第一話②
抱きしめられながら雨の音が心地よくなってきた頃、ゆっくりと今まで包んでくれた温もりが離れていく。しかし熱くなった大きな手はまだ私の肩を離さなかった。
「大丈夫?怪我とかない?」
心配そうに、私を覗き込む。何故そんなに苦しそうな顔をするのだろうか。
「平気です。腕を捕まれただけで、後は何もされなかったので」
「なら、良かった」
安心したのか、いつもの優しい笑顔を向けられる。
雨に打たれていたせいか、水嶋部長の髪から雫が落ちる。その雫が私の頬に当たり流れ落ちる。
「このままじゃ風邪引いちゃうね。早く帰って暖まった方が良い」
水嶋部長はすぐにタクシーを止め、私の手を引きタクシーへ乗り込む。運転手には自宅方面へ進むよう伝え、細かい場所は近くなったらと伝えた。
私は先ほど捕まれた腕に自分の手を重ねる。あのまま引っ張られていたらどうなっていただろうか。そう思うとまた怖くなってきた。小さく息を吐き、震える手を何とか落ち着かせようとする。
「まだ、怖いでしょ」
私の様子を見ていたのか水嶋部長が問いかける。また、私を覗き込むように問いかける。
「すみません、まだ少し…」
「そうだよね…。1人にするのも心配だから、もし良ければ僕の家来る?あ!もちろん何もしないから安心して!笹原さんが落ち着くまで」
無理強いはしないからと、私の判断に任せてくれた。正直こんな事があって自宅に1人でいるのは怖い。さすがに自宅までは知られていないとは思うが、もしかしたらと考えてしまう。
「ご迷惑じゃ、ないですか?」
「こんな時まで周りの事気にしないの。全然迷惑じゃ無いよ」
すぐに水嶋部長はタクシーの運転手に自分の自宅の場所を伝えた。そこからは10分程でタクシーは止まった。降りるとそこは、高層マンション。慣れた足取りでエントランスへ向かいオートロックの解除をしている水嶋部長を眺めながら1つ疑問があった。私はその疑問を投げかける。
「あの…今更なんですが、水嶋部長って…奥様は…」
「ああ、心配しないで。僕独身なんだ。付き合ってる人もいないし」
驚きと同時にオートロックが解除され扉が開く。また慣れた足取りでエレベーターまで進んでいく。
いや、夫婦の仲を裂くような軽々しい行動は取るべきでは無いと思っていたので、奥様が居ないと知り安心はした。だがそれより、彼女もいないとは。正直こんな素敵な人は世の女子は放っておかないものと思っていた。そっか、付き合ってる人いないのか。
エレベーターが止まり水嶋部長の部屋の前に到着。なんだか緊張してきた。普通に考えて上司の自宅に来るってなかなか無い出来事のような気がする。でも誘い方がなんだか慣れているような。他の人にもこんな風にしていたのだろうか。色々考えてしまう。
水嶋部長は私の気持ちを知ってか知らずか、私を部屋まで上げる。リビングに通されると、必要最低限の家具だけのスッキリとした部屋だった。窓も大きめで、東京の綺麗な夜景が見えた。
「タオル持ってくるから座って待ってて」
そう言うと水嶋部長はリビングを出る。私はゆっくりとソファの端に腰掛けた。妙に心臓がドキドキする。なんでだろう。
いや、上司の家に居るんだ。緊張しない方がおかしいか。
すると水嶋部長が丁寧に畳まれたタオルを2枚持って戻ってきた。その1枚を私に差し出す。
「はい、これで拭いて。今コーヒー入れるね」
「ありがとうございます」
タオルを受け取ると、水嶋部長はキッチンへ移動する。
手際よくコーヒーを淹れ、どうぞとカップを1つ、私の前に置いてくれた。お礼を言い、一口飲む。美味しい。雨で濡れ体が冷えていたせいなのか、それとも水嶋部長が淹れてくれたからなのか。
「さっきはごめんね。急に抱きしめたりしちゃって」
「そんな、全然大丈夫です」
「その、嫌じゃ無かった?」
ずっと私が不快に思っているのではないか、気にしていたのだろう。あまりにも申し訳なさそうな表情をしている。私は思わず笑ってしまった。
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。不思議と嫌な感覚はなかったです」
「良かった…。もう次こそは訴えられちゃうかと思った」
「まさか。あの、遅くなりましたが、助けていただきありがとうございました」
私は持っていたカップをテーブルに置き、頭を下げる。もしあの時1人で帰っていたらと思うと、水嶋部長には感謝しかない。ふと出来事を思い出すと、1つ疑問があった。
「すみません、1つお伺いしても良いですか?」
「ん?」
「会社には報告したって…どういう事ですか?」
男が逃げようとした時、水嶋部長が言い放った言葉。事前に男が来るのを分かっていたような口振りだった。
「僕もそれは話そうと思っていたんだ。お昼過ぎに見たメールあったでしょ?さすがに顧客としての範疇を超えてたから、念の為相手側の会社に連絡したんだ。そうしたら、あの担当者が有給で休みって聞いてね。だから向こうの上司に現状を報告したんだ。もしかしたら今日来るかもと思ってね」
コーヒーを一口飲み、カップをテーブルに置くと水嶋部長は続ける。
「本当は笹原さんに伝えるべきだったんだけど、今以上に心配させたくなくてね。でも結局はすごく怖い思いをさせちゃって、上司として失格だよね」
「だからあの時、絶対に1人で出ちゃダメって……」
「うん。1人のところを狙ってくるだろうとは思ってたからね。僕もなんで携帯忘れるかな…。あの時離れてなければ、ちゃんと守ってあげられたのに」
あれは私が少しくらいならと思って、出てしまったのが悪い。水嶋部長は何も悪くない。
自分の軽率な行動が招いたこと。そもそも取引の段階で私がしっかり対応できていれば今回のことだって起きなかったはず。そう思うと自分が情けなくなってきた。
「間違っても、自分のこと攻めちゃダメだからね。今回の事は100パーセント相手が悪質だ。何一つ笹原さんは悪い事なんてしてないよ」
私の目を見てまっすぐに伝えてくれる。ああ、この人には隠し事が出来ないんだ。全てを見透かされているようだ。
「はい。ありがとうございます」
「でも、念の為まだ数日は警戒しておいた方が良いな。明日向こうの会社には連絡して今日のことは伝えるけど。何らかの対応はしてもらわないとね」
再度カップに手を伸ばし、水嶋部長はコーヒーを飲む。その姿を見て、自分の手の中にあるカップに視線を落とす。少しだけ、ホッと出来た瞬間だった。
「よし、あんまり考えすぎると気が滅入るから、この話は一旦終わり。他の話しようか」
気を遣ってくれたのだろう。確かに明日も相手側の会社とやり取りするのに、どうしても思い出さないといけないし、話もしないといけない。私は水嶋部長の提案に乗った。
最初は仕事の話になり、いくつかプレゼンでのアドバイス等を教えてもらった。今まで自分ではおもいつかなかった事が分かり、すごく勉強になった。その後、少しずつプライベートの話へと移行していった。まずは休日の話。
「私は基本家から出ないですね。あ、たまに上森さんに誘われて出掛けたり、ジムには行ったりしますね」
「あー、僕もそんな感じかも。家で映画とか観たり、本読んだり。僕もジム行ってるんだけど、年齢のせいか前より体力無くてね」
「あの、失礼なんですが、水嶋部長っておいくつでいらっしゃるんですか?」
「ん?今年で45になるかな」
正直もう少し若いと思っていた。予想より上の答えが返ってきた為、驚きが隠せない。
「私てっきり30代後半位かと思ってました」
「そう言ってもらえると嬉しいけどね。ちゃんとした、おじさんですよ」
その時のくしゃっとした笑顔が私の心臓を跳ね上げさせた。今まで見ていた笑顔の時と違う感覚。どうしたら良いのか、水嶋部長の顔が見られない。
すると鞄に入っていた私の携帯が鳴り出した。すぐに画面を確認すると後藤からだった。
「すみません、後藤君からで」
「会食終わったのかな?きっと笹原さんの事心配したんだろう。出てあげなさい」
水嶋部長に許可を取り、電話に出る。
「もしもし」
「おー。無事に帰れたか?いま会食終わったんだけど、上森も心配しててな」
「その色々ありまして…今、水嶋部長のご自宅にお邪魔させていただいておりまして」
「は?…どういうこと?」
「明日詳しい事はお話しさせていただきます」
「……分かった。ま、水嶋さんだし心配ないと思うけど、襲われんなよ?じゃあな」
「ちょ!何言って」
私の話を聞かず、後藤は電話を切ってしまった。襲われんなよって、そんな事ある訳がない。多分水嶋部長は部下として面倒を見てくれている訳で、これは特別扱いでは無い。
私は携帯を鞄へ戻しながら、そう言い聞かせていた。
「後藤君、何だって?」
「あ、いや、会食終わったみたいで…上森さんも心配してたみたいで連絡くれたようです」
「最後、何か言われた?」
電話の内容、聞かれていた?思わず水嶋部長に視線を向けてしまった。長い足を組み、意地悪そうな笑顔の水嶋部長と目が合った。私はその時、この人の笑顔の使い分けが怖いと心から思った。
「ごめん、今のは気にしないで。もう遅い時間だから今日は、送っていくよ」
すっとソファから立ち上がり、引き出しの中から鍵を取り出す。その後を、私は身支度を整え付いていく。来た時と同様にエレベーターを降り、エントランスを出る。雨はすっかり止んでいた。
水嶋部長は停めてある車を持ってくるからと、地下にある駐車場に向かった。
目の前に車が到着すると、助手席側の窓が開き水嶋部長が手招きをする。失礼しますと、私は助手席へと乗り込む。
「それじゃ行きましょうか」
水嶋部長の言葉と同時に車が動き出す。道すがら明日の事等を話した。朝も水嶋部長が同行してくれるとの事だ。そして今後のことも明日決めようとなった。
時間にして10分程だろうか。私の自宅近くまでやって来た。詳しい場所を伝え、住んでいるアパートの前で車は止まった。
「今日は本当にありがとうございました」
「いいえ。明日また迎えに来るね。おやすみ」
「おやすみなさい」
私は車を降り、自分のアパートへ向かおうとした。すると、後ろから車のドアが開く音が聞こえた。振り返ると、数時間前のあの温もりに包まれていた。
「もし、また何かあったら一番に僕を頼るんだよ」
ぎゅっと強く抱きしめられ、囁かれた言葉はすごく優しかった。
何か言いたくても声が出なかった。私は驚くままに立っているしか無かった。