞こえる。そして、それが一人の声ではないことに気付いた。何人かの人が代わる代わる、私を呼んでいるのだ。
そしてその誰しもが、私に何かを訴えようとしている。相変わらずその内容は分からない。しかし、全てそう感じるだけに過ぎない。
「真夜……」
「どうして………………んだ」
ついに言葉が届いた。
どうして…? 何のことだろう。
でも、きっと私と同じ疑問を抱いているのだろう。
どうして、私だけがこんなところにいるのか。私だって分からない。何も分からないの。私が教えて欲しいくらいなのに。答えられるはずがない。
「真夜………てくれ」
やはりまだはっきりとは聞き取れない。しかし今度は感じることが出来た。
帰ってきてくれ、と。そう言ったんだ。
――お父さんだ。
はっと、突然閃いたように様々なことを思い出した。
私にもお父さんとお母さんがいた。様々な人と繋がって、支えられながら生きてきたんだ。
生きていたんだ。
生きて、いた。
そんなことをどうして今まで忘れていたんだろう。どうして、大切な両親のことを忘れて眠り続けていたんだろう。
突然終わってしまった、私の今までの生活。――どうして、終わってしまったんだろう。
また、光が強くなる。もう、目が眩む程の光。眩しさのあまり、私を目を背けた。
その光を見て、思い出した。
たくさんのことが、たくさんの記憶が、闇の中に映し出された。
私の目の前にある白い穴の反対側、ちょうど私の背後に、もう一人の私が現れた。
そうだ、私はこんな姿をしていた。
もう一人の私は、私のことを少しも気にかける様子もなく、歩いている。
私じゃない私の、遥か上に白い穴がもう一つ現れた。
――あれは、月? 満月だ。
そうだ、満月の夜だ。
私が歩いている。
そこに突然、大きな音が響いた。
驚いた私は、思わず両手で耳を塞いだ。それでも、大きな音は相変わらず私の鼓膜を破ろうとしているかのように、攻撃的な音で響く。
その音が車のクラクションだと気付くのに、少し時間がかかった。そして、それに気付いた時には。
もう一人の私が、私の足元に横たわっていた。
私は、私を見ていた。瞬きも出来ない。瞬きも、しない。
体はうつ伏せになっている。それなのに、目があった。顔は、上を向いている。
ただ真っ黒だった世界に、赤い色が付く。もう一人の私が、赤に染まっている。
私は、出るはずのない声を出した。叫んでいた。
頭が痛い。立っていられない。身体中に力が入らない。
何も出来ずに、ただ座り込んだ。
事故だったんだ。恐らく、トラックにでもはねられて……
私は、死んだ。
もう一人の私は、いつの間にか静かに消えていた。また、闇と静寂が私を包む。
「真夜」
その声にはっとする。
お父さんと、お母さん。大好きな二人。二人が呼んでいる。
けれど、もう帰れないの。私は、死んでしまったから。
答えられないのは分かっている。けれど、どうしても二人の思いに答えたかった。答えないわけにはいかない。
私は今、きっと月の向こう側にいるんだ。私の目の前にあるこの穴は、満月なんだ。
そして、お父さんとお母さんは、月に向かって私へ語りかけているんだ。
二人はこの向こうにいるんだ。
二人に、私の思いが少しでも届くように祈った。
お父さん。お母さん。
出会ってくれてありがとう。
私を、二人の子供にしてくれてありがとう。
産んでくれて、育ててくれて、本当にありがとう。
もう一緒にはいられないけど、ずっと側にいるよ。いつも、二人のこと見てる。
二人が今まで私のことを守ってくれてた分、これからは、私がお父さんとお母さんを守ってあげるからね。
ごめんね。本当にありがとう。
――ありがとう。
白い穴が、ゆっくりと消えていった。
私の思いは届いたんだろうか。自信はないけれど、届いたと思いたい。
私は消えゆく白い穴の前に立ち、両手を胸の前で組んでもう一度祈った。
私の思いが二人に届くように。
本当にありがとう。でも、さよならじゃないよ。
満月の夜には、その向こうに、ここに、私がいるから。
月の見えない時も、私はいつも二人を見てるから。
お互いにその姿を見ることは出来ないけど、思いはちゃんと伝わるから。
白い穴が跡形もなく消え、何もない暗闇が訪れた。再び、私は眠る。
次の満月まで。
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