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花に蜜蜂  作者: 十夜凛
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第五章 初陣

 水仙の花の香りが、風を遮るカーテンの内側で甘く揺られている。振り子時計の大きな針が、カチリ、と三時ちょうどを示した。

 同時に、砂時計の砂は一粒残らず下へ落ちきった。真鍮の細工に白い砂を入れた、洒落た砂時計である。固く太い、梁のような骨を巡らせた大きな手が、それを丁重に戸棚へ返した。今日の紅茶はローズヒップだ――独特の鮮やかな紅色をした水面が、千歳の前に差し出される。

「あの子は、にこやかでそつのない子でね」

 ギッ、と向かいの椅子を軋ませながら腰を下ろして、ナーシサスは話を続けた。水仙の香りとローズヒップの香りが混じり合う。彼の部屋はいつ来ても、芳醇が過ぎて酔いそうな空気で充満している。

「金杉隊という、今は昇進して黎秦の本部に行ってしまった少佐の率いる、優れた衛生兵の部隊に所属していたよ。門井一等兵――そう、生前の最終的な階級は一等兵だった。実力から言えば、もっと上を目指すこともできただろうけれどね。彼女はあくまで、生き残ることを最優先にして、その中でできることをしようという意思が固かったんだ」

 カーティス少尉を、前線に送り出し続けるために。

 君の選択を責めているわけではないよ、という意味を込めた微笑みと共に、ナーシサスはそう言って、懐かしむように目を細めた。訓練生を卒業した翌日、部隊への正式加入を報告しにナーシサスを訪ねた千歳に、彼は「少し座っていきなさい」と言って本棚へ手を伸ばした。

 見せてくれたのは、一冊のアルバムだ。香綬支部の日常ともいうべき、他愛無い光景が何枚も収められている。その中の一枚に、千歳の目は強く吸い寄せられた。たっぷりとした二重瞼の大きな眸、つんと小さな鼻、柔らかく引き結ばれて弧を描く唇。モノクロ写真の上からでもそのうねった髪の赤さを思い出せる、千歳の記憶の中そのままの、ネリネの姿があった。

 写真の下に「新兵はばたく」と書き残しがされている。それはナーシサスの手による文字で、ここに写っているのは皆、今日の千歳と同じ、訓練生を卒業した日の新兵たちだというのだ。

 報告に来た千歳を見て、かつて見かけたネリネの姿を思い出し、この写真を見せたいと思ったという。正面に上官の金杉でも立っているのか、まっすぐな眼差しで少し上を向いて写っているネリネの横顔は、今にもこちらを向いて「千歳!」と話しかけてきそうな鮮明さだった。

「よかったら、君にあげよう。薊くん」

 親友がここでどんなふうに生き、戦い、暮らしていたのか。普通の殉死ではない分、噂目的ではなく純粋に知れる機会は少ない。話を聞きながら食い入るように写真を見つめて、その見えない後ろ姿や戦場で動く姿まで想像を巡らせていると、紅茶を置いたナーシサスが言った。

 数秒の間を空けて、千歳はようやく言われたことに追いつき、自分がそんなに物欲しそうな顔をしていただろうかと慌ててかぶりを振った。

「そんな、いえ……せっかく大尉が撮ったものを、いただくわけには」

「無理をしなくてもいい、譲れない写真は譲るなどと言わないよ。逆の立場だったら、君も私に譲ってくれたのではないかね?」

 無論、それはそうしただろうが。本当にいいのだろうか。女学校時代は卒業アルバムなども残されてきたが、個々の顔など小豆くらいの集合写真であったし、卒業してからは工場勤めの質素な暮らしだったので、互いに写真を撮るような余裕などなかった。ネリネの顔をはっきりと捉えた一枚など、持っていない。

 欲しい気持ちと遠慮のあいだで葛藤する千歳に、ナーシサスはふっと笑った。

「私より、君のほうが大切にするさ」

 乾いた糊をゆっくりと、爪の先で剥がしていく。アルバムの台紙を少しだけ傷つけながら外されたネリネの写真を、彼は千歳の手に持たせた。

「ありがとうございます」

「感謝の気持ちは、今後の活躍で見せてくれたまえ。君が立派に生きてくれれば、門井くんもきっと喜ぶ」

 頼りにしているよ。軽い口調でそう言って、ナーシサスは紅茶を飲み干した。……いい茶葉だな、どこで手に入れたんだったか。首を捻って立ち上がり、仕事机の上に置いてあった缶を裏返す。ああ、と思い出したように頷いて、彼はそれを戸棚にしまった。紅茶の缶がぎっしりと詰まった戸棚だ。赤や青の表面に、金の蓋が眩しい。

 ポケットから鍵束を取り出して、一番小さな鍵で戸棚を施錠する。

 よほど高価なものなのかしら、それとも大切な小物入れに中身は何であれ鍵をかけたりする、あの感覚かしら。前者だと紅茶の良し悪しが分からない自分が振舞われたのが申し訳ないから、後者だといいなあ。千歳が漠然と思いながらカップを空にしたとき、ジリリリリ、とベルの音が廊下を突っ切った。

「早速か」

 ナーシサスの表情に、さっと険が差す。千歳の全身に緊張が走り、鼓動が俄かに速くなった。ソファに立てかけてあった弓を掴み、矢筒を背負う。初陣のときだ。外套をはおったナーシサスが、力づけるように背中を叩いた。

「外へ行っていなさい。私は他の隊長たちと落ち合ってから向かう」

「はい!」

「ケイと行動するといい。彼についていって、実戦の流れを学びたまえ」

 力強く頷いて、千歳はナーシサスの部屋を出た。廊下はすでに外へと向かう兵士たちで溢れていて、鳴りやまない警報と足音が響き渡っている。制服を纏った波に押されるように走りながら、その中にケイの姿を探して辺りを見回した。

「千歳!」

 声は探し人のほうからかかった。振り返ると、人波をかき分けてケイがこちらへ向かってくるところだった。後ろに巴もついてきている。彼女は千歳の姿を認めるなり、傍へ駆け寄ってきて言った。

「本日からご出陣だと伺いました。まだ手が万全でないでしょう。くれぐれもご無理はなさらずに」

「うん、ありがとう」

「集合場所、初めてでしょ? 一緒に行こう」

 礼を言って、千歳は二人の後に続いた。そのとき、ふわりと覚えのある煙草の香りがすれ違った。

「橘少尉」

 後ろ姿に向かって思わず声をかける。カーキに真紅の裏地を染め上げた外套をはおった橘は、隣にいる将校と口早に話し込んでいたが、千歳の声に気づいて弾かれたように振り向いた。

 琥珀色の目が一瞬、すう、と何かを見定めるように細められる。

「結果を急ぐな」

 橘はそれだけ言って、背中を向けた。最初から兵として成果を挙げることに躍起になって、無茶をするな――そんな意味だろう。左胸に手を当てて、千歳はその忠告を素直に刻んだ。図らずもそこには、内側にネリネの写真が入っていて、見えない護りを受けているような思いでいっぱいになる。

 ――そうよ、復讐を果たすにはこんなところで死ぬわけにいかない。

 犬死にするなと言った橘の言葉が、不覚にも彼女の笑顔と重なった。橘は契約者として言っただけだ。分かっているのに、彼の言葉がネリネの気持ちを代弁したような錯覚に陥ってしまい、慌てて首を振る。

「千歳さん」

「ごめんなさい、今行くわ」

 巴に促されて外へ出ながら、千歳は彼女の笑顔を忘れないように、強く瞼を伏せた。今はただ、自分にできることをするのみだ。感傷に侵されれば、足元を掬われる。そんな姿を橘に見られて、ほら見たことかと戦線部隊を外されては元も子もない。


「よかったのかい?」

 千歳が出口に消えていった後、橘と並んで歩いていた青年が、ちらと後ろを振り返って訊ねた。

「何がですか」

「彼女、君の契約者だろう。君を呼び止めていた。何か話すことがあるなら、隊には僕が伝えておくから、少し後から来ても……」

「シラン大尉」

 びくりと、青年のエメラルドの眸が強張った。金の睫毛に囲まれた眦の、重たげに垂れ下がった、溶けるように穏やかな顔立ちをした将校である。彼は自分を遮った橘の横顔を、手のひら一枚高い位置から窺うように見つめた。橘がわずかに顔を上げると、軍帽の影から、鋭く冴えた琥珀色の眸が覗いた。

「今は己の契約者ばかりを、気にかけていられるときではありません。隊員たちも皆、個々のことは後回しにして集合に従っている」

「しかし、あの子は確か今日が初の」

「それに」

 初の出動じゃなかったか、と尚も食い下がりかけたシランを、橘の声が制した。

「大型種との戦闘ならば、一番槍はいつもの通り、うちの隊でしょう。俺が遅れるわけにはいきません」

 有無を言わせない、この話は終わりだと斬り捨てるような口ぶりに、シランの足がもつれて止まった。構わず進んでいく後ろ姿を、畏れと憧憬、わずかな羨望が入り混じった眼差しで見つめて、ふっとその目が泣き笑いの形に歪められる。

「……そうだね、僕では君の代わりは務められない。失念していたよ。君はいつも正しい」

 僕と違って。

 その言葉が橘に聞こえたか否かは分からない。シランは右腕に縫い取られた大尉の蜂章をぐっと押さえて、その顔に平時の微笑みを取り戻した。実力の伴わないまま、親の威光によって与えられた階級など、何の意味があるだろう。橘といると、その無価値がとみに浮き彫りになって照らし出される。

 騎蜂軍の退役軍人を両親に持つサラブレッドでありながら、一人の花を殺害した罪に問われ、中尉の階級を剥奪されて二等兵に身を落とした元受刑者。それからわずか一年の間に、花を持たぬ身でありながら再び目覚ましい戦果を挙げて将校へと返り咲き、自らの率いていた部隊を取り戻した、香綬の軍神。

 蜂花という力がこの世にあっても、なくても、橘は生まれながらに東黎の剣となる才覚を持った軍人であっただろう。

 この上着を着るべきは、本当は君のような人間なのだ。分かっている、君だってそう思っていることだろう、と――シランは思ったが、それは互いに何の利益も生むまいと、喉元に引っかかった言葉を数度に分けて呑み込んだ。


 太い縞模様に覆われた前足が地面に下ろされるたび、木造の小さな家々はダンボールのジオラマのように壊れていく。柱か梁か、太い木材が爪楊枝のように真っ二つに折られるのを見て、辺りの兵士が恐れとも呆れともつかないため息を漏らした。

「窮奇型・改。前回の窮奇型より、一回り大きくなってるね。牙も爪もあんなに太い。噛まれたら、僕たちの体もあんなふうになるだろうな」

 香綬支部の西四キロ、住宅地に現れた西鬼を高台の丘から忌々しげに見下ろして、ケイが言う。確かに、ひとたまりもないだろう。一本の爪の太さが、木材とほとんど変わらない。

「左後ろ足の動きが、少しだけ悪いかな……? もしかしたら弱点になるかもしれない。大尉に報告してくるから、ここで待ってて」

 自前の双眼鏡を上着の下のポシェットに戻して、ケイは並んだ隊員の間を縫い、ナーシサスの元に向かっていった。住民はほとんど避難を済ませており、今は最後の一隊が逃げ遅れた人を探す見回りから戻ってくるのを待っている。騎蜂軍の女性部隊だ。丘の麓にはすでに他の騎蜂軍部隊がいくつか待機しており、花繚軍は彼らの後ろに、こうして隊ごとに並んで控えている。

 香綬支部は東黎軍が有する六つの支部の中で、最も西に位置する支部だ。つまり最も西華に近い、近年の激戦区を預かる支部である。新兵も常に補充されているが、熟練した兵も多い。警報が鳴ってから、がらりと変わった空気の中に身を投じて、千歳は自然と背筋が伸びる思いでその一員として立っていた。

 と、俄かに後方が騒がしくなり、カーキの制服を着た女性たちが足早に戻ってきた。

「避難完了、問題なし。間もなく戦闘を開始します」

「確認終了しました。戦闘準備をお願いします」

 周囲の兵士たちへ、口々に告げながら前へと向かっていく。彼女たちの声は伝言ゲームのように、さざなみとなって広がった。いよいよだ。弓を握りしめた千歳の横を、一人の女性が通りかかった。

「新米さん?」

「あっ、はい……!」

「深呼吸して、頭に酸素を回すのよ。一瞬の機転が命を助けるわ」

 淡い金色の髪を後ろで一つに結んだ、壮年の女性だ。呆気に取られた千歳の前で、深い緑の眸をゆっくりと伏せて、大きく息を吸ってみせる。

 慌てて同じように深呼吸をした。すうっと胸に広がる空気の新鮮さに、いつからか息を詰めていたことが分かって驚く。きっとそれに気づいて、声をかけてくれたのだ。

「あの、ありがとうございます」

「頑張って」

 礼を言うと、彼女はひらりと手を振って大股に歩き去っていった。見れば外套をはおっている。腕章の縫い取りから、中尉であることが窺えた。

「千歳、そろそろだって」

「ええ」

 戻ってきたケイが、隣に立つ。同時に前方の部隊が動き始め、千歳たちの上にも栗毛の馬に跨ったナーシサスの号令がかかった。

「前進!」

 部隊が一斉に歩み始める。遅れを取らないよう、左右の歩幅に合わせて大きく足を出しながら、千歳は何度も深呼吸を繰り返した。頭はやけに冴えていたが、それは極度の緊張状態からくる一種の神経過敏のようなもので、決して落ち着いているわけではないことは誰よりも分かっていた。

 かかれ、と前方で声が響く。戦闘が始まって、最初に切り込んでいったのは橘だった。

 彼は黒毛の馬を駆らせて西鬼に斜め後ろから迫り、軍刀を引き抜いてその左後ろ足を斬りつけた。ケイが指摘していた部分だ。もしかしたら、ナーシサスを通して橘に伝わったのだろうか。突然の痛みに大きく呻いて振り返った西鬼が、橘を認めて前足を振り上げる。だが後続の、彼の部隊の兵士たちの攻撃を受けて戸惑いを露わにした。

 橘はその隙に死角へ回って、馬を降りた。立派に躾けられた黒馬は、迷わず駆け出して丘のほうへと戻ってくる。

 合流した部隊に次々と攻撃を受け、西鬼が苛立ったように前足を持ち上げた。一撃ごとの手傷は浅いものだが、数十を超える人数に囲まれれば、虫の唸りも癇に障るというもの。仁王立ちになって怒りに満ちた目を爛爛とさせ、首をぐるりと巡らせながらの咆哮が、グオオ、と空を震わせた。

 その目が丘にも巡らされ、自分の上を通過していったとき、千歳の心臓はかつてない大きさで跳ね、流れる血液が冷たい石に変わった。

「……平気?」

「ええ」

 恐怖だ。ひどく純粋な恐怖が、体中を駆け巡り、支配されそうになった。本能が圧倒的な力の差を認識させ、理性が麻痺して、考えるより先に逃げ出しそうになる。

 ――上着が長くてよかった。

 顔色を窺うケイに気丈な返事をしてみせたが、両膝が立っているのもやっとのくらいに震えていた。千歳は固唾を呑んで弓を持ち直し、黒水晶の目で西鬼を睨んだ。

「風兵、撃て!」

「撃て!」

 花繚軍の最後方に立った指揮官の声が響き、ナーシサスの号令がそれに続いた。隣でケイが構えの姿勢を取り、印を結ぶように動いた指から鋭い風が生まれる。属性の相打ちを避けるためだろう、次に土の魔術師たちが、水の魔術師たちがと順番に攻撃を行い、よろめいた西鬼の足元では、その間に騎蜂軍の負傷者が運び出された。

「火兵、続け!」

 いよいよかかった号令に、千歳はつがえていた矢を放った。他の術者の放った炎と絡み合いながら、矢はまっすぐに西鬼を目指して飛んでいく。

 一本目は左後ろ足のつけ根に命中した。だが二本目、三本目と焦りから早々に手を離しすぎて、西鬼の体に当たったものの、刺さらずに落ちていった。

「千歳、冷静に。大丈夫、あれだけの巨体だ。一瞬でこっちに向かってくることはないよ」

 再び騎蜂軍の攻撃が始まる。ケイがすべてを見透かして、潜めた声で言った。

 千歳は何も答えられずに、黙って頷いた。分かっているのだ、頭では理解している。だが実際に一本目の矢が西鬼に当たったのを確認した瞬間、その目が矢を放った千歳に気づき、あの鉤爪で一直線に引き裂きにくるような錯覚に襲われて、自分を守りたい一心で一手でも多く攻撃を食らわせねばと急いてしまった。

 周囲を人に囲まれて、自由には逃げ出せないという閉塞感が、一層「攻撃するしかない」と気持ちを切迫させる。もっとも、隊列がなくて楽に逃げ出せるとしたら、開戦と同時に多くの新兵が逃亡しているだろう。

「火兵、撃て!」

 再び順番が回ってきた。西鬼の咆哮に、いくらか喘鳴めいたざらつきが混じり始めている。左の後ろ足を引きずっているようだ。やはり事前に不調でもあったのだろうか。

 矢をつがえて放つ。今度も一本目は狙い通りの位置に当たった。だがその瞬間、狙いすましたように西鬼が体を捻り、千歳たちのほうを向いた。頭の中が真っ白になる。震える手で矢を落としてしまい、慌てて拾おうとしゃがんでいる間に、攻撃は風兵の番に変わった。

 木、水――次々と魔術が畳みかけられていく。煤のような黒い灰が、地面を踏み鳴らす足元に舞っていた。風に乗って独特の匂いが運ばれてくる。体の随所から灰がこぼれている。かなりの深手を負い始めている証拠だ。

 と、そのとき騎蜂軍がどよめいた。

「は? まさか……!」

 隣でケイが、冗談でしょ、と言いたげに目を瞠る。西鬼が背に生えた大きな翼を広げ、前足を高く持ち上げたのだ。

「いやいや、改で二枚から四枚になったからってそれは……」

 さすがに無理でしょ、と。誰もが思った瞬間、力強いはばたきと共に巨体が宙に浮かんだ。ざわめきが一瞬、辺りを支配する。

 はっとしたときにはもう、後方から隊列が崩れ始めていた。

「散るな! 余計標的になるぞ!」

「闇雲に攻撃をするな! 仲間を撃つ!」

 隊長たちが命じるが、悲鳴や足音に声がかき消されて通らない。西鬼が飛ぶなどという話は、千歳も聞いたことがなかった。西鬼はその薄緑に光る眼で空中から辺りを見回し、ふ、と翼の力を抜いた。

 地面が跳ねたかと思うほどの衝撃が、一拍あって千歳たちの足元にやってくる。石畳の割れる音、瓦礫と巨躯の下敷きになった騎蜂兵の叫び声。逃げ出そうとしていた花繚軍の兵士たちが、振動に足を取られて転ぶ声。

「まずい」

 騒ぎに導かれるように、西鬼が丘へと体の向きを変えた。ケイが素早く印を結んで、襲撃に備える。砂埃が晴れて、丘の下の状況が見えてきた。恐る恐る目を凝らした千歳の視界に、突如、彗星のような速さで黒馬が走り抜けてくる。

 手綱を掴んで、鞍の上にしゃがんでいた橘が、西鬼の真下で鞍を蹴って高く舞い上がった。軍刀が引き抜かれた勢いのまま、左後ろ足を一閃する。あっと目を塞ぐ暇もなく、切り落とされた半分から下が灰に変わった。

 グオオ、と怒りを込めた咆哮が、橘を探して響き渡る。

 重力に任せて落下しながら、橘の琥珀色の目が千歳たちの部隊を捉えた。――正しくは、ナーシサスを。ナーシサスは瞬時に、橘の視線の意図を汲み取ったらしい。彼が手のひらを差し向けると、石畳を破って、橘の真下にみるみる木が伸びてきた。

 橘はそれを足場にして、再度、先刻より高く舞い上がった。

「翼を落とす気だ!」

 西鬼の背中によじ登った橘の姿を見て、誰かが叫ぶ。

「木兵、他の蜂にも足場を組め! 土兵、石畳を割ってやれ!」

 号令がかけられたことで、混乱に陥っていた兵士たちが戦意を取り戻した。術が放たれ、騎蜂軍の兵士たちが次々と橘に続いて西鬼へ乗り上げる。背に、翼に剣を受けて、辺りを揺るがす咆哮が響いた。

 その目が、ぎらりと花繚軍を睨みつける。

 はばたきに、翼を掴んでいた騎蜂兵が何人も振り落とされて落下していった。身軽になった体を大きく仰け反らせて、西鬼が一直線に丘へと向かってくる。橘が翼の根元に軍刀を突き立てた。だが一撃では、肉は断てても芯にある骨を断つことはできない。

 ――間に合わない。

 その表情に焦りが見えるくらい近くなって、千歳は思わず弓を構えた。だが剣でも落とせない翼を、矢で落とすことなど不可能だ。隣でケイが「何やってんの」と腕を引こうとして、人波に呑まれて離れていく。ナーシサスが退避を命じたのだ。

 西鬼は唸りを上げながら、花繚軍目がけて突っ込んでくる。その背の翼は、橘があと数回でも剣を突き立てられれば落ちそうなものなのに。翼が一枚でも落ちれば、巨体を持ち上げることはできないだろう。そうすれば逃げ惑う必要もなく、勝機が目の前に見えてくるのに。

 何か、何か方法はないのか。

 退避にざわめく兵士たちの中で、千歳はすうっと深呼吸をした。体の中に冷たい空気が染み渡っていく。橘の目が立ち尽くしている千歳に気づいて、はっと見開かれた。逃げろ、開かれた唇がそう形を作る。

 瞬間、千歳は翼に向かって構えていた矢を、下へ向けた。脳に差した直感が、思考を飛び越えて神経や筋肉に電流を流し、心臓から手足の指の先まで、すべてを支配した。できたのはただ、その圧倒的な閃きに従うことだけ。

「――――ッ!」

 西鬼の叫びが、大気をびりびりと震わせる。千歳は一人取り残された自分を、今にも呑み込まんと映している薄緑の眼を目がけて、限界まで引き絞った矢を放った。



 消灯時間の間際まで仕事をしている人間が、必ずしも無能なだけとは限らない、と橘は思う。戦闘の汚れを落としたブーツの先を照らす廊下の明かりは、すでに一つ飛ばしに消されて、あとは残ったわずかな者が兵舎まで戻れればいいと言わんばかりだ。薄暗い廊下の突き当りは、深い夜の影に沈み込んで見えない。

 見慣れた名札が月明かりに光る部屋の前で足を止めて、橘は静かにノックをした。

「開いているよ」

 中から親しみのこもった声が答える。失礼します、とドアを開ければ、奥の仕事机に腰かけて、ナーシサスが書類を片づけていた。

「やあ、カーティス少尉。今日は大変な一日だったね」

「ええ、まったくです。お力添えいただき、ありがとうございました」

 なんの、と青灰の眸を細めて、ナーシサスは微笑む。彼は橘にソファを勧め、書類を並べ直して脇へと置いた。

「ちょうど一息入れようと思っていたところでね。君がコーヒー派なのは知っているんだが、あいにくここには紅茶しか」

「お構いなく。仕事の邪魔をする気はありません、ただ一言……」

「そう言わず。律義な君のことだ、きっと来ると思って、ほら」

 橘の遠慮を押し切って、ナーシサスは応接用のテーブルへ足を進め、

「カップも二つ出しておいたんだ。ローズヒップでいいかね?」

 周到な用意に面食らって、橘は思わず、ふっと笑いをこぼした。それが了承の合図のようなものだった。上官に紅茶を出されるなど、普段の橘であれば考えられない行為である。どうもナーシサスを相手にすると、気が緩む――また、この上官はそういう関係の心地よさを好むのだ。

 同じ年齢になったとしても、同じ階級になったとしても、俺はこういう人間にはならないのだろうな。

 橘はふと、自分とナーシサスとのどう足掻いても真似できない違いを思った。人を緩ませ、心を開かせる。そういう技とは、無縁の性質だ。橘はナーシサスが、仕事を理由に訪ねてきた誰かを早々と追い返すところを見たことがない。誰に対しても歓迎の姿勢を見せ、紅茶を振舞ったり話をしたり、一定の時間を共に過ごす。その時間を、彼自身も仕事の合間の息抜きとして楽しむ。だからナーシサスには、いつ見ても苛々したところがない。

「うん、いい香りだ」

「申し訳ない。いただきます」

 差し出されたカップを受け取って、橘は鮮やかな赤色の水面に口をつけた。酸味のある独特の風味が、温かな湯気と共に広がっていく。寒さと疲労に強張っていた体が、ほっと解けるのが分かった。

 あまり個性の強い紅茶は得意ではないのだが、この部屋で出されるものはいつも気分を安らかにさせてくれる。きっといい品なのだろう。

「まさか、西鬼が空を飛ぶ日が来るとはね」

 ナーシサスがふうとため息をついて言った。

「ええ、本当に。あちらの技術も、日々進歩している」

「お手柄だったじゃないか。君の花は」

 カップを傾けていた橘が、あからさまに不機嫌な顔になった。眉間に刻まれた深い皺を見て、ナーシサスは面白い顔でも前にしているかのように笑う。

「笑い事じゃありませんよ。死ぬ気か――あの場で、俺を殺すのかと」

「どちらにせよ、喜べない事態だな」

「ええ。死ぬために戦いに出たのだとすれば見抜けなかった悔いが残りますし、俺が殺されれば西鬼が隊列に突っ込む。心臓が止まるかと思いました」

 ひじ掛けに頬杖をついて、橘は話しながら今日の戦闘を振り返っていた。窮奇型・改の正面に立って千歳が引いた弓は、彼女を見据えて爛爛と光っていた左の眼を射抜き、見事に足止めを果たした。戦線はその隙に再生され、橘が翼を斬って西鬼を地に落としたのもあって、戦いはあのあと比較的すぐに終わった。

 ちょうど先刻まで、本人とその話をしていたところだ。度胸は認める、能力も認める、だが無謀がすぎると。もっとも千歳から返ってきた言葉は、ああするしかできなかった、言われたことは守ったつもり、他に最善の方法があったと思うなら言ってよ、そんな相変わらずの反応だったのだが。

 まあそれでも――忠告を聞こうとする意識は持っていたあたり、打っておいた手は功を奏したと言ってもいいのではないだろうか。

「写真の件、ありがとうございました。大尉のお手を煩わせてすみません」

 ソファに腰かけたまま、橘が深く頭を下げる。

「なに、大したことはしていないよ。それに、彼女は私の隊員でもある。私にできることがあるのなら、するのは当然だ」

「お陰様で、少しはあの弾丸のような性格が抑えられたのではないかと」

「ははっ、弾丸か。確かに、お転婆という表現では愛らしすぎる危うさがある。しかし、君のほうこそ良かったのかね? カーティス少尉」

「何がです?」

「門井くんの写真だよ。あれは君が、もうずっと大切にしていたものじゃないか」

 青灰の眸が、心の底を覗き込むように橘を見つめる。細い月の光に照らされて、絵画のような陰影を落とすその顔をじっと見返して、橘はやがて、ふっと口許を緩めた。

「構いませんよ。命綱になるなら、写真くらい譲ります」

「そうか」

「それに、俺も元々は貴方からいただきました。それが今は俺よりも千歳に必要だと思ったから、貴方の手に戻して、彼女へ渡してもらった。それだけのことです」

 ナーシサスが納得したように、深く頷いた。本当はこのような個人的なことで上官を頼るのも躊躇われたのだが、自分が手渡したところで、千歳にとっては不本意極まりないだろう。余計な葛藤を負わせて注意が散漫にでもなられては、元も子もない。

 いかに考えを巡らせたところで、結局、ナーシサスが適任だったのだ。

「君は面倒見がいいな」

「まさか。ここまで手がかかる花は初めてで、正直扱いに困惑しています。かといって、手をかけねば一瞬で枯れ落ちかねない」

「花とは概ね、そんなものだ。……ほら」

 ナーシサスがすいと、花瓶に活けてある水仙に手を触れた。途端、美しく見えた一輪が崩れ去るように花弁を散らす。

「今朝、水を換えるのを忘れていてね。呆気ないものだよ」

 息を呑んだ橘に、彼は「砂糖はもういいのかね?」とシュガーポットを差し出した。


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