ただいま、おかえり。
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(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)
夏虫が髪を伸ばすことにしたのは、薄柿がシュシュをつくったからだ。
『……じつの、さい……おんは……ど、……しやすい…にな……しょう』
「ほ、ん、じ、つ、の、さ、い、こ、う、き、お、ん、は」
奥の部屋で、真っ暗なブラウン管テレビの途切れ途切れの音声に合わせて言葉の練習をしていた夏虫は、窓の外の夕暮れに気づき、急いで玄関へと向かう。裸足の足が、ぺたぺたと床に張りつく。玄関には薄柿がいて、ひょろひょろの両腕いっぱいに色とりどりの端切れを抱えていた。きっと、散歩に出かけたついでに農道のほうから拾ってきたのだろう、と夏虫は思う。
「おねえちゃん、それ、どうするの?」
おかえりを言っていないので、外はまだ夕暮れだ。
夏虫の言葉には答えず、ただ目を細めて薄柿は微笑む。そして、端切れを畳に小山のようにして盛ると、奥の部屋へ行き、裁縫箱を取ってきた。途切れ途切れに聞こえていたテレビの音が、ぶつん、という音のあと、聞こえなくなる。薄柿がテレビのスイッチを切ったのだろう。薄柿の、つるんとした、まるくてしかくい小さな裁縫箱は水色で、真新しい石鹸のようにも見える。薄柿は、裁縫箱の蓋を小さな手で、ぬるりとひと撫ですると、畳にすとんと腰を下ろした。
質問に答えが返ってくることをはじめから期待していない夏虫は、気にすることもなく、そんな薄柿の動きを、じっと眺めていた。
薄柿は畳にうずくまり、裁縫箱から針と糸を取り出すと、ちくちくと小さな指で小さな針を動かし始める。薄柿の身体は、夏虫よりもひとまわりも小さい。その小さい身体にあつらえたような、石鹸の裁縫箱が薄柿の傍らにちょん、と置かれている。ちまちました指で、ちまちま運針する薄柿の姿は、石鹸の裁縫箱とひとつになって、夏虫の心をふわふわと弾ませた。白く長い髪の毛が畳に垂れて、薄柿の顔を隠している。
背中がまんまるくなってカメみたいだ、と夏虫は思う。平たくて黒色や緑色の甲羅の水辺にいるカメではなくて、こんもりとまんまるい、明るい飴色の甲羅を持った、大きなカメ。そのカメは、陸を堂々と歩くのだ。
夏虫は、そういうカメを以前、からっぽの小学校の廊下で見かけたことがある。かし、かし、と微かな音をゆったりと響かせ、そのカメは木造の床を優雅に歩いていた。窓から射し込む淡藤色の朝焼けがカメのこんもりとうれしげにふくらんだ甲羅を染めており、夏虫は、わけもなくわくわくしたのだった。
その時のカメに、今の薄柿はそっくりだった。
灯りのない畳の部屋の、窓から射し込む橙色の中、薄柿のまんまるい背中を見ながら、夏虫はわくわくと胸を躍らせる。橙色に染まったカメのような薄柿の姿をずっと見ていたくて、夏虫はわざとおかえりを言わない。
「なにつくってるの?」
答える言葉はないと知っていて、夏虫は薄柿にそう問いかける。んふう、と鼻から空気が抜けたような音をさせて、薄柿は笑った。笑って、夏虫の頭を、小さな手で撫でた。夏虫の髪の毛と薄柿のてのひらが擦れて、しょりしょりと音が鳴る。薄柿は笑うと、鼻の下が少しだけ伸びる。機嫌がいいんだな、と夏虫は思う。きっと、いいものを作っているに違いない。
「ねーえ、なあにつくってーるのー?」
くふくふと笑いながら、夏虫は薄柿の周りを膝を抱えてまるくなり、リンゴのようにころころと転がる。薄柿も、んふう、んふう、と笑っている。
程なくしてできあがったのは、たくさんの色が凝縮されたような、ふんわりと、しかし、ぎゅっと詰まったシュシュだった。
「これ、なに。ここが、きゅうってなるね」
ころころと転がるのをやめた夏虫は、むくりと半身を起こし、自分の胸を両手で押さえて、ぎゅぎゅっと身体を縮こまらせた。薄柿は、また夏虫の頭を、しょりしょりと撫で、短い髪を小さな指先でつまんで一瞬、つつ、と引っ張った。
「わかった」
夏虫は言う。
「あたし、髪を伸ばすのね」
薄柿は、んふう、と笑う。それが薄柿の肯定の返事なのだった。
薄柿に、左の手首にシュシュをつけてもらった夏虫は、くすぐったいような、身体がそのままぽわんと浮かんでしまうのではないかというような、不思議な心地になった。ほっぺたがやけに熱を持っている。心臓の奥の、ずっとずっと底のほうから、きゅるきゅると熱い力がわいてくる。
夏虫は、その力を意識しながら立ち上がり、両足の指で畳をきゅっと踏みしめる。そして、強い意志を持って言葉を発した。
「あたし、髪を伸ばす」
坊主頭と言っていいほどに短かった夏虫の髪の毛は、その言葉で、にゅるん、と耳の上くらいまでに伸びた。
「髪を伸ばす。伸ばす。伸ばす。伸びるうぅ」
続けて何度も言葉を絞り出しても、それ以上はどうしても伸びない。自分の力ではここまでが限界なのだろう、と夏虫は悟る。
んふう。薄柿が笑う。大丈夫だよ、ゆっくりでいいんだよ、薄柿の言葉を夏虫は勝手に想像する。薄柿がもしそう言ってくれたなら、夏虫はうれしい。想像することが、夏虫にとっての、ほとんどすべてなのだ。
「おねえちゃん、ありがとう」
夏虫は、言葉を紡がない薄柿の唇にそっとふれてみる。
「おかえり、おねえちゃん」
外は、すとんと夕暮れを終えた。
「おねえちゃん、おねえちゃん」
夏虫は覚えたての言葉を発してうれしがる。薄柿は口を閉じ、鼻から息を吐き出すだけだ。
薄柿が言葉を放棄したのは、もうずいぶんと前のことだ。
夏虫は、薄柿が言葉を持っていた時のことを覚えていない。薄柿が、どんな声で、どんな言葉を紡いでいたのか、夏虫はどうしても思い出せなかった。
薄柿が言葉を放棄すると予め知っていたなら、きっと何か覚えていられただろうに。夏虫は時々後悔の気持ちと共に、薄柿のやわらかい唇にふれる。薄柿の紡ぐ、気に入りの言葉を、どれかひとつでも思い出すことができただろうに。
だから、夏虫はテレビの音で言葉を覚える。あの、音だけが途切れ途切れに聞こえるしかくい箱のようなブラウン管のテレビも、薄柿が農道から拾ってきたものだ。薄柿の細い腕で、家までこのテレビを持ち帰るのは大変だっただろう、と夏虫は思う。きっと、ゆっくり休みながら持って帰ってきたのだ。ゆっくりゆっくり、カメのように。薄柿は農道を歩いて帰ったに違いない。
髪の毛はゆっくり伸ばそう。焦らなくていい。そう決めて、夏虫は、次のシュシュづくりに取り掛かった薄柿のまんまるい背中に視線をやり、石鹸の裁縫箱をぬるりと撫でる。そのどちらも、夏虫にとって愛しいものだった。
それから、自分の左手首のシュシュをうっとりと見つめる。自分の持ちものが増えたことが、夏虫は単純にうれしい。
夏虫の髪の毛は、きっと近いうちに長くなる。このシュシュは、長い髪の毛を気持ちよく束ねてくれるにちがいない。夏虫はうきうきと思う。身体の中で、なにやら楽しそうな空気がくるくると渦巻いている。
○
夏虫は時々、小学校へ行く。春になると、頻繁に行く。小学校には桜の木があり、それが満開になるのだ。誰もいない教室の窓側の席から桜の木を眺めるのが、夏虫は好きだ。
すっかり意味をなくし、大きな木箱と化してしまった小学校も、律儀にチャイムだけは鳴らす。キーンコーンカーンコーン、と、ひび割れたように響く音を聞きながら、夏虫は埃っぽい机に突っ伏し、くしゃみをひとつした。
春というのは不思議な季節だ、と夏虫は思う。意味もなく目に涙が溜まる。それがつるりと流れたかと思うと、もう止まらなくなる。夏虫は、自分がどうして涙を流すのかもわからず、不安定な気持ちで教室の窓から桜を眺める。ぼやけた視界には満開の桜の木は、大きな白い塊に見える。
席を立とうとした時、机の中に滑り込ませた夏虫の指になにかがふれた。夏虫は、びくりと震え、指を引っこめる。この机の中には、なにもなかったはずだった。しびしびと全身に鳥肌が立ち、流れ放題に流れていた涙はぴたりと止まってしまった。
誰のものかもわからないものにはなるべくふれたくはなかったが、今までなにもなかった空間に突然出現した存在に、夏虫は好奇心を刺激された。夏虫は、おそるおそる机の中のものを引っ張り出す。
ノートだった。何度も開いたのだろう、パンダの写真の青い表紙は、癖がついてくたくたになってしまっていた。表紙の名前の欄に、太い字で誰かの名前が書いてある。今のものと様子が違ったために一瞬わからなかったが、それは確かに薄柿の名前だった。薄柿は、言葉を放棄する以前は、この小学校に通っていたのかもしれない。そのことに気づいた時、夏虫の胸の奥は、ぽっと火が灯ったように熱くなった。薄柿が放棄してしまった言葉の一部が、このノートの中にあるかもしれないと期待したからだ。
薄柿のノート。こういうものがあるといいと夏虫はずっと思っていた。きっと薄柿が言葉を放棄する以前のノートだ。この中に薄柿の言葉がある。夏虫が欲しがっていた言葉がある。夏虫は、どくどくとうるさい自分の心臓の音を聞きながら、パンダの表紙を開いた。
わたしのいもうと
そこには、夏虫のことが書かれていた。
筆圧の強い、粉を吹いたような鉛筆の文字は、その存在だけでとても頼もしく思えた。
わたしのいもうとは、とてもちいさいです。くろくてながいきれいなかみをしていましたが、■■■■■は、じゃまだといってきってしまいました。わたしはかなしくなりました。わたしは、いもうとのかみがすきでした。
しかし、書かれているのはそれだけだった。溢れてくる唾をこくりと飲み込んで、これは本当に自分のことなのだろうか、と夏虫は思う。
夏虫は、そこに書かれていることを覚えていなかった。今、とてもちいさいのは、夏虫ではなく薄柿のほうだった。しかし、夏虫の髪の毛は、もうずっと短かった。それは、いつか誰かに切られてしまったからなのだろうか。夏虫の髪の毛を切ってしまったらしい誰かの名前は、上から鉛筆で丹念に塗りつぶされており、その部分だけが陽の光を反射して鈍色をつやつやさせている。
夏虫は、鉛筆の文字を、最初から最後まで指でなぞる。強い筆圧のせいで、ノートの表面はぽこぽこしている。指の腹が少し黒く染まった。
かつての薄柿が残した、この文章の中から、夏虫は気に入りを見つけようとする。
「わたしは、いもうとのかみがすきでした」
夏虫は、声に出して読んでみた。
「わたしは、いもうとのかみがすきでした」
左手首のシュシュに鼻先を突っこみ、夏虫はその匂いをかぐ。薄柿の匂いだ。それはつまり、そのまま家の匂いでもある。夏虫は、なおもどくどくと脈打つ心臓を意識する。夕暮れの、薄柿の、おかえりの時の顔を思い出す。
「あたしは、髪を伸ばす」
さわ、と音がして、伸びた髪の毛は夏虫の耳を隠した。しかし、まだシュシュでまとめるには長さが足りない。もうすぐだ、と焦る気持ちと、ゆっくりでいい、という凪いだ気持ちの間にいて、夏虫はそわそわとパンダの表紙を閉じた。そっと机にノートをしまい、夏虫は席を立つ。
明るい春の陽射しにくるまれていた教室が、唐突に薄暗くかげる。窓の外の夕焼けを見て、夏虫は、散歩に出ていたのだろう薄柿が家に帰ったことを知る。
ひたひたと廊下を走り、夏虫は運動場へ飛び出す。運動場の小石が足の裏に痛い。痛いけれど、つらくはない。家では薄柿が、きっと夏虫の帰りを待っている。
ざしゅっ、と夏虫は裸足の足で地面を蹴った。
見上げると、桜の花までが橙色に染まっている。夏虫がおかえりを言うまで、夕暮れは続く。
薄柿におかえりを言うために、夏虫は家へと急ぐ。
○
夏で、早朝だった。
朝靄の中、まだ空気があたたまっておらず、ひんやりとした緑色の溢れる農道で、夏虫はサンダルを見つけた。誰が落としたのかもわからない女物のサンダルが、夏虫の裸足の足元にころりと転がっていた。もう片方は、目線を上げた農道のアスファルトのその先に落ちていた。
夏虫は、ところどころ崩れてしまったアスファルトに裸足の足を取られないように、慎重に足を踏み出す。
農道には、いろんなものが落ちている。
片割れを失くしたスリッパや、泥で汚れた靴下、映画の半券、水分を吸ってハンペンのようにふくらんでしまった湿布、刺繍の入った白いハンカチ、インクが滲んで誰の者かもわからなくなった古いラジオ体操のカード、短くなった鉛筆、金具の外れた犬の首輪、からからに乾いた金魚鉢。
忘れられたものたち。
それらのものを見かけるたびに、夏虫はわけもなく気持ちが重たくなる。ずん、と腹の中心に、もやもやとしたなにか得体の知れないものが溜まっていくような気がするのだ。
その得体の知れないなにかは、どこからやってきてどこに消えるのか。消えずに、自分の中に溜まっていってしまうのか。夏虫は思わず身体の中心を左手でさする。
ゆるやかな坂道を形成する農道はいつも、どうしてか雑多なものが溢れかえっていた。
農道の両脇、かつて田んぼや畑だったはずのそれらの場所は、夏には夏虫の背丈を越す草が狂ったように生い茂る。風に吹かれた夏草が、ざわざわと音を立てるたびに、夏虫の胸の奥も、ざわざわと騒ぐ。若緑色が、夏虫に迫ってくるようで、近くも遠くも同じに感じる。
薄柿は散歩に出かけると、時折、農道に落ちているものを頓着せず拾い上げて持ち帰る。シュシュをつくった端切れもそうだ。テレビも石鹸の裁縫箱も、そうだった。
しかし夏虫は、持ち主のわからないものにふれることはない。おそろしいのだ。
薄柿が拾って持ち帰ったものは、それは薄柿のものになる。そうなってから、夏虫はやっとものにふれることができた。
夏虫にとって、薄柿以外の誰かのことは、実体が伴っていないひどく曖昧なものとしか思えなかった。テレビから聞こえる声も、自分が今いるこことは違う、どこか遠いところからの声だ。
誰かがいるような気がする。だが、やはり、ここには誰もいないのだった。
夏虫は、朝日をきらりと反射したサンダルを凝視する。つやつやと光る、薄葡萄に天色、牡丹色に黄檗色。たくさんの小さなビーズで飾られた特別にかわいらしいそれは、薄柿がつくってくれた夏虫のシュシュにぴったりと似合うような気がしたのだ。
髪の毛は、いくら言葉を発しても未だシュシュでまとめられるほどには伸びないが、夏虫は薄柿がつくってくれたシュシュをいつも身に着けていた。
夏虫は、左手首のシュシュを撫でる。シュシュとサンダルを交互に見て、夏虫は胸をトトトと高鳴らせ、そして、自然な動作でそのサンダルに裸足の片足をするりと滑り込ませた。
途端、朝の空気は霧散して、とっぷりと日が暮れてしまった。
あ、と思い見上げた空には、レモンジュースをなみなみと注いだコップを真上から見下ろしたような月が浮かんでいる。見下ろしたような月を見上げ、夏虫は、レモンジュースがいつか、こちらにこぼれてくるかもしれない、と、はらはらしてしまう。
かこん、とサンダルを履いた片足で、夏虫は先の坂道に踏み出す。その向こうに落ちているもう片方のサンダルを拾いに行くのだ。
裸足でぺたん、サンダルでかこん。サンダルの踵は高いので、片方だけだと歩きにくい。
もう一歩踏み出したその時、かし、と夏虫のサンダルとは別の、ささやかな音が聞こえた。夏虫はゆるい坂道の途中で立ち止まる。もう片方のサンダルを拾い上げ、耳を澄ます。かし、かし、と、その微かな音は、夏虫の背後から聞こえてくる。振り返っても誰もいない。かし、と、しかしその音は聞こえる。夏虫は視線を下に落とす。
カメがいた。いつか、小学校の廊下で見かけたカメだった。幸せそうな太い曲線を描く前足が、交互にゆっくりと前に踏み出している。
こんもりとふくらんだカメの甲羅を見て、夏虫はわけもなくうれしくなる。腹の中心に溜まった得体の知れないなにかは、いつの間にか消えている。
かし、かし、とカメはゆったり歩きながら、立ち止まった夏虫を追い越して坂道を行く。夏虫は、その後ろ姿を見送った。
あのカメは、なにかを食べているのだろうか。夏虫は思う。
『……いしい……すねえ!』
途切れ途切れの、テレビの音声を思い出す。おいしいですね。
夏虫は、空腹を覚えていない。おそらく薄柿もそうだ。以前は、空腹だったことがあったような気もする。しかし、今の夏虫は空腹を知らない。あのカメはどうだろう。あのカメは、空腹を知っているのだろうか。おいしいを知っているのだろうか。
なにも必要とせず、なにも取り込まない自分の身体が、夏虫には時々、空洞のように思える。
からっぽなのだ、と夏虫は思う。
カメの、こんもりとした甲羅に詰まっているなにかを夏虫は想像するが、うまくいかなかった。
もう片方のサンダルを履き、夏虫は坂道を駆け上る。
坂道を越えて、さらにもっと進んだ場所に、夏虫と薄柿の家はある。弁柄色の瓦が艶やかに光る、こぢんまりとした家。夏虫がいつからか持っている、「家」という想像図そのままの家だ。こぢんまりとしているが、そこには薄柿がいる。
夏虫の持ちものといえば、家と薄柿だけだった。夕暮れ時に、ただいまを言う相手がいて、おかえりと迎えてくれる場所がある。夏虫は、それだけ持っていればよかった。その上、今は薄柿がつくってくれたシュシュもある。薄柿が夏虫にくれたものは、それは夏虫のものになる。それに似合いの、サンダルも拾った。薄柿が拾ったものが薄柿のものになるように、このサンダルも、夏虫のものになればいい。夏虫は、空洞の身体がそれで満たされてくれるのではないかと期待する。
かっかこかっかこ、軽やかな音が夜の中に響く。坂道の向こう側には、レモンジュースがしたたり落ちている。もしもそうなっていたら、薄柿といっしょに泳ごう。夏虫はそんな想像をする。自然と表情がゆるみ、坂道を上りきった夏虫は、明るい夜の空に向かって一度だけ飛び跳ねた。あとは、ころがるように坂道を駆け下りる。リンゴのようにころがっている自分を、夏虫は想像する。深緋色のまんまるになった自分は、きっととても素敵だろう。
「おねえちゃん、ただいま」
そう言って、玄関でサンダルを蹴るように脱ぐと、夕暮れになる。
「おねえちゃん」
廊下をぺたぺたと走って、スパンと襖を開け、畳を踏む。畳の上、色とりどりの大量のシュシュに埋もれ、薄柿は静かに眠っていた。
夏虫の真っ黒なそれとは違い、薄柿の髪の毛は真っ白だ。扇のように拡がったその真っ白な髪の毛を、夏虫はさらさらと撫でる。目覚めた薄柿が夏虫を見て、んふう、と笑う。目が細くなり、鼻の下が伸びる。きっと、おかえりと言っているのだ。夏虫は薄柿の聞こえぬ言葉を想像する。
「ただいま、おねえちゃん」
窓の外の夕暮れが散り散りになり、再び夜になった。起き上がった薄柿は、夏虫に問いかけるような視線を寄越す。サンダルのことかな、と夏虫は思う。なにも言わないのに、どうしてわかったのだろう。
「農道で、サンダル拾ったんだよ」
夏虫が言うと、薄柿はなにか思うところがあったのか、駆けるようにして玄関へと向かった。
玄関に転がっている夏虫のサンダルを見て、薄柿は顔を歪める。痛みを我慢しているようにも見えた。その顔を見た夏虫は、おねえちゃんは、このサンダルが好きじゃないのかな、と思う。こんなにかわいいのに。
薄柿は、しゃがみこんでサンダルに小さな手を伸ばし、躊躇うように指を動かしたあと、結局なにもしなかった。んふう、と鼻から息を抜き、薄柿はしゃがみこんだまま、なにかをごまかすように夏虫の足の指をくすぐった。ひょひょひょ、と夏虫は声を上げて笑う。
薄柿は、蝋燭の灯りの中、背中をまるめて、ちくちくとシュシュをつくり続けている。運針にあわせて、小さな針がきらりと光る。外は、未だ夜の中だ。レモンジュースはこぼれずに、空にある。夏柿は膝を抱えてころころと転がりながら、薄柿のそばにいる。
「おねえちゃん、目が疲れちゃうよ」
夏虫は言い、言ってから、疲れるというのはどういうことだったかな、と、ふと思った。空腹、疲労、そのどちらもを夏虫は覚えていない。
「おねえちゃん」
どうしてか不安な心持ちになり、夏虫は薄柿を呼ぶ。んふう。薄柿は吐息で返事をした。
部屋は、薄柿のつくり出す色とりどりのシュシュで埋め尽くされている、その中を転がりながら、夏虫は言う。
「おねえちゃん。あたし、なんだか、いろんなことを忘れているような気がする」
んふう、と笑うだけで、薄柿は取り合ってくれない。
夏虫の腹の中心には、また得体の知れないなにかが溜まり始めていた。黒々としたそれは、ねっとりと夏虫を包み込む。その感覚を意識しながら、
「あたし、髪を伸ばす」
夏虫はリンゴのように転がりながら言葉を発した。
ずるり、と畳の上をなにかが這うような音がして、夏虫の髪の毛が一気に伸び始めた。ずるり、ずずず、ずざざざざ、と夏虫の真っ黒な髪の毛は、転がっていたシュシュを巻き込んで、ものすごい速さでその量を増していく。辺りは、夜よりも、もっとずっと黒い髪の毛に覆われて、夏虫の目の前から薄柿の色が消えた。
「いやだ」
反射的に、夏虫は呟く。
「おねえちゃん、どこ?」
薄柿の姿が見えない。夏虫は、伸び続ける髪の毛をかき分けるように両手を動かす。薄柿の真っ白を求めて両手を前に突っ張ると、左手首のシュシュにだけ安心する色が見える。
「おねえちゃん!」
しかし、薄柿の返事はない。
「いやだ! とまって! とまれ!」
そう叫んではみたものの、自分の言葉には力が足りていないことはわかっていた。
ずるずると伸びる髪の毛は襖を壊し、それ自体が単体の生き物のように家の外にまで這い出てしまっているようだった。薄柿も、髪の毛に絡め取られたまま、遠くまで流されてしまったのかもしれない。
「おねえちゃん! おねえちゃん!」
もう、どちらが上なのか下なのか、自分が目を閉じているのか開いているのか、それすらもわからなくなった。ただ、ぞろぞろと伸びる真っ黒な髪の毛に巻き込まれながら、夏虫は玄関に転がっているはずの、サンダルのビーズがチラチラと光るのを見た。
「あっ」
夏虫は声を上げる。
サンダルを履いた、細くて白い足の指。きれいに塗られた爪は、桜貝のようにつややかに光っている。
そのころの夏虫の視界は、いつも地面すれすれで、毎日毎日、畳の上に溜まっていく埃を眺めていたものだった。その人のことも、いつからか足しか見えなくなっていた。となりには、いつも薄柿がいて、それは夏虫が動けなくなってからも同じで、ずっとふたりでぴったりと寄り添って、そうだ、そのころは知っていた。空腹も疲労も、自分を取り巻く世界の狭さも四角さも。そうしているうちに、なにもかもを忘れてしまった。
――あんたは髪ばかりずるずると伸びて。気持ちのわるい。
誰かの声が降ってきた。懐かしくて、愛しくて、自分を消してしまいたくなる。
「わたしは、いもうとのかみがすきでした」
もがきながら、夏虫は言葉を発する。降ってきた否定的な言葉を振り払うように、夏虫は口を開く。
「わたしはいもうとのかみがすきでしたわたしはいもうとのかみがすきでしたわたしはいもうとのかみがすきでした」
呪文のように唱えながら、夏虫は絡まる髪の毛から抜け出そうともがく。伸び続ける自分の髪の毛の中で夏虫は、ううう、とくぐもった声をもらした。
「おねえちゃあん」
薄柿を呼ぶ声は弱々しく、その合間を縫って、かし、という音が夏虫の耳に届く。
かし、かし、と、その音はどんどん夏虫のほうへと近づいてくる。もぞもぞと髪の毛が引っ張られるような感覚があり、夏虫は息を飲んだ。ひゅる、と咽喉が鳴る。
なにかがいるのだ。
それは、夏虫の腹の中心からうまれた、得体の知れないなにかかもしれなかった。しかし、そんなはずはない、と夏虫は思う。夏虫の腹には、ずっしりと重たいなにかが未だ存在しているのだ。外にいるのは別のなにかのはずだった。
しゃく、しゃく、しゃく。
なにかがすりつぶされるような音が連続して聞こえてきたかと思うと、次の瞬間には視界が開けていた。黒々とした髪の量が減っていくと共に、夜も終わりに近づいているようだった。髪の毛の間から、朝焼けが見える。あのころのように、地面すれすれの夏虫の視界には、こんもりとうれしげな甲羅があった。ああ、と、ため息のような声が夏虫の口からもれる。
カメは、しゃくしゃくと夏虫の髪の毛を食べているようだった。夏虫の髪の毛を咀嚼するごとに、心なしか、カメの甲羅が大きくなっているような気がする。甲羅の中に、なにもかも、すべてを詰めこんでしまっているのかもしれない。ある程度、髪の毛を食べ終えたカメの甲羅は、夏虫の身体の二倍ほどになっていた。
夏虫の髪の毛は、なおもしゅるしゅると伸び続けている。夏虫は慌てて、左手首のシュシュで伸び続ける自分の髪の毛をぎゅっと無造作にまとめた。夏虫の髪の毛は、そのまま伸びることをやめた。
「おねえちゃん」
畳の部屋にカメを置き去りにして、夏虫は薄柿の姿を探す。カメの食べ残した髪の毛が、ところどころにバラバラと落ちている。薄柿の姿は見えない。
外に出ようと玄関へ向かうと、サンダルが消えていた。髪の毛に流されてしまったのかな、と夏虫は思う。夏虫は、裸足のまま外に出る。地面を足の指できゅっと踏みしめてから、あれれ、と思う。朝焼けだと思っていたのは、夕焼けだった。夏虫は、家を振り返る。中に取って返すと、畳の部屋にはカメがじっとうずくまっていた。夏虫は、カメの隣に、ちょこんと座りこむ。自分よりも大きくなってしまった甲羅を見上げ、乾いた甲羅をさすさすと撫でると、カメは、んふう、と鼻から息を吐き出した。鼻の下が伸びている。甲羅の中から、色とりどりのシュシュが転がり出てきて、夏虫も思わず、ふひ、と鼻を鳴らした。
甲羅の中の暗闇に、チラチラと光るビーズが見えたような気がした。しかし、夏虫は気づかないふりをする。
「おかえり」
夏虫が言う。夕暮れが終わる。
○
かし、かし、と、カメは農道のアスファルトを踏みしめる。夏虫は、その甲羅のてっぺんにうつぶせになり、うとうとと微睡んでいた。
夏を少しだけ残した、ほんのりと暖かい秋の日差しで、カメの甲羅もいい塩梅にぬくもっている。夏には生い茂っていた草はどこへ消えたのか、今は濃淡さまざまな色のコスモスが咲き乱れ、農道はそれだけで明るい。
夏虫と薄柿は、誰かを待っていた。いつも誰かを待っていた。微睡みの中、その感覚だけがよみがえり、夏虫はどきりとする。
甲羅の上で起き上がり、カメが進む方向とは逆の方に身体を向け、夏虫は座り直した。ゆるやかに細くなるアスファルトの、遠ざかる向こうを見つめ、夏虫は自分の中身がからっぽだということを意識する。空腹も疲労も知らない夏虫の、空洞な身体。
色の薄い空を見上げた。心なしか、空は少し高くなったように思える。
なんにもないんだなあ、と夏虫は思う。
自分もそうなのかもしれない。なにもない。なにもないから、夏虫の中には、なにかが溜まったりするのだろうか。
時折吹くひんやりとした風を受け、夏虫は目を閉じ、コスモスの揺れる音を聞く。そうしていると、裸足の足元から、じりじりと音もなく迫ってくる見えない存在に飲み込まれてしまいそうな感覚に陥る。しびび、と鳥肌が立ち、夏虫はぶるりと震えた。
びゅっ、と強く風が吹き、夏虫は目を開く。シュシュでまとめた髪の毛が、もって行かれそうになる。夏虫は自分の髪ごとシュシュをぐっとつかむ。台風がくるのだ、と夏虫は思う。んふう。カメが夏虫をあやすように鼻を鳴らす。
カメといっしょに夕暮れを通り抜け、夏虫は、家じゅうの戸締りをしてまわった。
台風を家の中に入れてはいけない。
ガタガタと音を立てる窓を見ながら、夏虫はカメの甲羅に寄りかかっている。カメは頭や足を甲羅の中にしまって、じっとしている。
小学校は大丈夫だろうか。夏虫は思う。
あそこのあの教室の、あの机の中には薄柿のノートがある。ノートは、台風に耐えてくれるだろうか。ノートに書いてある薄柿の言葉は、ちゃんと残っているだろうか。夏虫は、くたくたのパンダの青い表紙を思い出す。
がんっ、と窓になにかがぶつかった。夏虫は、暗い窓の外を凝視する。がんっ。また音がする。カメが甲羅から顔を出した。夏虫は、その首にしがみつく。
がんっ、がんっ、がんっ、がんっ。
窓に次々にぶつかっているのは、肌色のなにかだった。どうやらそれは、人形のようだ、と夏虫の目にはうつる。
がんっ、がんっ、がんっ。
窓に、次々にあたっては肌色は跳ね返って落ちる。夏虫は、それをじっと見つめていた。動けなかった。動いたら、声を出したら、もっとひどいことになる。どうしてだか、そう思ったのだ。
カメが、夏虫の黒々とした髪に頬ずりをする。夏虫とカメは寄り添って、台風が去るのをただ待っていた。
台風が去ると、途端に外が明るくなる。あんなに強かった風も、やさしいものに姿を変える。ごめんね、ごめんね、と、てのひらを返したような風が吹く。
外に出てみた夏虫は、家の周囲を埋め尽くす肌色を見て、ぎょっとした。
裸の赤ちゃん人形だった。ごろごろと転がっている赤ちゃん人形たちは、一様にそのまつ毛の長いまぶたを閉じている。
躊躇いはあったものの、夏虫は赤ちゃん人形に手を伸ばす。かき分けなければ進めない。
ひとつを抱き上げると、赤ちゃん人形は閉じていた目をカッと開いた。夏虫は、驚いて手を離す。それは地面に落ちて他の赤ちゃん人形にぶつかった。首が、ぱかん、と取れて転がった。
夏虫は、首のなくなった赤ちゃん人形を、再び抱き上げる。腹がつるんと滑らかに、子どもらしく膨らんでいる。臍の部分は、遠慮がちに窪んでいた。夏虫は、カメのこんもりとした甲羅を思う。そんなふうに、赤ちゃん人形の腹は幸せそうな形をしていた。
それなのに、取れた首の部分に開いた穴、そこから覗きこんだ赤ちゃん人形の身体の中は、からっぽだった。そこには、なにもなかった。
ぞわわわ、と背中を、まるで足のたくさんある虫が這い上ったみたいに寒気が走る。
夏虫は、赤ちゃん人形の身体をぽいと投げ捨て、また別の赤ちゃん人形を抱き上げる。次々に抱き上げ、首をもぎ取って、穴から赤ちゃん人形の中を覗いてみる。
どれもこれも、からっぽだった。中には、なにも入っていないのだ。
夏虫は、なにかに憑かれたように赤ちゃん人形の首をパキパキともぎながら、その中をざくざくと進んで行った。
なにもない。なにもない。からっぽだ。
そのことを確認しながら、夏虫は進む。
いつの間にか夏虫は農道に出ていた。台風のせいで、コスモスたちは軒並み倒れいる。乱暴な風に踏みつぶされたのだ、と夏虫は思う。きっとコスモスたちは、風に煽られて暴れたにちがいない。じっとしてさえいれば、ここまでひどいことにはならなかったかもしれないのに。夏虫は同情を覚えた。
倒れたコスモスたちの中にも、赤ちゃん人形は這うようにして転がっている。夏虫は、その人形たちの首も、順番にもいでまわった。
しかし、そのどれもがからっぽで、中にはなにもないのだった。
夏虫は、ぷるぷると震えて、その場にへたり込んだ。
これは、あたしだ。夏虫は思う。これは、あたしなんだ。
からっぽの自分の身体の奥底から、ごうっ、と、ものすごい勢いで飛び出た言葉にならない叫び声が、ぴかぴかに晴れた空へと吸い込まれていった。夏虫の周りには、赤ちゃん人形の切り離された首と身体が無数にころがっており、風に吹かれては、かたかたと音を立てている。
農道のアスファルトの上で、夏虫は横たわっていた。辺り一面にあふれかえっている、たくさんの赤ちゃん人形に埋もれるようにして、夏虫は身体を小さくまるめる。
消えてしまいたい、と思う。最初からなにもないのだから、消えてしまってもなにも変わらないんだ、と夏虫は思った。
――あんたさえいなければ。
懐かしい誰かの声が降ってくる。
――あんたさえいなければ。あたしは、もっと。
あたしなんか、と夏虫は思う。
あたしなんか、消えてしまえばいいんだ。誰かの言葉どおり、その言葉の力のとおり、どうして、あたしは消えてしまえないのだろう。
時間が経つにつれ風が冷たくなってきて、夏虫は身体を起こす。消えてしまいたいと思いながらも、寒さが堪える。
「おねえちゃん」
はっとしたように呟いて、夏虫は裸足で踏み出した。そのまま小学校まで駆けて行く。
走っているうちに、夏虫の髪の毛からシュシュがするりと抜けて、後ろに落ちた。夏虫は気づかず、周りの景色に目もくれず、ただ走る。髪は、どんどん伸びて、夏虫の後ろに真っ黒な道を作っている。それに巻き込まれた赤ちゃん人形たちが、時折、黒々とした隙間から顔を覗かせて、カッと目を見開いたり、パタンと閉じたりを繰り返している。
はっ、はっ、と自分の息づかいを感じながら、夏虫は小学校の廊下をひたひたと走る。疲労は感じなかった。
教室に飛び込んですぐ、夏虫は仰向けに倒れた。後ろから引っ張られたのだ。それが伸びてしまった自分の髪の毛のせいだと気づき、夏虫は泣きたくなった。シュシュをなくしてしまったことが悲しかった。
ざわっ、と髪が伸びている。しゅるしゅると伸びて、夏虫の身体に、生き物のように絡みついてくる。とても自分の一部とは思えなかった。
わたしは、いもうとのかみがすきでした。
夏虫は、心の中で唱えた。薄柿の言葉は強い。薄柿がそれを放棄してもなお、夏虫をとらえ、護っている。その言葉に縋って、夏虫は自分を奮い立たせる。
夏虫は、ずるずると髪の毛を引きずり、這うようにして窓際の机に向かう。気持ちだけが、妙に焦っていた。
机の中を覗くと、ノートはちゃんとあった。
夏虫は、ノートを取り出し、パンダの表紙を確認すると、それを胸に抱えこんだ。抱えこんで、そのまま身体を縮こまらせ、まるくなる。髪は、どんどん伸びて夏虫の姿をくるむ。髪の毛の間で、赤ちゃん人形たちが、かたかたと鳴る。
夏虫は、静かに息を止める。自分もきっと、人形なのだと息を止める。
○
黒々とした髪の毛にくるまれて、夏虫は眠る。夏虫をぐるぐると覆った髪の毛は、まるで真っ黒なさなぎのようだった。
眠っている間に春がくればいいのに。そうしたら、誰もいない教室の窓から、また涙を流しながら桜を見よう。夏虫は薄れていく思考の端っこで、そんなことを思っていた。しかし、むき出しの肌をびしびしと裂くような寒さを感じて、半ば強制的に目を覚ましてしまう。
夏虫をぐるぐる巻きにしていた髪の毛は、いつの間にか取り払われていた。視界は、白花色の空に占領されている。
夏虫は雪に埋もれ、小学校の運動場の真ん中にいた。白花色の空からは、雪がどんどん降ってきていた。見続けていると降っているのか昇っているのか、わからなくなる。くらくらと眩暈にも似た感覚に、吸い込まれてしまいそうだ、と夏虫は思う。
息を吐き出すと、ふわんと白く染まった。秋が終わり、冬になったのだ。
ず、ず、と夏虫の身体が頭の方へ動く。自分の身体が引きずられていることに気づいた夏虫は、顔を上げようとした。しかし、進行方向に逆らってしまったらしく、うまくいかない。白い息を吐き出しながらじたばたと暴れると、引きずられていた動きが止まる。今度はなんの抵抗もなく上半身を起こすことができた。
カメと目が合う。カメは、咥えていた夏虫の髪の毛をぽとりと雪の上に落とした。夏虫の顔に、雪で湿った髪の毛が、ぺたん、とかかった。その瞬間、しゅるるるる、と夏虫の髪の毛は伸び始め、夏虫は、自分がシュシュをなくしたことを思い出す。
どうしよう、と思っていると、カメの甲羅の中から、ぽろんとシュシュが転がり出てきた。薄柿がたくさんつくった、夏虫のためのシュシュだ。
ぽろぽろと次から次へと転がり出てくる、色とりどりのシュシュの中から、夏虫は気に入りをひとつ選び、自分の髪をまとめた。
辺りを見渡して、真っ白に積もった雪に、夏虫は薄柿の髪の色を思い出す。思い出すと、からっぽの身体が、少しだけあたたかくなった。
夏虫は、自分が抱えていたはずのパンダの表紙のノートを探す。
夏虫の周りには、カメが食い散らかしたのだろう黒々とした髪の毛と、首の取れた無数の赤ちゃん人形と、先ほどカメがくれたシュシュが転がっているだけで、ノートはどこにも見当たらない。
焦った夏虫は、雪を掘り返すようにノートを探す。冷たい雪に手を突っこんで、漕ぐように進む。すぐに手の感覚がなくなった。
あのノートがないと、本当になにもなくなってしまう。夏虫は焦る。自分のことを好きだと言ってくれる言葉は、自分を肯定してくれる言葉は、もうあのノートの中にしかないのに。
わたしは、いもうとのかみがすきでした。
わたしは、いもうとのかみがすきでした。
わたしは、いもうとのかみがすきでした。
心の中で呪文のように唱えながら、夏虫は必死だった。しかし、感覚のない手にぶつかってくるのは肌色の赤ちゃん人形くらいのものだった。
ノートは、なくなってしまった。あんなにしっかりと抱きしめていたのに、こんなにもあっさりと消えてしまった。夏虫の視界が、くらくらと揺れる。
もしかしたら、最初から、そんなノートはなかったのかもしれなかった。
からっぽの赤ちゃん人形を見つめ、夏虫は、ぽとんと涙をこぼす。白い雪に、小さくて深い穴ができる。ぽとん、ぽとん、と穴は増えていく。このからっぽの身体のどこから、この涙はあふれてくるのか。夏虫にはわからない。からっぽの自分からあふれる涙が、積もった雪に深い空洞をつくっている。
夏虫は、雪に開いた穴を、感覚のなくなった手で、ぐしゃりとつぶした。
ただ、夏虫は埋めたかった。からっぽな自分の中に詰めこめるなにかを、夏虫は欲した。そのためのノートだったのだ。
ひゅうひゅうと咽喉が鳴る。冷たくなった鼻の奥が、沁みるように痛い。
夏虫は、手近にあった赤ちゃん人形の胴体を強張った手でなんとか掴み、その中に雪を詰める。押しこむたびに、ぎゅ、ぎゅ、と雪が鳴る。からっぽな身体を、真っ白な雪で埋めていく。胴体からもぎ取った頭にも雪を詰める。夏虫は、黙々と作業を続ける。夏虫の手は、真っ赤になっている。カメは、そんな夏虫をじっと見ていた。ぎゅ、ぎゅ、という雪の音だけが夏虫の耳に届く。カメの頭に積もった白い雪は、まるで白い髪の毛のようだった。
赤ちゃん人形を放り出し、夏虫は、自分も雪を飲みこむ。積もった雪を感覚を失った手でごわごわと掴み、口に押しこんでいく。次から次へと押しこんで、夏虫は泣いた。頬を伝う涙だけが、あたたかい。かなしいのかどうかもわからない。しかし、涙は止まらない。どこから出てくるのか、止まらないのだ。
雪を押しこんで、飲みこんで、詰めこんで、夏虫は、自分の中のからっぽを埋める。
うっうっと嗚咽をもらしながら、夏虫は雪を飲みこみ続ける。
キーンコーンカーンコーン。
ひび割れたチャイムが響く。
その音を聞いた夏虫は、わっと声を上げた。声を上げて泣いた。
――どうして泣くの。どうして静かにできないの。どうして言うことを聞いてくれないの。
誰かの声が降ってきた。懐かしくて大好きな声。
――うるさいうるさいうるさいうるさい!
しかし、夏虫には泣くことしかできなかった。なにもできなかった。夏虫を否定する、懐かしくて愛おしい声に、なんの言葉もかけられなかった。あのころの夏虫は小さくて、言葉を持っていなかった。真新しい身体のどこにも、そんな言葉を持っていなかった。ただ、髪の毛だけがずるずると無駄に伸びていたのだ。身体よりも、なによりも、髪の毛だけが、どんどん伸びていったのだ。黒々とした髪の毛と、空腹と疲労だけが、ぺったりと横たわった夏虫のからっぽの身体を覆っていた。真新しい身体は、真新しいまま、古くなった。
雪で埋めても、変わらない。あたしは、あのころと変わらない。雪はいつかとけて、あたしはまたからっぽになる。それでも、髪の毛だけは伸びるのだ。
――うそよ。うそ、うそ。ちがうの。ごめんね。
誰かの声は、降ってくる。
――ごめんね。ごめんね。ごめんね。
懐かしくて愛しくて、そして、とっても憎らしい。
夏虫は泣くのをやめた。鼻をすすって立ち上がる。傍らには、カメがいてくれる。苦瓜のようにぼこぼこした頼もしい足に、夏虫はふれる。
「おねえちゃん」
夏虫は呟く。んふう。カメは息を吐き出すように笑った。鼻の下が伸びる。夏虫は、カメのとんがったかたい口先を指でなぞる。
この口から、言葉が紡がれることはもう二度とない。それは、とても寂しいことだと、夏虫は思う。
からっぽな自分を埋めることができる言葉を、夏虫は探していた。しかし、そんなものは最初からなかったのかもしれなかった。
夏虫は、赤ちゃん人形を一体拾い上げ、カメの甲羅によじ登る。人形を胸に抱き、あやすようにそれを揺すった。溶けた雪が、人形の首の穴から流れ出て、カメの甲羅にぽたぽたと落ちた。
カメは、ゆっくりと歩き出す。夏虫を甲羅の上に乗せ、幸せそうな太い曲線を描く足で、一歩一歩確実に、夕暮れに向かって歩き出す。のんびりと歩いて農道を通り過ぎ、そして、ふたりきりで、ただいまとおかえりを繰り返す。何度も何度も、繰り返す。
雪は、降り続いている。ひび割れたチャイムが鳴り響き、一面の白に吸い込まれていく。
どこからも、なにからも忘れられたふたりは、風景の中に白くとけこんでいった。
了
ありがとうございました。