第八章 門井ネリネ・前
「門井ネリネと申します。今日からよろしくお願いいたします」
真っ赤な明るい髪が、どこか快活で実年齢より少女然とした少女だった。ネリネ。なるほどその名の通りの色だな、と思ったのが最初の印象だ。けれど顔を上げてみれば、一目で実際より成熟していると分かる、知的な眼差しをしていた。
今になって思えば、それは自分と初めて対面したときの、彼女の中にあった諦観とけじめによる大人っぽさだったのかもしれない。
「橘・F・カーティスだ。よろしく頼む」
士官学校時代からの付き合いだった、最初の契約者を亡くして半年。両親の素質を足して割るのではなく、足したまま受け継いだ特異な体質のせいで、保管庫の血液という血液を、もはや性別も問わず片っ端から試しているのに結果は全滅。せっかく曹長まで昇ったが、このまま寝たきりになって戦線から消えるしか道はないのか。半ばそう諦めかけていたところに、彼女は突然現れた。
「お顔の色が優れませんね」
「ああ、これは――」
血清剤のせいなんだ、と。元より無愛想に見られやすい自覚はあったので、せめてもの弁解をしようとした。新しい契約者に会いたくないわけでも、迎える気がないわけでもないのだが、如何せん大量の血清剤を服用しているせいで、頭がふらついて少しばかり気の利いた挨拶をすることもかなわなかった。
見るからに若い、女学校を出たばかりの少女だ。こんないかにも死にかけの、寝間着姿で愛想もない男に引き合わされて、さぞかし心の中で軍に来たことを後悔しているだろうな、と橘は思った。
だが、ネリネは迷いなく歩み寄ってくると、「失礼します」と両手で橘の頬を挟んで、背伸びをして顔を近づけた。
「お前、何を……っ」
「色々考えてきたのですけれど、お話は後で。こんな具合の悪そうなお姿を前に、挨拶もそこそこに、とか細かいことは言っていられませんわ。だから今は、」
契約者の務めを、果たしましょう。
唇の掠めるような距離でそう言った、ネリネの申し出の意味が分からないことはなかった。ただ、純粋に驚いてしまって、橘は唖然と立ち尽くしていた。
ネリネはそんな橘に、ゆっくりと首を傾けて、
「……ごめんなさい、あの」
「あ、ああ。どうした」
「自分からするって、どうしたらいいか分からなくて。……して、くださらないかしら」
青灰の眸の眦を、困ったように下げて言った。返事を、何かしたのかどうか、ろくに覚えてもいない。ただ貪るように口づけながら、頬に触れた手を聖母のそれのように清らかなものに感じた。
それが、橘とネリネの出会いだった。
「どうかしら。少しは頼りがいのあるように見えます?」
花繚軍の白制服をベースに、コートを体のラインにフィットする短さに仕立てて、下は動きやすくタイツとキュロットに。銀ボタンの装飾はそのまま、裾や袖に施された紺色のラインが、どことなく水兵の装いのようでもある。
花繚軍後援部隊、金杉隊。ネリネが配属されたのは、数ある衛生兵を中心とした部隊の中でも、最も稼働率の高い優秀な部隊だった。新人でここに配属されるのは珍しい。隊長である金杉本人が指名して呼び入れたというから、尚のことだ。
「いいんじゃないか」
「見もしないで言うんですから」
「女学生には見えなくなったな。これでいいか?」
姿見の前でくるくるとポーズを取っていたネリネが、鏡の中で嬉しそうに橘を見る。入隊初日、上官の数人から「医務室なら向こうだよ」と言われたのを気にしているのだ。どうやら坂下の、女学生アルバイトだと間違われたらしい。
大人っぽく格好いい女に見せるために、と言って崩さずに着こんでいる制服が、お仕着せの入学式みたいで余計に初々しいのは黙っておくべきだろう。戦争で孤児になったが、以前はそれなりに大きな家の娘だったらしい。垣間見える生真面目な性質や、のびやかに見えて他者に気を配る性格が、確かにそうだったのだろうという片鱗として今も煌いていた。
「それ、制服でも着けるのか」
ぱちん、と響いたかすかな音に顔を上げれば、華やかな赤髪に一匹の蝶が留まっていた。艶のある黒漆の、片側に朝露のような透明の石を垂らした髪留めだ。本物の鳳蝶より一回り小さいが、翅の形は丁度、そんな感じの作りである。
彼女は咎められたと思ったのか、ああ、と居心地悪そうに目を逸らして、
「やっぱり、いけません?」
「危険ではないが、落としても知らないぞ」
「そうですよね。どうしようかしら……」
鏡の中で、耳の上に留めた蝶を不安げにいじった。
「外しておけばいいだろう。戦闘中の髪型なんて、誰も見ない」
「そうなんですけれど、お守りみたいなもので」
「お守り?」
「親友と色違いで買ったんです。女学校の卒業祝いに、ずっと一緒にいようって」
思いがけない理由に、橘は読んでいた本をテーブルへ置いた。そうなのか。呟くように言うと、ネリネは何も気にしていない様子でええ、と答える。てっきり人目を意識しての装飾品だと決めてかかっていたことを、橘は少し思い改めた。同時に、その約束が今はどうなっているのか気になった。
「その親友は、どうしているんだ?」
「黎秦で仕事をして暮らしています。まだ契約者が見つかっていなくて」
「一人なのか」
「ええ。私と一緒に血液のサンプルを送ろうって言ったんですけれど、彼女、うっかり切手を貼り間違えてしまったみたいで。料金不足で返送されてきたのを、また急いで送り直したんですよ。元気でやっているかしら……」
懐かしむような言葉の端に、心配が滲む。それが会いたい気持ちの裏返しだということは、相手を知らない橘にも伝わってきた。早く契約者が見つかるといい、と言いたいところだが、同じ支部に配属されるとも限らない。遠くの支部に離れてしまえば、二度と会えないことだってある。安易には何とも言えず、曖昧に首肯を返して、席を立った。
「橘さん?」
「貸してみろ」
後ろに立った橘を鏡越しに見上げて、ネリネが驚いた顔で瞬きをする。髪留めをさらりと持ち上げて、橘は指先で、見た目よりも軽いそれの構造を確かめた。
「下にもう一本、目立たない色のピンでも留めるといい」
「えっ」
「それなら落ちないだろう。前線に出るわけでもないしな。心配なら、別のピンを留め金の穴にも通しておいたらいい」
呆気に取られた表情で聞いていたネリネの頬に、ぱっと花が咲くような紅色が差した。眸の芯からじわじわと、その顔に微笑みが広がる。
「試してみます。ありがとうございます、橘さん」
礼を言って、彼女は鏡の中から出てきたように橘へ向き直った。頬に手を滑らせると、すべて分かっている様子で目を閉じる。ネリネは自分から供給を求めることはなかったが、橘から少しでも求めれば、どんな小さなサインでも見落とさずに応えた。使命に従順で、蜂花という特殊な軍の中にあっても、常に場を和ませる笑顔を絶やさない。
彼女はまさしく、花だったのだ。
「今思えば、もっと気にかけてやるべきだった」
ぽつりと、夢から覚めたように橘が呟いた。ベッドの脇に寄せた丸椅子に腰かけたまま、千歳は林檎を剥く手を止めて、彼の顔を見た。
殺菌消毒の行き渡った真っ白なシーツに横たわって、橘は六月にしては晴れた午後の空を眺めている。まるでその奥に、一房の赤毛のひるがえるのが今も見えているみたいに。
「最初の印象が鮮烈だったからなのか、俺には無意識に、ネリネに対する安心と甘えがあった。安心と言ったら言葉が良すぎる。慢心とか、油断というべきものだ。こいつは大丈夫だろう、という、正体のない信頼だな」
「少尉……」
「それほどに、彼女はしっかりして見えた。慣れない環境にきたばかりで、色々と辛いこともあっただろうに、そんなそぶりは微塵も見せなかった。俺の契約者というだけで、下卑た冷やかしや無責任な期待もたくさん負っていただろう。それに対する辟易を、俺にぶつけてくることもなかった」
けほ、と橘が小さな咳をしたので、千歳は傍にあった水差しを差し出した。起き上がろうとする彼を制して、林檎の香る手を貸して水を飲ませる。少し動いたからか、橘の眉間に細い皺が寄った。
「休むなら、カーテンを閉めましょうか?」
「いや、平気だ。とにかく、そうやって彼女の明るさを鵜呑みにしていた俺は、」
点滴の粒が管を落ちる。痛み止めによる眠気や血清剤による倦怠感が襲っているはずだが、彼は一気に話してしまいたいようだった。昨夜、次に起きたときにすべてを話すと言った約束を、彼なりに果たそうとしているのだろう。千歳はそれならばと、黙って水差しを横に置いた。橘が日差しを遮るように、瞼へ手の甲を当てる。
「彼女を信頼していたが故に、その笑顔の偽りに気づけなかった」
初夏に金杉隊へ入ったネリネの活躍は、順風満帆の一言に尽きるばかりだった。責任感が強く愛情深く、献身的で勇気がある。衛生兵になるために生まれた少女、という言葉が、半年もしないうちに彼女の周りを取り巻くようになった。
人並みの失敗もしていないわけではなかったが、持ち前の気丈な笑顔で、経験不足による挫折は難なく乗り越えていった。そんな姿がまた健気に映ったのだろう。彼女は隊長の金杉からも常に目をかけられ、傍で仕事を学びながら助手のような雑務をこなすのが、いつしか日常になっていた。
「いいのかい? 君としては」
「何がです?」
「あれだよ」
その師事ぶりは、いくらか低俗な噂話の対象にもなるほどで。あるときラウンジでシランが指を差した先にいたのは、私服姿で向かい合う金杉とネリネだった。白い花の柄を染め抜いた萌黄の着物に臙脂の袴を合わせたネリネと、ラフなセーター姿の金杉は、父と娘ほども年が離れている。だが父娘というには艶めいた眼差しを向け合っているというのが、自称観察眼に優れた噂好きたちの話す、もっぱらの真相だった。
熱いコーヒーの香りを肺に回すように息を吸って、橘はそれを浅いため息に変え、淡々と答えた。
「前から思っていたのですが、シラン少尉」
「なんだい?」
「ここには娯楽がなさすぎるのではありませんか。もしくは、出動が足りずに体力を持て余している兵士が多すぎるのか」
シランは一瞬きょとんとした表情を浮かべて、それから盛大に声を上げて笑った。その声に気づいたネリネが、橘を見つけて驚いたように目を瞠る。
「前半は同意するよ、坂下まで足を伸ばせば色々とあるけれど、なかなかね。後半は、今の僕たちが言うと本当にひどい嫌味だな」
ええ、と吐き出すように笑って、橘はネリネから視線を外した。上官といるときは、上官との話に集中すべきだ。こちらのことは気にしなくていい。火を吹く西鬼に焦がされた袖を掲げて、シランはまだ少し笑っている。彼は時々、どういう風の吹き回しかは知らないが、戦闘の後に橘をラウンジへ誘うのだ。
「ただの師弟でしょう。金杉大尉のほうは、どうだか知りませんが」
コーヒーを傾けて、橘は言った。娯楽の少ない閉鎖環境では、人間はほんのわずかな煌めくものを見つけては飛びつく。その煌めきが輝きであれ疵であれ、構わずに。ただ目に触れたものを片っ端から、話のタネにして膨らましているに過ぎないのだ。
「言い切るね」
「契約に影響が出かねないような関係を、あいつがそう簡単に受け入れるとは思えませんから」
成程、とシランが頷いた。見ればネリネはもうすっかり、橘のことなど忘れたかのような顔で金杉の話に聞き入っている。視線の外し方ひとつで意図が通じ合うことさえも、この頃になると当たり前になって、別段驚いたりはしなかった。
それくらい無意識に、橘はネリネを軍人としても契約者としても、一人の人間としても信用するようになってきていた。
「ラウンジではご挨拶もできなくて、すみません」
その晩、ネリネが部屋へ来て開口一番、申し訳なさそうに言った。挨拶、と言われて一瞬なんのことだったか思い出しあぐねたが、橘はすぐにああと納得して、首を横に振った。
「気にするな。俺も気にしていない」
「よかった」
「お前は、気にしているのか? 俺たちが話していたことを」
半分は鎌をかけたようなものだったのだが、ネリネは少し眉を下げて、曖昧な微笑みを浮かべた。聞こえていたというわけではないだろうから、自分とシランの雰囲気から、何か感じ取れるものがあったのだろう。噂や陰口の対象にされている気配というのは、離れていても不思議と分かるものだ。
「俺は、気がかりがあればお前に直接訊く」
「橘さん」
「訊いていないということは、何も気にしていないということだ。暇な連中のお喋りに、振り回される必要はない」
ネリネの表情から、ほどけるように力が抜けた。はい、とたった一言の短い返事だったが、そこには色々な言葉が込められていたように聞こえた。それにしても、と橘は改めてネリネに向き直り、
「金杉大尉は、よほどお前を信頼しているようじゃないか」
「そう見えますか?」
「傍目に見てもそう思ったんだ、お前のほうがずっとはっきり感じているだろう。他の隊員の妬みを買わないようにだけ、気をつけておけよ。あの人を慕っている連中は少し、崇拝気質が目立つからな」
「肝に銘じておきます」
忠告には肯定も否定もしなかったが、ネリネはそう言って笑った。それからふと、暗くなった窓の外を見やって、
「……光栄な話ですわ。でも……」
「ネリネ?」
「どうして私など、信じてくださるのかしら」
囁くように呟かれたその言葉が、妙に耳へ残って、蜘蛛の巣に絡んだ虫のように鼓膜の上で震えた。
無意識に口を開く。だが橘が何かを言うよりも、ネリネが借りていた本を棚に戻すべく背中を向けたのが早かった。
「まあ、これも面白そう! 橘さん、また借りていってもいいですか?」
どの本を指しているのかもろくに見ないまま、橘は半ば上の空で了承の返事をした。女学校を出てから本を読む機会がなかったとかで、彼女はよく橘の本棚から、目についたものを持っていっていた。先日貸した本の感想を述べる声と先刻の声とが、とろみを持った水のように耳の奥で混ざり合う。
――どうして私など、信じてくださるのかしら。
その言葉の端々がわずかに、西華のイントネーションを含んでいたことに、橘が気づいたのはネリネが部屋を後にしてからだった。
門井ネリネ、満十八歳。東黎国南部の大都市・栄景の生まれ。三代続く薬問屋の娘だったが、南輝との戦争の折、家族を亡くして天涯孤独となる。孤児院で年下の子供たちを世話して暮らし、まもなく十五歳になったのを機に軍営女学校へ進学。入学試験時の成績は学業、魔術共に上位五名へ数えられる。在学中は茶道部に所属し、活動の一環として行われた華道で学校からの表彰を受けた経験が――――
「芍薬を活けたんだ」
投げ出すように呟いて、橘は開いていたファイルを乱雑な手つきで閉じた。まだ比較的新しいファイルは、黴の匂いの代わりにインクの匂いを漂わせている。蜂花第三資料室――ここを訪れるのは誰でも可能だが、あまりやってくる人間はいない。用もなく来るような場所ではないし、第一、奥にある血液の保管室が異様に存在感を放っていて、薄気味悪いのだ。
ファイルを戻して廊下へ出て、橘はフウと煙草に火を点けた。下を向いていた首をほぐすように上へ向ければ、初春の空に羽を伸ばした淡い太陽の光が目に沁みる。窓を開けて、肺に沈殿した資料室の空気を交換するように、しばしそこへ凭れて外の景色を眺めた。
――大した収穫はなかったな。
吐き出す紫煙に、なあ、と、そんな自分への言葉をかける。まったくだ。心の内で自答して、冷たい風に晒された目を細めた。
契約者・門井ネリネに関して。彼女には何か、自分の知らない過去があるのではないかと思って調べにきたのだが。結論としては無駄足を踏んだ。蜂花たる者、軍に対して自らの経歴を誉も罪も隠蔽すべからず。そんな信念のもと、第三資料室には軍に在籍する者のありとあらゆる記録が保管され、開示されている。だがそこで見つけた彼女の資料には、橘がこれまでに本人から聞いた話以上の、これといった興味深い記載はなかった。
所詮、誰にでも開示されている資料から分かることなど、その程度だろうか。だがこれはれっきとした軍の調査書だ。これ以上に正しい資料など、そう存在しまい。
桟に溜まっていた雨水で煙草の火を消して、橘は帽子のつばを下げた。金杉大尉について話したあの日以来、ネリネの様子に、これといって変わったところはない。彼女があまりに今まで通り接してくるものだから、何となく、あの日の話を探り直すタイミングもないまま今日まで来ている。
下手な蒸し返し方をすれば、まるで彼女を疑っているかのように聞こえかねない話だ。東黎の出身者が、なぜ西華の言葉を使えるのか、など――自分だったら、問われた時点で内通の疑いをかけられているのだと身構える。聡明で、素直で、常に自分のことを思って尽くしてくれる契約者に、無用な疑いの目を向けて悲しませたくはなかった。
……西華訛りをほんの少し操れる人間なんて、いくらでもいる。
例えば同級生の家族に亡命者がいるだとか、軍の支部の近くに住んでいて、捕虜が連れてこられるのを見たことがあるだとか。流暢には話せなくても、言葉の特徴を真似して遊ぶくらいのことは、戦争が長引くこのご時世、子供の悪ふざけでも珍しいものじゃない。
そう、悪ふざけだ。あれは彼女の、ちょっとした冗談だったのではないか?
橘はそう思い至って、眉間の辺りがすっと軽くなった心地がした。そうだとしたら蒸し返すのなどお門違いも良いところで、彼女は西華訛りを使ったことすら忘れているかもしれない。女学校では勉強の一環として、西華訛りの特徴も習っただろう。たまたまそれを、会話の弾みで、そろそろ気の置けない間柄になってきた自分に振っただけではないのか?
考えついてみるとそれが一番自然な気がして、橘は納得と同時に、勘繰りすぎた自分を間抜けに思った。そもそも、本当に西華の内通者であれば、あえて西華訛りを表に出すわけがない。
「橘准尉」
「ああ、弟切」
つかえの取れた胸を撫で下ろして、部屋へ戻ろうと歩き出した足を、最近入ったばかりの二等兵・弟切の声が呼び止めた。振り返った橘を見て、彼は切れ長の眸をわずかに見開き、
「何かありましたか」
「いや? 何故だ?」
「笑っていらっしゃいましたので」
指摘されて、橘は自分の顔に手をやった。もういつものお顔です、と抑揚のない口調で弟切は言う。氷が解けて、下にあった湖が姿を覗かせるように、真理は今まで見えなかったのが可笑しいくらい、あっさりと橘の前に現れた。
「大したことはないんだ。ただ……」
「はい」
「自分が馬鹿でよかったと思うことがあった。それで、何の用だ?」
はあ、と釈然としない表情を浮かべながらも、弟切は持ってきた報告書について相談を始めた。その肩越しに、第三資料室のドアを見やってつくづく、思う。
自分はあの場所に、ネリネの隠している真実を探しに行ったつもりだったが、違った。彼女が何も隠してなどいないという事実を、確かめに行ったのだ。馬鹿な勘違いと気づいてほっとしているのが、何よりの証拠である。
青白い紙風船にオレンジの火を入れた提灯が、あっちでもこっちでも、人波をかき分けて泳ぐように揺れている。同じ光が頭上にかけ渡されたロープにも点々と灯されていて、辺りは異郷に迷い込んだ趣と、子供たちのはしゃぎ声で溢れていた。
「まあ、見てください! 大きな綿あめ」
同じようなはしゃぎ声がひとつ、橘の隣で上がる。提灯の火に照らされた青灰の眸を爛爛と輝かせて、ネリネが腕を引っ張り、人垣の先にある屋台を指さした。店主がこちらに気づいて、にっと白い歯を見せて手招きをする。せめて私服に着替えてから来ればよかったな、と、金の飾りが目を引く軍服を見下ろして、ネリネの手を引き剥がした。
「ほしいなら行ってこい」
「はい。橘さんは?」
「俺はいい。ここで待ってる」
注目が集まり始めているのが気まずくて、ほら早く、と半ば追いやるように行かせれば、ネリネは笑って屋台のほうへ駆けていった。白を基調としたその制服には、暗闇のおかげで目立たなくなっているが、所々に薬品の汚れが見える。
毎年、夏の盛りに香綬支部が行っている、一夜限りの夏祭り。主に坂下の子供たちや、蜂花の子供たちを喜ばせるための行事であるが、大人も参加できる。日頃は血腥い戦闘ばかりに駆り出される毎日だ。軍人の中にもこの日を楽しみにしている者は多く、子供に交じって恥ずかしくもどこか楽しげに、見知った顔が歩いているのを結構見かけた。
橘は毎年、窓から提灯の群れを眺めるだけだったが、ふと思い立って祭りのことをネリネに話してみたのだ。思った通りというか、思った以上にというか、彼女は今日をいたく楽しみに待っていた。女学生時代、一度だけ友達と行った夏祭りのことを、毎夜のように話して聞かされた。きっとその相手は、揃いの髪飾りを買った娘なのだろう。
祭りの始まる直前に緊急出動があったが、幸いにして、騒ぎが大きくなる前に食い止めることができた。おかげで後始末に時間も取られず、制服姿のまま、若干遅れてではあるが、こうして祭りに合流できたというわけだ。
「お祭りの食べ物って、どうしてこんなに美味しいのかしら」
風に吹かれた髪が綿菓子の糸と絡まりそうになるのも構わず、ネリネは買ってきたばかりの白い山に顔を埋めた。持たされた提灯を、食べ終わるまで預かっておくことにする。紙風船の表面には、薄い透かしの模様が入っている。……これは金魚か。風に揺れてちらちらと泳ぐ様を見つめていたら、ネリネが言った。
「ねえ橘さん、勝負しましょう」
「何を?」
「先に一匹、取ったほうの勝ちよ。勝ったら負けたほうに、なんでも一つ、訊きたいことを訊けるっていうのはどうですか?」
ほらあそこ。綿菓子の纏いついていた割り箸を飴のように口へ入れたまま、悪戯っぽい目で指を差す。彼女が示した先には、子供たちで賑わう金魚屋台がひとつ、安い電飾をいっぱいに巻いて煌々と建っていた。
朝がきたら水槽と餌を買ってきて、入れ替えが済んだらネリネの部屋へ移そう。
そう話していた金魚は、朝がきてみれば丸瓶の水面に横たわって死んでいた。祭りの生き物の命は短い。それは誰しもが子供の時分に学ぶ暗黙の了解であるが、それにしたって住処と餌くらい与えさせてくれて、一週間や一カ月は生きていたっていいものを。
「あとでどこか、野良猫に見つからない場所に埋めてあげるからね」
ガラス瓶のなだらかな肩を指で撫でて、ネリネは安心させるようにそっと語りかけた。昨夜は彼女のポイにお前が飛び乗ったせいで、物心ついたばかりの頃の幼い初恋の話など語らされる羽目になって散々だったのにと、そんな数時間前の恨みさえ今となっては少し懐かしい。
久しぶりに飼った生き物は、なんの構えもない場所にやってきて、なんの構えもないうちに死んでいった。悲しむに至るだけの、なんの思い出も残さずに、だ。無であることの寂しさが、見開いたままの魚の目から、漠然と押し寄せてくる。
「橘さん」
ネリネの手が、そんな言いようのない感情を汲み取ったように橘の腕を撫でた。
「西華では、小さな生き物の死は悪いことではない。その生き物は天の使いで、あなたの命を守るために身代わりとしてやってきたのだ、と言います」
橘は思わず、眉をひそめて、
「ここは東黎だ」
「ええ、そうですわね」
ネリネはその反応を見越していたように、穏やかな表情で受け流した。にこりと微笑みかけられて、橘のほうがたじろぐ。先刻までは漠然と虚しいだけだった浮いた魚の腹が、ふいに何か、薄ら寒くて気味の悪いものに思えて足を退いた。
橘の手は無意識に、ふだん刀を下げている左の腰へ向かっていた。
「ネリネ」
「はい」
「お前、何か……俺に隠していることがあるんじゃないか?」
ネリネは答えない。
「昨夜も、本当は俺を勝たせたかったんだろう。勝って、俺がお前に――何を訊くのを期待している?」
問いかけながら、橘は自分の言葉が確信に変わっていくのを感じた。彼女は最初からそのつもりで、勝負を持ちかけたのだ。ところが橘は子供の頃、血清剤のせいでいつも体調が悪く、夏祭りなど行ったことがなかった。当然、金魚すくいも初めての経験だった。おろおろしている間にポイは切れ、結局、勝負は無難な秘密を打ち明けるだけの遊びに終わった。
敵を前にして刀を握るように拳を握り込んだ橘を見て、青灰の眸が、ふっと寂しげに揺れる。
「言ったら、あなたは何者として私を罰しますか?」
「え?」
「契約者として、東黎の軍人として? ……はたまた、私を監視する者として、だったりして」
ネリネの言葉に、橘は息を呑んだ。彼女は笑顔を崩さない。まるで窓の外から、天井から、床下から、今も誰かが見ていると信じて演技を続ける女優のように、微笑みを張りつけたまま、声だけをひそめて言った。
「分かっているんです、きっとあなたは紛れもない東黎の人」
「ああ」
「でも、私にはその確信がない。だから怖くて、言えなくて――……お願いです。もしあなたが私の監視者ならば、今から背中を向けますから、そこにある刀で一思いに斬り捨ててください」
「そんなこと……っ」
「違うのならば、秘密を暴いて。……私を、捕らえてください」
呆然とする橘に、まるで普段、それではと立ち去るときのように軽やかな会釈を残して、金魚の入った瓶を手に、彼女は出ていった。
「その、数日後の話だ。俺が第三資料室から、大量の血液サンプルをどこかへ持ち出そうとしたネリネを取り押さえたのは」
包帯から指先だけ覗かせた手で林檎をひとかけ取って、橘は懐かしい記憶の苦さを呑み込むように、それを口へ入れた。さり、と瑞々しい音が静まり返った部屋に響く。千歳は自分が剥いた林檎に手を伸ばすのも忘れて、愕然とした表情で橘を見つめていた。
「ネリネは……、西華の人だったってことなの?」
「端的に言うとそういうことだ。西華の人間というか、西華から送り込まれた諜報員だな」
「諜報……」
「まあ、こっちもケイみたいなのを送り込んでいる。やってることはお互い様だ」
「それは、そうだけど」
「門井ネリネ、本当の名前はネリネ・ファンブレー。出身は西華国東部・蝋蝉。七年前の東黎と南輝との競り合いに紛れて、東黎に侵入。一家全員が死んだ門井家の娘を偽って、孤児院へ入り込み、将来的に軍の支部に潜り込むため、女学校へ進学したそうだ」
こぼれた果汁を舌先で舐め取って、橘は淡々と語った。
ネリネの両親は若い頃から過激な言動の目立つ思想家で、蜂花軍を抜けた元軍人でありながら、反東黎を掲げて大帝争いに疑問を投げかける活動を続けてきた。その結果、とうとう軍から指名手配を受け、三年間の投獄がされている。釈放後、彼らは監視の目を掻い潜り、西華への亡命に成功した。一年後、彼らは西華で赤子をもうけた。
その子供こそが、ネリネ・ファンブレー。母親譲りの真っ赤な髪と、父親譲りの知的な青灰の眸をした一人娘である。
「亡命した二人の後ろ盾になっていたのは、西華の皇帝だった。それで一人娘を、将来あなたのお役に立てましょうということで、幼い頃から諜報員にするために育てたんだ。東黎訛りを仕込んで、父親が契約者になって、母親が花として魔術を基礎から叩き込んでな。東黎はいかに残虐で非道な国かという教育を、物心つく前から徹底的に行った」
「そんなの、洗脳だわ」
「そうだ。だがネリネにとっては、それが家であり、日常だったんだ」
想像して、千歳は思わずかぶりを振った。どんな暮らしなのか、思い描いても想像が及ばなかった。
戦争は多かれ少なかれ、洗脳の戦いだ。恨みのない相手と殺し合うことはできないから、自らを護るために敵を恨む。だが無垢な子供に意図した敵愾心を植えつけることは、戦争を次世代まで長引かせる要因に他ならない。何より、我が子に嘘を教えることへの抵抗はないのだろうか。千歳は実の両親を覚えていないが、自分を育ててくれた施設員はそんなことをしなかった、と思い出して目の奥を熱くさせた。
実際には、嘘の教育こそ施していなくても、「蜂花は軍に入るために生まれた」と教育することも軍に絶対服従させる一つの洗脳ではあるのだが。橘はあえて、今は千歳をこれ以上戸惑わせないよう、そこには触れずに話を続けた。
「ネリネは香綬支部の情報を盗み出して、指定の場所に届ける仕事を行っていた。指令書が、気づくとポケットに入っているんだそうだ。誰が入れているのか、いつ入れられたのかも分からない」
「その人が、ネリネを監視していた人なの?」
「それも分からない。内通者は一人とは限らないだろう?」
ネリネは橘が自分を始末しようとしたのではなく、口を割らせようとしたのを見て、ようやく彼が監視者ではないと確信を得られたようだった。橘の部屋で、鍵もカーテンも閉め切って、震える声をひそめて明かした。
自らのやっていることに、疑問を持っていることを。諜報員をやめて、ここで純粋に、一人の衛生兵として働きたいと思い始めている。けれどそうなったとき、誰が自分を始末しに来るのか分からないから、周りのすべてが敵に見えて誰に打ち明けることもできず、黙って従わざるをえないのだ。
橘は頭を抱えた。ネリネにこれまで盗み出したものを訊ねたところ、東黎がかなりの損害を受けた敗戦時の作戦書などが含まれており、彼女の存在が西華にとって、少なからず勝因となっていることが明らかだったからだ。役立たずの諜報員であれば捕虜にもしておくかもしれないが、彼女が引き起こした災いの大きさを思えば、東黎は彼女を許すことはできない。一旦は捕虜として情報を搾り取った上で、必ずや処分するだろう。
ネリネ自身は自らの盗んだものの大きさが理解できておらず、そのときになってようやく、捕虜になっても生きては釈放されないという事実が呑み込めてきたようだった。震える体に力を込めて、気丈に分かっていないふりをする姿が痛々しかった。誰しも、悪事の罰として与えられる死が楽なものではないことくらい、分かっている。
「そんなに何もかもを恐れていたのに、どうして貴方に本当のことを話したくなったのかしら」
千歳は未だに戸惑いを整理しきれないまま、不思議に思って訊ねた。
「分からないか?」
橘がまっすぐ、千歳の眸を覗き込む。
「お前だ、千歳」
「私?」
「お前と出会って、友達になって、あいつは自分に植えつけられている東黎像が歪んでいることに気づいたんだ。お前があいつの、洗脳を解いたのさ」
千歳は驚いて、黒水晶の眸をこぼれんばかりに瞠った。橘の眦が、ふ、と柔らかく滲む。
「初めて本当に私を想ってくれる人に出会った、と言っていた。お前にとってだけじゃなく、あいつにとっても、お前はこの世で初めて見つけた家族みたいな存在だったんだろう。何かの役に立つからではなく、無償の愛をくれる存在を見つけて、敵であるはずの世界を見る目が変わったんだそうだ。あいつは、国だの軍だのじゃなく、お前を裏切れなかったんだ。俺に助けを求める勇気が出たのも、全部、お前がいたからだろう」
仄かに林檎の香る指の背で、橘が千歳の瞼の下をなぞった。それが涙を拭う仕草だと気づいて、千歳は慌てて顔を背け、袖で乱暴に目元を擦った。一度でも泣いてしまったら、堰を切ったように泣き出して、これ以上の話を聞けなくなってしまう気がしたのだ。
橘はそれを察したように、また林檎をひとかけ取って、口を開いた。
「俺はネリネに、このことは誰にも言うなと口を封じた」
「ええ……」
「言ったら、彼女は助からない。彼女は命令に従わざるをえない状況で、利用されていただけだ。先に彼女を操っている者を炙り出して、そいつに西華との内通を認めさせてから軍に事情を訴えれば、きっと命だけは助かる」
「黒幕を探し出そうとしたの? 二人だけで」
橘が頷いた。
「そうするしかなかったから、やると決めたんだ」