プルタブ
「あっつ……」
私は重い荷物で悲鳴を上げる肩を軽く回して解しながら深く息を吐いた。
首のストレッチついでに辺りを見渡す。
何処を見ても木、木、木。ざっくり言うと森だ。深い緑の中。腰まである高い草が無駄に体力を奪う。季節は夏、夏も真夏と言ったクソ熱い時期だが、構わず全身分厚い長袖の上着と作業ズボン、頭にはタオルを巻き、帽子に軍手としっかりと装備を整えている。この日のためにわざわざ新調した全身装備だったが、今ではピカピカだった布地は見る影も無く、飛び散った汁の跡がこびり付き青臭い匂いを充満させている。
額からぶわっと吹き出した汗がこめかみを伝って顎まで垂れる。ぽたりと垂れる音は雑草をかき分ける音と、忙しなくなり続ける蝉のプロポーズにかき消された。
リュックの肩ひもが食い込んで痛い肩を少しずつ負荷のかかる点をずらしながら痛みをごまかす。
重いカバンの中に水や食料は一応三日分ほどはある。野宿の用意もあるが、流石にここまで山の奥だともし道を間違えてしまったらと考えてぞっとする。スマートフォンの電波はとうの昔に圏外になっている。充電を節約するために電源も落としていた。どちらにせよ、何の成果もなしには帰れない。帰るつもりはない。
◇■◇
「は?私が……クビ?」
このセリフ。最近よくどこかで聞いたような気がする。まさか私がこんなセリフを言う時が来るなんて、思いもしなかった。
私は長年勇者パーティのために貢献してきた目立たないサポート役――ではなく、ちょっとした無名の大学の冴えない学生である。
専攻は民俗学。ゼミの研究で研究成果をまとめる必要があったのだが――
正直言って私は、誰が書いたって同じ内容のそこら辺に転がっていて簡単に手に入るような情報をまとめた論文なんて書きたくはない。そうやって駄々をこねていたら一緒にグループを組んでいたゼミ生から追放されてしまった……
ので、一人で気ままに田舎でスローライフを送ることに――もとい、フィールドワークに勤しむことにした。
たまたま見つけた古い文献の地図にも載ってない村。ネットで調べてみる分には、関係する論文などもない。今は廃村になっていてもおかしくないが、きっと当時の生活の名残が何かしら残っている筈。
この一発に賭ける!私はその心意気で大学を後にしたのだが。
◇■◇
「行けども行けども森、木、林。あとたまに虫。ほんとにこんなところに村なんてあるの――」
言いかけた時だった。ふと、前方の茂みに気が付く。腰まである高い草。その一部分が、刈り取られて道ができている。明らかに人の手で開拓された道だ。
道。ちょうど私の方から見て右と左、横一直線に道が通っている。
ごくりと唾を飲む。額からから垂れた汗が目に入り、染みたが目を細めて耐えた。
「ははっ!やった!これは明らかに人工的な道だ!人がいるのは間違いない!どこだ、どこが人里だ?」
道に出てあたりを見渡す。特に村らしきものは見つからないが、少なくともこの道を辿っていればどこかには着くだろう。
そして私は、山奥へ向かう左の方を選んだ。
道を踏みしめて歩く。腰まであった草が無いだけでも歩きやすさはかなり変わった。
それに、何も分からない道を歩くよりも足取りはかなり違う。
スキップすら混ざっていた。
一時間ほど歩いた頃。
太陽は少しばかり控えめになり、大地の果てからちょこんと半分だけ顔を出してこちらを眺めていた。風も涼しくなり始め、蝉時雨もスタッフロールに差し掛かる。
そんな中。一つの家屋を見つけた。
道の途中にぽつんと一つある未知の家屋。トタン屋根は風化しぼろぼろ、時代を感じさせる古い木造建築に出入り自由な窓、戸。崩れていないのが不思議なくらいボロボロの家屋だった。
「お邪魔します……」
一応一声かけてから倒れて引き戸の意味をなしていない引き戸を跨いで入り口を通る。
もはや室内とも呼べないような室内に入って、私は中にあるものを一通り物色した。
剥がれまくって寝心地の悪そうな畳。穴ぼこだらけで床下が見える床板。恐らく元は障子が貼ってあったであろう戸。それにこれは――囲炉裏?だがそこには灰と埃まみれのそれっぽい空間があるだけだ。
乾燥しきった蜘蛛の巣が張った屋内は、長い年月そのまま放置されていたことを感じさせる。
畳の上に割れた茶碗や折れた箸が複数転がっていた。畳の上に座るのはあまりよろしくない。
「というかこれくらいボロボロならもう野宿とさほど変わらないしなあ……」
日は落ちてきている。まだ暁色の空で視界は悪くはないが、そろそろ寝床を決めても悪くない時間だ。
この屋内なら多少の雨風は防げるかもしれない。……いやむしろ、雨風が吹けば倒壊するかもしれない。不安になった私はこの家を出ることにした。
入った時と同じように戸を跨いで外に出る。振り返って、お邪魔しましたと家屋に向かって深々とお辞儀をした時。
「ねえ」
声が聞こえた。背後から不意に。幼い少女の声。
心臓が跳ねた。
「キャアアアアー!!!!」
「わあ!」
私の大声に驚いたのか、背後からも驚いた声が出た。
振り返ると、そこにはダサい英語のロゴが入った大きなシャツを着た少女が尻もちを着いて座っていた。
「急に大声出さないでよ」
少女は口の形をへの字に曲げながら文句を言った。
「ご、ごめん!誰もいないと思っていたから……」
慌てて少女に近寄り手を差し出す。少女は手を両手で掴むと、小さくよいしょと言いながら体を起こす。……念のため彼女の足元をじっくりと見てみると、ちゃんと足がついていた。
肩口まで伸びた黒い髪に、ダサいシャツ、動きやすそうな短パンに膝小僧には擦りむいたのか、複数の絆創膏がくっついている。
それに、握った手も別に冷たくは無かった。
「あなたはだあれ?」
少女が言った。純粋無垢な疑問。こんな時間に人気のないところで見かけた大人の人を悪い人だと思っていない声だった。
「そうだなぁ……私は迷子かな。」
「迷子なの?どこから来たの?」
「山の下の方からだよ。ここよりもずっと下の方。」
そっか。と少女はつぶやいた。答えを聞いて納得した少女はただ頷くとじっと私を見つめ続けた。もう何も言う事はないという事だろうか。
じっと目を合わせてくる少女に対して、私はいくつかの質問をすることにした。
「ねえ。君のほかにも人はいるかい?」
「うん。いるよ。村があるの、あっちの方。」
少女はあっち、とさらに山奥の方を指さした。そこに、まだ道は続いている。
「良かったら案内してくれないかな。私、実はこの辺りの村の事を調べに来たんだ。」
うん、いいよと少女は快く引き受けると奥へ向かって歩き始めた。私も連なって彼女の少し後ろから続く。
「村のことが知りたいの?」
少女が尋ねる。丸くくりくりした目が興味津々と言った様子で言葉よりも雄弁に語っている。
「うん。そうなんだ。よかったら教えてほしいな。それに君の事も教えてほしい。」
少女は頷くと、自己紹介を始めた。
「わたしは陽子。太陽のような子って書くんだって。としは九才。誕生日は八月四日。好きなものはぷるたぶ。嫌いなものはむかで。」
ぷるたぶ?イントネーションが微妙に妙だった為聞き返してしまった。少女は私がプルタブを知らないと思ったようで、聞き返された直後にすぐにごそごそと短パンのポケットを漁り始めた。
「そう、ぷるたぶ。……これ。」
少女が取り出したそれは確かにプルタブだった。缶についている、蓋を開けるためのアレだ。これが好きなもののようだ。
まあでも言われてみれば確かに、子供ってペットボトルの蓋とかプルタブとか好きだよなぁと妙に納得した。
少女は一つ取り出したのを皮切りに次々とポケットから取り出していった。右手でポケットから取り出し、左手に重ね乗せる。そして小さな小山を積み重ねていった。数十個は取り出した時、流石にそろそろ少女の小さくて綺麗な左手から溢れ落ちそうになったので
「も、もういいよ!いっぱい持ってるんだね」
と声を掛けて納得してもらった。少女はにっこり笑って自身の宝物を私に見せる形で自慢げに両手に広げた。
「いっぱい集めたんだ。何ヶ月も何年も集めて。ここにあるのはまだちょっとだけど、おうちに帰るともっといっぱいあるんだよ?」
両目をキラキラさせながらプルタブを見つめる少女。その姿に知らず知らずのうちに私と重なる部分を感じていた。
そういえば、私もそういう時期があったような気がする。物はプルタブではなかったかもしれないけど、何かを必死に集めていたような。それは本だったり、物だったりしたかもしれない。
少女は両手に沢山持ったプルタブを仕舞った。そして私の方を見ると照れ臭そうにしながら一つの青いプルタブを取り出す。
「あげる」
少女の顔色を伺う。少女の表情は、不安と緊張で染まっていた。だが、私の目を逸らさずに見つめてくる。
いいの?と私が問いかけると、少女は軽く頷いて私の返答を待った。
「ありがとう、陽子ちゃん。大切にするね。」
私の返事にご満悦だったようで、少女は満足げに頷くと口を横に広げて笑った。
「ふふ、それね。一番レアなやつなの。青いプルタブ、珍しい。」
確かに、プルタブは普通銀色のものだ。青といえばモ○スターくらいしかないだろう。
それから、少女と私の会話は尽きる事なく続いた。日が暮れて、村に着くまでずっと飽きる事なく話し続けていた。
◇■◇
「本当に良いんですか?宿まで借してもらって」
村長だと名乗る老人に会う頃には、空はとっぷり暮れていた。
結論から言うと、村には着いた。約六、七件程の家屋が寄り集まって出来たような小さな集落だ。
その中でも他より大きな家に住む一人の年老いた男性が村長だと名乗った。
そして陽子はどうやら村長の孫娘らしく、その家で二人で暮らしているようだ。
「いいんじゃいいんじゃ。陽子はのう、幼い頃に両親を亡くしてしまってな。この村には陽子と同じ年代の子供もいなくての、寂しい思いをさせてしまった。」
ご老公は優しい眼差しで陽子を眺めて、近くにいた彼女の頭を撫でた。陽子はただ黙って頭を撫でられていたが、口に出さなくても嬉しそうな様子がよく伝わってくる。
「宜しければ、面倒をみてやってくだせえ。滞在中の宿も食事も用意しますだ。何もない村だが、客人をもてなす多少の用意くらいはありますゆえ。」
村長の厚意をありがたく受け取り、今晩は村長宅の空き部屋にて宿泊することにした。
外観は古かったが、中は意外にも綺麗に手入れが行き届いており、電気も届いているようだ。古い電球の薄い光が室内を照らしている。
「あ、そういえば。」
私はふと、自身の荷物のことを思い出した。重い荷物の中にはビデオカメラが入っている。海外の秘境の異名を持つショッピングサイトで買ったボールペン型のカメラだ。
私はそれを胸ポケットに入れて録画を開始した。村長らには申し訳ないが、この体験は映像として残しておきたい。閉鎖的な暮らしをしている村人が人目に触れたり映像記録として残されることを好むわけがないと思っているので(偏見だが)勝手に盗撮させてもらうことにした。
「なにしてるの?」
不意に背後からかけられた声にびっくりしたが、なんてことはないただの陽子だった。
「いや、荷物を確認していただけだよ。もう終わったから大丈夫。」
ふうん、と納得した様子の陽子を見ながら内心罪悪感に包まれ心の中で小さくごめんと謝った。
◇■◇
それから、村長には晩飯を用意してもらった。出てきたものは、秘境ならではの珍しいメニュー……ではなく、以外にもカレーであった。
「陽子が好きでのう。それに子供は皆喜んで食べてくれる」
村長の言い分になるほどと納得してしまったが、どうせならこの地ならではの食事とか見てみたかった、とか多少は思った私であった。
食事の後は村長からこの村の事やこの周辺にまつわる話を色々と聞いた。
流石人里離れた山奥の村と言うだけあって興味深い話がざくざく出てくる。聞いたこともない民謡、教訓話、伝説。それらを聞いているうちに気付けば陽子が寝入ってしまった。私は胡坐をかいた膝の上にもたれかかって寝てしまった陽子の頭を撫でながら、一つ、大きく好奇心を惹かれた話題を村長に振ることにした。
「あの、『オンキ』についてもう一度詳しく伺ってもよろしいですか?」
ああ、と村長は唸るような返事を返すと一息入れてぽつりぽつりと話始める。
「『オンキ』――この村にまつわる最も忌まわしい話ですじゃ。
昔昔、『オンキ』と呼ばれる人間がおった。その頃のこの村はのう、今よりもずっと盛んで栄えておった。私も今ではすっかりおじいさんだが、この私が生まれるよりもずっとずぅーっと前の話じゃ。」
村長は茶をすすって一息入れる。そして、少し何もない天井を見上げると、おぼろげな記憶を頼りに話を思い出しているかのように長く考え込みながらゆっくりと話し始めた。
「『オンキ』はのう、よそ者でこの村の生まれではなかった。というかむしろ、彼は海外の出身じゃったのだろう。背はここらの家屋よりも高く、恵まれた筋骨隆々の体。大木を引っこ抜くほどの怪力。最初は皆、怪力を有難く思って畑仕事などを手伝ってもらっていた。しかし―
彼はちょっとした事故で、家畜の首を折って殺してしまったんじゃ。本当にただの事故じゃったらしい。急に暴れだした牛から村人を守る為にやった事だったらしいのじゃ。だが、その怪力を村人たちは恐れてしまった。」
老人は今度は俯いて湯呑に目を落とす。正座を組んでその膝の上に置かれて安定している筈の両手が、ふるふると震えていた。
「それから『オンキ』はひどい村八分におうての。住処を追い出され、村で築いた家庭も壊され、何もかもを奪われてしまった。彼は一人ぼっちになってしまったんじゃ。
きっと彼はそれをひどく悲しんだであろうな。ひどく苦しんだであろうな。そして、とってもとっても、村人たちの事を憎く憎く――恨んだのじゃ。
それから『オンキ』は満月が紅くなる晩、やって来るようになった。家畜を食い殺し、村人たちを殺戮する。鬼になってしまったのじゃ。彼がやってくるたびに村人が減り、家屋が倒壊した。今ではもう家屋は数えるほどしかなく、村人も年老いて遂に存続する事が出来なくなってしまった……」
『オンキ』の話をあらかた話し終えた村長はゆっくりと長い溜息を吐くと、私の目を見つめて言った。
「旅の者、おぬしを見込んで頼みがある。どうか、どうか陽子を連れて山を下りてくれはしまいか。彼女はまだ若い。彼女ならこの村の血筋を絶やさずに次の世代に繋げてくれるじゃろう。金や食料は村の全財産として現実的な額がある。わしらはもう先が短い。どうか、どうか陽子だけでも助けてくれぬだろうか……」
村長が言う。彼の目は嘘を言っていない目だった。白髪に染まった頭髪を蓄えた頭を深く下げながら懇願する。
「え……えっとその、『オンキ』っていうのはまだご存命なのですか?」
疑問が浮かぶ。少なくとも村長の話を聞く限り、『オンキ』は人間だと思った。だが、少なくともこの村長よりも年上ならばもう死んでいてもおかしくないはずだ。
「ああ……彼はもう人ではない。人以外の何かになってしまった、と私の祖父が言っておった……」
村長の目から涙が流れる。しわくちゃの頬を伝った涙が地面に落ちた。
「祖父は言っておうた。何度も何度も戯言のように『わしがあの時、ちゃんと『オンキ』をかばってやってれば……かばってやってれば……』と、赤い満月の晩が来るたびに泣きながら呟いておった。その祖父も……」
村長は口をつぐんだ。この先は、言いたくないのだろう。
私は、ただ静かに涙を流す村長を眺めていた。膝で未だにすうすうと寝息を立てている陽子の綺麗な髪を撫でる。
「わかりました。陽子ちゃんは私が責任をもって預かります。」
返事を聞いた村長はまた涙を流しながらありがとう、ありがとうと両手を合わせて何度も感謝を重ねた。
一通り村長の面倒を見た私は、陽子ちゃんをしっかり布団で寝かしてきますという名目でその場を離れた。彼女を背負って部屋に向かう。
「あの……」
背中に乗った少女がしおらしく声をかけた。
いつの間にか目を覚ましていたらしい。
「ごめん。起こしちゃった?」
「ちがう。その……おしっこ」
なるほど。私は陽子を背負ったまま屋外にある厠へ向かった。
屋外に設置された小さな厠で陽子を下ろすと、戸の外で陽子には背を向ける形で彼女が用を足し終えるのを待った。
何の気なしに空を見上げる。
「あ。」
思わず声が出る。今日は満月だったのか。
大きな丸い月が空でキラキラと輝いている。ここの空には月や星以外の輝きが混じらない。
耳を澄ませば優しく合唱を奏でる虫の声と、清らかなせせらぎの音が聞こえる。……厠から。
冗談はさておき、空は本当に綺麗だった。雲が風に吹かれて早く動いている。今日の風は強い。それともこの辺りでは比較的常にこんな強風なのだろうか。
風に吹かれた雲が、綺麗な満月を隠してしまった。今日のお月様は照れ屋だな。
「ここは本当にいいところだ。」
そう思う。風は心地いし、空気もおいしい。水も多分綺麗だ。それなのに。
「『オンキ』……本当にそんな血みどろの伝説がこの村に存在するのかな。とてもそんな風には見えないよ。」
用を足し終えた様子の陽子が厠から出てきた。ゆっくりと厠から出てきて空を見上げてあ。と声を上げる。
今日の空は綺麗だ。でも彼らはいつも見ている空だろうに、それでもそんな風に見惚れるんだなと思いながら彼女の視線につられて空を見上げる。
空ではちょうど、雲に隠されていた満月が顔を出すところだった。
風にあおられた雲が晴れる。
隠されていた満月はその身を現し、爛々と
赤く光っていた。それはまるで血のように、火のように、赤く、紅く朱く――
「『オンキ』が来る……!『オンキ』が来る……!」
陽子が呟く。そして、森の奥から何かがざわざわと音を立てた。
虫の合唱はいつの間にか鳴りやんでいる。風はすえた匂いを運んでくる。木々は揺れ、真っ赤に染まった月が村を妖しく照らした。
私は急いで陽子を担ぐと村長宅の中に入る。
室内に入ると、村長は今で蹲って大声で泣いていた。
「どうしてっ!どおして!!今日は違う!今日は違うじゃないかあッ!!」
「村長さん!村長さん!しっかりしてください!」
村長は私の声に一切の反応を示さずにただ大声で泣き叫んでいた。私は、担ぎ上げた陽子を一旦下ろして、村長の脇から手を入れ持ち上げる。
周りを見渡す。どこか、どこか隠れる場所はないか。幸い、近くに押入れがあったのでそこに村長を押し込んだ。少し乱暴だった気もしたが、命よりは安いだろう。
村長を押し込んだ後、今に戻ると陽子が私を待っていた様子で立ち上がっていた。
「こっち」
陽子が私の手を引く。汗ばんだ手から熱が伝わってくる。陽子は隠れる場所が最初から決まっているかのように一直線に走った。
場所的には、村長を押し込んだ押入れの対角線上。巨大な壺の置物。蓋を開けると二人はいる分のスペースは十分にあった。底には、陽子が集めた物と思われる大量のプルタブが詰まっていた。
「もしかしてこれって陽子ちゃんの宝物入れ?」
陽子は頷くと壺の中に足を踏み入れる。底に入ったプルタブがガチャリと鳴った。
「ここに入るの?」
陽子は再び頷いて私を招き入れる。
私が壺に入ったのを確認すると陽子は蓋を持ち上げて閉めた。
「これ。握って。」
陽子がそういいながら差し出したのはピンク色のお守りだった。
「これは……?」
「これは……私の大切なお守り。今まで私をずっと守っててくれた。」
お守りには何事か分からない文字が書かれていた。私は陽子の言う通りにそのお守りを右手で握る。
ふと、壺にはデザインの一部として穴が開いていることに気が付いた。そこから外の様子を伺える。私はその穴に顔を近づけて息を殺した。
それを見計らったかのようなタイミングで、居間の壁が吹っ飛んだ。
壁を破って入ってきたのは、影。
影……としか言いようが無かった。それは全身真っ黒で、二メートルをゆうに超える背丈の化け物。手は太く、膝くらいまで伸びて長い。足も、まるで切り株が二対あってそれが歩いているみたいに大きかった。
あの手で掴まれたら、あの足で踏まれたら――
お守りを握った私の右手には知らず知らずのうちに力が入っていた。
影は辺りをきょろきょろと見回すと、押入れに向かって真っすぐに歩く。
そして、勢いよく扉を開け放った。当然、中には怯えながら頭を抱えた村長が居る。
――どうして迷わずにそこにいるって分かったの!声には出さずに心の中で叫ぶ。
「い、いいいやだ!死にたくない!死にたくない!!ぎゃあああああああ!!」
村長の悲鳴が響き渡る。影は泣き叫ぶ村長の頭をまるでバスケットボールでも掴むようにがっしり掴むと、頭の肉ごと頭蓋骨から引き剥がした。
「が、あああああああああ!!」
泣き叫ぶ村長に構うことなく、今度は皺だらけの頬を掴む。そして、力いっぱい引き裂く。
村長の悲鳴。肉と皮が引っ張られ裂ける音。腱や筋肉、皮などで一掴みでも柔らかさが違う部位がある。それらが一斉に異なる音を奏で、不快な湿っぽい音が居間に響き渡った。
悲鳴はやがて聞こえなくなった。
肉を引き裂く音は鳴りやまない。
満足するまで体を引き裂いた『オンキ』は、ぴちゃぴちゃと下品な音を立てて村長だったモノを漁り始めた。租借音。村長の肉を、食べている。骨を割って、小さくするとまるで飴玉でもかみ砕くように骨まで貪りつくす。内臓も余すことなく噛んで飲み下し、小さくなりすぎて扱いに困るような臓器はその辺りに放り散らかしていた。
血の匂い。不快なにおい。音。
汗ばんだ右手がガタガタと震えて、連動した壺がカタリと音を立てた。
物音に気付いた『オンキ』が食事の手を止める。
心臓が跳ねた。
何やってんだ私は――焦る思考。『オンキ』に気づかれないように、震えを止めようとしても体はいう事を聞いてくれなかった。
焦る。焦る。手汗でお守りが滑り落ちそうになる。『オンキ』から目を逸らそうとしても彼に釘付けになった視線は外れない。歯の根までがちがちと震え続け、オンキの手がいつ届いてもおかしくない所まで来た時。
右手を、そっと握られた。陽子だ。陽子は私の目を見つめながらにっこりと笑った。お守りの握った手を優しく包み込まれる。
だ、い、じょ、う、ぶ。声を出さずにゆっくりと口の動きだけで伝える。
私の体の震えは止まった。
でももう『オンキ』がすぐそこまで来ている。私は目を閉じた。もうどうなってもいい。ごめん村長、
陽子を守れなかった。ごめん陽子、私のせいで見つかっちゃった。心の中で謝りながら強く目を閉じた。
そして、蓋が開けられるのを待った。一分、二分、十分。それよりも長く待っただろうか。心臓はどくどくと早鐘を打ち、汗でじっとりと湿った服が張り付き気持ち悪い。獣のような呼吸を感じ、腐った肉と血の匂いが混じる。
待った。どのくらい待っただろうか。結局蓋が開けられる事は無かった。恐る恐る目を開けてみても壺の中は私と陽子がお守りを握って縮こまっているだけで変化は無い。
――どっか行っちゃった?
不安に思いつつ壺の中から外の様子を確認しようと、穴を覗き込んだ。
穴の向こうは真っ暗で何も見えない。
もっとよく見ようと、穴に顔を近づけた。何も見えない。
穴の向こうにはただただ、暗く、真っ暗でまるで闇のような空間があるだけ。
そして、気が付いた。
この闇は、『オンキ』が向こう側からこちらを覗いているのだと。
◇■◇
それから私は気を失っていたみたいで、気が付いたときには大学の保健室で寝ていた。
どうやら私は大学の前で倒れていたらしい。右手にはピンク色のお守りを強く握りしめたまま。
そこを学生の一人が発見したらしく保健室に運び込まれた、といった感じで。保健室で目を覚ました時、私の周りには私を追放したはずのゼミ仲間たちが居て私を心配そうに見守っていた。彼らは自分たちのせいで私が無茶をしたのだと思い、反省しているらしい。別に頼んでもいないのに謝ってくれた。
「な、なあ俺が奢るから食堂に行こう。お前まるで何日も食べていないみたいだ。」
仲間の一人がそう言った。おかげで私は、自分が今、ひどいクマを刻んでいて、頬はこけ、なぜか腹だけが異様に膨らんでいることに気が付いた。
私が目を覚ましたことに気が付いた保健室の先生が、救急車を呼ぼうか悩んでいたところだったと言ったので、その心配はないと言っておいた。外傷は殆ど無いし、多分ただの疲れだから寝たら治ると言い訳をして。
そしてゼミ生に連れられて食堂に入る。ここの食堂は日替わりで変わるメニューがあり、特に食欲もなく、食べたいものも無かったので日替わり定食にしてもらった。
席に着く。ゼミの仲間が、私のご飯を持ってきてくれた。
今日のメニューは、カレーだった。
その瞬間、色々な思い出がフラッシュバックする。カレー、村長、陽子。
胃の奥がキリキリと痛み、異常な量の唾液が口の中に溜まる。猛烈に気持ち悪くなった私は、たまらずそのカレーの上にこみあげてきたものを吐き出した。
嘔吐と、不快な音と酸っぱい匂いと共にテーブルの上に吐き出されたものは、プルタブだった。
プルタブ。缶とかについているあのプルタブだ。それが、一つや二つじゃない。山のように私の口から飛び出してくる。
「お、おい!救急車呼べ!!」
誰かが叫ぶ。私はその叫び声を遠くに聞きながら、再び吐いた。
次に出てきたのは、白い固形物。それは砕かれた骨だった。骨が、軽い音を立てて食卓の上に転がる。私の口からは尚も異物が出てくる。
ダサいロゴの入った英語のシャツ、白髪、百足の死体、泥。胃液しか出なくなってようやく止まった吐瀉物の上に突っ伏した私の、朦朧とする頭にぼんやりと感情が湧いた。
息が上手くできずに絶え絶えになる言葉を無理やり紡いで独り言を言う。
「ああ、私、陽子ちゃんを連れてこられたんだ。」
◇■◇
後日、それなりに元気になった私は自分の荷物を整理していた。
結局、あそこから持って帰れたのはピンクのお守りと、来ていた服と……
コトリと、机の上にボールペンを置く。
「この、カメラだけ」
そう、このボールペンは向こうでの情報を記録するためのペン型カメラだ。
私はそれをPCに繋いで録画したものを確認した。
最初に出た画面は私の顔どアップで映っている画面。そして、私は、ただ一人で「いや、荷物を確認していただけだよ。もう終わったから大丈夫。」と独り言を言うと立ち上がってカメラを胸にしまった。
「あれ?」
違和感。それはそうだ。私はこの時、陽子ちゃんに声をかけられてこのセリフを言ったはずだ。だが、陽子ちゃんの声はどこにも入っていない。
「……陽子ちゃんの声は拾えていなかったとか?」
私は惚けてみた。そんなはずはないのに。何故なら、映っている画面はもうすでに私の知っている家屋ではなかった。
綺麗にされていると思っていたはずの室内はすっかり荒れ果て、屋根すらなくなっているくらいのボロさだ。部屋なんかない。穴ぼこだらけの風通しのいい壁が所々あるだけだ。
そのあと、私は一人でボロボロの茶碗に泥を詰めて「カレーかぁ……」と小声で不服そうにつぶやいてすすり始めた。
それから、まるで向かいに誰かいるようにふるまいながら相槌を打ち始めた。
そして、何もない空間を撫でながら「陽子ちゃんは私が責任をもって預かります。」と意気込んで一人で何かを背負うような動作をして外に出た。
私の記憶と噛み合っていたのは月が紅くなったところだけ。
それから私は狂ったようにボロボロで倒壊した家とも呼べない家だらけの村を走り回り、大声で笑いながら家を見て回った。
最後に村長の家だったらしきものに近づくと、きょろきょろと辺りを見渡して押入れにまっすぐに進む。
そこには、蹲った形で白骨化した遺体があった。着ている着物からそれが村長だと分かる。
私はそれを掴んだ。まるでバスケットボールみたいに。そして、頭蓋骨を引っ張り割り、食べる。
しばらくそれを食べていると、急に後ろを向いた。
後ろには倒壊した屋根に潰された大きな壺がある。
壺に近づく。そこになにがあるかわかっているみたいに。
すすむ。一歩一歩。ゆっくり。迷わずに。
私は壺の穴を覗き込んだ。
みーーつけた
怖かったですか?
怖かった方はこの下の方くらいにある星が五個ならんでる奴を全部光らせてみてください。
星には魔のものを退ける結界のような力があるので、少しは気が楽になるかもしれません。嘘です