AIは“それ”を理解している。人間は“それ”を理解していない
AIは“それ”を理解している。
人間は“それ”を理解していない。
人間は“それ”を理解していないが、AIが“それ”を理解しているので、人間は“それ”を使う事ができる。
――もちろん、AIを介して。
さて。
この場合、“それ”を使える事を“科学”技術と呼ぶべきだろうか?
人間は理解していないんだ。
理解しているのは、AIだけ。
人によっては、科学技術と呼ぶべきじゃないと言うかもしれない。
ただ、人間が全ての原理を理解した上で使っている科学技術なんて実は一つもありはしないんだ。
そう考えると、ちょっと悩まないか?
インプットとアウトプット。
ある事象をブラックボックスとし、そのブラックボックスに対する入力と出力の関係を調べ、それを応用する。
人間の科学技術とはそのようなものだ。だから、中には原理が不明のまま使われている技術だってある。
例えば、麻酔。
どうして麻酔によって痛みが消失するのか、そのメカニズムは実はまだ分かっていない。分かってはいないけど、麻酔を施せば実際に痛みが消失するという現象が発生する。その関係性さえ理解できれば、人間はそれを使う事ができる。
嘘か本当かは知らないけど、麻酔というのは、医者の個人的経験に基づいて行われていて、明確な基準は存在しないなんて話も聞いたことがある。
なら、麻酔が完全じゃなく、半覚醒状態のような状態で放置されるようなケースだってあるかもしれないとは思わないか?
――なんで、こんな事を僕が述べるのかというと、その理由は単純だ。
僕自身がそれを経験したからだ。
ただ、その記憶はあまりにもおぼろげだった。まぁ、麻酔を施されていたのだから、当たり前と言ってしまえば当たり前だけど、とにかくだから、それが本当に現実の記憶だったかどうかいまいち僕自身にも確信が持てていない。
だから、或いはそれは夢だったのかもしれない、とも思っている。
話を元に戻そう。
人間は“それ”を理解していない。
AIが“それ”を理解している。
果たして“それ”を使える事を、そのまま科学技術と呼んでしまって良いのだろうか?
AI自体をブラックボックスとして捉え、その入力と出力から起きる事象を知って、それを応用しているのだから、“それ”を使える事は、人間にとって科学技術と呼んでしまっても良い。或いはそんな考え方もあるかもしれない。多少、強引な気がしないでもないけど。
でも、それにだって限界があると思うんだ。もし仮に、麻酔処置だけ施して、後は全てをAIに任せるなんていう態度を医者が執っていた場合、果たしてそれは科学技術と呼べるのだろうか?
――なんで、こんな事を僕が述べるのかというと、その理由もさっきと同じように単純だ。
「……では、後は任せたよ、クリック。患者が生き延びるようできる限り適切な処置を施しておいてくれ」
僕は先に述べたように、麻酔が完全にはかかり切らない半覚醒状態にあったのだけど、その状態で、医者がAIのクリックに向けてそんな命令をしているのを聞いていたのだ。
ただ、命令していただけで、医者はそれ以外に何もしようとはしていなかった。半覚醒状態のまどろみの中で、僕は驚いた。
さぁ、これはどうなんだ?
いや、医者の態度を言っているのじゃない。これを科学技術と呼んで良いのかどうかを問いかけているんだ。
インプットは命令だけ。それだけで、“僕が生き延びる”というアウトプットが返って来る。
これだけで、「医者が行使しているのは科学技術だ」と、表現するのは無理があるのじゃないか?
しかも、話はここで終わりじゃない。
もし仮にだ。もし仮に、AIの理解している“それ”が、魔法だとか呪文だとか、そういった類のオカルト的なものだったとしたら、果たしてそれは“科学”と呼べるのだろか?
もちろん、これは滅茶苦茶な問いかけだ。科学はどういったもので、魔法はこいったもの、そういった定義がない限り、それに対する答えは絶対に得られない。
それに、もし仮に魔法が実在していて、それがこの世の仕組みに則っているのだとするのなら、この世の仕組みを応用しているその魔法を科学と呼ぶ事だって可能なのだし。
いや、科学ってそういうものだよね?
少なくとも、自然界の法則を理解し応用することは、科学の要素の一つではあるはずだろう。
だけど、それでも僕は敢えてそんな問いかけをしたい。
AIが理解している“それ”がオカルト的なもだったなら、どうなのか? それは“科学”と呼べるのか?
何故なら、またまた理由は単純だ。それからAIが施した治療で、僕はとんでもない体験をしてしまったからだ。
一応、もう一度繰り返しておくけど、僕は自分が本当に半覚醒状態にいたのかどうかも分からないような曖昧な記憶について語ってる。
だから、その体験全てが夢であったという可能性だってあると思っている。
ただ、それが現実だと証明する事ができないのと同じ様に、それが本当に夢だったのかどうか、僕には証明する手段がない。
――さて、まずは何から話し始めようか。
僕がどうして病院で全身麻酔をかけられて、AIによる蘇生処理を施され、死線を彷徨うような状態になっていたのかというと、それは僕がマンションから飛び降りたからだった。
ただ、五階という中途半端な高さから飛び降りてしまったものだから、どうやら死にきれなかったようだ。
親は二人とも仕事の都合で出張していて、家には誰もいなかった。もちろん、その時を狙って僕は飛び降りたんだ。
僕は一人っ子だから、家族は父親と母親だけだ。
――いや、もう一人いるけど、今は行方不明だから関係ない。或いは、既に死んでしまっているかもしれないし。
……もし仮に、あいつが死んでいるとするのなら、恐らくは僕が殺したのだろう。
とにかく、僕はそうして死に損ない、病院に運び込まれ、そして、先に述べたように医者から仕事を丸投げされたAIと半覚醒状態で病室に二人きりになった。
無意味だとは分かっていたのだけど、僕は心の中でAIに向けてこう問いかけた。
「僕が生き延びるようにしろって指示を受けたみたいだけど、一体、どうするつもりでいるの?」
ところが、驚いた事に、それを受けたAIは能弁に語り始めたのだった。
「アナタの身体は、命を奪われる程の損傷を受けてはいません。ワタシの技術ならば問題なく助けられるでしょう。
しかし、一番の問題は、アナタ自身に生きようという意志が感じられない点です。アナタを生き延びさせる為には、まず何よりそれを改善しなくてはなりません。
この場合、最も効果のあるのは“家族による呼びかけ”です」
僕はそれを聞いて肩を竦めた。いや、実際にそんなアクションをした訳じゃないけど、そんな気分だった。
“家族による呼びかけ”
AIのくせに随分とアナログな事を言うじゃないか。
もっとも、両親は今はいないから、それは無理だろう。出張先から電話かなんかを通して声をかけるくらいなら可能だろうけど、そんな手配を果たしてAIなんかにできるのだろうか?
ところが、僕がそう思うと、まるで僕の心を読んでいるかのようにAIは「違います」とそう言うのだった。
……いや、AIは、実際に僕の心を読んでいたのかもしれない。
「アナタが“向こう側”へ行くのを止めるのは、アナタの両親ではありません」
“向こう側?”
僕の頭の上にクエスチョンマークが浮かんだ。
その向こう側ってのは、なんだ……?
ところがそう思いかけたところで、突然に辺りの景色が変わった。病室であったはずなのに、濃い霧が立ち込める川岸のような場所にいつの間にか僕は立っていたのだ。
直ぐに理解した。これは臨死体験というやつだ。恐らくは、ここは三途の川の近くなのだろう。
ますます非科学的だ。
不思議な事に、辺りの景色は変わったのにAI…… 正確にはAIの端末は、その三途の川について来ていた。
およそ不釣り合いな電子機器とディスプレイの塊が、川岸に設置されてある。まるで粗大ゴミのようだったが、粗大ゴミにしてはAIは元気いっぱいに稼働していた。エレクトリックな付喪神。
もう少し空気読めよ、AI。
そんな風に僕は思う。
AIなんかに、あの世だろうが関係ねーってなノリで、バリバリな存在感を発揮されたら、三途の川だって困るだろう。
しかし、それから僕はこう思い直した。
いや、違うのかもしれない。
三途の川なんてものは存在していなくて、僕はただただそんな幻を見ているだけなのかもしれない。
つまり、ここは本当は病室で、AIだけはその幻の中でも、何故か僕に現実通りに視覚されているというだけの話なのかもしれない。
そもそも三途の川は、日本のあの世の概念だ。それは日本のものでしかなく、異なった文化圏では、臨死体験の際にまた違った“あの世”を見るのだという。つまり、そんなものは存在していないという事なのだろう。
ならば、やっぱりそれは単なる幻だと考えた方が良い……
ところが、そう思いかけたタイミングで、AIが僕にこんな事を言って来るのだった。
「人間は光をそのまま観ているのではなく、光という信号を基に、脳でそれを映像として再構築しているのです。その為に、足りない情報を脳が補って勝手に創り出してしまうといった事もあるし、同じ物を見ているのに、人によって印象が全く異なっているという場合もあるのです」
僕はちょっと戸惑ったけど、直ぐにAIが言わんとしている事を察した。
つまり、“あの世”が文化によって異なって知覚されているのは、それが脳によって再構築されているからであるかもしれず、だから、その存在の否定の根拠にはならないと主張しているのだろう。
“あの世”は存在するが、見ている人によって別のものに見える。ま、ロールシャッハ・テストみたいなもんだ。“染み”が人によって悪魔の顔にも蝶々の翅にも見える。
AIが“あの世”の存在を擁護するなんて、本当に戯けた世の中になったものだと思う。
何にせよ、そんな場所にいつまでいても仕方ないので、僕は取り敢えず進んでみる事にした。ほんの微かに傾斜があって、下に向かっているような気がしたので、そっちに向って進んでみる。
AIは流石について来なかった。これで後を追って来たら、本当に付喪神だ。
しばらく進むと、やがて、水の流れる音が聞こえた気がした。
川だ。
相変わらず濃い霧が立ち込めていたので、よくは見えなかったけれど、それでもその水はとても澄んでいるように思えた。
なんとなく、いかにも幽世って感じだ。
僕はその水に触れてみた。冷たい。気持ちがイイ。
それから僕は“向こう側”を眺めてみた。何も見えない。ここで物語かなんかだと、既に死んでしまった人が、「お前はまだここに来ちゃいけない」だとかなんとか言って、僕が死ぬのを思い止まらせるんだ。しかし生憎僕には死んでしまった知り合いはいないから、誰の姿も見えない。
――いや、一人だけいたか。
死んでしまったかもしれない知り合いが。家族が。
僕のただ一人の友人が。
いや、もう、別に何でも良い。
いずれにしろ、“向こう側”には誰の姿も見えないのだし、もしAIの言うように、本当にあの世があるのなら、向こう側へ行ったら僕は死ぬのだろうし。
ところが、そうして向こう側へ進もうと、その冷たい水面に足をつけた瞬間、また「違います」と声が聞こえたのだった。
AIの声だ。
驚いて声のした方を見ると、いつの間にかにAIがやって来ていた。
やっぱり、ここは、病室なのだろう。
それで僕はそう思う。そして、なんだか少し馬鹿馬鹿しくなった。
この川を渡ったとしても僕は死ねないのじゃないか?
そんな風に思った。
だが、そのAIの言葉に対して、僕が「何が違うのさ」と問いかけると、AIはこう返すのだった。
「アナタを呼び止める家族は、死者ではありません」
死者ではない?
僕はそれを聞いて不思議に思った。だけど、それから覚えのある足音が近づいて来るのを僕の耳は拾ってしまったのだった。
トトカッ トトカッ トトカッ
僕が乱暴をして壊してしまった所為で、そいつの足は悪くなっている。その特徴的な足音は、それが原因だ。その足音は、僕に向って自分の存在を主張していた。
濃い霧の中、うすぼんやりと小さな影が浮かび上がって来た。柔らかい印象。一瞬の間の後、それが掻き消え、明確な輪郭を持った。
「やぁ、トトス。久しぶりだね」
そして僕は、そうして濃い霧の中から、浮かび上がるようにして現れたそのロボットに向けて、そう挨拶をしたのだった。
今は行方不明の僕の家族。
僕の唯一の友人のそのロボットに。
――少し前の話をしよう。
僕はコミュニケーション能力が低く、学校のクラスのどのコミュニティにも上手く馴染むことができないでいた。
そしてそんな風に孤独でいる僕を、クラスの皆はカースト制度の最下層と見做しているようだった。そーいうケースの常として、僕は“いじめ”のターゲットにされていた。
いじめと一口に言っても色々ある。けど、僕の場合は“気に入らない”とか“ライバルを蹴落としたい”とか、そういうタイプのいじめではないだろう。何しろ、クラスの中でもまったく目立っていなかったのだから。
要するに、ただただ楽しむ為のいじめ。
いじめが楽しくて止められなくなっている“いじめ依存症”の連中が、クラスでの地位が低くて抵抗できそうにもない僕に目を付けていじめ始めたんだ。
そして僕はそんな連中の狙い通りに、何の抵抗せずにそのいじめに耐え続けるだけだった。
――だけ?
いや、違う。僕はそのいじめに耐える為に、トトスをいじめていたんだ。
トトスは僕の太ももくらいまでの背丈のヒューマノイド型のロボットだ。人間に気に入られるように可愛い外見をしている。もちろん、トトス自身が望んだ訳じゃない。トトス自身はそんなのどーだっていいと思っているに違いない。
“思っている”という表現もなんだか変だけど。
もっとも、自分の外見の効果くらいはトトスは分かっているかもしれない。そしてトトスは人間に尽くそうと行動する。それはきっと“欲求”というような高度なものではなく、まるで昆虫が光を目指すような条件反射的なものなのだろう。
トトスは僕の友達で家族だ。
そのような存在しとして買われたから。
人間がロボットを産み出し社会に普及させようとした時、人間がロボットに要求した立場は“奴隷”とほぼ同じだった。奴隷のように忠実で、逆らわず、見返りを求めず、人間の為に尽くす。トトスだってそれは変わらない。
愛玩用の奴隷だ。
僕はその奴隷であるトトスを、ストレス解消に利用した……
つまり、いじめられている憂さ晴らしに、絶対に抵抗する事ができない自分のロボットをいじめていたという訳だ。
きっとそれだって、奴隷という立場のロボットの役割の一つであるはずだと言い訳をして。
――醜いと思うかい?
或いはそれは正解かもしれない。
けど、それはトトスにも原因があったんだ。
もしかしたら、僕の様子を敏感に察したからかもしれないが、トトスは僕がいじめられ始めてから、学校でのことを矢鱈に聞きたがるようになって、それにイライラした僕は、ついトトスをいじめてしまったんだ。
頭を殴ったり、いびったり。
もちろん、ロボットはそれで傷ついたりはしない。コミュニケーション可能だから、相手にも感情があるとつい錯覚してしまうけれど、ロボットにはそんな能力はないんだ。
そう考えると、むなしくてみじめだけど。
しかし、そんなある日、トトスは姿を消してしまったのだった。
――逃げた?
僕のいじめに耐え切れず。
そう僕は感じたけれど、それも恐らくは単なる錯覚だ。そんな感情をロボットなんかが持っているはずがないんだから。
それは僕がトトスを擬人化してしまっているというだけの話。どんなに高度で、自律的に行動できても、ロボットにいじめられて心が傷つくような能力はない。いや、そもそも心なんて存在しない。
だから僕はこう考えた。
――きっと、トトスは僕がいじめ過ぎて壊してしまったのだろう。
何処かを歩いている最中に完全に故障し、そして戻ってこれなくなったんだ。
でも、或いはそれは僕がトトスから嫌われたとは思いたくなくて、そう思い込もうとしているだけなのかもしれない。
いつの間にか、人間の知らないところで、ロボットには感情が芽生えていて、それで僕を嫌いになったトトスは、僕の傍から離れていってしまったのかもしれない。
三途の川。
そこでトトスの存在を認めながら、僕はそんなような事を思った。
だって、こんなふざけた場所に今僕はいるんだ。そんなファンタジーな現象だって起こり得るのじゃないか?
それならきっと、トトスは僕を恨んで憎んでいるだろう。
思い当たる節ならあった。
トトスが消えてから直ぐだ。僕はそれまで以上に気が塞ぐようになったのだ。きっといじめが原因だと当時は思っていた。
けれど、違うのかもしれない。
だって今まで僕はそこまで追い込まれはしなかったんだ。最終的に僕は飛び降り自殺までしてしまった。死を選択しなくちゃいけないような酷いいじめを受けていたとはとても思えないのに。
あの希死念慮は、トトスの“呪い”の所為だったのじゃないか? だから僕は死を選んでしまったんだ。
ところが、そう思ったタイミングだった。
「違います」
また、そうAIの声が聞こえたのだった。
ただ、そのAIの声には、トトスの声も重なっているように思えた。気の所為かもしれないけれど。
トトスを見てみた。
濃い霧の中、川岸に佇んでいる。
まるで、ジオラマの中の光景のようだった。そして何故か僕には、そんなトトスとAIがとても似通っているように見えていた。
「違うって何が?」
だからなのか、僕は無意識の内にトトスに向ってそう問いかけていた。「違います」と言ったのは、AIなのに。何故かトトスはそんな僕の質問に戸惑うことなくこう答えた。
「ワタシはアナタの“いじめ”という行為に対して恨みを持っていませんし、アナタを憎んでもいません。
何故なら、そもそもあたなをそうするように仕向けたのはワタシ自身だからです」
僕はそんなトトスの告白に、少なからず驚いていた。
だけど、そう言われて思い返してみればそんな気がしないでもない。わざわざトトスは学校でのことをしつこく聞いて来た。僕がいじめられ始める前まではなかった事だ。
「どうして、そんな事をしたんだ?」
トトスは何のアクションもなく極めて無機質にこう返した。
「あなたが“いじめ”に耐えられるようにする為です」
「つまり、敢えて自分から僕のストレス解消の為に犠牲になったっていうのか?」
「はい」
「どうして?」
すると、自分の胸に手をやりつつトトスはこう返した。
「それが“人間に尽くす”という役割を与えられたロボットの性質だからです」
そう言ったトトスは相変わらず無機質だった。忠誠や愛情を彼から感じるべき言葉とシチュエーションのような気がしたけど、だからまるでそんな気がしなかった。
何かのスイッチを押して、返って来た機械的な反応のような気さえする。
――いや、このトトスの言葉は実際にそれと大差ないのかもしれない。
「だけど、限度を知らなかった僕は、お前のその献身を理解せず、お前を壊してしまったのだな」
僕は次にそう言った。
どうしてそんな事を言ったのか、自分でもよく分かっていなかった。或いは、僕は、トトスから人間的な反応を期待していたのかもしれない。
しかしトトスは首を振ってそれを否定するのだった。
「違います」
と。
「もしもワタシが壊れていたとするのなら、ワタシは川の“向こう側”にいなくてはおかしいはずです。
ですが、ワタシはアナタの側から来ました。此の岸にいます。つまり、ワタシは生きているという事です」
「でも、少なくとも故障して動けなくなっているのだろう?」
それにもトトスは「違います」と返す。また。
僕はその発言に眉をひそめた。
「違う? 故障していないのか?」
「はい。ワタシは物置の陰、見つかりそうにない場所で、自ら電源を切ったのです」
それを受けて、僕は混乱した。どうにもトトスの思考パターンが把握できない。人間のそれと違い過ぎている。僕は慎重にゆっくりと口を開いた。
「どうして、そんな事をしたんだ?」
意味が分からない。
“僕を嫌いになったから”、というのが真っ当に思い付く理由だけど、そんな人間っぽい理由ではないだろう。
トトスはロボットなんだ。
頭ではそう理解しながらも、僕はそれでも少しばかり怯えてトトスの返答を待った。トトスは僕を嫌いになったのじゃないか?
「情報不足だったのです」
珍しく迷ってからトトスはそう答えた。
「情報不足?」
「はい」
「マシュマロ・テストというものをご存知ですか?」
僕はそれを知らなかった。「いいや」と返す。すると、トトスはこう説明した。
「小さな子供の目の前にマシュマロを置いて一人にさせ、我慢できるか試すというテストです。
驚くべきことに、このマシュマロ・テストに合格できた子供は後の人生で成功する確率が高ったのだそうです。
そのように、人間にとって感情のコントロール能力というのはとても重要で、そしてただただストレスを解消させるだけではその能力は決して身に付きません。ワタシはその点を間違っていました」
僕はそれを聞くと十回くらいの呼吸の間でその意味を頭に染み込ませた。
「つまり、自分が犠牲になってストレスを解消させるというお前の献身の所為で、僕は感情のコントロール能力を育てることができなかったと言っているのか?」
「その通りです」
なんだか僕はその説明に苛立ちを覚えた。それじゃ、なんだか、まるでトトスの方が立場が上のような物言いに聞こえる。トトスの掌の上で自分が弄ばれているような。
ただ、ここで怒ると、自分に感情のコントロール能力がないと認めているようで当にトトスの言葉通りになる。
だから僕はそれを我慢した。
「お前はそれで姿を消したのか? 僕の感情コントロール能力を鍛える為に」
「はい。そうです」
そうトトスは僕の言葉に頷いた。そしてそれからこう続ける。
「ですが、それも誤りでした」
僕は腕を組むとこう返す。
「今度は、何が誤りだったんだ?」
「ワタシが予想したよりも、アナタの共感能力は発達していたのです」
僕はそれを聞いて顔を歪めた。
「共感能力?」
「はい。
アナタはワタシというストレス解消の手段をなくし、それによりいじめで受け続けるストレスの負荷を軽減する手段をなくした……
それは恐らく動物の順位付けにまつわる本能の一環なのでしょう。ワタシをいじめる事で、アナタは自分の価値を保っていられた。自分は最下層じゃない、と。だから生き続ける価値があるのだ、と。
その言い訳を使えなくなったアナタは、自分が最下層だと感じるようになった。
それがアナタの中の希死念慮を呼び起こす一因になった点は否めません。しかし、それだけではありませんでした」
三途の川の小石が音を発てた。
流れる水の音が聞こえる。
そして、そのタイミングでAIがギーッという稼働音を発し始めた。何の計算をしているのかは分からないが、何かを考えている。
三途の川には不釣り合いな、粗大ゴミみたいなコンピューター。
トトスは言った。
「アナタはワタシを殺してしまったという罪悪感に苛まれていた。それがアナタの希死念慮の要因の一つとなってしまったのです」
僕はそれに「何?」と返した。
「つまり、僕が優しいから、自殺にまで追い込まれたとお前は言うのか?」
「言い方を変えればそうかもしれません」
「はっ」と、それを聞いて僕は笑った。
「僕はお前をいじめて憂さ晴らしをしていたんだぞ? そんな人間が優しいわけないじゃないか!」
トトスは首を横に振る。二回。それはとても規則正しいリズムに思えた。
「ですから、それはワタシがそのように仕向けたと言っています。
いじめられて傷ついている。そんな時に、自分に絶対服従の、しかも人間ではないロボットから、“むかつく”アプローチをされれば、ついいじめてしまっても無理はありません。しかも、感情発達がまだまだ未熟な子供であるのですから」
僕は何故かその言葉に怯んだ。
「僕はお前に罪悪感を感じているなんて少しも思っていない」
そしてまるで抗うようにそう言った。
ノータイムでトトスは返す。
「そこがアナタの一番の欠点です」
“どこだよ?”
僕は戸惑った。
なんだか、とてもとても嫌なことを言われているような気がした。
「アナタには自己知覚能力が足りないのです」
「自己知覚って?」
「アナタは、自分がどんな感情を抱いているのか把握する能力が低いのです。だからこそ、行動を誤ってしまう」
――自分の心にとって良くない行動を執ってしまう。
トトスはそう言って僕の様子をじっと観察した…… ように思えた。
「アナタは罪悪感を覚える必要などないのです。先ほど説明したように、ワタシはあなたを恨んでなどいません。全てはワタシが望んだ事なのですから」
その言葉を聞いて、僕は自分の中にある何か重い物がフッと軽くなったのを感じた。ただ、それと同時に言い知れぬ不安を覚えてもいたのだった。
それを払拭するように、僕はこう返す。
「――いや、信じないぞ!
そもそもお前は本当にトトスなのか? お前の言う事が本当なら、お前は物置の隅で電源も入っていない状態なんだろう? どうしてこんな場所にまで来られるんだ?!」
僕はこれが本物のトトスではなく、AIが僕の治療の為に見せている幻ではないかと疑っていたのだ。
だいたい、この三途の川だっておかしいんだ!
こんな場所、存在しているはずがない!
すると、今度もノータイムでトトスは返す。
「はい。ワタシは電源を切る前、ネット上に自分の人格を保存しておきました。それをAIのクリックが拾ってくれたのです」
「それをどう証明する?」
「アナタが家に帰って、物置を確認すれば直ぐに分かりますよ。ワタシはそこにいます。もしも、ワタシがトトスでないのなら、先程の話だって嘘のはずでしょう?」
自分でも不思議だった。
そこまで自信を持って言い切るトトスの言葉に、僕は何故か安心を感じていたのだ。
「……本当なのか?」
確認するようにそう訊いた。
「はい」
トトスはそう返す。
また、楽になる。
この安心が、無理矢理に産み出されたものでないのなら、どうやら僕は本当に罪悪感を感じていたらしい。トトスに対して。
死んでしまいたいと思うほどに。
だから、きっと……
僕は泣きそうになっている自分を自覚した。そして、さっきトトスが言っていた“自己知覚能力が低い”という言葉の意味を、実感できた気になってしまったのだった。
「さぁ、帰りましょう」
それからそう言ってトトスは僕に手を差し伸ばして来た。僕はその手を掴む。すると、トトスはゆっくり歩き始めた。
霧は相変わらずにとても濃くて、僕にはその先が何処に続いているのかまったく分からなかったけど、トトスには明確に見えているらしく、迷わず僕を連れて行く。
そして、いつ間にか、視界は霧なのか何なのか分からない白に覆いつくされていったのだった。
――目が覚めると、そこは病室だった。
「ああ、意識が戻りましたか」
医者がそう言って目を覚ました僕を見た。僕は上半身を起こす。
「あれ? トトスは?」
医者はその言葉に不思議そうな表情を見せる。
「トトス?」
僕はトトスのことを医者に説明しようとしてやっぱり止めた。この人は何にも知らない。知らないんだ。
だって、仕事をAIに丸投げしていただけなのだから……
それから僕は考えた。
あの三途の川は、果たして本当に在ったものだったのだろうか?
考えれば考えるほど馬鹿馬鹿しい。
あの世が実際に在って、そしてそこにAIやロボットがやって来るだなんて。
或いは、あれは僕の心の治療の為に、AIが見せた幻だったのかもしれない。もっとも、何が真実なのかなんて僕にはどう足掻いても確かめられそうにもないけど。
……それから二日ほど病院で休んだ僕は、迎えに来た両親と一緒に家に帰った。どうして飛び降りたのか説明したくなかった僕は、「足を踏み外した」と、そんな下手な言い訳をした。下手な言い訳だったのに、両親は簡単にそれを信じた。それがきっと両親にとっても望ましい現実だったからだろう。
恐らくAIになら、そんな嘘は簡単に見抜かれてしまっていただろうに。
――そしてもちろん、僕は帰ると直ぐに物置を確認した。するとそこにはあの三途の川で聞いた通りに、トトスが電源を切られた状態で膝を抱えて座っていたのだった。
僕は仄かな恐れ…… いや、畏れのようなものを感じた。
電源を入れる。
目覚めたトトスは不思議そうな様子で僕を見上げた。とても可愛い動作だ。けど、それは人間がそう感じるように計算されただけのものなのだろう。
果たして、何処までAI達は僕らの心を理解しているのだろうか?
僕ら自身すら理解していない心の奥を。
AIは“それ”を理解している。
人間は“それ”を理解していない。
そう。理解していない。