プロローグ
大人になると色々な事が気がかりになってくる。仕事や人間関係、自分の将来について。それに、恋愛も。
人それぞれ幸せの形は違うし、人生の歩み方も違う。思ってることだって違うのに、どうして人は全員同じ方向を見て進むのが当たり前と思うのだろうか。28年生きてきて未だに理解ができない事柄である。
それに私は誰かを信じる事が怖い。最初は優しい顔をして後になって裏切る。もうあんな経験はしたくない。
私は笹原桃子、28歳。大学進学と同時に茨城県の田舎から東京に来て、卒業後はそこそこ大きな会社に入社してもう6年。時間の流れというのは本当に早い。
4月と言えどまだ少し肌寒いかな。買ったばかりの少し明るいグレーのパンプスを履いた足を速めに進める。通勤時間の為、オフィスに向かう人で道は混んでいる。この時間はなんだか好きだな。
エレベーターに乗り勤めているオフィスがある階で降りる。他の人より少し早く出社する為、大体は一番乗りだ。いつものように自分のデスクへ足を進めた時、いつもと違うことに気づく。東京の街を一望できる大きな窓の所にその人は街を眺めながら立っていた。
「綺麗な人」
思わず出たのがこの言葉で驚いた。だけど目が離せない。横顔が綺麗で、全体的にすらっとしており品がある。どうしてだろう、この人は、何だか。
頭の中で感情を巡らせていると声を掛けられる。
「おはようございます。桃子先輩」
振り向くと後輩である上森妃美だった。ふんわりした印象の可愛い女の子。でも頑張り屋で負けず嫌い。嬉しいことにこんな私を憧れていると言ってくれる、少し変わった子。
「おはよう妃美ちゃん。ねぇ…あの人誰だか知ってる?」
「えっ!先輩、新しい部長が来るって社内メールで連絡きてましたよ」
社内メールというワードを聞き疑問に思う。毎日決まった時間にメールをチェックし、漏れが無いようにすべてには目を通していたつもりだった。
「ちなみに、そのメールっていつきてた?」
「確か1ヶ月前で、前の部長が家業継ぐからって退職の話が出てすぐの事だったので、話題になってたじゃないですか」
1ヶ月前。そこで私は頭を抱えた。ちょうど仕事が忙しさのピークを迎えていた時だ。仕事相手とメールでのやり取りもあり、最終調整の段階でもあった為いつもよりやり取りが多かった。前部長の退職は本人から聞いていたので知っていたが、後任の件について何も聞いていなかった。
「その時忙しくてメール流し読みしてたかも…」
「結構激務でしたもんね桃子先輩。だからお手伝いしますって言ったのに」
妃美は頬を膨らませ腕を組む。そんな可愛い後輩の姿に思わず笑ってしまった。
「ありがとう。じゃ次はお願いしようかな」
「任せてください。でもいつも完璧な先輩がメール見逃すなんて珍しいですね」
「ちょっと今回の担当者さんが手強くてね。結構時間も掛かった案件だったし」
だからと言ってメールをしっかりチェック出来ていなかったのは私の落ち度だ。次からは気をつけよう。すると後ろからまたも聞き覚えのある声が聞こえた。
「お前ら入り口の前に突っ立てんな。邪魔だ」
振り返ると同じ部署で同期の後藤司が怪訝そうな顔でこちらを見ている。
「ああ、ごめんごめん」
「後藤先輩おはようございます!」
妃美の元気な挨拶を聞き、おう。と一言だけ返す後藤の少し困った顔を見ると、微笑ましく思う。妃美は後藤の事が好きだ後藤が大人でしっかりした女性が好きとどこかで聞いたらしく、妃美は一人前に仕事が出来るようになったら告白すると意気込んでいる。だが、妃美の好意は他の人が見れば分かってしまう位に、後藤を見つめる妃美の顔は恋する乙女そのものだ。それは後藤本人も分かっており、対応に困っているそうだ。私はそんな2人のやり取りを見るのが好きで、陰ながら妃美を応援している。
「てか、水嶋さん来んの早いな」
「水嶋…新部長?さん…」
「なんで笹原は初めて知りましたみたいなテンションなんだよ」
嘘だろと言わんばかりの後藤に私は気まずそうに事情を話す。いつもの笹原ならあり得ないという反応をされ、妃美と同様にキツいときは声かけろと怒られてしまった。口調は冷たいが、司なりに私の頑張りすぎるところを心配しているのだろう。本当に次からは気をつけますと伝え、後藤は小さいため息をつく。
その後は他の社員も出社し、それと同時に社長がやって来た。社長は水嶋新部長に近づくと握手を交わし簡単にオフィス内の説明をする。そして朝礼を始め新しく配属された水嶋部長の紹介に入った。
「今日から新しく部長職に着いてもらうことになった水嶋君だ。では挨拶よろしく」
社長の本当に簡単すぎる紹介の仕方に驚いたが、水嶋は笑顔で応え私達に向かって挨拶を始めた。
「初めまして。本日よりこちらの部署でお世話になります水嶋幸弥と申します。どうぞよろしく」
落ち着いていて大人の男性の余裕というものが感じられる。声も低めの優しい雰囲気。近くで見て分かったが身長も高い。俗に言うイケメンというのはこういう人なんだろう。今までイケメンとやらに縁が無かった私には天然記念物に会ったような感覚だった。
一通りの話によると、水嶋は名古屋支社の立て直しの為に他社から引き抜かれたそうだ。3年という驚きの早さで成果を出し、ならば東京本社でも力を振るってもらおうと話が出ていたところに、前任の部長の退職申し出があったそうだ。名古屋にすごい人がいるとは聞いたことがあったが、ここまでハイスペックだったとわ。
「じゃ後のことは笹原君よろしくね!彼女がここの成績トップの子だから」
社長の一言で私は思わず大きな声が出た。
「えっ!?私ですか?」
狼狽える私を余所に社長はヒラヒラと手を振りオフィスを後にした。それを呆然と眺めるしか出来ず。相変わらず適当だなと思う後藤と妃美。そこに水嶋部長が声を掛ける。
「笹原さんごめんね。大きな仕事が終わって一段落したいときに。なるべく僕も迷惑掛けないように色々と覚えるの頑張るから。改めてよろしくね」
そう言うと水嶋は少し申し訳なさそうに笑い、私に手を伸ばす。この人は悪くない。社長が急に言い出したことだし、それに今日は後藤と妃美の仕事のフォローをする予定。多分2人はしっかり仕事が出来るから何の心配もないだろう。私は軽く深呼吸をし、仕事モードの顔になる。
「いえ、とんでもないです。私でお役に立てれば良いのですが。笹原桃子と申します。本日よりよろしくお願いいたします」
ぐっと握手を交わすと水嶋は今度は優しい笑顔を向ける。その瞬間、私の心臓が大きくドクンと跳ね上がった気がした。なんだろう、この感じ。
知らなかった感覚。その正体を知るまでそう時間が掛からない事をまだこの時の私は知らなかった。