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花に蜜蜂  作者: 十夜凛
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第四章 黒檀の大弓

 戦火の中でも日々は一定の速度で歩みを止めることなく流れ、師走が過ぎ、新しい年がやってくる。香綬支部の年明けは、大晦日の晩に現れた西鬼との夜戦の後始末をしているさなかに訪れた。葡萄の焼けたような甘苦しい匂いと各部隊からの報告が忙しなく飛び交う中で、街に坂下の寺院が打つ鐘の音が鳴り響き、誰もが今日の日付を思い出して動かしていた手を止めた。

 幸い、小さな戦いで死傷者がなかったこともあって、部隊の帰りを出迎えた支部ではそのまま新年のパーティーになだれ込んだ。支部長、雨宮・T・オーキッド大佐の挨拶はさっぱりと、戻ってきた兵士たちを労い、今年も皆の無事と活躍を願う、とのこと。

 乾杯で回ってきた酒の中から、浅い桜色の盃に注がれた日本酒を選んで、千歳はこのとき初めて支部長の顔をしっかりと見た。食事のついででケイに聞いたところによれば、彼は黎秦の本部とこちらを行き来するのに忙しくて、あまり常駐はしていないそうだ。日頃はもっぱら、犀川と息子に支部の指揮を預けているという。

 ラウンジで甘酒が振舞われたり、門を開いて近隣の人々に炊き出しを行ったりと、三が日はあっという間に過ぎていった。そしてまた、日常が帰ってくる。睦月の支部が浮かれていたのは三日間だけで、四日目には何事もなかったように、正月飾りも炊き出しの跡も取り払われて、冷えた廊下の端々まで軍の建物らしい厳然とした空気が戻ってきていた。

「次、構え!」

 凛と澄んだ空の下に、号令が響き渡る。列を組んだ兵士たちと足並みを揃えて一歩、前へ出て、千歳はまっすぐに腕を伸ばした。正面にあるのは巨大なブロンズの塊――かつて現れた、トロール型の西鬼の模型だという。花繚軍の戦線部隊に属する新兵は皆、これに向かって魔術の腕を磨くのだ。いわば、的である。

「撃て!」

 号令と共に、訓練場のあちこちから炎や水が渦を巻いた。隣の青年は風を操るのか、ぶわりと吹いた風が千歳の髪を揺らして、西鬼像を目がけて奔っていく。彼の風は像に近づくにつれて、鎌鼬の鋭さを持って突き進み、西鬼の横腹に命中して刃物で斬りつけるような音を立てた。

 おお……、と千歳は思わず感嘆の唾を飲んだ。千歳の放った炎はといえば、的には当たったが狙った頭部を大きく外れ、背中の辺りを掠めて宙に消えた。

「全体、下がれ。しばらく自主練習とする!」

 もっとも、それでも新兵としては、筋は悪くないほうなのだが。ううん、と首を捻って、千歳は詰めていた息を吐いた。女学校を卒業してからしばらく、こういった訓練と離れた生活をしてしまっていたからか、攻撃の精度が少し落ちているようだ。あるいは、威力を見せなければと無意識に力を出しすぎるあまり、正確性を欠いているか。どちらにせよ、今一つ実力を出し切れていないことに違いはない。

 見れば、先ほど隣だった青年の元に、教官がやってきて何やら話していた。訓練の成果が上々だから、そろそろ実戦に出てもいいという話だろう。

 香綬支部に来てもうじき一ヶ月、千歳はこの光景を何度も見てきた。新兵は毎日のように増え、ここで訓練生となり、優秀な者から実戦へと送り出されていく。戦線部隊になったらすぐにでも戦場に出されるのかと思っていたが、実際はまだまだ道程があった。

 ふう、とため息をついた千歳の背中を――ポン、と誰かの手が叩く。

「なに暗い顔してんの?」

「ケイ!」

「自主練に来たんだけど、そういえば訓練生が使ってる時間だったね。ノーコンだらけで、迂闊に歩いてたら殺されそう」

 顔馴染みが現れて、千歳の沈みかけていた気持ちがぱっと明るくなった。可愛い顔から飛び出した辛辣な物言いに、周囲の訓練生たちが振り返って見る。

「そういうこと、大声で言わないでよ。私だってその訓練生なんだから」

 フォローするように、あえて周りに聞こえる声で言い返して、千歳はケイにまったくもう、と苦笑した。百六十センチ程度の千歳とほとんど変わらない、男子にしては小柄な体と、大きな青いつり目が猫のような顔立ち。ケイはその見た目に似合わず、結構ずけずけと物を言う。

 だって、本当のことじゃん。小声で返された言葉にまあね、と頷いて、千歳も辺りで繰り広げられている危なっかしい自主練を認めた。

「お手本、見せてよ」

「やだよ、今やったら教えろって囲まれるに決まってる」

 分かりきっていた返事に、千歳は笑った。支部の施設の裏手に造られた訓練場には、蜂花軍の人間であればいつでも出入りが自由だ。定期的に行われる部隊ごとの集団訓練もあるが、それは隣の第一訓練場で開かれていて、ここ第二訓練場は、基本的に自主訓練のために使われている。午前の三時間だけ、訓練生が教官の指導を受けているが、その時間内であっても脇のほうで自主訓練に励む兵士は少なくなかった。

 そういう者は、訓練生たちにとって見本であり、第二、第三の教官となる。運が良ければ所属部隊の隊長や上官が顔を出すこともあって、出世を望む野心の高い新兵にとっては、貴重な社交の場でもあった。

「さっきの、あんたの攻撃さあ」

 ケイがちらと、ブロンズの西鬼を見て口を開く。

「契約から日が浅いわりには、威力も速度もあっていいと思うけど、ちょっと惜しいよね」

「ノーコン?」

「筋がいいからこそ、ちょっとの外れが勿体ないって言ってるの。コントロールもだけど、的が広すぎる感じがする」

「的が、広い……」

「もっと一点に命中させる感じで撃ったほうが、威力が上がるんじゃないかな。今の炎の使い方だと、多分、実戦で西鬼が暴れたら散らされちゃって燃え移らないよ」

 力をできるだけ出さなくてはと思うあまり、千歳の炎は大きく広がりすぎているのだ。もっと細く鋭く、命中させたい部分を目がけて的確に撃ったほうが、見た目には地味だが実際の効果は高くなる。

 やってみなよ、と促されて、千歳は壁際に並んだ小型のブロンズ像を目がけて、何発か炎を放ってみた。意識すると、炎の幅を狭くして正確性を高めることはできる。だが今度は威力が、目に見えて下がってしまった。

「それは、さっきのままでよかったんだけどなあ」

「ご、ごめんなさい。分かってるのよ」

「どうしたらいいんだろう。単純にまだ、慣れてないってだけだとは思うんだけど」

 花たる者、いつか東黎のために戦うのですよと言われてはいたが、戦線部隊に入った今となっては分かる。女学校で教わっていた魔術は、補助向きの使い方だった。魔術は西鬼を足止めしたり、目くらまししたりするのであって、とどめを刺すのは騎蜂軍のすることだと習っていた。だが実際の戦闘を見ていると、魔術が致命傷を与えることだってある。

 千歳の通っていたのは女学校だったから、そういうふうに習ったのだろう。後援部隊に入ったとき、その中では比較的戦えるように――衛生兵でありながら緊急時に患者を守ったり、夜回り部隊でありながら西鬼と遭遇した際には身を守ったりできるように。魔術は派手で、大きな攻撃を放つことで、西鬼の隙を作るものとして学んできた。でも、戦線部隊に求められる魔術は、西鬼を倒すための魔術だ。

「訓練生なんて、あっという間に上がってやるわって思ってたんだけど……なかなか難しいわね」

 抱え込んでいた悔しさが、ぽろりと口をついて出た。鎌鼬の青年の姿はもう見当たらない。きっと部隊長へ、これから活躍できることを報告に行ったのだ。

「千歳……」

「ごめんなさい、ただの愚痴だわ。忘れて」

 驚いた顔を見せたケイに、千歳は笑ってかぶりを振った。少し、根を詰めすぎて神経が張っているのかもしれない。周りはほとんどが、士官学校上がりの戦う魔術を身につけた男子か、まったく花として学んだことのない男子ばかりで、千歳は前者には置いていかれ、後者よりは遥かに優れている。どっちつかずの立場になって孤立気味で、ただでさえ女というだけで目立っている中で、気軽に話せる相手もおらず、さすがに少々参っていた。

 ふうん、と周囲の空気から何かを察したように、ケイが腕を組む。そうしてしばし考えるそぶりを見せた後、じゃあさ、と言った。

「ちょっと、やり方を変えてみたら」

「どんなふうに?」

「何か、道具を使ってみるとか。いるじゃん、魔術のコントロールのために、杖とか煙管とか使ってる人」

 それは思いもつかなかった発想だった。言われてみれば確かに、と千歳は訓練場を見渡す。魔術に武器は必要ない。媒介も必要ない。そのため、ほとんどの兵士は手ぶらで練習しているが、中には時々、短剣や弾の入っていない銃、杖などを手にしている者がいた。

 花の能力は様々だ。一口に火を操る、水を操るなどと言っても、その扱い方の癖や得手、不得手は実に幅広い。中には武器を通して扱うことで、力が使いやすくなる場合もある。見つめていると丁度、空の銃を持った青年が引鉄を引いた。燃え盛る弾が薄い木製の的に穴を開けて、友人らしき数人から歓声が上がる。彼も炎の使い手だったのだ。

 ケイがふうん、と顎に手をやって、

「銃かぁ。でも銃に込めるとなると、力を相当小さく圧縮しないといけないよね」

「できると思う?」

「あんまり向いてないと思う。多分、線香花火みたいなの撃つよ、あんたは」

 返す言葉がなくて、千歳はぽとりと落下する赤い火の玉を思い浮かべた。想像に易すぎる。思うに、自分はあまり炎を細く絞るのが得意でないのだ。

「もっと自然に、あんたの意識と関係なく、的が小さくなるようなものって――」

 大きな青い目を伏せて、ケイは唸った。そうしてはっと、何かに気づいたように笑顔を浮かべた。

「あるじゃん。ちょっと試してみなよ、持ってきてあげる」



「レモンティー一杯、お願いします」

 昼下がりのラウンジでカウンターに向かって声をかけると、すぐ出せます、と女給が微笑んだ。どうやらちょうど、他の人に淹れるのを用意しているところだったらしい。

 それなら自分で持っていこう。カウンターの脇に立って、千歳はしばし待つことにした。ちょうど、時間帯的にも客が多い。この人数の中から自分を探し出すのは、女給にとっても大変だろう。

 ――制服を着ちゃうと、恰好に特徴もないものね。

 銀のボタンが並んだ白のロングコートを広げて、千歳はふと身を屈め、裾についていた糸屑を払った。膝丈まであるコートだ。中に立襟シャツと黒のプリーツスカートを着ているが、前面のボタンをすべて閉めると、ワンピースのようにも見える。花繚軍の下士官以下に支給される制服の、最もオーソドックスな形だ。将校になると外套がつく分、上着そのものは短くなる。その他、時々役職に応じて、形の違う制服を着ている者もあった。

「どうぞ」

 温かいレモンティーが、千歳の前に差し出された。忙しそうな女給に、礼を言って受け取る。無料のラウンジに最初は抵抗があったが、近頃ようやくそういうものと割り切って利用できるようになった。今日は資料を読みに来たのだ。寒い自室にこもって読むより、ここで温かい飲み物を口にしながら読んだほうが、頭にも入る。

 どこか一人用の、小さな席が空いているといいんだけど。辺りを見回した千歳は、カップを持った手に走ったじくりという痛みに、思わず顔を顰めた。それから気を取り直して、窓際の席に視線を向ける。

 はたと、一つのテーブルに座っていたケイと目が合った。あら、と瞬きをした千歳に、ケイが手招きをする。どうやら相席して良いようだ。他に席も見当たらなかったので、ありがたく申し出に甘えることにした。

「お邪魔します。あの、はじめまして」

 テーブルにはケイと向かい合って、女の子が一人座っていた。初めて見る顔だ。花繚軍の格好とよく似た、衛生兵の制服を着ている。彼女は千歳を見上げるなり、人のよさそうな、綻ぶような微笑みを浮かべて隣の席を勧めた。

 千歳は素直に、そこに腰を下ろした。

「薊千歳です。ナーシサス隊の所属で、訓練生よ」

「空木巴と申します。桐尾ケイの契約者ですわ」

 この子が。千歳は思わず、ああ! と声を上げた。名前だけは最初に聞いていたが、会ったのは初めてだ。巴は千歳の反応から、自分がケイと千歳の会話に上ったことがあるのを察したのだろう。頬を染めてはにかむように、にこ、と笑みを深めた。

 すすき色の目、同じような淡い茶色の髪。肌も白くて、指先など毀れ物のように細い。なんて上品な子なんだろう、と千歳が目を奪われていると、コーヒーを啜っていたケイが口を開いた。

「巴は僕のひとつ下でね、実家が隣同士だったんだ」

「じゃあ、本当に生まれたときからの幼馴染ね」

「そう。ああ、砂糖使う?」

 シュガーポットが自分の脇にあったのを思い出し、訊ねてくる。ええ、と頷いて受け取ろうと手を伸ばし、手のひらが開いた瞬間、千歳はまたしても痛みに顔を顰めた。

「千歳さん?」

「何、どうかしたの?」

 間近でその顔を見た二人は、飲み物を置いて千歳を覗き込んだ。何でもない、と言おうとしたが、じとりと疑うようなケイの視線を受けて逃れるのを諦める。

「大したことじゃないのよ」

「勿体ぶらずに言いなよ」

「……肉刺が潰れてるの」

 肉刺。千歳の言葉に、二人がぱちりと瞬きをした。そうしてケイが、合点がいったように「ああ」と頷いた。

「弓引いてるからか」

 広げた手のひらの、小指の下と親指の付け根に大きな肉刺が二つ。さらに小さなものがいくつか、痛々しい色になって潰れていた。大弓を引くときに力が強くかかる場所だ。このところ連日稽古をしていたせいで、今朝とうとう限界を迎えてしまった。

 黒檀の大弓。それが一週間ほど前、ケイが千歳に持ってきた武器だった。誰のものかも分からなくなって武器倉庫の中に放置されていたのを、以前に見かけたことがあったらしい。軍の女学校にいたなら、習ってるよね。(ゆがけ)を手渡しながらなされた確認に、千歳は頷いて、久方ぶりに持つ弓を構えた。十五、六の頃、必修として習ったとき以来だ。矢を弦につがえ、右足を引いて、体をぐっと横に向ける。

 刹那、腕を通して弓と肉体がひとつになったような静寂が千歳の中に降り立った。訓練場のざわめきが遮断され、的と自分が細長い一直線上の世界に孤立した。

 ――やるじゃん。

 気がついたときには、矢が中央の円を射抜いていた。ケイがぽん、と背中を叩く。ざわめきが耳に戻ってきて、一直線だった世界が拓けた。

 弓道の授業は、好きだった。とっくに忘れてしまったと思っていた感覚が、まだ自分の体に残っていたことに、千歳は驚いた。同時にそれが嬉しくもあり、すでに手の肌と吸いつくように馴染んでいる黒檀の弓を、ぜひとも自分のものにしたい――そんな気持ちが湧き上がっていた。

 炎を右手から放つことで、つがえた矢に燃え移らせ、火矢として放つ。それなら的は自然と絞られるから、苦手なことに意識を集中させる必要がない。

 ケイの提案したこの方法は、千歳の能力を格段に扱いやすくさせた。千歳の炎は真っ赤な注連縄のように矢にとぐろを巻いて、弦の振動を利用して力強く飛んでいく。大弓は身の丈を超える長さから隠蔽性が低く、扱いも難しいとされるが、そのぶん威力は高い。西鬼の肉にも、十分食い込んでいける力だ。葡萄の匂いをさせる巨体に矢が旗印を刺せば、あとは炎が駆け上って追い打ちをかける。

 そんなわけで、千歳はこのところ、毎日の訓練に弓を持って行っているのだ。構えの感覚を忘れていなかったとは言っても、手のひらの硬さや筋肉はとうに失われている。弽に守られた右手は疲れて痛むだけだが、左手にはあっという間に肉刺が溢れ、寒さと乾燥も相まって常にピリピリした痛みを訴えていた。

 潰れた上から新たな肉刺ができ、ひどい色になった手のひらを見て、ケイが眉間に皺を寄せる。

「だいぶ痛いでしょ。医務室には行ってる?」

「消毒液だけ、もらってあるわ」

「自分で塗って済ませてるってこと? 無茶するね」

 だって、と片頬を膨らませて、千歳はそっぽを向く。医務室に行ったほうがいいことは分かっている。分かっているが、ここは軍の支部だ。医務室に足を踏み入れると、カーテンで仕切られたベッドのむこうにうっすらと見えるのは、皆寝たきりの怪我を負った兵士たちばかりで。

 ――どうしましたか。

 ――肉刺が痛くて。

 なんて、考えただけで場違いも甚だしい。この程度で世話になれるような雰囲気ではないな、と引き返してしまうのだ。

「そんなふうに入りづらさを感じさせてしまうなんて、わたくし共はまだまだ未熟ですわね」

「あっ、そういう意味じゃないの……!」

 隣から聞こえた申し訳なさそうな声に、千歳は巴が衛生兵だったことを思い出して、慌てて手を振った。平時の彼女たちは看護婦と共に、支部の医務室を預かっている。巴はその手をぱっと握って、自分の前に開かせた。

 すすき色の目が、叱るように千歳を見上げる。

「でも、いけませんよ。ちゃんと治療を受けてくださらないと、化膿したらもっと大変なんですから」

「は、はいっ」

「小さくても怪我は怪我です。ちょっと待ってくださいね」

 儚げな容姿に見合わず、看護婦らしい責任感の強さも持ち合わせた少女のようだ。有無を言わさない口調で命じられて、千歳は手を差し出したまま言われた通りに待機した。椅子の背中に置いていた丸い鞄を膝に抱えて、巴は慣れた様子で、中から包帯と消毒液を取り出す。

 ちらと見えたそこには、自分のものなどハンカチとちり紙くらいしか入っておらず――鋏に綿棒、脱脂綿、湿布、痛み止め、応急処置のための道具がきっちりと収められていた。

「沁みますか?」

「少し……」

「お薬が効いている証拠です。すぐに落ち着きますから、少しだけ我慢してくださいね」

 にこりと、清潔な寝具みたいに真っ白な微笑みを浮かべて、巴は言った。頷いた千歳の手のひらに、素早く包帯を巻いていく。大げさじゃない? なんて躊躇して問う暇もなかった。気がつけば端をテープで留められて、すっかり治療が完了していた。

「ありがとう。すごいわね、慣れてるの?」

「ちょうど一年くらい前から、勤めておりますわ」

 まだまだ新米ですけれど。謙遜ではなく、本心の謙虚さから巴は答えた。一年で新米か。そうだよな、という思いと先が長いな、という思いが混在して、千歳は何とも言えない心地で相槌を打った。

 ケイのひとつ下で一年前ということは、十六からここで働いているのか。子供の頃から契約していたというし、ケイを追って早めに入隊を決意したのかもしれない。そこまで考えて、あれ、と首を捻った。

「ケイの契約者……、なのよね?」

「ええ。どうかいたしましたか?」

「ということは、つまり蜂でしょう? 蜂なのに、衛生兵の部隊にいるの?」

 制服も行いも、巴は明らかに衛生兵だ。でも、本来衛生兵になるのは、花繚軍の後援部隊である。蜂の衛生兵など、聞いたことがない。戸惑っていると、巴が「それは」と口ごもった。

「空木財閥って知らない?」

 向かいで会話を眺めていたケイが、助け舟を出すように口を開く。その目が一瞬、巴を見て言っていいかと確認した。巴は断らなかった。

「黎秦の総合病院の隣に、別荘のある?」

「そう、その空木財閥。……の、本家の娘」

 時間が数秒、止まった気がした。次に口を開けることができたとき、千歳は「ええっ!」と叫んだ自分の声が、辺りを騒がせない大きさに堪えるので精いっぱいだった。

 空木財閥といったら、東黎で五本の指に入る名家ではないか。確か幽安に本邸があり、当代の主人には兄と妹、二人の子がいると聞くが。

「まさか、その妹って……」

「兄の名は、律と申します」

 間違いない、本物だ。頭に稲妻が走ったような衝撃で、目の前がくらりとした。育ちのよさそうな女の子だとは思った。でも、まさかそんな名家の出身だとは。これまで出会った中で、否、生涯に出会う中で随一のお嬢様ではないだろうか。動揺治まりきらぬ千歳に、だからね、とケイが続けた。

「剣を持って戦うなんてとんでもないって、お父上との約束で」

「なるほどねえ……」

「仕方ないんだ。本人の我儘じゃないから、分かってやって」

 勿論だ。千歳が迷わず頷いたのを見て、巴がほっとしたような表情を浮かべた。むしろ、軍に入るのを許されただけでも、すごいことなのではないかと思う。名家の事情など無縁ではあるが、ネリネが良いところの娘だったので、話の端々に良家の気苦労とでも言うべきものを感じたことはあった。

 空木財閥ともなれば、さらに何倍もの圧力を受けて育ってきたのだろうと思う。その檻を破ってまで、同じ支部に入って幼馴染を支え続けようとは――ケイは果報者だ。

「ん? というか、そんな巴と家が隣で、契約者って……」

「何?」

「ケイ、貴方ってまさか結構いい家のご子息だったりするの?」

 半ば確信を持った問いかけに、ケイは巴と目を見合わせた。そうしてとびきり、いたずらっぽく笑って、

「全然? 執事の息子だよ」

「えっ」

「結婚式ごっこってお嬢様にキスして、父さんに泣きながら殴られた。そのときからずっと、一緒にいるんだ」

 あんぐりと口を開けた千歳の前で、涼やかにコーヒーを飲み干した。


 千歳が訓練生を卒業したのは、それから三日後。睦月も終わりに差しかかる、きりりと澄んだ冬の日だった。


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