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花に蜜蜂  作者: 十夜凛
7/25

第七章 雨の中の死闘

 坂下の移転には、一カ月も時間を要さなかった。町全体が立体のパズルを成していた坂下は、香綬支部から徒歩十分ほどの、東黎軍が保有する土地に以前とほとんど変わらない姿で復旧を果たした。地理的には反対の方角に移動したので、実質〈坂上〉とでも言うべきなのだが、そこは馴染んだ名前のままで呼ばれている。

 桜の季節の終わりと共に、支部にいた人々もそれぞれの家へ引き揚げていった。日常を取り戻したような、広くなった支部を寂しく感じるような、どっちつかずの落ち着かない気持ちを抱えたまま皐月は過ぎる。入れ替わるように訪れた、雨と新緑の水無月。

「次。ナーシサス隊所属、薊千歳」

「はい」

「一等兵昇級、おめでとう。今日の気持ちを忘れず、今後も尽力したまえ」

 深く頭を下げて、千歳は雨宮支部長から新たなバッジを受け取った。銀色に輝く薔薇を模したそれは、これまでのものと違って、花の下に刺のある葉が一枚潜んでいる。

「おめでとう」

「ありがとう。……お陰様でね」

 ケイが上官を代表して、千歳の襟にそれをつけると、ナーシサス隊の面々から拍手が起こった。今年に入ってから花繚軍に入隊した者の中で、戦績の優秀な上位三十名を一等兵に昇格する。千歳は見事、その枠に選抜されたのだった。


「この度は本当におめでとうございます」

 すすき色の髪がなだらかな肩を伝って、せせらぎのように流れ落ちる。出会い頭に深々とされた、洗練された礼の所作に、千歳は思わず見惚れてしまって危うく押し黙るところだった。

「ありがとう、巴。でも大げさよ」

「なぜです?」

「まだ一等兵だもの。そんなに難しい昇格じゃないわ」

 昇級式でもらった祝いの品――金券と缶入りの菓子――を部屋に置いて、正装から袴に着替えて出てきたところで巴と顔を合わせた。実家の用事で一週間ほど支部を出ていたのだが、昨日無事に戻ってきたそうだ。ケイから聞いてはいたが、よもや二人の間で自分の昇級についても話されているとは思っていなかったので、思いがけない祝福に照れくさくなってしまった。

 それに実際、二等兵から一等兵への昇級は時間の問題だ。遅かれ早かれ、一年も経てばほとんどの二等兵は一等兵になる。たまたま、他より一歩早く駒を進めたというだけの話にすぎない。

 今日の昇級式を見て、自分も後に続くぞと意識を新たにした者も多くいるだろう。浮かれていたら、呆気なく追い抜かれてしまう。素直に両手を上げて喜びたい気持ちと、油断は禁物だという気持ちの間で揺れすぎて、振り子のように酔いそうだ。控えめに礼を言った千歳に並んで歩き出しながら、巴はそんな心境を察したように、くすりと笑った。

「橘少尉にご報告は?」

「一応したけど」

「あの方は、なんと?」

「階級が上がったからといって実力が上がるわけじゃない、無茶はするな、って。いつもそればっかりよ」

 愛想のない契約者の口調を真似て、腕を組んでじろりと巴に視線を投げる。まあ、と目を丸くして、彼女は口許に手を当てて笑った。巴がそういう仕草をするときは、本当におかしくて、声を上げて笑いたいときだけだ。

「そっくりですこと」

「ちょっと、やめて。自分でやっておいてなんだけど、似たくないわ」

「ケイにも見せてあげたい」

「しばらくネタにされそうじゃない……、というか、ケイも昇級だったわね。おめでとう」

 上等兵だったケイは、西華軍における諜報活動の成果が認められて、今日の式で兵長に昇格を果たした。部隊内でも彼の評価は高く、もっと上の階級を、という声も聞こえてくる。きっと兵長でいる期間は、あまり長くないだろう。

「ありがとうございます。これからもお世話になりますわ」

 謙遜も驕りもなく、淑やかに返されたお辞儀に、千歳はまたも見惚れそうになってううんと唸った。すっかり友人として接しているが、やはり端々に滲む物腰の美しさを見ると、本物のご令嬢だなあと感心せずにはいられない。実家から戻ったばかりだからか、肌も髪も色つやが良くて、今日の巴は特にそう思えた。

 しかしながら当の彼女はといえば、家庭の事情で特別に休暇を優遇されていることを心苦しく思っている。今日も休みだというのに医務室へ行って、一週間のあいだに記されたカルテを読んでくるそうだ。

「あ、それじゃあ私、こっちだから」

「はい。また今度、お茶でもご一緒しましょう」

 正面に目的の部屋が見えてきたところで、千歳は巴と手を振って別れた。階段を下りていく背中を見送って、初めて入るドアをノックする。返答はない。千歳は「失礼します」と声をかけつつ、第三資料室とプレートを下げたその部屋を開けた。

 途端、古い紙の匂いが鼻孔いっぱいに押し寄せてきて、くしゃみをひとつする。資料庫とは聞いていたものの、確かにこれは、と中を見回してみると、奥に目指す部屋の入り口が見えた。

「あった。本当に、部屋の中にある部屋なのね」

 呟く声に応える声はない。静かすぎると独り言を言いたくなるのは、この部屋の空気が濃密すぎて、なんとなく空恐ろしいからだろう。ぎっしりと収められたファイルの数々は、半分くらい、上部に赤い付箋が貼られている。故人だ。過去百年の蜂花のデータが集められているのだから、すでに彼岸の人も少なくはない。

 千歳が用のあるのは、書庫の奥の血液保管室だった。一年前に契約者を探して送った血液の、交換期限が間もなくなのだ。昨夜医務室で採取してもらって、昇級式が終わったので届けに来た。ケイや巴から話を聞いて、夜に一人で訪れるには不気味な部屋だという気がしたので、昼間に来たかったのである。

「うわ……」

 ボタンひとつで開く磨硝子のドアをくぐって、千歳は自分の予感が正しかったことを痛感した。細い硝子の容器に入った血液が、無機質な銀色のステンレスと白色のプラスチックで組み立てられた棚にずらりと並んでいる。鮮やかな赤、深い赤、濃い赤――一周回って美しいようにさえ見えてくるから不思議だ。

 千歳はその中から、事前に渡された管理番号のラベルと同じ番号を探して、棚の間を歩いた。幸い、棚にはそれぞれ何番から何番までのサンプルが収められているかシールで記してあったので、すべてのサンプルの間を闇雲に歩き回る必要はなかった。近くなってきた番号の棚で立ち止まって、容器を十本ごとに収めている白いケースの、汚れひとつない縁に貼られたラベルをひとつずつ確認していく。探していた番号が、千歳の目に飛び込んできた。

「あった。……あら?」

 そこに、千歳の血液サンプルはなかった。十個並んだ穴のうち、ひとつだけ空白があり、そこが千歳の名前と管理番号を記した置き場所だった。容器の代わりに、細長い札が立てられている。

〈持出中〉

 真っ白な紙に赤いインクで判を捺された、一枚の札だ。そういえば、ここにある血液は香綬勤務の研究者たちが実験のサンプルとして使うこともある。そんな話を最初に聞いた。

 あのときはなんの実験なのか、深く考えなかったが。千歳は他にも所々、同じ札を差されて持ち出されている血液があるのに気づいて、滴が水面に染み込むように、ひたりと、実験の意味を理解した。

 適合する血液を探し出しているのだ。今の契約者が、いなくなってしまったときのため。

 花も蜂も、戦争に参加している以上、いつ何時、誰が帰らぬ人となってしまってもおかしくはない。そうなったときのため、契約者がいても、他の候補者を見つけておくことは当然の発想だ。

 どんなに強い人だって、いついなくなるか分からない。いなくなってから次の契約者を探し始めたのでは、もう薬の効かない千歳など、間に合わずに死んでしまうかもしれない。だから、こうして軍が事前に探している。

「……ありがたいし、必要なことよね。そうよ、いつ何があるかなんて、分からないんだから……」

 契約者がスムーズに見つかれば、蜂花にとっては苦しむ時間が減る。軍にとっては貴重な兵士を失わずに済む。双方にとって良いことだと頭では分かっているのに、千歳は自分でも戸惑うくらい、衝撃を受けていた。

 橘だって、いついなくなるか分からないのだ。

 そうなったら自分は――どうするのだろう?

「……や、どうするも何も、やっと自由になるだけじゃない」

 ふと浮かんできた自問に首を振って、自答を返す。橘はいつかいなくなる、そんなの前から分かっていたことではないか。そのためにここまで、大人しくついてきたのだから。

 復讐の相手がいなくなった後のことを想像して、置いていかれたみたいな気になるなんて変な話だ。そもそも自由になったところで、自分ではきっと軍の追跡を逃れられない。囚人として捕らえられるに決まっている。将校を一人殺めるのだ。そんな花の最期など、自分で幕を引くのが早いか、軍が引鉄を引くのが早いかの差だろう。

 どちらも今さら儚むような命ではなかったっけ。

 千歳は馬鹿げた感傷を振り切るように一人笑って、サンプルを些か乱暴に指定の場所へ差した。代わりに引き抜いた札は、古いサンプルを戻しに来た職員が気づくだろうと思って、近くに置いておいた。



 降りしきる雨の中を、警報ベルの音がけたたましく鳴り響いている。時折響く雷鳴にかき消されないよう、最大級に張り上げた音量で。鼓膜がびりびりと震えるような音の只中で、西鬼がもたげた真っ白な首が、稲光に照らされて光った。

「風兵、いけ!」

 号令に従って、あちこちから風の刃がその身を切り裂く。純白の体に無数の傷が走って、こぼれた黒い灰が雨の中を舞った。

 西鬼・蛇神型――全長が三十メートルはあろうかという巨大な蛇だ。それが体をくねらせて、猛スピードで郊外を進んでいるという情報が入ったのが数十分前。どうやら香綬支部を通過して、そのまま東黎西部の市街地へ入るつもりだったようだが、迅速な出動によって直前で食い止めることに成功した。

 敵の数は一体。蛇行する動きが読みにくいが、表皮は柔らかく、攻撃も通りやすい。平時であったらさほど苦戦する相手ではなかっただろう。だが今回は、敵が天気を味方につけた。

 真っ白な体表は、隙間のない細かな鱗に覆われている。鱗は水を纏ってぬめりを帯び、激しさを増す雨の中で巨体の動きを滑らかにさせた。対するこちらは、いかに強化されたところで人間だ。衣服は水を吸収すれば重くなり、視界は悪く、足元は滑る。

 魔術も天気の影響を受けた。放った術が雨に当たって威力を削がれる上、火に至っては瞬く間に消えてしまうような雨脚の強さになったのだ。水は敵との相性が良すぎて、ろくな損傷を与えられない。

 火兵である千歳も、雨が弱まらない限りはできることがなく、風兵や土兵が立て続けに指示を受けるのをもどかしい思いで見守っていた。戦いの様子を見る限り、負けはしないだろう。だが、悪天候の中を身一つで動き回っている、前線の騎蜂軍の消耗は激しい。

「避けろ!」

 誰かが声を張り上げた。蛇神が尾の先を真横へ向けて持ち上げたのだ。次の瞬間には、水たまりを裂く音と共に、長い尾が薙ぎ払われる。飛沫が千歳たちのところまで飛んできて、コートや頬に泥を跳ねさせた。飛びのいたり、距離を取ったりしてどうにか避けた騎蜂兵たちを、休む間もなく反対側から返す尾が襲う。

「木兵!」

 弾き飛ばされた兵士たちを、辺りから伸びた木々が受け止めるが、それが西鬼の怒りに触れた。蛇神は真っ赤な舌をチロチロと震わせて引っ込めると、持ち上げていた首を叩きつけるように地面へ下ろし、突如として一帯を猛然と這い回ったのだ。

 一瞬の静けさの後に、叫び声と水のしぶく音が渾然一体となって辺りを包んだ。花繚軍が次々に騎蜂兵を助け出そうとし、騎蜂兵の多くがそれに救われて逃げるか、自力で場を離れるかに走った。鱗の滑りを利用して規則性もなく暴れ出した巨体を前に、まっとうに立ち向かったところで勝ち目はない。

「掴まるんだ!」

 ナーシサスが投げた蔓草のロープには、太い尾に囲まれて行き場を見失っていた兵士たちが次々と手を伸ばして、引き上げられた。その中には橘の姿もあって、千歳は後方から、彼が地面に降り立ってナーシサスに礼を言うのを見た。

 だが、そのときだった。

「弟切兵長は……?」

 橘の後に降りた兵士が、救い出された顔ぶれを見渡して不思議そうに言ったのだ。瞬間、橘の表情が凍った。まさか、というように彼が背後を振り返ったとき、鞭のように暴れる蛇体のあいだから、大きなカーキ色の飛沫がひとつ宙を舞った。

 その手を離れた剣が、弾き飛ばされてさらに高く舞う。

「――弟切!」

「カーティス少尉!」

 弾丸のように走り出した橘の足が、力強く地を蹴る。ナーシサスの手は橘の外套を掴んだが、留め具のふもとの布地が裂け、手には外套しか残らなかった。一分の迷いもなく、橘は跳躍し、軍刀を抜いた。

 すべての状況に思考が追いついて、千歳が息を呑めたのは、そのときになってようやくだった。

「橘――」

「橘少尉!」

 駆け出しそうになった千歳の前を、彼の部隊の隊員たちが血相を変えて飛び出していく。勢いに驚いて足が縺れ、彼らとの間が大きく開いた。転びかけた千歳の肩や腕を、傍にいた名も知らぬ人々が次々に支えてくれた。

 すべてがスローモーション映画でも見ているようだった。地面に叩きつけられた弟切が、蛇神の体に泥水を跳ねかける。その感触に動きを止めた蛇神の、石榴の両目が弟切を捉えた。獲物を見つけたようにチリ、と舌が覗いて、三角形の切り込みを持つ口が大きな菱形に開く。

 象牙色に光る牙が弟切に向かってまっすぐに下りた瞬間、橘がその間に滑り込み、弟切を自分の下に庇うようにして、軍刀を頭上に突き上げた。

 蛇神の口が閉じ、真っ白な鼻先に、ぱっと鮮血が飛び散る。辺りが一瞬、静寂に包まれた。

「――カティ兄さん!」

 ケイの叫び声と同時に、橘の体が、糸の切れた人形のように弟切の上に倒れた。背中に一直線の牙の痕があり、それがみるみる血で染まって見えなくなっていく。弟切の手が震えながら、自分を覆っているものの正体を確かめようとして、ぱたりと水たまりに落ちた。

 その手のひらに、黒い灰が落ちる。

「騎蜂兵、かかれ!」

 号令と同時に、仰け反った蛇神の口の中から何かが落下してきた。それは橘が突き刺した軍刀だった。上顎を貫いた軍刀が脳神経まで到達したのだろう、蛇神は正気を失ったように灰をまき散らしながらかぶりを振っている。攻撃の手が緩んだ敵を見て、橘隊を先頭に、騎蜂軍が一斉に襲いかかった。

「カーティス少尉!」

 駆け出したナーシサスとケイと共に、千歳も走った。折り重なった二人の足元が、真っ赤に染め上げられていく。シャアア、と空気の抜けるような西鬼の断末魔も聞こえずに、水たまりをかき分けて、掴んだ肩はぞっとするほど冷たかった。

 雷鳴が一際大きく、空の彼方に轟いた。



 樋を伝う雨の粒が、どこかで漏れてティン、ティン、と金属管を叩いている。ティン、ティン、ティティンと、三度に一度、二粒分の大きな水滴となって落ちる。

「失礼します」

 不規則なようで規則的なその音を、聞くともなしにずっと聞いていた千歳は、カーテンの開かれる音で我に返って顔を上げた。清潔な制服に身を包んだ看護婦が、手に銀のトレーを持って立っていた。

「様子はいかがですか」

 質問に、どう答えたらいいか分からない。

「相変わらずです。目が覚めなくて」

「かなりの怪我ですからね。一命は取り留めていらっしゃいますから、いずれ覚めるとは思いますが……」

 どうにか答えたら喉が引き攣れて、千歳は自分がもう何時間も水一滴口にしていなかったことを思い出した。もしかして、それを確かめるために質問されたのだろうか。飲みますか、と看護婦がトレーから差し出したのは、温かそうな湯気を立てる紅茶だった。

 礼を言って、素直にカップを受け取る。湯気の中にかすかな蜂蜜の香りがして、消毒薬の匂いばかりが充満した医務室の空気に染まっていた千歳の体内を、柔らかく解いていってくれた。でも一口飲んで目を開けたところで、間近に揺れた琥珀色の水面を見て、ふと息が止まりそうになる。

 橘の眸の色に、よく似ているのだ。

「薊さん」

「すみません」

 千歳の手が震えたのに気づいたのだろう。看護婦が熱を測る手を止めて、千歳の背中を擦った。大丈夫です、私よりも、と途切れ途切れに言って、その手を向けられるべき人に返す。

 体温計を当てられて、脈を測られても、ぴくりとも反応せずに眠ったままの橘に。千歳はカップをサイドテーブルへ置いて、その顔をそろそろと覗き込んだ。

 右の肩から左の腰にかけて、一直線の裂傷。

 それが今日の戦いで、橘が負った傷だった。早急に止血と縫合がされ、命は取り留めたものの、深夜になった今も意識が戻らない。同時に運び込まれた弟切は、全身を強く打って左腕の一部に骨折が見つかったが、蜂の生命力にも助けられて夕方には意識が回復した。

 車椅子で橘の元を訪れ、千歳の顔を見るなり、動かないはずの体を深々と折って詫びようとした彼の顔は、鎮痛剤を打っても広がる痛みのせいか、精神的なものか、まだあの激しい雨の中にいるかのように真っ白だった。無事でよかった。千歳は心からそう言った。弟切が目を覚ましてくれなかったら、橘が目覚めたとき、どんなに絶望するだろうと思ったのだ。

「薊さん」

「はい」

「今晩、ここでお休みになりますか?」

 うっすらと赤や黄色に透き通った点滴のパックを取り換えながら、看護婦が訊いた。千歳は思わず、橘に視線を向けた。日頃、人を寄せつけない鋭さを纏っている目元が、今は眸を造られる前の彫像のように、静かに伏せられている。白皙の肌に落ちる月の影は青く、金の睫毛が針のように並んでいて、触れたら指に突き刺さりそうだ。

 息をしていることのほうが、嘘みたいに静かな姿をしている。

「お休みになるのでしたら、ベッドを用意しますから、いつでも声をかけてください」

 黙り込んでしまった千歳に、看護婦はそう言い残して、他の患者の様子を見に出ていった。置いていってくれた紅茶の存在を思い出して一口飲み、休むのか休まないのか、思考のまとまらないまま、また橘の顔を覗き込む。

 ティン、ティティン、と――すっかり弱くなった雨の粒を規則的にこぼす樋の音に耳を傾けながら、千歳はもう何度目ともなしに、今日の光景を思い返していた。

 ――弟切。

 そう言って駆け出した橘の、一切の躊躇いもなかった後ろ姿が、瞼に焼きついている。自分の命が危険に曝されるのも顧みずに、彼は弟切を庇うことを、あの一瞬で選んだ。たった一人の命を、諦めなかった。

 思えばいつだってそうだ。橘は他人の命を諦めない。千歳の初陣のときにも、最後まで翼を断ち切って花繚軍を救おうと奮闘していた。犬死にするな、結果を急ぐな、無茶をするな。戦いに関して、これまでに彼から言われたことも、要はすべて「死ぬな」、その一言に尽きる。

「……ねえ、橘少尉。貴方って、本当に――……」

 布団の上から胸に手をのせて、かすかな上下を確かめ、千歳は月の光にも焼けそうな橘の顔を見下ろして、その先の疑問を呑み込んだ。信じていたものが揺らぐとき、人はこんなにも心細くなるのだと知って眩暈がする。荒野に一人投げ出されたような、行き場のない気持ちだ。

 千歳は椅子に腰かけたまま、紅茶を飲み干して、布団の上に突っ伏した。そうしていつしか寝息を立て始めた背中に、巡回の看護婦が毛布をかけていった。



 本棚には持ち主の性格が表れるとよく言うが、橘の本棚は左から背の順に並べられていて、きっちりと隙がない。おそらくもう新しい本は入らないし、本を取るときには、背表紙の上に指をかけて取らないと出せないだろう。

 こういう本棚というのは、増やすことではなく、減らすことによってのみ作られる。元から所持していた本を、本棚の大きさに合わせて手放した。そういう人の棚だ。

 辞典とチェスの本と、軍出版のいかにも貰い物らしき数冊以外は、みな紙のカバーがかかっていてタイトルが読めない。秘密主義で、人に自分の内面をさらけ出すことを嫌う。そんな性質をまざまざと見せつけられているような光景である。

 ――十二時になったら、空になりますので。パックをここに付け替えてくださいね。

 二時間前、部屋にやってきた看護婦に言われたことを思い出し、千歳は膝の上に広げていた本を閉じて立ち上がった。小説を読む時間や体力を久しぶりに得たものの、気がつくと別のことを考えていて、読書は思うように進んでいない。いっそやめてしまえばいいのだが、何かを手にしていないと、それはそれで落ち着かないのだ。漠然とした心細さから気を紛らわす手段として文字を追っているだけだから、物語など、ほとんど頭に入ってはいない。

「……いい天気」

 サイドテーブルに置いた点滴のパックを取るのに手を伸ばして、千歳はふと窓の外を見上げ、眩しさに目を細めた。昨日までの雨が空気中の塵を一切合切、払っていったのだろう。フィルターをなくした光の明るさと、空の青さが目に沁みる。瞼を閉じていても、この明るさは忍び入ってきそうなものだけれど、橘は頑なに目を瞑ったままだ。

 蛇神型との戦闘から、今日で三日目。橘が目を覚ます気配は、未だない。

 軍医はできる限りの手を尽くしたといい、容体を鑑みてもすでに命の危機は脱している。怪我の影響か高かった熱も、今朝方、幻のように引いていった。カーテンの間仕切りしかなく、他の患者の呻き声や咳が飛び交う医務室よりも、静かな環境で体を休められるだろうとの判断で、昨日から自室のベッドに移されている。

 千歳はナーシサスに命じられて、橘が目を覚ますまで暇をもらっていた。そのほうが橘にとっても、千歳にとっても安全だろうとの判断だ。彼も契約者であったローズを亡くしたまま、自分はそれを感じさせず戦場に立ち続けているのに、部下には気を配る人である。申し訳ない、と思ったが、足を引っ張ってもいけないので言いつけに従った。

 ――弟切。

 飛び出していく橘の姿を、あのときから何度思い返したか。一人で考えても答えの出ないことを、堂々巡りで考え続けている。

 透き通る点滴の粒が管を一滴ずつ流れ始めたのを確かめて、千歳は空になったパックを手に、もう片方の手を着物の袷へ当てた。――ネリネ、貴方に会って訊けたら、何もかも分かることなのに……

「なんて……、無茶な頼みよね。あーあ」

 軍帽を脱ぐと、橘は少し幼くなる。無防備な寝顔をベッドに腰かけて覗き込み、千歳はかぶりを振って、食事を摂ってこようと立ち上がった。そうしてドアを開けたところで、思わぬ人と顔を合わせた。

「わ……っ、と」

「ケイ」

「ごめん、丁度ノックしようとして。ここにいたんだ」

 叩こうとしたドアが急に開いて驚いたようだったが、千歳と目が合うなり、ケイはすぐに手を下ろした。ええ、と頷いた千歳にやんわりと眸を和らげて、肩越しに部屋の奥へ視線を向ける。

「具合は?」

「相変わらずよ。でも、熱は下がったの」

「そうなんだ」

 ほっとした口調が言外に「よかったじゃん」と言っている気がして、千歳は曖昧に頷いた。今朝、見舞いに来た弟切も同じ声の調子をしていた。左腕を包帯で吊るして、彼は全治一ヶ月の予定だそうだ。

「先生からは、蜂としての能力が高いってことは生命力も高いはず。だからあとは本人次第だし、きっと大丈夫だって言われたわ」

「ん、そうだね」

「でも、こうも目が覚めないと、何だか変な感じで。……契約者だから傍にいるけど、花ってこういうとき、何もできないのね」

 管を伝い落ちる点滴の雫を見ながら、思ったのだ。もし橘と立場が逆で、自分が蜂だったなら、この中に数滴でも血を混ぜてやれば少しはその回復の役に立つかもしれないのに、と。血の気のない頬で横たわる橘を見て、何度となく今ならその首に手をかけられるという思いもよぎったが、同じくらい、自分がその状況を変えられないことにも無力感を覚えた。

 彼が弟切を庇うのを見た瞬間から、分からなくなってしまった。橘が本当に、千歳の思い描き続けてきた冷酷非道な性分なのかどうか。分からなくて、ぐるぐると一人で考え続けて、少し疲れた。

「そうだよ。花は受け取ることしかできない」

 苦笑した千歳を見て、何か切羽詰まったものを感じ取ったのだろう。ケイが淡々と、諭すように言った。

「そういうものなんだ。それ以外はいけない」

「ケイ?」

「千歳は十分よくやってるよ。あんたこそ、大丈夫?」

 言葉にかすかな引っかかりを覚えたのも束の間、質問を返されて千歳は瞬きをした。

「こんなに供給が断たれたの、久しぶりでしょ。体調悪くなったりしてない?」

「ああ……、そういうこと。まだ特に不調はないわ」

「ならいいけど。隊長が気にしてた、元気なら後で顔出しておきなよ」

 言われてようやく、そういえば色々と気を回してもらったのに、一度も自分からナーシサスに会いに行っていなかったと思い至る。ケイは軽く微笑みを浮かべて、励ますように肩を叩くと、千歳の横をすり抜けて部屋へ入った。お邪魔します、と眠ったままの部屋の主に声をかけて、傍へ歩み寄る。

「しばらくここにいるから、何か食べてきな」

「ケイ……」

「あんたまで倒れたら、僕が二人を見る羽目になるんだからさ」

 ほら行った、と追い払うように手を振るわれて、千歳は久しぶりに自分の口角が上がったのを感じた。


 昼食を終えた千歳が橘の部屋に戻ったのは、結局日の暮れ始めた頃だった。本当はすぐに戻るつもりだったのだが、ケイの「肌が死んでるよ」という歯に衣着せぬ指摘に押されて、自室のベッドで昼寝をさせてもらったのだ。昨夜、橘が医務室から自室での看護に移ったものだから、なんとなく人目の少ないのが心配で、傍でうとうとして夜を明かしてしまった。

 自分ではそれでも十分眠ったつもりでいたのだが、多分体より、精神的に疲れが溜まっていたのだろう。上官命令に甘えて少し眠るつもりが、目を覚ましたら三時間以上経っていて飛び起きた。

 ケイはといえば、千歳が置いていった小説を読み耽って時間を潰していたようだ。途中、巴も顔を出したという。これ面白いね、と興味を示した様子だったので、礼も兼ねて本は彼に貸した。どのみち、読んでも覚えていられないのだから、何の本でも構わないのだ。

 そろそろまた、点滴が空になる時間である。千歳は時計を見て、看護婦が置いていったトレーに手を伸ばした。本来なら彼女たちがやってくれる仕事だが、千歳がやり方を教えてほしいと頼んで任せてもらっている。些細なことでも、何かできることを見つけられると、花の無力を少しだけ忘れられた。

 最後の一滴が落ちるのを見届けて、パックを新しいものに付け替えたとき。

「……ん……」

 ふと、小さな声が静寂にこぼれた。思わず管から手を離して、真下に眠る橘の顔を見る。

「橘少尉?」

「……おま、え」

「少尉!」

 薄く、室内の明かりさえ眩しげに細められた目が、瞬きをした。乾いた唇から漏れた声に、千歳はええ、と枕元に手をついて顔を近づけた。琥珀色の眸が、眉間に苦しげな皺を寄せて、千歳を見つめ返す。

 ちゃり、と千歳の髪留めの雫が揺れた。瞬間、橘の唇が震えるように開いた。

「……ネリネ……?」

 千歳の黒水晶の眸が、こぼれそうに大きく見開かれた。それを見て、橘もはっとしたように目を開いた。

「橘少尉、」

「悪い。お前か……、ッ」

「あっ、だめ! 急に起きないで、傷が開いちゃう」

 がたん、と揺れた点滴台の音と背中に走った痛みとで、橘は自分がベッドにいたことに気づいたらしい。思わず支えた千歳の腕に助けられながら、ゆっくりと上体を起こして辺りを見回した。

「蛇神型との戦いで怪我をして、三日間眠ってたの。治療が済んだから、先生の指示で貴方の部屋に移したわ」

「ああ……」

「弟切兵長なら、無事よ」

 橘の背中から、どっと力が抜ける。千歳は、彼が目覚めたら一番に訊きたいだろうと思っていたことを端的に伝えた。そうか、という短い言葉の後に、長い安堵のため息が橘からこぼれた。心を落ち着けて、状況を整理するようにがしがしと前髪を崩した彼を見つめて、千歳はそっと椅子に腰を下ろした。

「どこか辛いところは? 眩暈とかしない?」

「問題なさそうだ。……立つには少し時間がかかりそうだが」

「動くのは、先生に診てもらってからにしたほうがいいと思うわ。点滴、外れちゃったわね。看護婦さんを呼んでくるから、これで押さえて」

「ああ、悪いな。……千歳」

「なに?」

「ずっとここにいたのか?」

 針が外れて、腕に滲んだ血にハンカチを当てる。橘の視線がサイドテーブルに置かれた本やカップに注がれているのを見て、千歳は肯定とも否定ともつかない、曖昧な微笑みで首をゆるく揺らした。

 立ち上がって、慣れた手つきで点滴の落ちるのを止め、落ちた布団を橘の脚にかけ直す。

「看護婦さんを呼んでくる」

「……ああ」

「……一つだけ、先に確かめてもいい?」

 空になった点滴のパックを持って、ドアに手をかけながら、千歳は訊いた。

「なんだ?」

 橘が怪訝そうに聞き返す。

 ビニールのパックを握る千歳の手は、かすかに震えていた。手だけではなく、足も、声も震えていた。目を合わせたら眸まで震えだしてしまう気がして、

「ネリネを殺したのは、貴方じゃないわね?」

 深く息を吸って一思いに問いかけ、振り返った。橘の琥珀色の目が大きく見開かれ、これまでに見たことのない表情で、ゆっくりと凍りついた。


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