【コミカライズ記念SS】最後の一枚のクッキー
「09.居場所」の直後、レイモンド視点です。
自室に戻ったレイモンドは、手にしていた小さな袋を執務机の上に置いた。
ヘスティアから渡されたクッキーである。
袋を開くと、甘く香ばしい香りがふわりと漂った。
思わず口元が緩む。先ほど玄関で一枚食べたが、やはり気になる。
レイモンドは椅子に腰掛け、書類を手に取りながら、袋からクッキーを一枚取り出した。
齧ればさくり、と軽い音がする。
甘さは控えめで、口の中にふわりと花のような香りが広がる。炎華粉の香りだろうか。どこか不思議な後味だった。
「……美味いな」
レイモンドは思わず呟く。
このクッキーは、この地方ではよく知られた菓子だ。
奥方や娘が、火の精霊の加護を込めて、家族や大切な者の無事を願って焼くもの。
遠出をする者や、仕事に向かう者へ渡すことも多い。
レイモンドもこれまでに何度も食べたことがある。
母から。そして、叔母のアマーリアからも。
だが──。
レイモンドは手にしているクッキーを、もう一度見た。
味は、同じはずだ。
材料も、作り方も、特別なものではない。
それなのに。
「……少し、違うな」
小さく呟き、もう一口かじる。
やさしい甘さが、ゆっくりと広がった。
理由はわからない。
だが、なぜか──いつもより、温かい気がした。
執務を始めながら、レイモンドはもう一枚手を伸ばした。
書類に目を通す。
判を押す。
もう一枚食べる。
気づけば、袋の中のクッキーはずいぶん減っていた。
レイモンドはふと手を止め、袋の中を覗き込む。
そこには、最後の一枚が残っていた。
レイモンドはそのクッキーをしばらく見つめていた。
食べてしまえばいい。
そう思う。
だが、手は伸びなかった。
「……いや」
小さく首を振る。
レイモンドはクッキーを袋から取り出し、指先で軽くつまんだ。
ほんのり甘い香りがする。
さきほど口にした甘さが、まだ舌の奥に残っている気がした。
──確かに、美味かった。
もう一度食べたいと思う。
しかし、それを食べれば、もう終わりだ。
「……」
レイモンドは無言のままクッキーを見つめる。
別に、また作ってもらえばいいだけの話ではないか。
ヘスティアに願えば、おそらくは作ってくれるだろう。
だが、なぜかそれではいけない気がした。
少し考え、レイモンドはクッキーを机の上に置いた。
そして再び書類を手に取る。
しかし、視線は何度も机の上へ戻ってしまう。
小さなクッキーが、妙に存在感を主張していた。
レイモンドが三度目に視線を机の上へ落としたときだった。
「食べないの?」
不意に声をかけられ、レイモンドはびくりと肩を揺らした。
顔を上げると、いつの間にか部屋の扉が開いており、アマーリアがそこに立っていた。
腕を組み、面白そうに机の上を覗き込んでいる。
「……叔母上」
「さっきからずっと見ているじゃない。食べればいいのに」
視線の先には、机の上に置いたままのクッキーがある。
レイモンドは咳払いを一つした。
「いや、その……」
言い訳を探すが、うまく言葉が出てこない。
視線を逸らすと、アマーリアはくすりと笑った。
「ずいぶん大事にしているのね」
「違います」
即座に否定する。
「そういうわけではなく……その……」
レイモンドはクッキーに視線を落とした。
「なくなるのが、少し惜しいだけです」
「まあ」
アマーリアの眉が楽しそうに上がる。
「クッキー一枚で?」
「……」
レイモンドは答えなかった。
答えられなかった、と言う方が正しい。
自分でも理由がよく分からないのだ。
アマーリアはしばらくその様子を眺めていたが、やがて小さく肩をすくめた。
「なら、取っておけば?」
「……湿気ります」
アマーリアはついに声を上げて笑った。
「困った人ね、あなたは」
レイモンドはむっとながらクッキーを見つめた。
どうするべきか、まだ決めかねている。
アマーリアの笑い声を聞きながら、レイモンドはとうとう手を伸ばした。
最後の一枚のクッキーをつまみ上げる。
「……湿気るくらいなら、今食べた方がいい」
誰に言うでもなくそう呟き、口に運んだ。
さくり、と軽い音がする。
やさしい甘さが、ゆっくりと口の中に広がった。
やはり美味い。
「……自分で言います」
レイモンドがきっぱりと告げると、アマーリアは一瞬目を瞬かせ、それから楽しそうに微笑んだ。
「まあ、そう。じゃあ任せるわ」
くすくす笑いながら、アマーリアは踵を返す。
「邪魔をして悪かったわね」
軽く手を振り、部屋を出ていった。
扉が静かに閉まる。
部屋には再び静けさが戻った。
レイモンドは空になった袋を見下ろした。
しばらくそれを見つめてから、ふと思う。
──何か、礼をした方がいいかもしれない。
クッキーのお返しに、何か。
花か。
菓子か。
それとも、別の何かか。
そんなことを考えていると、ヘスティアの顔が浮かんだ。
袋を差し出したときの、あの少し緊張したような表情。
美味しいと言ったときの、涙ぐんだ笑顔。
その顔を思い出しただけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……不思議だな」
レイモンドは小さく呟いた。
クッキーは、もうない。
けれど胸の奥には、やわらかな温もりだけが残っていた。
本日3/16よりカドコミ様、ニコニコ静画様にてコミカライズが連載開始となりました。
霜谷佳先生による、とても素敵なコミカライズになっています。
ご覧いただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。




