第九章 門井ネリネ・下
錦成は、かつて王都の中心部だった土地である。往時は絢爛豪華な王城が座し、錦の旗が街路の一本一本にまで煌いたとされる街だが、今となっては荒れ果てた建物の残骸が点々と影を連ねているばかりだ。裸眼では荒い砂埃が目を傷めるため、ゴーグルの着用が推奨されている。生活はなく、片足を引きずった野良犬が食べ物を探して彷徨う、そんな街である。
「中尉、この辺りでいいですか」
「ああ」
今日その錦成に、香綬支部から二十ほどの部隊が、大きな荷物を背負って入ってきた。はっ、と返事をした一等兵が、仲間たちと一緒に下ろした荷物をほどく。白いテントが、かつて父を訪ねてやってくる各国の皇子たちを出迎えるために敷かれた、広い舗道に張られた。ゴーグルの縁に積もった埃を指で拭って、橘は口許を覆っていたマスクを外す。
「肺に砂が溜まるよ」
「ナーシサス中尉」
後ろから諫めるように肩を叩かれて、橘は振り返った。ナーシサスが手振りで、ちゃんと着けておきなさいと促す。かつて大帝が暮らした街の空気は、どんなものなのだろう、と思ったのだ。埃臭いばかりで、栄華の名残を見つけることはできなかったが。
「帰ったとき、君が咳き込んでいたら門井君が心配する」
その名を出せば弱いことを知っているナーシサスが、他の隊員に聞こえないように、マスクを着け直す橘を茶化した。まったくこの人は、と呆れた視線を向けても、どこ吹く風だ。
十月、東黎国は長年に渡って西華の支配下にあった旧王都への総攻撃を開始。南輝・西華との同盟を失って孤立した北明を味方につけ、彼らの援軍を得て、北東から旧王都を斜めに覆うように侵攻していった。
これに対し西華は南輝との同盟を以って対抗しようと試みたが、長期戦を感じ取った南輝が早々に戦線を放棄して撤退。先の戦いで西華と約束した報酬が未払いであるゆえ、財政が厳しく動けないと建前をこじつけ、実質離脱の姿勢を取ったのだ。
思いがけず二対一の劣勢に追い込まれた西華は、初めこそ大量の西鬼を投入して片をつける腹積りのようだったが、破竹の勢いで進む蜂花軍を前に用意が追いつかなくなったのか、年の瀬から旧王都を手放して徐々に撤退を始めた。
そして今日、二月、ついにかつての大帝の地すら明け渡されたというわけだ。
「情報によれば、旧王都にはもうほとんど西華軍は残っていないそうだ」
「とはいえ、諦めたわけではないでしょう。態勢を立て直して、すぐに奪い返しにくるに決まっています」
「私もそう思う。取ったり取られたりの、一進一退の戦況を防ぐためには?」
「立て直される前に、向こうの支部をひとつ奪えれば」
ご名答。ナーシサスがゴーグルの奥の目を細めて、ちらとテントの先にいる青年を見やった。
「シランくんにそう入れ知恵したのは君だろう? カーティス中尉」
「さあ。世間話をしたまでです」
「都市を奪えば物資は潤うが、民間の犠牲者が増える。軍事施設を奪えば、リスクは大きいが民間の被害は少なく、武器も手に入る。君の推奨しそうなことだ」
「どうでしょう。彼も元々、同じ意見だったかもしれません。……とはいえ、あの様子では」
橘も砂煙の向こうに霞む、シランの金の髪に視線を向けた。彼の正面には、支部からの伝令を持ってきた通信兵がいる。雨宮支部長からの最終決定が伝えられているはずだ。それによって明日から、橘たちがどこを目指して侵攻するのかが決定する。
「……民間人は外へ出ろと言っても、隠れてやり過ごそうとするから困ったものです」
「まあ、敵国の軍隊がいかに危害を加えないと言ったところで、信じろというほうが無理な話じゃないかね。実際、そう言って斬りつける愚か者も、残念ながら少なくはないのだから」
電報に目を通していたシランが、悔しげに唇を噛んで、首を垂れた。ぽん、とナーシサスが橘の背中を叩く。
「理想を守れないからといって、自棄になってはいけないよ」
「はい」
「特に今回、君は万全ではないのだからね」
橘は黙って、深く頷いた。
昨夜、ネリネを軍用の馬車で香綬支部へ帰らせたのだ。通常、契約者が長期任務に赴くときは同じ任務に就くのが蜂花の基本であり、彼女も秋からずっと、金杉隊の一員として旧王都を中心とする戦役の後方支援に就いていた。だが年が明けた頃から、どうにも体調が優れない。慢性的な眠気と倦怠感が晴れず、現場でも彼女らしからぬ小さなミスが頻発していたと聞く。このまま更なる激戦の中に連れ出すのは危険だということで、金杉が橘に話し合いを持ちかけ、彼女を一旦支部へ帰すことに決まったのだ。
橘は、本心としては、今ネリネと離れるのは避けたかった。彼女の秘密の共有者となってからというもの、橘は軍とネリネの間に立って、どうにか双方を守ろうと日々画策していたからだ。ネリネに届く指令書の主は、未だに掴めない。橘はネリネから指令の内容を聞き、対象物を書き換えた偽のものを用意したり、情報が相手の手に渡った頃合いで作戦の変更を申し入れたりしていた。つまり、ネリネの任務を成功させ、尚且つ自軍には悪影響が出ないように、双方の調整を行ってきたのである。
幸い、中尉に昇進して自身の率いる部隊を持つようになったこともあり、軍議の場に出席して意見を出すことも可能だった。幼い頃、布団に横たわって遠い世界を眺める思いで読み耽った戦術書の記憶を総動員して、橘は他の将校を説き伏せ、自軍が敵の得た情報通りに動くことのないよう徹底的に作戦を練った。
ネリネと離れてしまうと、そうした影の調整が行いにくくなる。だが金杉の「自らの身を守れない兵を戦場に連れてはいけない」という言い分はもっともであり、反論の余地がなかった。ネリネは話し合いに同席していたが、襲い来る眠気を堪えられず、自分についての話が交わされているというのに舟を漕ぐ始末だ。強引な言い訳を重ねて、金杉に怪しまれても困る。橘は仕方なく、ネリネを帰すことに合意した。
そして同時に、決意をした。彼女を逃がすならば、今しかない、と。
「周りの人間の中で、誰が敵で誰が味方なのか、全然分からない。俺もネリネも、口には出さなかったが、そんな状況に限界を感じていた」
ぽたり、落ちた点滴の雫を見つめていた橘が振り返る。
「このままでは埒が明かない。ならいっそ、この奇妙な体調不良による――今思えば、何か薬を盛られていたんだろうが――精神状態の混乱を装って、どこかへ逃げてしまったらいい。そう考えた」
「確かに、そうしたくもなるわね。でも、貴方は?」
「行けるわけがないだろう。二人で消えたら、逃がしたって証明してるようなもんだ」
「でも、貴方がいなくなったらネリネは生きていけないじゃない」
軍に残った橘はすぐに新しい契約者を宛がわれるだろうが、ネリネは違う。ふらついて、場所も構わず眠ってしまうような状態で、軍を脱してきた身分を隠して新しい契約者を探すことなど、できるというのだろうか?
「それは、あてがあったんだ」
怪訝な顔をする千歳に、橘は少し迷うような間を挟んだが、やがて口を開いた。
「彼女には、恋人がいた」
「……え?」
「俺じゃない。誰だったのか、結局分からずじまいだ」
思いがけない事実に、千歳は口を開けたまま、まじまじと橘の顔を眺めた。ここまでの話を聞いて、てっきり――二人は公私共にパートナーだったのだと思っていた。それでなくとも、ネリネに恋人がいたなんて初耳だ。親友だったあのネリネに、橘も知らないそんな人が――なんだかいけないことを聞いてしまったような、少し寂しいような、色々な感情が湧いて驚きが治まらない。
「一度、彼女に口づけ以上の供給を持ちかけたことがある」
千歳の心臓が、さらにどきりと跳ねた。
「そのときに言われたんだ。学生時代から想い合う人がいて、生きている間にこの戦争が終わったら結婚しようと約束している。いつになるかは分からないが、操はその人に立てている、と」
「そんな、人が」
「いたんだ。はっきりとは言わなかったが、俺と契約している間は結婚できないということは、何となく伝わってきた。つまり相手は、蜂の誰かだったんだろう。それがどういうことか、分かるか?」
「えっと……?」
「俺が彼女とその誰かを、引き裂いたということだ」
自嘲するように、は、と息を漏らして笑った橘を見て、千歳はようやくその意味を理解して口許を覆った。蜂花の契約は、必ずしも軍が決めるわけではない。相性に問題がなく、双方が相手を希望していれば、基本的にはその希望が優先される。
――ねえ、ネリネ。ここの書き方なんだけど……
千歳の脳裏に、ふと甦る光景があった。軍に提出する契約者募集の用紙を、二人で書いていたときのことだ。公的書類に慣れていなかった千歳は、書き方に迷う項目があって、ネリネの用紙を覗き込もうとした。
――ネリネ?
そのとき、彼女は見たこともないほど頬を赤らめて、千歳の前から用紙を取り上げたのだ。
あのときは驚いて、彼女に初めて拒絶されたような悲しい気持ちになって。動揺して、その後に貼った切手の金額も間違えた。今になって分かった。ネリネは、希望する相手の欄に名前を書く人がいたのだ。それを見られたと思って、あんなにも焦ったのだ。
でも、その希望は叶わなかった。なぜなら彼女は、幸か不幸か、
「俺に適合できる、数少ない血液の持ち主だった」
「ええ……」
「ちょうどその頃、香綬支部は俺の適合者を躍起になって探していた。契約者を失って半年、戦場に出られなくなってすっかり隠居生活だったからだ。彼女に初めて会ったとき、大人っぽい目をしているな、と思った。あれは理不尽な偶然を受け入れて、恋人以外の男に身を尽くすと決めた、諦めの覚悟から滲んだものだったんだろうな」
類稀な素質に恵まれた橘を、香綬は宝の持ち腐れにしておくわけにはいかなかった。一組の恋人の希望に目を背け、軍のため、国のために、ネリネを一輪の優秀な花として橘に宛がった。
結果として彼女は――橘のせいではないが、橘の存在によって、恋人と引き離されたのだ。そのことを、誰にも言わずに笑顔で橘と接した。その苦しみは千歳には計り知れず、またそれを知ってしまった橘の苦しみも計り知れなかった。誰にも罪はない。強いて誰かを責めるとすれば、
「私が、切手を貼り間違えたりしなければ」
「千歳」
橘の手が、千歳の口をやんわりと塞いだ。
「そうなっていたら、きっと……東黎はネリネに滅ぼされ、ネリネは罪の意識を抱えて、生きてはいられなかっただろう」
ぐ、と言葉が喉の奥に詰まる。橘らしくもない、憶測ばかりで筋の通らない物言いだった。だからこそ、彼が千歳に自責の念を抱かせまいと、必死に頭を巡らせているのが伝わってきた。
犬死するな、と言ったときと同じ。有無を言わせない目をしている。あのときも、この人はもしかして、必死だったのだろうか。
「俺は彼女に、何度も恋人の名前を訊いた。必ず一緒に逃がしてやる、裏切ったりしないから教えてくれと」
「少尉……」
「でも、彼女は……とうとう言わなかった。一緒に行くのを拒まれたら生きていく気持ちを失くしてしまうから、と言っていたが、それが本音だったのかどうかは分からない。もしかしたら、作戦が誰かに漏れたとき、恋人だけでも守れるようにしたかったのかもしれない。……思い出の場所がある。自分がいなくなったことが分かれば、きっとあの場所に来てくれる、と言っていた。彼女の意思は固くて、俺は名前を訊き出すことができないまま、出発の時間が来て馬車を見送った」
香綬支部からネリネを逃がす計画は、一ヶ月後の夜を決行日と予定した。作戦通りなら、東黎はちょうど一ヶ月後に、西華の都市・青興を目指して兵を進めることが決まっていたからだ。
その前に兵士の療養と物資の補給を兼ねて短い休みを取るので、橘も一度、香綬支部へ戻って契約者からの供給を受けるようにとの通達があった。おかげで誰に怪しまれることもなく、大手を振ってネリネの元へ帰れるチャンスがやってきたのだ。
進軍前夜とあれば、支部全体も落ち着きがなくなっていることだろう。闇に紛れて門兵の目を盗み、ネリネを脱出させることくらい、支部の造りを知り尽くし、身体能力の卓抜な橘にとっては簡単なものだ。あとは蛻の空になったベッドを指して、自分が来たときにはすでにこの有様だったと嘆く、置いていかれた契約者の演技に全霊を注げばいい。
「失礼します」
それまでの間は週に一度、支部へ血液が送られることに決まった。コートを脱いで袖を捲った橘の腕に、新入りと思しき衛生兵が、緊張した手つきで針を刺す。深紅の血がみるみるホルダーを満たしていった。これが通信兵の手に預けられ、点滴を通してネリネの体に入る――と、この衛生兵は思っている。
「ありがとう」
「えっ! い、いえ……全然」
ふ、と思わず笑いをこぼしたら、少女は驚いて、せっかく採取した血液を落としそうになった。そんなに愛想がないだろうか、と自分の顔を思い出しながら、慌てて手渡されたそれを預かる。専用のケースに入れた二本の血液を持って、橘は近くにいた通信兵を呼び止めた。
「頼む」
「はっ、確かに」
少年は受け取ったケースを、丁重な手つきで鞄に入れた。そしてこの先、香綬へ向かう途中にある川で、中身を一滴残らず捨てるのだ。
橘の指示だった。恋人の元へ返す前に、せめてネリネの中にある自らの毒を抜こうと思ったのだ。
花が体内に取り入れた毒を完全に浄化し、新しい契約者を受け入れられるようになるまでにかかる期間は、ちょうど約一ヶ月。自分の血を与え続けていたら、支部を出たとき、やっとの思いで再会した恋人とキスもできない。彼女をできるだけ自由な身にして、自分の手から離してやりたかった。
そのために通信兵の一人と、香綬支部の看護婦一人に声をかけた。下に幼い兄弟を何人も抱えた身寄りのない少年と、酒癖の悪い夫を抱えていつも給与の前借をしている女性だ。たまにはこれで腹いっぱいの食事でもするといい、と言ったら、こちらが何も言わないうちから、お礼に何をいたしましょうと訊いてきた。
通信兵の荷物は、宿営地を出るときにチェックを受ける。だから血液は確かに渡し、宿営地を出た後で、速やかに処分してもらう。代わりに看護婦は薬品庫へ忍び込み、錠剤になる前の、H75の原液を一瓶ポケットに忍ばせている。糖衣に包まれる前のH75は、水に溶かすと血液と実によく似た赤色をしているのだ。
栄養剤を含む点滴に混ぜられたH75が、橘の血液に代わって、ネリネを生かす。
次に会うときは、彼女の中にはもう、毒に似た清らかな薬品が満ちているばかりだ。体内を巡る血中からも、開いた目や、肌を形成する細胞からも、自分の痕跡は跡形もなく消えている。そのときこそが別れだと、
「おや、カーティス中尉。顔色が少し悪いんじゃないかね?」
「どうも、ナーシサス中尉。採血の後でして」
「ああ、そういうことか。向こうで食事が配られているよ。行って、体に栄養を補ってやりなさい」
「はい」
橘は一人、静かな覚悟を決めていた。
支部で過ごす一ヶ月は、一定の水量で蛇口から流れ続ける水のようであるが、戦場での一ヶ月は、バケツを引っくり返したように一瞬だ。幽安支部や黎秦本部からの援軍を新たに迎えながら、橘たちは旧王都を西へ向かって切り拓いていった。途中、往生際悪く残っていた西華の残党や、彼らが置いていったと思われる西鬼の群れを討ち果たしながら。
そしてとうとう、国境を越え、西華の最東端に陣を敷いた。黄昏に深緑の、東黎の国旗を棚引かせて、これより二晩の休息を取り、明後日の夜明けと同時に兵を青興へ進める。
「それでは、行ってまいります」
「ああ。道中、逃げ遅れた敵兵が潜んでいるかもしれない。くれぐれも気をつけて」
外套をはおり、馬の背に跨った橘は、シランに見送られて宿営地を後にした。ここから香綬支部までは、馬を駆けさせれば半日程度で着く。シランが特に速い馬を貸してくれたので、さらに幾分か短縮できる見込みもある。早ければ日付の変わる頃、遅くとも夜明け前には支部の門をくぐり、ネリネの元に辿り着けるだろう。
彼女は今、どんな気持ちで自分の到着を待っているのだろうか。不安、緊張――本当は、そんなものをすべて取り払って、本当の自由の身にしてやりたかったけれど。
(でも、俺にできるのはここまでだ)
力があっても、立場がなければ、できないことがたくさんある。軍の中における橘の地位はまだまだ若手のそれであって、今の橘には、ネリネの犯した罪を捻じ伏せるまでの権力はなかった。だから真実を、彼女ごと逃がす。そうすることでしか、ネリネを助ける道はなかった。
せめてそれだけは、自分がしてやらなくては、と。
手綱を引く手に力を込めて、月明かりにうねる川の傍へ差しかかったとき。
「……え」
何かがふいに、行く手に転がってきた。暗闇の中でじりじりと火花を散らす、握り拳ほどのそれは、
「――――ッ!」
手榴弾だ。気づいて手綱を引いたが、間に合わなかった。馬は唐突な指示に反応しきれず、困惑に嘶いて、そのまま突き進もうとした。振り落とされそうになる力を利用して、橘は鐙を強く蹴り、後方に飛び降りた。
瞬間、何者かに首の後ろを強く叩き込まれた。
「な……っ、この!」
爆発が一瞬、辺りを照らし出して相手の姿を見せた。フードを目深に被っていて、顔は見えない。相手もまた、一撃で仕留められなかったことに動揺したように見えた。
橘はその隙をついて、相手を殴ろうと振りかぶった。だが、馴染みのある眩暈が視界を歪ませた。
(血清剤が……っ)
ネリネを帰してからの一ヶ月、久しく服用していなかった血清剤を使っていたせいで、体が思うように動かなかった。想定と実際の動きにタイムラグが生まれ、拳が相手の頬を掠めて抜ける。フードが切れて、その顔が見えそうになった。だが次の瞬間、真後ろから後頭部に衝撃を受けて、目の前が真っ暗になった。
――照明弾なんかあったのかよ。馬を殺したら代わりがないから、どうする気かと思ったぜ。
――言ったろ、黙って見てろって。
――黙って見てたら、やられかけたくせによく言うよ。
ずきずきと痛む頭の奥で、そんな会話が聞こえたような気がした。うるせえな、と吐き捨てた声と、横たわった耳元に響く足音を最後に、橘の意識は遠退いていった。
目が覚めると、見たことのない天井が広がっていた。
かすかに檜の香りが滲む、木造の建物の一部屋だ。古ぼけた畳が海のように延々と広がっていて、突き当りに立った障子戸から、朝の光が差し込んでいる。
……ここは?
ぼやけた頭を動かして、細く開いた障子戸から覗く景色に目を凝らすと、枕の中でそば殻の動く軽い音が聞こえた。ずいぶん質素な煎餅布団に眠っている。橘は状況が掴めないまま起き上がろうとして、
「い……っ」
ずきん、と痛んだ後頭部に手をやった。その瞬間、意識を失う前の出来事が、フィルムを巻き戻すように頭の中になだれ込んできた。
「失礼しますよ、と。あら、お目覚めでいらっしゃいましたか」
反対側の障子がすらりと開いて、小柄な人影が上がりこんでくる。
「お前……!」
「おお、大きな声をお出しにならんでください。年寄りの耳は小さすぎれば聞こえず、大きすぎても聞こえませんゆえ」
振り返って、何者だ、と怒鳴りかけ――橘は呆気に取られて言葉を失った。そこにいたのは、狡猾な鼠のような男でも、背中を丸めた屈強な大男でもない。
白い割烹着に身を包んだ、いかにも小さな、一人の老婆だった。
「……何者だ?」
「あれまあ、覚えていらっしゃいませんか」
予想外の人物に唖然としながらも、結局、口を噤む前に言いかけた質問と同じことを口にした。橘は動転し、この者が自分に何をしたというのか、どんな手を使っても吐かせるつもりで睨んでいる。だが老婆はそんな視線にも気づかず、はあよいしょ、と橘の近くまでやってくると、
「ここは坂下の小料理屋・しん、と申します」
「……は?」
橘の思いもかけなかった地名を、名乗った。
老婆は眉間に皺を寄せた橘に、仕方のない若者を見る柔らかい眼差しを向けて、
「どこの隊の将校さんだか存じませんが、その制服、騎蜂軍の方でございましょう。貴方様は昨夜、そうですねえ、確かもう日付の変わる頃にここへいらっしゃって。何でもいいから何品か作ってくれと、この婆に仰って、なので里芋と烏賊の煮たのと、もつの味噌煮と、お雑炊と……」
「待て、待ってくれ。それでどうしてこうなる?」
「それは貴方様、常連さんとお話が弾んで、大層お酒をご注文になって。それで二時ごろに、いよいよ店を閉めるってお帰りいただいたと思ったら」
「思ったら……?」
「婆は心臓が止まるかと思いましたよ。坂下の入り口のところで、仰向けになって、どおんと倒れていらっしゃったんですから」
今にもぜんまいが切れて止まってしまいそうな速度で話す老婆を急かして、どうにか聞き出した話は、何もかも身に覚えのない出来事だった。記憶をなくして倒れるほど飲んだ? そんなわけがあるか。料理を注文した? それにしては、腹の底が抜けそうな空腹具合だ。そもそも、坂下に来た? そんなはずがない。だって昨日は――
「ネリネ! ……っ、く」
「ああ、ほら。慌ててお立ちになっちゃ。まだ頭が痛いんでしょう」
「違う、これは何者かにやられて」
「お可哀想に、戦場の夢でもご覧になったんでしょうねえ。座って、お水をほら。何があったか存じ上げませんが、昨夜のことは、わたし共も楽しい時間でしたから、どうも思っちゃいませんよ」
「違う、そんなことを言っているんじゃない。俺は本当に……っ」
振り払った橘の手が、老婆の差し出した水を弾き飛ばした。ああ、と深い皺の奥の、糸のような目を見開いて、老婆が慌てて拭くものを探し、割烹着のあちこちを叩く。
その姿は、本当に、ただの年老いた小料理屋の女だった。
橘は頭の芯がすうっと冷静になっていくのを感じて、胸のポケットに手をやり、ハンカチを取り出して畳を拭った。
「将校さん?」
「……貴方に怒鳴っても仕方ないんだな。失礼した」
老婆がはあ、と急に態度を変えた橘を怪訝そうに眺める。濡れたハンカチを畳んで、転がったグラスを拾い上げて、
「どうやら昨夜の記憶が、ひどく曖昧なんだ。酒を飲んだからではなく、ここに来る前から。……覚えていることを、簡潔に話してもらえないか」
できる限り落ち着いた口調で、再度説明を求めた。
老婆の話は、にわかには信じられないものだった。昨夜、日付の変わる頃、坂下に立ち寄った橘は、彼女の経営する小料理屋に入って食事を注文。常連の男たちと酒を酌み交わして、ひどく上機嫌で羽振りが良かったという。
老婆は主に坂下に住む、軍に勤める者の家族――つまり、女給の親や看護婦の兄弟など――を相手にした商売を、細々と行ってきた。訪れる客のほとんどは年配の男たちで、現役の将校に出すようなものなど、と内心動転したが、橘があまりに気さくで偉ぶらないもので、そんな躊躇はすぐに忘れて自慢の料理をいくつも提供したという。
橘は彼女や他の客を相手に、何かの宴だとでもいうような潔さで飲んで騒いで、深夜、店を後にした。だがその直後、店から数十メートルの路上で倒れているのを発見され、ちょっとした騒ぎになった。
老婆は、楽しくしているようだからといって飲ませすぎた自分にも責任があると思い、坂下の男たちに頼んで名も知らぬ将校を運んでもらった。そうしてもう一度、自分の料理屋兼自宅に連れ戻し、ここ数年使われていなかった客間に布団を敷いて、橘を寝かせたというわけだ。
(何が、どうなってる?)
頭の奥がぐらぐらする。水溜りに倒れて汚れていたからと老婆が洗っておいてくれた外套を受け取り、まだ乾いていないそれを腕に抱えたまま、橘は愕然として店を出た。何一つ、自分の記憶と照合しない。念のために日付も訊いてみたが、やはり一晩の出来事なのだ。
自分が、あの川辺で何者かに襲われたのも。
この坂下で、馬鹿のように飲んで騒いだのも。
「おお、将校さん! 昨夜はご馳走様でした」
「おかげさまで楽しい晩酌でしたよ。またいつでも来てくださいよ、なんつって」
記憶にあるのは、前者だけだ。だが後者を証明する証拠が、あまりにも揃いすぎている。橘は道の奥から声をかけてきた男たちを、顔も見ずにあしらって、痛む頭を押さえて歩いた。あちこちから「あら、昨夜の」と声がかかる。「具合はどう」「何があったの」なんて、何があったのか、そんなのはこちらが知りたい。
食事をした覚えはないと言って財布を見れば、確かに所持金がいくらか減らされていて。殴られた証拠だと頭のたんこぶを見せれば、それは転んで倒れたからでしょうと、面白い冗談でも聞いたみたいに笑われる。まるで自分が二人いたかのような話ではないか。そうまでして――誰がなんのために、自分をここに連れてきたのか?
(……分からないことばかりだ。だが、今はとにかく)
あまりに不可解な状況ゆえか、それとも本当に、この体が大量の酒を飲んだとでもいうのか。はたまた殴られたからか、眩暈に加えて吐き気がする。確実なことはただ一つ。昨夜、自分はネリネに会いにいっていないということだ。
彼女のことだけは、なんとしても片をつけてゆかなくては。切り替えきれない頭を無理やりに切り替えて、支部に向かって、坂下を出ようとしたとき。
「ここにいたのか!」
怒号と呼ぶべき叫び声が、橘に向かって放たれた。驚いて振り返れば、純白の外套に銀の肩章の光る肩をいからせた、
「犀川少佐!」
「探したぞ、橘中尉。君の後に宿営地を出た、通信兵が一人殺されたんだ。君の身にも何かあったかもしれないと思い、急いで追いかけてきてみれば……!」
こんなところで飲んだくれていたとは、何事だ。胸ぐらを掴んで叫んだ犀川のむこうに、申し訳なさそうな顔をした坂下の住民が数人、柱の陰から橘の様子を見守っていた。きっと犀川に訊ねられて、黙っておけずに話したのだろう。昨夜、ここにいたという、もう一人の橘のことを。
「誤解です、犀川少佐。俺は……っ」
「黙りたまえ、これ以上蜂花の恥を曝すな。まったく、前から連帯意識の低い奴だとは思っていたが、戦績が良ければ何をしてもいいなどと勘違いをされては困る!」
その発言に、橘ははっとして、自分の圧倒的不利な現状に気づいた。犀川は橘を、よく思っていないのだ。
将校の中ではまだ中尉という下っ端の階級でありながら、実戦の戦績に優れた橘は多くの者から一目置かれていた。特にこのところは――ネリネを救うための行動の一環だったのだが――軍議での発言も目立ち、いよいよ頭角を現してきた印象があった。飛び抜けてゆく者に与えられるのは、称賛や羨望だけではない。
嫉妬や反感といったものは、必ずついてくる。
「急ぎ戻るぞ。時間がないんだ」
犀川が逃がさないというように、橘の腕を掴んだ。衆目に曝されるのも構わず、橘は大声で叫んだ。
「お願いします。ネリネの……、契約者のところへ行かせてください」
「なんだって?」
「すべての責任は必ず負います。だから行かないと……!」
事情をいくら説明したところで、犀川は話を聞こうとしないだろう。ならばいっそ、この程度の罪は認めてしまったっていい。ネリネに会って、例え今日は逃げられなくても、裏切るつもりは絶対にないと、それだけは示してこなければ。
だが犀川は呆れたように眉を顰めて、はあ、とため息をついた。
「飲みすぎるのも大概にしたまえ」
「え……?」
「私は今、君を探して支部からここへ下りてきたんだ。門兵は昨夜、君を通して、出ていくところを見送ったと言っていたぞ」
頭が、今度こそおかしくなりそうだった。さあ、と急き立てる犀川の前に、少年が二人、それぞれ馬を連れてやってくる。一頭は犀川の馬、もう一頭は昨日、橘がシランから借りた馬だった。もはや橘には、何も言えることがなかった。ぐるぐると考えているうちに、半ば殴るように肩を叩かれ、馬に乗せられた。
血清剤の吐き気が、また襲ってくる。
(……無理だ。今はこれ以上、逆らったところで)
走り出した馬の背に揺られて、橘はそう観念した。ネリネを不安にさせるのは心苦しいが、ここで犀川と争えば、余計に不信感を買って自由を失う。幸い、看護婦はまだH75の原液をたっぷりと持っているはずだ。一週間か二週間か、予定より計画が長引いたところで、素知らぬ顔で協力を続けてくれるだろう。
機を見計らって、もう一度戻ってくるしかない。坂の上に聳える耐火煉瓦の壁を見上げて、橘は心の内で必ず戻ると誓った。そして次の作戦地へ赴き、夜明けと同時に一番槍となって青興へと斬り込み――
十日後、戦地の最前線でネリネの訃報を聞いた。