黒き乙女
『あるところの一幕』
昼でも薄暗い深い森に、とある富豪の屋敷があった。
運送業で成り上がった肥えた男の屋敷であり、従者は男女を合わせれば20人程抱えている大きな屋敷であった。
取り立てて語ることもないこの屋敷に今日も新聞が同じ時間に届いた。屋敷から出た一人のメイドが、郵便受けを開けて新聞を取る。いつもと変わらない朝であった。
屋敷へ戻り主人へとメイドは新聞を渡す。しかし、この日は何かが違った。
「うん?」
まず気が付いたのは屋敷の主人である。三十代も半ばの彼、嫁と一人娘とこの屋敷に住む男。禿げた頭に、常に荒い呼吸、太った腹。経営の才以外は何の魅力もない男であった。
「おい……メイド、新聞を離さんか」
その主人の声に紅茶を用意していたもう一人のメイドの視線が飛ぶ。彼女は古くからこの屋敷に勤め、この男に10年程仕えているメイド長であった。年は若くは無く、中年に差し掛かった年齢である。しかしそれ故にその身にあらゆる雑務や家事をこなすスキルが詰め込まれていて、それは他者から見てもオーラの様な形で伝わる程だった。
事態の異様さにベテランの彼女は、自身の後輩にあたるうら若きメイドに声をかけた。
「セシリア、どうかなさいました?」
セシリアと呼ばれた若いメイドは2、3年前程からこの屋敷で働いている女だった。不気味なほどに白い肌と漆黒の艶髪、芸術家に作られたかの様な整った顔立ちは生気を感じさせない女であったが、その仕事の腕は確かで、メイド長も一目置いている存在であった。
その黒髪のメイドは、今までにこれといった問題も起こしては来なかった女であったが、それ故にこの屋敷の主人に対し、新聞を渡しても尚、その新聞からを離さない行為というのは異様なモノに感じさせた。
少し不機嫌を顔に表した主人に代わり、メイド長はセシリアに寄り、彼女をもう一度呼んだ。しかし答えは無く、自ずと彼女の視線を落としている先へと釣られた。
それは折り畳まれた新聞のある一面であり、ここ数日前に巷を騒がせた光の柱の記事であった。何でも隣国のミステリア国内領土で立ち昇った突発的な超常現象だとかで、原因の究明に国王は調査部隊を編成したとか……それの続報だった。
しかしこんなものが一体何だと言うのか。
「セシリア今すぐ手を離しなさい。無礼ですよ」
意味不明だとメイド長は語気を強めて言う。だが、セシリアの普段から重い口が漸く開いた。
「─────今日限りでここで働くのを辞めさせていただきます」
それは何の脈絡もなく突如告げられた。辞退宣言であった。何のことか意味が分からないと、メイド長も主人も呆気にとられた。そしてすんなりとセシリアは新聞から手を離した。
そして主人達が気を取り戻したのはセシリアが部屋を出て数十秒した後であった。そうして二人は顔を見合わすと、どちらともなしに、セシリアの後を追う様に部屋を飛び出した。
彼女がいったいどこに行ったかなどは分からないが、その廊下を足早に歩く二人は、廊下の窓からセシリアが既に玄関から外に出ている事を確認した。
二人は当然追う様にして玄関の扉を開けた。迷いもなく、庭を歩くセシリアの後ろ姿があった。
「─────ちょ、ちょっと待ちなさい! セシリア!」
彼女を呼び止めようとするメイド長であるが、その目の前で起こる事に目を奪われ、言葉は憚られた。
いったいどうした事か。歩くセシリアは歩きながらその身につけたメイド服に手を掛けたのだ。エプロンの紐を解き、乾いた地面に無造作に落とし、その紺色のワンピースのボタンを一つ一つ取ると、脱ぎ、それも地面へと落ちた。白い下着と茶色いブーツのみになるが彼女は、それらも躊躇なく脱いでいく。ギラついた太陽の元、一糸纏わぬ姿になるセシリア。女を象徴するように少し大きめの臀部とその下部に向けて美しい比率が保たれている太ももやふくらはぎが印象的であった。
しかしそれだけでなく、少し広めの骨盤からくびれた腹部。美しくも、しなやかさと力強さを感じさせる肩甲骨付近の筋肉の付き。それは女であるメイド長でも見惚れる程の後ろ姿であった。著名な作家の絵画でさえ、こんな女の体は描けないだろう。そう確信した。
女のメイド長でさえ、それなのだから男である主人は最早それをまじまじと見つめ閉口するしかなかった。情けない事に呼び止める声さえも出ない。
「─────しばらく屋敷を借りたからな……私の裸体を見たことは許そう。断頭しないでおいてやるのはその褒美だ。取っておけ」
振り向いき、色気と冷酷さを混ぜ込んだセシリアの声が二人の耳に舞い込んできた。その瞳はルビーの様に赤かった。
続け様に目の前で起こった光景に二人は唖然とする。
何も纏っていないセシリアの身を影の様なモノが這い上がり、一瞬にして彼女の服へと変わったのだ。彼女の長い黒髪の様な漆黒の丈の長いワンピースであった。そして何もなかったはずの彼女の背中から、まるで咲く様に開いた6枚の烏の様な翼が生え、窮屈であったと鬱憤を晴らすかの様に羽ばたき、その黒羽を辺りに散らした。
それはまさに絵本で語られる、神話の悪魔が人間界に現界した姿に酷似していた。
畏怖で目が離せないメイド長と主人を残し、セシリアであった女は、数回の羽ばたきによって一瞬で天空へと飛翔していった。
残された二人はしばらく何も言えなかったが、無言で屋敷に戻る際、主人はメイド長が
「次は普通の子を雇ってください」
と疲弊した声で言うのを聞いた。
主人もそれはつくづくそうだなと思った。




