第6話 ボールペン
夏休みはバイトに明け暮れる晴美だ。そんな晴美を晃が映画に誘った帰り道の事だ。
「私ね、来年の夏休み、ニュージーランドにホームステイに行きたいなぁと思ってね。それで頑張ってお金貯めてんの」
「どうしたの? 急に」
「だってね。地方から出てきて自活しながら大学通ってる人もいるし、奨学金借りて自分で働きながら返すって頑張ってる人もいるじゃない? 同い年なのに、皆凄いなって。だから、私も何か頑張りたいなって思ったの」
「確かに、そうだよね」
「考えたらね、あと四年後には社会人なんだよ。自分のやりたい事は、自分で働いて何とかするしかないし、努力して成し遂げてくしかない世界に出る訳じゃない? だから、このまんまぼんやり四年後迎えたら、私どうなっちゃうんだろうって思ったら、何だか色んな事頑張りたくなってきちゃって」
「そっかぁ・・・」
「あっきーは、卒業後の事とか考えてる? やっぱりお家、継ぐの?」
「親父は何にも言わない。・・・ってより、俺の様子見てるって感じかもね。でも俺自身、世間も見てみたいっていうか・・・」
「具体的にあるの? どんな仕事に就きたいとか・・・何したいとか」
晃はオリオン座の輝く夜空を見上げた。
「この仕事面白そうだなぁと思うのは幾つかあるけど・・・まだ一つに絞れてる訳じゃない」
「分かるなぁ・・・」
同調する晴美も、外灯の明るい夜空を見上げて そう呟いた。
「大学で知り合った友達と話してると、そういうの 本当に色んな人が居て、私もこのままじゃいけないって刺激貰えるよね。私・・・あの大学入って、本当良かったと思う」
遠くの星を仰ぎ見ながら生き生きと話す晴美の横顔を、晃がじっと見つめた。そして暫くしてその視線に気が付いた晴美が、少し首を傾げた。
「・・・何?」
「いや・・・別に」
別れ際、『じゃあね』と言おうとした晴美に、晃が思い切る。
「今度の多摩川の花火大会、もう・・・誰かと約束してる?」
「ううん」
「・・・一緒に行かない?」
晴美は言葉を探す。
「うん。あ・・・でも、もしかしたら また皆で行こうって連絡来るかな」
「・・・そうかもね」
「そしたら・・・」
「梅ちゃんは、高校ん時みたいに、また皆でわいわい行きたい?」
「・・・皆とそうしょっちゅう会える訳じゃないから・・・」
含んだ言い方に、晃は少し考えてからにこっと笑顔を見せた。
「じゃ、皆誘う?」
当然その問いに即答できない晴美が、改めて晃へ頭を下げた。
「ごめん、あっきー」
一瞬強張った晃の顔が、すぐにはははと大きな声を上げて笑った。
「やめてよ~、謝んないでよ。そういや毎年皆で行ってたもんね」
「毎年ではないけど・・・」
「いや、ほぼ毎年だよ~」
無駄に明るい晃のテンションが、晴美の心を苦しくする。
「俺、皆の事誘ってみよ。後でグループにラインするわ」
ある日、晴美が大学の図書館で課題をしていると、向かい側に人が座った。夏休みでも、二年のゼミ生や晴美の様に課題をしに来る学生達で、人は割合多い。資料を広げ夢中で書き取っている晴美は、それを気に留める事は無かった。切りの良い所までペンを走らせて 一旦大きな深呼吸と共に大きく伸びをする。その時、目の前の知っている人物に思わず声を漏らす。
「あっ・・・翔平君」
顔を上げた翔平は、にこっと笑った。
「どうも」
「・・・いつから居たの?」
「さっき。15分位前かな」
「全然気が付かなかった」
「集中してたからね」
「なんだぁ。声掛けてくれたら良かったのにぃ」
「その内気付くかなって」
翔平らしいその発言に、晴美はクスッと笑う。
二人は休憩に、自販機でコーヒーを買って校内のベンチに座る。
「夏休み・・・忙しい?」
晴美が聞く。
「バイト2個掛け持ちしてる」
「夏休みも、よく学校来てるの?」
「課題まとめてやる時は。家より集中できるし」
「わかる~。私なんか、家だとついテレビ見ちゃったり誘惑に負けちゃって」
はははと笑い飛ばす翔平に、晴美が少し勇気を出す。
「夏休み・・・どっか遊びに行った?」
「うん。ちょこちょこね」
「・・・大学の友達とも・・・行く?」
「あぁ、まあ」
優子や翔平の周りの女友達の事が気になるくせに、晴美は中途半端な質問しかできない。そして、じりじりとした気持ちを抱えて、慎重に息を吸った。
「忙しかったら全然いいんだけどさ。・・・ジブリ・・・いつか、行けそう?」
晴美はコーヒーの缶のタブを無意味にいじって、間を繋ぐ。
「行こう、行こう」
しかし翔平は、それ以上日程を聞いては来ない。
「もしかして・・・もう行っちゃった?」
晴美の問いに、翔平の手がピタッと止まった。
「なんで?」
「ううん」
その後でし~んと沈黙が流れたから、晴美はこれ以上ピリピリしたムードになる前に、その膜を破った。
「優子先輩が、翔平君の事・・・もう一回誘ってみようかなって話してるの聞いちゃったから」
「・・・・・・」
「もし、まだだったらの話。行っちゃってたら、全然それで・・・大丈夫だから」
「ジブリは、行ってないから平気」
「ごめんね・・・」
とっさに謝ってしまってから、少し違和感を感じる晴美だったが、その後の翔平の言葉で、そんなものはあっという間に吹き飛んだ。
「多摩川の花火大会には、誘われた」
「多摩川の・・・」
翔平は空になった缶を両手に挟んで弄ぶ。
「晴美ちゃん家の近くでしょ?」
「うん」
「行くの?・・・あっきーと」
「ううん。あっ、でも・・・皆で行こうかって・・・。あっ、皆って高校の時の仲良かった友達で」
「な~んだ。先約ありか・・・」
「・・・え?」
聞き返したその答えが無くて、二人の間に再び静寂が流れた その時だ。
「翔平!」
二人が顔を上げると、そこには優子が驚いた顔で立っていた。
「あ、梅ちゃんも」
「こんにちは」
晴美がとっさに頭を下げる。
「どうしたの? 今日は。二人揃って」
「図書館に課題やりに来てました」
翔平の説明に、晴美が付け足す。
「偶然、図書館で一緒になって」
「そうなんだぁ」
優子の顔が明るくなる。
「優子先輩は? 今日、何かあったんですか?」
「ゼミ。もう終わったんだけどね」
その後、プツッと会話が途切れると、優子が質問した。
「まだ、課題やってくの?」
そう聞かれ、翔平と晴美は顔を見合わせた。
「俺はもう少し・・・」
「私・・・」
晴美は翔平と優子の顔を交互に見ながら、言葉を探した。
「も、まだ終わってないから、やってこうかなって・・・」
すると優子の表情に一瞬影が落ちた。
「じゃ、私は邪魔しちゃ悪いから・・・帰ろっかな」
「邪魔なんて、別にそんな・・・」
晴美が慌ててそう取り繕うと、優子がチラチラっと翔平の顔を見ながら言った。
「だって、二人で仲良く課題やってるのに・・・ねぇ? お邪魔でしょ?」
「いえいえ、全然。別にたまたま一緒になっただけで、一緒に仲良く課題やってるって訳でもないんで・・・」
晴美は早口にまくし立てた。すると、優子の表情が急に女っぽくなり、翔平の顔を覗き込んで言った。
「じゃあ・・・一緒に図書館行っちゃおうかな。本当に迷惑じゃない?」
「はい。別に」
翔平がそう返事をする。
再び図書館に戻って、二人はさっきと同様向かい側に座る。そして優子は、本を借りてきて翔平の隣に座った。三人とも黙々と自分の事をしているだけなのに、晴美はどうしても落ち着かない。優子が読み終えた本を戻して、別の本を探しに席を立った時、晴美はノートをぱたんと閉じた。それに気付いた翔平がペンを止めた。
「もう、帰る?」
「うん」
「終わったの?」
「・・・まだだけど・・・今日はもう帰ろうかなって・・・」
「・・・・・・」
翔平が再び無言で手を動かし始めたから、晴美もリュックに荷物をしまい始める。すると、翔平がまたボソッと何か言った。
「ジブリ・・・いつにしよっか?」
晴美はとっさに優子の姿を探す。ソワソワしながら、晴美はその場しのぎの返事を返す。
「いつでも。あ・・・でもバイトとかあるから・・・。翔平君の大丈夫な日、連絡して。都合が合えば・・・行こうか」
そこへ優子が戻って来ると、席を立って今にも帰ろうとしている晴美に声を掛けた。
「梅ちゃん、もう帰るの?」
「はい。お先に、失礼します」
「うん。またね」
笑顔で手を振る優子の隣で、翔平は顔も上げず手も止めぬまま、低い声で言った。
「お疲れ」
その晩だ。翔平から晴美にメッセージが届く。
『今週と来週で空いてる日、ある?』
晴美はバイトのスケジュールを確認すると、急いで返信する。
『今週の金曜大丈夫だけど、翔平君は?』
晴美はあえて来週の予定は入れない。
『チケット取れたら、また連絡するね』
それで終わってしまったメッセージの画面を、晴美は暫く眺めたまま携帯を握っていた。
翔平から返事が来たのは、次の日の朝だった。
『チケット取れたよ。金曜の11時。三鷹駅に10:30でいい?』
『ありがとう』
『じゃ、金曜日に』
そう翔平から送られてきたのを見て、晴美は慌てて頭をひねる。
『その日、翔平君はその後予定ある?』
『ないよ。その日の朝までバイトだけど、金曜の夜は無い』
『朝まで?』
『そ。今夏休みの間だけ、夜勤の派遣のバイト入れてるから』
晴美は携帯の上で指が迷う。
『夜勤明けで大丈夫? 来週にすれば良かったかな』
『全然いいよ。せっかくチケットも取れたし』
『ごめんね』
『金曜楽しみにしてる。俺さっき帰ってきたところだから、今夜もバイトあるし、これから寝ま~す』
約束の金曜日。三鷹駅での待ち合わせに、20分遅れて翔平が現れる。自転車を飛ばしてきたのだろう。駅前の晴美の目の前でキキーッと止めた自転車にまたがった翔平の額や首には汗が流れている。
「ごめん! 遅れて」
「大丈夫?」
「遅れた言い訳は後でするから、今は間に合わなくなるといけないから、とりあえず後ろ乗って」
「え?」
躊躇う晴美の背中を、翔平の一言が押した。
「前にも乗った事あったよね?」
翔平の背中に掴まろうとした時、翔平が声を上げた。
「あ! 俺汗びっしょりだから、Tシャツも濡れてるかも」
「全然平気。気にしないよ」
翔平はバッグからタオルを取り出して、自分の肩に乗せた。
「これでどう?」
風を切って走る自転車の後ろで、晴美は翔平の首に流れる汗を見ながら、妙に懐かしい気持ちになる。
自転車を下りて美術館に入ると、翔平は晴美に聞いた。
「俺、汗臭い?・・・ごめん」
晴美は笑顔で首を横に振った。
「全然」
汗を必死に拭く翔平に、晴美は小学生の頃のエピソードを話し始めた。
「小学生の時にね、友達何人かで遊びに行く約束して待ち合わせしたの。行ったら皆自転車で来ててね。私だけ歩きで行っちゃって。そしたら、一人男の子が居たんだけど、その子が後ろ乗せてくれてね。だけど、真夏の暑い日だったもんだから、その子汗びっしょりになっちゃって。何だかさっき、そんな昔の事思い出しちゃった」
「・・・へぇ~」
「子供の頃ってさ、友達とよくかけっこしなかった?『あそこの曲がり角まで競争ね』とか言いながら。汗びっしょりになりながら。でも笑ってた思い出しかない。あの頃は暑いから日陰歩こうとか、走らないでおこうとか何にも考えてなかったんだね。元気だった」
「小学校の時って、いっつも走ってた気がする。馬鹿みたいに走って笑って。悩みなんか何にもなかったのかなぁ」
「きっと、子供なりにあったんだと思う。だけど、今覚えてないって事は、その位些細な事だったって事かな?」
二人は『これはあの作品だね』とか『あ~、このシーンめっちゃ好きだったぁ』と話しながら、館内を見て回る。夏休みという季節柄、子供達でごった返している。時々無邪気にはしゃぎ回る子供達に順番を譲りながら、二人はのんびりと楽しんだ。中の喫茶店でメニューを見るなり、翔平が頭を抱えた。
「ちょっとお茶するつもりだったのに、美味しそうなのがいっぱいあって食べたくなっちゃったなぁ」
「本当。迷っちゃうね」
「三鷹駅の方に美味しそうな店見つけたから、そこで昼食おうと思ってたんだけどな・・・」
「翔平君、朝ご飯食べてないんじゃない?」
「・・・あっ! そうか。だから腹減ってて、何でも旨そうに見えるんだ!」
あははははと大きな口を開けて笑うから、晴美も幸せな気持ちになる。
「せっかくだから、ここで食べよう。翔平君が見つけたお店は、又行けばいいよ」
「・・・だよね?」
気が大きくなった翔平は、二種類のご飯を注文すると、ようやく落ち着いて水を一口飲んだ。
「今日ごめんね、遅刻して」
「ううん」
「9時半頃帰ってきて、ちょっとだけ横になったつもりが爆睡しちゃってさ。ほんと、ごめんなさい!」
「こっちこそ、ごめんね。夜勤明けじゃない日に約束すれば良かった」
「なかなか予定が合わなくて、また後日~ってなるの嫌だったから」
目の前で水をごくりと飲む翔平の顔を見ながら、晴美の心は ほんの少しずつ じんわりと温かい物で満たされていく。
「目が覚めて時計見たら、その時点でもう10時半過ぎてんだもん。びっくりしたよ」
「連絡くれれば良かったのに」
「そんな頭も回ってなかった。とにかく必死でチャリ漕いで、11時に間に合う事しか頭に無かった」
「・・・ちょっと・・・約束忘れっちゃってるのかなって思った」
「忘れてないよ~! 今日、楽しみにしてたんだからぁ」
晴美の胸がドキンとする。だから、慌てて水を飲んでみたりする。
「翔平君、ここずっと来てみたいって言ってたもんね」
晴美は自分でごまかしておきながら、翔平があわよくば『今日楽しみにしてたのは、晴美ちゃんとのデートだからだよ』なんていう甘い言葉を返してくれるのを、胸の隅っこの方で期待する。しかし、そこに丁度注文した料理が運ばれてきて、翔平の目がキラキラと輝く。
「旨そう~!」
「お腹空いてるでしょ? どうぞ、先食べていいよ」
晴美に促されフォークを手に持ちかけて、翔平はその手を止めた。
「いいや。晴美ちゃんの来てから一緒に食べる」
「いいって。だって翔平君二つも頼んでるから、早く食べないとテーブルに乗り切らないよ」
一瞬悩んだ翔平は、もう一本フォークを手に取って 晴美に渡した。
「じゃ、一緒に食べよう」
「いいって」
「ちょっと味見くらいしてよ」
翔平の少し寂し気な顔にハッとして、晴美はフォークを握った。
「うん。じゃ・・・少し」
同じ皿の料理を二人で突きながら、『美味しい』と笑顔を向かい合わせた。その内に晴美の注文した物も運ばれてきて、それにも翔平が少し手を伸ばした。
「夏合宿の時さ、晴美ちゃんが子供の頃の話してくれたでしょ? ランドセル持ちの。歩調を合わせて隣を歩いてくれて嬉しかったって」
「うん」
「あれさ、俺も同じ様な事、小学生の時にあったんだ」
晴美の心臓がドキンと鳴って、手が止まる。
「給食の時間にね、俺の分だけ牛乳が足りなかった事があんの。給食当番が取りに行ってくれたんだけど、それ待ってると皆が遅くなっちゃうから、一旦いただきますした訳。でもさ、同じ班の子が食べないで待っててくれて。そん時、待っててもらうって嬉しいもんだなって、子供心に思ったんだよね」
翔平は黙々と食べながら話す。晴美が期待していた話と違っていて、ちょっと肩透かしにあった様な、でもどこかで少しホッとした様な気持ちになるのだった。
「あのランドセル持ちの時に 隣を歩いてくれた子ね、その子の名前も翔平君っていうの。顔もちょっと似てるの。だから初めて翔平君見た時、あれ?って思ったんだけど、苗字も違うし 性格も違うから、別人なんだって分かったんだけどね。実はね、初めはそんな事思ってたの」
晴美ははははと笑ってみせた。
「あはははは。言っちゃった」
そう言って、晴美は両手で口を押えた。
「その子の事、好きだったの。多分・・・初恋かな?」
晴美はもう一度はははと短く、照れた様に笑った。
食事を済ませ、二人は屋外を見て回る。真夏の午後の日差しは予想以上に強い。しかし人の出入りは激しい。
再び館内に戻り、ショップをぶらつく二人。
「せっかくだから、何か買おうかなぁ・・・」
独り言の様に晴美が呟く。そして、にっこりと満足気な晴美が手に取った物は、一番好きだと言った作品のキャラクターのマグカップだ。
「これにした」
すると翔平がそれに手を伸ばした。
「ちょっと貸して」
翔平は色違いをもう一つ手に取る。レジから戻ってきた翔平は、綺麗にラッピングされた包みを一つ 晴美に差し出した。
「はい。今日、遅れたお詫び」
「え・・・いいよ。そんなに待ってないし」
「約束忘れられたと思ったくせに?」
翔平がはははと笑うから、つられて晴美もはははとごまかした。
「今日、付き合ってくれたから。記念に」
晴美の中では、嬉しい気持ちと照れ臭い気持ちが混ざり合って、表情も複雑だ。
「可愛いから、俺も買っちゃった。色違いだけど」
お揃いのカップに、晴美の心は勝手に踊り出す。だから自然と笑顔になる。
「ありがとう」
「いえいえ。こちらこそ」
照れ隠しにかしこまった挨拶をする翔平に晴美がプッと吹き出すと、翔平もはははと笑った。
美術館から出てくると、午後の日差しが厳しい時間帯に、二人は思わず目を細める。
「凄い暑さ・・・」
「ほんと・・・」
停めていた自転車を脇に、翔平が聞いた。
「あと一か所、行きたい所あんだけど・・・」
「どこ?」
「国立天文台。そういうの、興味ない?」
「国立? 凄い。見学できるの?」
「らしい」
「行ってみたい!」
翔平は自転車を駅の駐輪場に停め、二人はバスに乗った。
「おっきな天体望遠鏡とかあるのかなぁ?」
晴美が色んな質問を翔平にする。
「流星群とか、見る人?」
「うん」
「仙台の方が、こっちより星見えるでしょ?」
「そう・・・かな。そんな違わないよ」
「そういえば、この前の朝霧高原での星、凄かったよね?」
そう言ってから、晴美はあっと手で口を押えた。
「ごめん。あっちは嫌な思い出もあったんだもんね」
「大丈夫」
「本当、ごめんなさい」
「全然。気にしないで。富士山とか星とか、自然に罪はないから」
少し湿っぽくなってしまった空気に、翔平がカンフル剤を投入する。
「俺も一個暴露しちゃうと・・・。さっきの給食の話。俺の事待っててくれた子は・・・初恋の子」
「え~、そうなんだ。可愛い!」
そんな他愛もない時間が流れた頃、バスのアナウンスが車中に流れる。
「天文台前~」
先に降りた翔平の鞄のファスナーが開いていて、そこからポトンと何かが落ちた。反射的に拾った晴美がそれを手に取ってみると、三色のシャーボペンだ。どこか見覚えのあるペンに、晴美がそれをじっと眺める。良く見るとそこには“川崎市立南第二小学校 卒業記念”と印字されている。
「ねぇ・・・これ」
「あ、ありがと」
翔平はペンを受け取ると、すぐに鞄にしまった。
「ねぇ、翔平君。今の・・・」
晴美の心臓はドクンドクンと大きく脈を打っている。しかし、翔平は建物の前で立ち止まって感慨深げに大きな声を上げる。
「ここか~」
そして翔平は後ろの晴美を振り返って、笑顔で言った。
「さ、行こう!」
中の展示物を見ていても、晴美は正直さっきのペンが気になって仕方がない。しかし、目の前の解説文や展示物、宇宙の話が書かれたパネル等を見ながら翔平が話し掛けてくるから、いつの間にか晴美のペンに囚われていた気持ちは薄らいでいった。
帰りのバスを待ちながら、晴美は空を見上げた。
「さっきの色々見てて、思い出したの。小学校の卒業文集に、『大人になって叶えたい夢』って所に 私、『アラスカでオーロラを見る』って書いたの」
「オーロラ、いいよね。俺も見てみたい」
「翔平君は・・・何て書いたか覚えてる?」
「・・・さぁ」
晴美は隣の翔平の横顔をそっと見つめてから、言った。
「もしかして・・・翔平君さぁ。同じ・・・」
そこまで言い掛けたところで、翔平が口を挟んだ。
「覚えてない? 給食の時待っててくれたの」
「・・・え?」
「同じ班で・・・俺の斜め前の席だった」
「・・・私?!」
混乱した頭を整理する様に、一つ一つ言葉に出してみる晴美だ。
「・・・森田・・・翔平君?」
そう言って、晴美は自分で何かに気付き 声を上げた。
「あっ! そっか。苗字が変わったんだね、翔平君」
「そ。仙台に越した時に、苗字も変わった」
晴美は翔平から目が離せない。
「どうしてもっと早く言ってくれなかったの?」
翔平は頭を掻いた。
「あの頃の引っ込み思案な自分の印象に自信が無かったから」
晴美は簡単な言葉を、あえて飲み込んだ。
「あの性格のせいで、俺はいじめに負けたんだ。だから・・・過去の自分は封印して生きてきたから」
晴美は無意識の内に、必死で首を横に振っていた。
「違う。翔平君の物静かで優しいあの雰囲気。私、好きだった。ランドセル持ちの時に、隣で一緒に歩いてくれた翔平君、凄く優しかったし、カッコ良かった。封印なんかしたら、もったいない」
「ランドセル持ちで歩調を合わせたのは、その前に晴美ちゃんが、給食の時に俺を待っててくれたからだよ」
晴美は首を傾げた。
「給食の時、そんな事あったっけ・・・?」
「あったよ。あの位から俺、晴美ちゃんの事好きになったと思う」
急にカーッと晴美の顔が紅く染まるのが分かる。ごまかしようのない頬を、晴美は両手で押さえた。
「昔の話とはいえ、照れるね」
翔平は隣の晴美を見て、面白がって笑った。
「俺ら、当時両想いだったって事だね? ぜ~んぜん気付かなかった。もったいない事したなぁ~」
「私も、全然気付かなかった。春休みの間に急に引っ越しちゃって、凄く寂しかったんだぁ。中学でも同じクラスになれるかな~?とか考えてたから」
「こっちも、急に決まったから。引っ越し」
「そうだったんだぁ」
次々明かされる事実に、晴美の心がついて行くのに必死だ。
三鷹駅行きのバスに乗り込んだ二人の間には、暫く懐かしい話題が行き来する。そしてバスを下りる頃、段々に夕暮れが近い事を思わせる橙色の西の空を背に翔平が言った。
「まだ時間平気だよね? 昼間言ってた店で、飯食ってく?」
待っていた通りの言葉が聞けて、晴美はすっかり心が大きくなる。
小学生の時の初恋の相手が、今目の前にいる同級生だと分かり、更にはお互いに 当時想い合っていた事まで分かった二人が過ごす食事の時間は、まるで恋人とのデートの様に愛おしくキラキラした夢の時間に変化する。そして、待ち焦がれていた王子様が ガラスの靴を持って現れたシンデレラの気分を勝手に味わう晴美だった。
駅で晴美が翔平と別れる時も、
「じゃ、またね」
と屈託のない笑顔で手を振るのに、何の躊躇いもない。必死に殺していた気持ちが、堰を切った様に溢れ出す様なものだから、無理はない。