第六章 坂下の戦い
それからの千歳の日々は、がらりと姿を変えた。昼夜を問わず鳴り響くベルに叩き起こされては、弓矢を手に戦場へ駆けつける毎日。部隊には週に二日、交代制で休みが与えられていたが、そのうちの一日は合同訓練に費やされる。目覚めては戦い、泥のように眠り、研鑽し、食事を流し込み、また眠る。一週間が飛ぶように過ぎ、そんな一瞬の束でしかない一カ月もまたあっというまだ。
気づけば春の足音に青銅門脇の梅の花がほろりと開き、建物に沿ってかき分けられていた雪は薄い氷に変わった。氷の下は小さな泡ができている。内側が解けて、水を湛えているのだ。
弥生の初旬の風に髪を絡ませながら、そんな景色をしげしげと眺め、千歳はため息をこぼした。
「私って、自分で思ってたより不器用なのかもしれないわ」
「あら、どうしたんですか?」
「忙しさに目が回って、季節が変わったことにも気づかないなんて。黎秦にいた頃は、こんなことなかったんだけど」
ひとつのことに集中するあまり、他のことが何も考えられなくなるなんて、子供みたいだ。呆れながら抱え直した紙袋が、腕の中で乾いた音を立てる。
買い物に行ったのなんて、いつ以来だろう。黎秦で体調を崩す前だから、ほとんど一年ぶりということになるかもしれない。給金ならここへ来てから、工場にいた頃の何倍も支払われているのに、それを使いに出る余裕すらすっかりなくしていた。
巴がくすくすと、片手で口許を押さえ、片手で同じ包みを抱えて笑う。
「新しい環境に慣れないうちは、誰しもそういうものではありませんか?」
「巴は優しいわよね」
「思ったままを言わせていただいただけです」
白い包み紙に、青いスタンプ。香綬支部から少し離れた場所にある、小さな洋品店の包みだ。坂下を突っ切ってまっすぐ歩いたところに、個人宅のような趣でひっそりと店を構えている。
いつまでも、ここへ来て最初に支給された真冬の寝間着を着て兵舎を歩いている千歳を見かねて、巴が買い物に行きませんかと誘ってくれたのだ。質のいい寝間着を扱っている店を知っていますので、と。そのときになって千歳はようやく、最近の寝苦しさの正体が季節外れの寝間着による暑さなのだと思い至った。
一応、黎秦の長屋から持ってきた浴衣があるが、あれは本当に寒い。おまけに女学校時代の家庭科で作ったもので、つぎはぎだらけの襤褸だ。いっそこの機会に買い直すのもいいかもしれないと思い、部隊の休日が被る日を選んで、巴と買い物に出向いたのである。
段構えにレースのついたネグリジェだの、シルクのパジャマだの、薄くたたまれた白や生成りの服がガラステーブルに品よく並んだ店で、見たことのない世界にどぎまぎして裏返りそうになる声をごまかすのに必死だった。巴は慣れた様子で春物のネグリジェを選び、よそ行きの棚でワンピースを一着買った。千歳も勧められたが、こんな品の良い服を着こなして出かけられる自信はなく、今回は寝間着だけに留めた。
上下揃いの、薄いクリーム色をしたパジャマが一着と、踝丈の真っ白なネグリジェが一着。後者は場の空気に呑まれて、はずみで買ってしまったと自覚している。胸元に薔薇のレースが覗いた、たっぷりとした七分袖のネグリジェで――まるであの店の一部をそのまま持ち帰ったみたいな美しさだ。自分に似合うかどうかではなく、夢のような店の風景の一部を手元に残したくて、買ってしまった。きっと今夜、鏡の前でこっそり着てみるのだろうが、すぐにもう一着の実用的なパジャマに着替えるだろう。そんな未来が今から見える。
こんな買い物をしたのなんて、初めての経験だ。ふふ、と笑いを漏らした千歳に、巴が首を傾げた。
「何でもないのよ。楽しかったなって思って」
含ませた感情が多すぎると、却って言葉が短くなるのはどうしてだろう。もどかしいような、それもまた心に温かいような、上手く言い表せない心情で微笑んだ千歳に、巴も何かを感じ取ったようにはにかんだ。
「千歳さん、まだお時間ありますか?」
「ええ」
「でしたら、このあと――」
ラウンジでお茶でも。そう動いた彼女の唇から出たはずの声は、轟音にかき消されて耳に届かなかった。淡い茶色の眸が、スローモーションのように見開かれる。巴の目にも、同じ顔をした千歳が映ったに違いなかった。
ドン、と立て続けに爆音が上がる。今度は振り返った千歳の目に、はっきりと火柱が映った。
「襲撃……!」
「坂下の方角だわ。っていうか、まるで……」
警報ベルが支部に鳴り響く。西鬼だ。姿を見るべく青銅門を駆け出した千歳は、煙の上がっている一角を見下ろして、信じられない思いで首を振った。
「坂下が、燃えてる」
巴が声も上げられずに、引き攣った表情で炎を見つめる。建物を舐め尽くして広がる黒煙の中に目を凝らすと、逃げ惑う人々のあいだを、何かが凄まじいスピードで駆け回っていた。
「何かしら、ここからじゃよく見えないけど」
「西鬼でしょうか。なんだか野良犬のような……」
「――千歳!」
真後ろから自分を呼ぶ声に、千歳は弾かれたように振り返った。通信兵のマークを入れた胸当てを垂らした馬を借りて、ケイが黒檀の弓を手に、こちらへ向かってくるのが見えた。
「ケイ、一体何が……」
「坂下が襲われてる。非番だけど、そんなこと言ってられない。出られる?」
「ええ」
千歳は頷いて、弓に手を伸ばそうとした。ケイが逆に鞍の後ろを叩いて、乗るように指示する。
「犀川隊は? 何か聞いていませんか」
「支部に残って、坂下から運ばれてくる怪我人の手当て」
ありがとうございます、と巴が包みを抱いて頭を下げた。その姿を見て、鐙に片足をかけていた千歳は我に返り、自分の抱えている荷物を巴に渡した。
「ごめん、あとで取りにいくから」
「ええ、お預かりいたします。お二人とも、気をつけて」
巴が見送りの言葉をかけたとき、ちょうどナーシサスが青銅門を抜けた。通り過ぎざま「ケイ、薊くん!」と声を張り上げる。ケイの手が力いっぱい手綱を握った。馬の鬣がぴくりと震え、ブルル、と首が振るわれる。
「このまま行くよ、掴まってて。今更だけど、乗馬の経験は?」
「なくはないわ。苦手でもない」
ならば良し、と言わんばかりにケイが横腹を蹴った。合図を受けた馬は蹄の音を高らかに、前方をゆくナーシサスに追いつかんとして走り出す。本来休日を充てられているせいか、部隊は半分ほどしかおらず、日頃は馬に乗っていない下級の兵士たちも、通信兵の馬を借りて跨っていた。
坂下には香綬支部の関係者や、その家族が暮らしている。千歳は頬を切る風に長い髪を靡かせて、振り落とされないよう、ケイの背中に強く掴まった。
坂下に着くと、戦闘はすでに始まっていた。先に到着した部隊がちらほら、砂塵と煙の中を駆け回っているのが見える。魔術の煌きが時々、辺りを一瞬晴らしたが、燃え続ける家屋から上がる煙でその晴れ間はすぐに口を閉じた。
「敵はケルベロス型だ。体格は犬とそれほど変わらないが、数が多い」
馬を降りたナーシサスが、全員に命じる。
「固まっていては動きにくいだろう。他隊に倣い、部隊をここで一度解散する。敵を探し、発見次第応戦、住人を見つけたらすぐに保護して外へ連れ出すのだ。では、行け!」
号令と共に、ナーシサス隊は雪の結晶のように方々へと散らばった。千歳も弓を手に、煙の隙間から見えた道を目がけて駆けだした。そこは板塀に挟まれた、長屋と長屋の連なる裏道のようだ。木の燻る匂いを吸い込まないように身を屈めつつ、細い一本道を駆け抜ける。
――坂下は、軍の関係施設であることが分かりにくくなるよう、わざと貧しい町のような造りにされている。
ここへ来るまでの道のりで、ナーシサスが語った。軍の関係者ではあるが、蜂花軍ではない坂下の人々は、西鬼との戦闘能力など基本的に持っていない。支部の内側に住ませるには土地が足りない彼らを、少しでも敵の目から隠すため、貧民街の体を装った造りになっているのだ。木造の家屋は屋根も壁も、パズルのような組み立て式で、その気になれば三日で街を丸ごと引っ越させることができる。軍の施設であることが敵に知れた際、街ごと逃がすためだ。
予想外の事実に、千歳は驚いた。同時に、嬉しかった。耐火煉瓦の壁に囲まれて蜂花だけが暮らすことを、心のどこかで看護婦や女給に申し訳なく思っていたから。坂下も、守られているのだ。自分たちとは違うやり方で。それが分かって、軍に対する一抹の反発心のようなものが、ふっと縄目を解かれて息がしやすくなった。
建物が組み立て式に造られているということは、焼失部分以外は別の場所で、瞬く間に再建が可能ということでもある。できるだけ火の手を広げずに戦いたい。能力上、敵を見つけて戦闘するよりも、住人の避難を請け負ったほうが得策だ。
ちょうどそう思ったとき、一軒の裏口から、男の子を抱き上げた女性が飛び出してきた。
「花繚軍の方……!」
「ええ」
千歳は素早く彼女に駆け寄って、背負った風呂敷包みを引き受けた。安堵の表情を浮かべる母親の肩に頬を預けた子供は、ぐったりとして動かない。まさか、煙を吸ったか。焦った千歳に、若い母親が首を振った。
「この子、元々熱があって。それで今日、私も仕事を休んでいたんです。そうしたら急に……!」
「警報が鳴ったんですね?」
「はい。小型の西鬼が街に出たと聞いて、この子を抱いて一人で逃げられる自信がなくて、戸締りをして隠れ通そうと思ったんです。そうしたら、急に爆発が起こって」
「私、ついさっき着いたばかりなので、教えていただけて助かります。爆発は西鬼が引き起こしているの?」
「そのようです。窓から見ていたら、三つの頭のうちの一つが、手榴弾のようなものを咥えていました。前方に逃げてきた人を認めた途端、前足でピンを抜いて、自分もろとも」
「……恐ろしい話ね。西鬼って、恐怖の感情もないのかしら」
そのときの光景を思い出したのか、子供を抱く腕に力を込めた彼女の背を、千歳は勇気づけるように強く撫でた。震えていた膝が少しずつ治まってきている。これなら多少、急がせても大丈夫そうだ。
「行きましょう。安全なところまで連れていくから」
はい、と頷いて彼女は千歳と共に走り始めた。その前方に、煙の中から人ではない影が浮かび上がってくる。
「いるわね……、私から離れないで」
「はいっ」
「もし……」
「なんですか?」
「……いえ、何でもないわ。任せて」
もし、私が勝てそうになかったら、隙をついて逃げて。千歳はその言葉を、ぐっと飲み込んだ。花繚軍の方、と言ったときと同じ、全幅の信頼を浮かべた視線を前に、思い留まったのだ。
この人は、ナーシサスやケイや橘とは違う。同じ場所に勤めていても、仲間でも、対等ではなく私が守らなくてはならない存在なのだ、と。
「ひ……っ」
バウッ、という犬の鳴き声と共に、千歳たちの存在に気づいた西鬼が煙の中から飛び出してきた。悲鳴を上げる彼女を背に庇って立ち、千歳は一瞬で敵の位置を見定めて、つがえた矢を放った。右の肩を矢が射貫き、三つの顔のうちの一つがキャンッと甲高い鳴き声を上げる。
だが、足を止めるには至らない。
「はあっ!」
当たれ! と念を込めて、千歳は立て続けに矢を射た。ただし、炎は巻かずに、ただの弓矢として。炎を使えば二、三の攻撃で倒せそうな相手だが、それをしてはこの細い道だ。間違いなく左右の板塀にも移ってしまうだろう。力の放出を細く抑えるのは、未だに得意とは言えない。進路を塞いでしまうのは得策ではないし、守れるはずの家屋に余計な火の手を上げるのも不本意だ。
六本目の矢が胸を貫いたとき、西鬼がようやく倒れた。鼻先から霧散が始まり、左の顔が咥えていた手榴弾が地面に転がる。ピンを外す隙を与えず、爆発の圏内に近づかせず、攻撃の手を止めないことでどうにか一人で勝つことができた。
そうほっとしたのも、束の間。
「きゃあっ!」
真後ろから響いた悲鳴にはっとして振り返った瞬間、千歳は胸に衝撃を受けて、目の前が真っ暗になった。跳ね飛ばされた体が宙を舞い、無重力を味わった。実際、それほど遠くへ飛ばされたわけではなかっただろう。千歳の体は板塀に当たって、どさりと地面に崩れ落ちたのだから。
腰から背骨まで衝撃が突き抜け、後頭部を強く打った痛みで目が眩む。仲間の声に引き寄せられて、後ろからも迫ってきていたなんて。任せてなんて言っておいて、情けないことこの上ないが、
「花繚兵さんっ!」
――逃げて。ぼやけた視界の中で、迫りくるケルベロスの爪の彼方に、若い母親の姿を認めてそう唇を動かしたとき。
ざん、と白銀が視界を縦に一閃して、手榴弾が千歳の足にぶつかりながら、ころころと転げ落ちた。
「……ご無事ですか」
「……弟切さん」
噎せ返るような葡萄の匂う霧の中に、見覚えのある青年が立っていた。元から燻したような茶色の髪が、煙を纏ってさらに曇り、物静かな眸を嵌め込んだ細い輪郭を縁取っている。
彼が差し出した人形のような手の意図に気づいて、千歳は礼を言って片手を預け、立ち上がった。まだ頭がくらくらしている。弟切は千歳の様子をちらと見やって、
「この辺りはほぼ収束しました。残党が来る前に出ましょう」
震える脚で立ち尽くしていた女性に、子供を預けるよう、剣を納めた腕を差し伸べた。
来た道を足早に戻っていくと、先刻はあれほど濃く立ち込めていた煙が幾分か晴れてきているのが分かった。花繚軍の中で水を扱える者が、消火活動に当たっているようだ。表には脱出してきた坂下の人々も集まっており、怪我人を運ぶ担架や各長屋のまとめ役のような人が、慌ただしく動き回っている。
と、その中の一人に向かって、女性がわき目もふらずに駆け出した。
「あんた!」
弾かれたように顔を上げた男性の、青白い頬に、みるみる血の色が巡る。彼は彼女の名前を呼び、二人は力強く抱き合った。
「よかった。旦那さんも無事だったのね」
「そのようですね。……旦那様」
互いに怪我のないのを確かめ合って離れた二人のもとへ、弟切が息子を連れて歩いてゆく。彼は子供を支部へ運んで寝かせるように勧め、二人は礼を言って、千歳にも頭を下げ、衛生兵に連れられて坂道を登り始めた。
そのしっかりとした後ろ姿に、緊張の糸がどっと切れた。
「薊さん」
「ごめんなさい、大丈夫……ただちょっと」
安心して、と。言おうと思ったのだ。守れた、生きていた、怪我をさせずに済んだ、家族に会わせてあげられた。それを目の当たりにして、全身の力が抜けるような安堵と達成感が千歳の中に生まれ、足元がふらついた。
――あと一秒、ナーシサスの声が響くのが遅かったなら。千歳はそれを口に出していただろう。
「ローズ!」
血を吐くような嗄れた叫びが、千歳の肩をびくりと跳ね上げさせた。他でもないナーシサスの声だったが、平素の穏やかな明るさは欠片もなく、荒々しく掠れている。外套が兵士たちを押しのけるように人だかりへと分け入った。それはたった今、燃え盛る坂下から戻ってきた兵士たちの一団だった。
「ローズ! ローズ……ッ」
弟切の眸が、すうっと熱を失う。彼の揺らめく眼差しを追って、千歳も人だかりの中心に目を凝らした。カーキや白の制服を纏った足の間から、横たわる人の姿と、膝をついてその肩に手をかけているナーシサスの姿が見えた。
「申し訳ありません、大尉。ローズ中尉は、赤ん坊を……赤ん坊を守って、自らを盾に……」
消え入るような兵士の声に、嗚咽が混じる。彼の腕にはどこの子供とも知れない赤子が抱かれていて、その小さな靴下の先は、爆発の衝撃で黒く焦げついていた。横たわった女性の外套はぼろぼろに崩れ、カーキの制服は血と焦げ跡で汚れている。
淡い金の髪が、ナーシサスの指の間から覗いた。彫刻のように閉ざされた瞼の奥――その眸の色が、深い緑であったことを昨日の出来事のように思い出す。
千歳はあっと細い声を上げて、その場に崩れ落ちた。弟切が何か言っていたが、頭が真っ白になって、ろくに聞こえてこなかった。
衛生兵と看護婦の一団が、慌ただしく廊下を駆け抜けていく。ガラガラと音を立てて引かれる医療ワゴンを目にして、千歳は廊下の片側へと道を開けた。
坂下の襲撃から一夜が明けた今日、香綬支部の中はいつになく人で溢れている。怪我人の救護に、襲撃の調査と報告に、と支部の人間が動き回っているほか、坂下で住居を失くした人々が一時的な避難所として入ってきているためだ。
自主訓練の帰りの千歳は、長い弓矢を人にぶつけないよう、よくよく注意して歩かねばならなかった。肩身の狭い思いをしている避難者が、制服姿の千歳に少しでもぶつかると、慌てて頭を下げようとするからだ。
蜂花というものがいかに特殊な存在に認識されているか、久しぶりに思い出したような気がする。英雄は膝をついた人間と目を合わせて会話したくても、英雄が膝をつけば、彼らは頭を床につけてしまう。畏敬の心が、通じ合わない淋しさを生む。
民間人の彼らを自分たちと違う壁の外に暮らさせていたのには、ある意味、彼らの自由を守る意図もあったのだと気づいた。蜂花は彼らを愛している。彼らも蜂花を愛しているが、傍で暮らすには息が詰まる。じき、坂下に代わる新たな街が建設されるだろう。
「それにしたって、気の毒だよな。あの人も」
遠ざかるワゴンの音に紛れて、廊下の反対側から聞こえてきた話し声に、千歳は凛と前を向いたまますれ違った。
「前の契約者も戦場で亡くしたって聞いたぜ。二度目ってことだろ?」
「事実婚みたいな関係だったっていうじゃないか。ローズ中尉は、正義感の強い人だったからなあ……」
「どこの誰とも知れない子供を庇って、か。あの人らしいっちゃらしいけど、残されたほうはそんな言葉じゃ片づけられないだろうよ」
「女将校なんか、恋人にするもんじゃないな。知らなくてよかった悲しみが増えるだけだ」
前を、一直線に見据えてでもいなければ、自分がどうにかなってしまいそうだった。たった一度、話しただけの人だ。けれど忘れがたい恩人だった。あの人について、良いことも悪いことも、何も聞きたくない。独り歩きする噂や憶測が耳障りだ。栓をして一人でじっと、あの思慮深い緑の眸だけを静寂の中で思い返していたい。
ナーシサスは今日、彼女の葬儀で支部を離れている。彼の耳が心無い言葉を聞かずに済むのだけはせめてもの救いだと、千歳は安堵に胸を落ち着けた。
「あら、こんにちは」
そうしてまっすぐに、まっすぐにと歩き続けているうち、いつしか階段を通り越してきていたらしい。聞き慣れた声にはっとして顔を上げると、ラウンジの入り口に足を踏み入れていた。千歳がぼうっと歩いてきたからだろう、カウンターから声をかけてくれたのは、この数カ月ですっかり顔馴染みになった同い年の女給だ。
あ、と挨拶をしようとして笑顔を向けたその顔の左半分に、大きく巻かれた包帯を見て、千歳の表情が凍りついた。
「それ、昨日の襲撃で?」
「ええ、ちょっとだけ。見た目より、軽い怪我なんですよ。目も見えるし」
千歳の心配を先回りするように、彼女は口早に言って、包帯の上から手を当てた。すみません見苦しい姿で、なんていつもと同じ顔で笑ってみせる。坂下にいたということは、非番だったのだろう。休日のゆっくりしていたところを突然襲われて、さぞ恐ろしい思いをしたに違いない。
「痛み止めは? 働いてて大丈夫なの?」
「ええ、しっかり処方していただいています。問題ありません」
「ご家族はみんな無事?」
その質問に――彼女は黙って、笑顔を浮かべただけだった。どくんと、千歳の表情からまた一段、血の気が引いたのが分かったのだろう。右半分の顔に綻ぶような親しみを込めて、彼女は努めて穏やかに口を開いた。
「私だけではありませんから。温かい紅茶はいかがですか?」
部屋に置くものを最低限で済ませるようになったのは、いつの頃からの癖だろう、と時々思う。高等学校の頃はそれなりに、流行りのレコードなど所持してみたり、余所行きのコートと毛皮の帽子がトルソーにかけられていたりした覚えがあるが。士官学校で過ごした二年間も、寮に入ったから部屋は狭くなったが、壁にはポスターを貼っていたしベッドの脇のテーブルはラジオと雑誌の置き場だった。
いつからだろう。そういうものが、死んだら誰かの手を煩わせたり、心残りを引きずらせたりすると思うようになったのは。影も残さず消えられるくらい、少しのものしか持たなくなったのは。
死にたいと思っているのかと訊かれたら、少なくとも今はノーと答える。小隊の隊長として、一介の兵として、一匹の蜂として、この戦争の終わりを見ずに、与えられた役目を全うできずに楽になるのは不本意だ。それなのに一人、二人と見知った顔を亡くすうち、いつしか無自覚に「そちらへ行く準備」を整えてしまった自分がいる。そんな矛盾を垣間見るから、私室はそれほど、好きではない。
「ふー……」
黒い画用紙を貼ったような窓に映る自分の顔を見て、橘は何とも言えない表情でふいと視線を外した。新月の夜だ。光のない窓に、紫煙が細長く伸びている。奥に続く半透明の室内風景は、まるで今日引っ越してきた部屋のように質素なものだ。備えつけのベッドとクローゼット、箪笥、書き物机。それと、少尉になってこの部屋に移ったときに買った本棚がひとつ。煙草や懐中時計を入れているキャビネットがひとつ。目を引くものが何もない部屋だから、その上に置いたチェスボードと駒が、まるで空間を牽引する主役のように冴え冴えとして映る。
短くなった煙草を机の上の灰皿に押しつけたとき、コンコン、と小さなノックが響き渡った。
「千歳か?」
声をかけると、返事の代わりにドアが開く。姿を見せたのは、やはり千歳だった。もう風呂を済ませたのだろう、制服ではなく袴を身につけている。矢絣の着物に紫の袴。香綬へ連れてきたときと同じ、自前の袴を、彼女は部屋着や休日の装いとして今も着続けている。
「遅かったな」
煙草の先から火が消えたのを視認して、橘は千歳の側へ向かった。彼女が私室に橘を入れることを嫌がるので、供給には基本的に、千歳がこちらへ出向く約束になっている。
始めはそんな口約束、ろくに果たされまいと思っていたのだが、前線に立って戦うと決めた以上、他人の荷物になるのは嫌なようだ。供給には事務的に応じ、毎日ほぼ決まった時間に顔を出した。それが昨日は夜半まで待っても現れず、今日は三十分を過ぎ、一時間を過ぎても来なかったので、さて今度はどうしたものかと面倒に思っていたのだが。
「……昨夜は」
沈黙を破って、千歳が口を開いた。
「気がついたら、眠っていて。起きたら深夜だったから、来なかったわ」
「……そうか」
それがまったくの嘘であるのは、目の下についた隈を見れば分かることだったが、あえて言及はしなかった。言い訳をするということは、訊かれたくないということだ。橘は煙草をポケットにしまった。留め方が甘かったのか、袖のカフスがひとつ外れていたことに気づいて、視線を落とす。
「一日くらい供給を怠ったところで、体調に支障はない。だが、戦闘には万全の態勢とは言えなくなる」
「ええ」
「まして昨日は、坂下の一件で俺もお前も消耗したはずだ。今後はお前が来なければこちらから出向くから、そのつもりでいろ」
「……ええ」
「……千歳。お前、話を」
聞いているのか、と。釘を刺しかけた橘の襟を、ふいに伸びてきた千歳の手が力任せに引き寄せた。平時だったら咄嗟に身を躱しただろうが、意識の半分が思うように留まらないカフスにいっていたせいで、橘も反応が遅れた。見開いた目の中に、千歳の閉じた瞼が、まっすぐに線を伸ばす黒い睫毛が、飛び込んでくる。
噛みつくように合わせられた唇から、はっ、と呼気が漏れた。
「おい、ちと……っ」
普段は黙って、無感情に目を瞑って受け入れるだけの千歳の突発的な行動に、面食らって思考が固まってしまった。だが、どう考えてもまともな状態ではない。
肩を押して引き離そうとした橘の手に気づいて、千歳は反発するように背伸びをし、口づけを深くした。驚くことに橘の唇を割り開いた小さな舌が、歯列の奥へと潜り込んでくる。互いの舌先がわずかに触れた途端、身を襲った歓喜の渦に、橘の脳髄が鈍器で殴られたように痺れた。
生きる、という命題に直結する蜂花の接触は、時に噴き上がる間欠泉のような快楽を誘発する。生命が歓び、理性が本能の熱狂に呑まれそうになる。
「――――……ッ」
声が飲み込まれ、彼女の口腔にくぐもりながら消えていく。技巧も何もない、勢い任せの口づけに眩暈を覚えるのが悔しかった。ガチッと歯がぶつかる音がして、互いの舌を噛みそうになる。それでもいい、というように、千歳はもっと深く、もっと深くと求め続けた。
まるで何かをがむしゃらに探しているように。橘の中から、ありったけの力を吸い尽くそうとしているように。
少し手伝おうと耳の後ろに差し入れた手を叩き落とされ、橘が舌打ちと共に、千歳の肩を力ずくで押しのけた。
「お前、何をむきになって――」
その手首に、ぽたりと水滴の感触が落ちる。はっとして口を噤んだ橘が見れば、留め損ねたカフスの開いた場所に、温い水が表面張力を張って震えていた。水滴はあっという間に二つになり、三つになり、袖に染みを作り、繋がって張力を失い、肘へ流れていく。
肩を掴まれて下を向いた千歳の眸から、牡丹雪のような大粒の涙が床に落ちて弾けた。
「ばかみたい」
濡れた唇が、誰に言うでもなく掠れた声を紡ぐ。
「一人二人救ったくらいで、やり遂げた気になって。私、」
その先は、嗚咽にかき消されて言葉にならなかった。ただ、あの人は死ななきゃいけない人じゃなかったのに。あの子は悲しまなきゃいけない人じゃなかったのに。そんな言葉が呪文のように、何度も何度も、跳ねたり途切れたりしながら繰り返しこぼれるばかりだった。
胸の袷から、少し焼けた写真の角が覗いている。昨日、坂下で彼女と共に住民の親子を保護したと、昼間に受けた弟切からの報告が脳裏をよぎった。
「誰しも体は一つだ。その一つを使って誰も救えなかったか、誰かは救ったか。ゼロと一の違いは大きい」
「ふ……っ」
「それ以上のことは、お前のせいじゃない」
こぼれる涙が粒を超えて、流れる水になっていく。それ以上見てはいけない気がして何となく部屋に視線を巡らせたが、何もない部屋では窓に映る画もまた、眉間に皺を寄せた自分と俯いた少女の姿だった。橘は浅いため息と共に、千歳の背中に手を当てて自分の胸に引き寄せた。窓に映っていた袴姿の少女が、幻のように消える。
千歳はそれからしばらくの間、逃げも喚きもせず、無言で肩を震わせていた。