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花に蜜蜂  作者: 十夜凛
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第二章 香綬支部

 香綬は東黎の主要な都市の中で、最も西寄りに位置する街である。帝都黎秦は中心より結構東に奥まっているから、二つの都を行き来するのは、この国を半分以上横断するようなものだ。かつては西の帝都とも言われるくらい、立派な寺社が立ち並ぶ巡礼の街だったというが、今やその面影もない。

 香綬が戦火で街ごと焼け落ちたのは、千歳が生まれる前のことだ。三十年くらい前だから、橘もまだ生まれていないんだ、と千歳は道すがら聞いた彼の年齢を思い出した。今年二十六になったという。想像していたより、一つ二つ若い。

 赤ん坊が大人になるよりも長い月日が経ったのに、香綬の街は今もどこか、燃え跡から立ち続ける煙の中に沈んでいるような陰鬱さがあった。耐火煉瓦の壁でぐるりを囲んだ青銅門の支部は、その灰色の影の中に突如として現れた、幻の城のようだった。

「おかえりなさいませ、橘少尉」

「ああ。これを犀川(さいかわ)大佐に」

「はっ」

 入り口で出迎えた兵士に頭を下げられ、千歳は慌てて深々とお辞儀を返した。橘は慣れた様子で、ポケットに差してあった幽安からの手紙を彼に託す。黎秦の本部に比べれば簡素な造りの建物だが、それでも千歳が人生で目の当たりにしてきた建物の、上位三つに入るのではないかと思われた。一番は本部、二番は帝城だ。ちなみに四番目となると、帝城そばの総合病院とか、通っていた女学校にスケールダウンする。

「こっちだ」

 左手のたくさん並んだ、揃いの箱みたいな建物は兵舎かしら。きょろきょろと見回しているうちに足が遅れたのか、橘が暗に「早く来い」と千歳を呼んだ。はぐれないよう、急いでその背中にぴったりとついていく。

 まともに外に出たのは、いつ以来か――春に風邪を引く前だから、もう半年以上前だ。久しぶりに出歩いているというだけで些か緊張するものがあるのに、煉瓦の壁の内側はお祭りでもあるのかしらと思うくらい人がざわついていて、よそ見をしたらあっという間に橘を見失ってしまいそうだった。

「お戻りでしたか、少尉」

「たった今だ」

「お疲れ様です」

 外壁と同じ煉瓦造りの建物に入って、どこかへ向かっていくあいだ、橘は何度となくこの支部に勤めている兵士から挨拶を受けた。目下の者の場合もあれば、目上の者の場合もあった。少尉とはいわゆる将校階級の一番下だから、まだまだ上には上がいるし、下から見れば自分たちとは一線を画した人である。

 何かと窮屈そうな立場だが、橘は意外と下には慕われ、上からの信頼も薄くないようだ。だが、そういう良い意味での視線と別に、千歳は広い廊下の左右から注がれる目の多いことを感じて、ちらと顔を横に向けた。

 ――あれが、〝断花〟の新しい……

 ――声がデカい。聞こえるぞ、ホラ。

 千歳と目の合った二人組の兵士が、愛想笑いを浮かべてそそくさと去っていく。初めはただ感じの悪い、と睨んでいたが、何度となくそういうことがあって、だんだんと会話のほうを聞き取れるようになってきた。

 たちばな、と呼び捨てにしているのかと思ったが、そうではない。陰口のようなあだ名だ。花を断った――つまり、ネリネを殺したことを指しているのだろう。どうやら彼の過去の所業は、ここでもまだ、過去にはなりきっていないらしい。

(当然の報いだけれど)

 ちゃり、と髪留めの雫が揺れた。橘が足を止めたので、千歳も急停止したのだ。

「ナーシサス大尉。橘です」

 見れば、それまでに通ってきたところよりもいくらか立派なドアが、橘の前に佇んでいた。手袋を外した手でノックして名乗ると、中から返事が聞こえる。

 失礼します、と言って、橘がドアを開けた。

「やあ、カーティス少尉。よく帰ったね」

 ドアを開けた瞬間、鼻の奥がきゅうっと詰まるような甘い香りがこぼれ出た。正体はすぐに分かった。応接用の丸テーブルの上に置かれた、一抱えもある水仙だ。深い色のテーブルに、鞠のように活けられた白と黄色の花がよく映える。

 優美な部屋だった。象牙色の壁に張りつくように設えられた家具は、どれもみなアンティーク調で、深いこげ茶色で統一されている。戸棚には本棚以外すべて観音開きの扉がつけられ、ところどころに輝く硝子の嵌め込み窓から、中の勲章やインク瓶、コーヒーカップなどが覗いていた。赤いアラベスク模様の絨毯が一面に敷かれている。

 千歳は初め、靴を脱いで上がるのだと本気で思った。だが、橘がブーツのままで入っていったのを見て、ナーシサスの足元に視線を走らせた。執務机から橘の元へ歩み寄ってきた彼も、厚い革のブーツを履いていた。

「長旅、ご苦労様だったね。道中何事もなかったようで良かった」

 入って閉めて、という仕草に、入口へ突っ立っていた千歳は慌ててドアを閉める。ナーシサスはその間に橘と握手を交わし、丸テーブルの脇のソファに積んであったクッションを適当に退けて、千歳が抱えているオーバーコートを置ける場所を作った。ついでにそこへ、二人分の席も作る。

「黎秦はどうだった。今コーヒーを淹れよう」

「ああ、いや。有り難いのですが、部屋に電報が溜まっているそうなのであまりゆっくりはできなくて。相変わらずですよ。毎年寒いところですが、今年は例年にも増して冷えていたような気がする。師走にしては、街の人出も少ないですね」

「おや、そうなのか。それは残念だ。今年は郊外に西鬼(さいき)の襲撃が多い一年だった。農村が荒らされて正月の支度に使うものも皆、値段が吊り上がっているしな。帝のご様子は何か耳にしたか?」

北明(ほくめい)の帝君と、使者を通じて手紙を交わされたとか。あちらは実質、大帝争いから手を引くつもりのようです。代わりに国境の不可侵を求めている」

南輝(なんき)との戦いが、ずっと膠着状態だったらしいな。長期戦に持ち込まれると、やはり北明は不利だ。痩せた土地で人を動かし続けることは難しかろう」

 今のうちに守れるものだけ守るのも賢明な判断だな、とナーシサスは窓を開けながら頷いた。ストーブの熱と水仙の匂いが、こもりすぎていることに気づいたらしい。執務机の上には書きかけの書類が何枚も重ねられている。きっと仕事に没頭していたのだ。

「して、そちらのお嬢さんが」

 ナーシサスが振り返って、青灰の眸を千歳に向けた。

「君の、今回の黎秦行きの本命か。カーティス少尉」

「ええ」

 橘が千歳の腕から、オーバーコートを取り上げた。理由はすぐに分かった。大股にやってきたナーシサスが、千歳に手を差し出したからだ。

「薊千歳くんといったかな」

「はい」

「私はユリウス・ナーシサス。花繚(かりょう)軍大尉だ、よろしく」

 花繚軍――ということは、彼は花なのか。よろしくお願いします、と握手に応じながら、千歳は改めてナーシサスを観察した。自分より頭一つ高いところを見ると、百八十センチくらいだろうか。橘と並ぶと彼のほうが若干大きいせいであまり感じなかったが、ナーシサスも目の前にすると十分どっしりとして、迫力がある。

 ただ、雰囲気は鷹揚で、早口だが声には落ち着きがあった。顔全体を彩る豊かな表情は、一見すると親しみやすい気配を醸し出している。大尉という以上、それだけではない切れ者な面も備えているのだろうけれど。銀髪のせいでいくらか老いて見えるが、三十五、六といったところか。

 橘のものと作りは似ているが、白地で、銀のボタンが前一列に並んだ制服を着用していた。左胸に咲く薔薇の刺繍や、右肩に連なる飾緒も銀色だ。花繚軍は全体的に、装飾を銀で揃えているのだろう。

「顔色がいいね」

「え?」

「幽安からの電報で、だいぶ衰弱しているから場合によっては途中で馬を止めて休むとあったから、どんな状態かと思ったが。適合率がよほどいいんだろう。元気になったようで、何よりだ」

 まじまじとナーシサスを眺めていた千歳は、彼もまた自分を観察していたことに気づき、同時に「顔色がいい」という言葉の意味を理解して、握っていた手を振りほどくように離した。真っ赤になった千歳を見て、ナーシサスは思いがけない反応だったのか、おやと目を丸くした。

 六日間に及ぶ道中、馬車という密室空間で、橘は千歳に対して非常に定期的な供給を行った。それはもう、植物の発芽でも記録するための水遣りか何かのごとく、一定の時間を空けて事務的に躊躇わず。口づけを介して、毒の供給を続けた。

 体液には主として唾液、汗、血液、精液、愛液などが挙げられるが、蜂花(ほうか)の多くが主要な供給源として選んでいるのは唾液だ。性交よりも手軽でリスクがなく、季節を問わず、肌を切る必要もない。橘がこの方法を選んだことに、千歳も異議を唱えるつもりはなかった。蜂花の契約というのがどういうものか、花に生まれた者としてそれくらいは知っているし、ついてきた以上、避けられないものと覚悟は決めている。

 道中、何度か馬車の揺れに任せて舌を噛んでしまおうかという考えは頭をよぎったが。そのたび今際の際の苦しみが思い出されて、踏み切れなかった。

 正常な体力と思考力を取り戻した今となっては、あのときどうして正気を保っていられたのか分からない。ナーシサスの言う通り、認めたくはないが、かなり相性がいいのだろう。契約から一週間で、千歳は床に伏していたのが嘘のように元気を取り戻した。全身がかつてないほど軽やかで、天女の羽衣でも纏っているみたいな気分だ。今となってはH75が、いかに「健康になる」のではなく「死なない」だけの気休めだったかよく分かる。一度そうして死の淵から遠ざかってしまうと、もう一度戻るのは初めて行ったときの数倍恐ろしい。

 死にたくないという欲望に負けて橘についてきたことを、千歳は未だに、自分の中で上手く昇華しきれずにいた。橘との供給が上手くいっていることを指摘されると、口づけを見透かされただけではなく、死ぬのが怖くて友の仇を取れなかった自分の弱さまで見透かされた気がしてしまう。泣きたいような恥ずかしいような、憤りで頬が熱くなったのだ。

 初対面のナーシサスの前で、こんな顔は見せられない。千歳が唇を引き結んでうつむいたとき、ばさりと、何か黒いものが頭から被せられた。

「申し訳ない、大尉。帝都の隅で野良猫のように暮らしていた娘でして、まだ蜂花の関係に慣れていないのです。あまり、言わないでやっていただけると」

「ああ、そうだったのか。これは失敬。確かに、うら若いお嬢さんに対する発言ではなかったね。忘れてくれ」

 オーバーコートを頭巾のように被ったまま、千歳はおずおずと目線を上げて、ナーシサスにお辞儀をした。彼は橘の言葉で、自分が千歳に恥ずかしい思いをさせたと思ったらしい。気にしないでくれたまえ、と念押しして、千歳から視線を外すように、会話の相手を橘に戻した。

 ……助けられたのよね。

 コートを肩に羽織り直して、ショールを着るように前をかき合わせながら、千歳はちらと横目に橘を見上げた。返事ができなくなっているのに気づいて、茶々を入れる格好で代わってくれたのだろう。野良猫呼ばわりは心外だが、まあ事実だ。お陰様で少し冷静になって、顔の熱さも冷めた。

 気まぐれなのか、新しいもの好きなのか。命をひとつ見殺しにする人間らしからぬ、手の差し伸べ方だ。期待していなかった助けに、千歳は困惑を押し隠して、会話する二人の顔を交互に眺めた。――笑った。橘がふと、ナーシサスの冗談に笑いをこぼした。

 千歳は心の中で驚いた。橘は冷酷非道で人を人とも思わず、誰に対しても隙を見せない。そんなふうにイメージを抱いていたからだ。でもナーシサスとの間には、上官と下僚という一定の礼節の中に、ほのかな親しみが垣間見える。

 ……友達、いるんだ。思ってから、我ながら失礼な、と気がついて、喋ってもいない口をそろりと手で塞いだ。

 コンコン、とノックがドアのむこうから響く。

「失礼します、ナーシサス大尉。橘少尉がこちらにおられると伺ったのですが、いらっしゃいますか?」

「ああ、弟切くんかい? いるよ、入りたまえ」

 ナーシサスが、まだ開いていないドアに手招きをする。ドアのむこうの来客は、今一度「失礼いたします」と断ってから、ノブの音をほとんど立てずに入ってきた。

 すらりと華奢な印象の、若い青年だった。橘と同じカーキの上下。広いが薄い肩に、金の肩章が輝いている。蜂だ。

 ドアを閉めるときもノブを回した状態で握ったまま閉め、歩くときも踵から爪先まで、波を打たせるように静かに下ろす。身のこなしがどこか茶道を思わせる、洗練された印象の青年だった。冬に罅割れた木の皮のような、灰色がかった茶色の髪が、尚のこと彼の纏う空気を粛然としたものにさせている。

「お話し中に申し訳ありません。お帰りなさいませ、橘少尉」

「ただいま、弟切。何か急用か?」

「雨宮支部長からの電報を預かったので、早めにお渡ししたほうがよろしいかと思いまして」

「支部長から? 見よう」

 弟切はポケットから、二つ折りにされた電報を取り出した。内容は見ず、まっすぐに持ってきたようだ。受け取った橘が開くのを、ナーシサスが肩越しに覗き込む。ふむ、とその目が良い知らせを見たらしく微笑みの形を作った。

「橘小隊に兵士を送る、か。君の統率が買われている証拠だな」

「危急の知らせではありませんでしたね」

「だが、大切な知らせだ。ありがとう、弟切。……ああ」

 電報を袖口に挟んで、橘が視線を千歳に向ける。弟切が見ていることに気づいて、思い出したのだろう。千歳を手で示して、変わらない淡々とした口調で言った。

「お前にも紹介しておかないとな。薊千歳、俺の新しい契約者だ」

「新しい、花……」

「千歳、こちらは兵長、弟切司(おとぎりつかさ)。お前と同い年で、俺の小隊の所属だ」

 よろしくお願いします、と千歳は挨拶を述べた。こちらこそ、と弟切は答えた。だが、彼が「新しい契約者」と聞いたときの苦々しげな顔は、一瞬だったが千歳の瞼にこびりついて離れなかった。

 この人も、橘が過去にしたことを知っているのか。あまり、歓迎を受けたという感じはしない。握手もなく、弟切はそれ以上話をする気配も見せず、ふいと千歳から視線を逸らした。

 会話が途切れ、誰が次の口火を切るのか、沈黙の中に数秒の探り合いが流れた。

「君の所属も、決めてしまわなくてはね。薊くん」

 ナーシサスがそれとなく、その役割を買った。年長者の機転によって、場は再び会話の空気を取り戻した。弟切が三人に一礼して、来たときと同じ、静かな足取りで部屋を出ていく。

「所属……、花繚軍の、誰の隊へ入るかということですか?」

「そう。だが花繚軍はそもそも、戦線部隊と後援部隊に分かれていてね。戦線部隊は名前の通り、戦場に出て、騎蜂軍と共に戦う部隊だ。他国から東黎の魔術師と呼ばれているのは、主に彼らのことだね」

「はい」

「それと後援部隊がいる。後援部隊はあまり、戦場に出ることはない。支部や宿営地で負傷兵の看護に当たったり、夜間の見張りをしたりしてもらう」

 そんな役割分担があるのか、と千歳は意外に思いながら頷いた。花繚軍といえば全員が魔術を行使して戦っているのかと思っていたが、そうとも限らないようだ。でも確かに、花にも戦闘向き、不向きの力というのがあって、例えば水を操って物や動物の形に変えるのが得意な知り合いというのもいたが、あれでは戦いにならない。

 その点、千歳は女学校で、火を操る才能を見出されていた。火は水や風と違って、小さくても武器になる。

「私は――」

 戦線部隊でも出られます、と申告しかけたときだった。辺りを切り裂くようなけたたましいベルの音が、細く開けた窓の外から、ジリリリリ、と響き渡った。途端、耐火煉瓦の壁のむこうがにわかに騒がしくなる。廊下にも一斉に足音が溢れ出し、庭にカーキと白の制服を着た背中がばらばらと走り出た。

「西鬼だ」

 橘が窓に駆け寄り、どこだ、と問う。近くにいた騎蜂軍の兵士が、西の神社跡、と答えた。

「まずいな。あの辺りは住民が多い。急いで向かわねば」

「小隊に召集をかけます。先に向かっても?」

「ああ、頼む。上にも伝えよう。私の隊は、住民を避難させてから援護に向かう」

 ナーシサスが純白の外套を肩に羽織った。橘は彼に頷いて、先に立ってドアを開けた。

「待って! 私も行けるわ。どうしたらいい?」

 誰に従って、どこで戦えばいいか。せめて何か指示を仰ぎたいと声をかけた千歳に、橘はぴたりと立ち止まって振り返った。その眉間に、渓谷のような深い皺が刻まれているのに気づいて、あれ、と息を呑む。

「私も行ける、だと?」

 地を這うような低い声が、千歳の言葉を一音一音、確かめるようになぞった。

「軽々しく言うな。実戦経験のない上に、病み上がりで力もない蕾など、連れていくわけがないだろう」

「な……っ」

「お前を庇って何人が死ぬか、分かったものじゃない。いいか、絶対に外へ出てくるんじゃないぞ。お前は留守番だ」

 分かったな、と念を押すが早いか、バンッと勢いよくドアが閉められた。千歳が何かを言い返す、一秒の隙もなかった。橘の背中が出ていったあとのドアを見つめたまま、呆然と立ち尽くす。

 確かに、実戦経験などない。でも花として生まれ、いつか花繚軍の一員となるのだと言われ続けて育ち、戦う術を学ぶために軍の女学校へ通い、特別なカリキュラムを課されてきたのだ。東黎の魔術師になることを求められ続けてきたから、今こそ、怖気づく心を投げ捨てて役割を果たそうと思ったのだ。――それなのに。

「なんて、言い方……!」

「まあまあまあ! あれは彼なりの心配だろう。君が最近まで床に伏していたのは事実なわけだし、所属もないまま戦場に出て倒れるようなことがあっては大変だから」

「絶対、そんな生易しい意味は込められていませんでした」

 蕾、とは。半人前の、非力な子供扱いもいいところだ。同じ留守番を命じるにしたって、もっと言葉の選び方というものがある。怒りに任せてドアを掴みかけた千歳の手を、ナーシサスが止めた。そういえばこの人の部屋だったと思い出して、素直にノブから手を離す。

「カーティス少尉は、誰に対してもああだ。能力を自分の目で見極めて信頼した者以外、戦場に出したがらない。時には上官すら、足手まといと判断すれば引っ込ませる」

「そうなんですか?」

「そうとも。だから君が特別に、馬鹿にされたわけではないんだ、薊くん。それに、戦線部隊になるのはほとんどが男だからね」

 宥めるように言って、ナーシサスは千歳に頷いてみせた。え、と驚きに目を瞬かせた千歳の前にドアを開けて、いつのまにか手袋を嵌めた手が、やんわりと廊下を示す。

「すまないが軍の規則で、私がここを留守にするときは鍵をかけなくてはならない。自分の部屋はもう、案内されたかね?」

「あ、まだ……」

「それならカーティス少尉が、戻ったら案内するだろう。左の突き当りにラウンジがある。香綬支部の者ならただで使えるから、紅茶でも飲んで待っているといい」

 慌ただしく廊下を行き交う兵士たちの中から、花繚軍の制服を着た一人がナーシサスを見つけて駆けてきた。どうやら彼の率いる隊の兵士たちが、集まり始めているようだ。

 千歳はナーシサスに礼を言って、これ以上彼の手を煩わせることのないよう、言われた通りにラウンジへ向けて歩き出した。途中で足を止めて振り返る。ナーシサスはすでに、部下と共に廊下を反対へ向かって走っており、白い外套の裏地の紺を鮮やかにひるがえして、曲がり角のむこうへ消えていった。

 千歳は少し戻って、階段を上へのぼった。木製の、経年によって飴色に染まった艶のある手すりを握って、上がれるところまで上がっていく。四階に着いたとき、そこは何の部屋もない、真四角の小さな薄暗い空間だった。正面に鉄のドアがある。ひやりとしたノブを回して引けば、思った通り、冷たい風が頬を打った。屋上だ。

 ジリリリリ、と鳴りやまない警報のベルが街を駆けている。兵士たちの靴音が聞こえてくるほうに向かって、千歳は柵に走り寄り、下を覗き込んだ。ナーシサスの小隊が、ちょうど今、列を組んで青銅の門を出発するところだった。小隊の中ほどに立って指揮するナーシサスの帽子の、銀色の薔薇の刺繍が、師走の日差しを跳ね返して眩しく光る。

 橘はもう行ったのだろうか。見知った姿を探して庭を見回していたとき、少し離れたところで突然、爆発音が響いた。爆風の尾が千歳のところまで届いて、袴の裾が大きく膨らむ。顔を打った砂ぼこりに、思わず袖で目元を庇った。

 ――あれが。

 そっと目を開けると、爆発のあった場所にずんぐりとした大きな影が佇んでいる。窮奇(きゅうき)か。虎の体に生えた、肉とも羽とも不鮮明なもので覆われた翼は、女学校で読んだ本の中に出てきた古の怪物そのものだった。ただしあれは、本物の窮奇ではない。西鬼、という。西華(さいか)国が作り出した、伝説の生物の姿を模した人工の怪物だ。

 東黎、西華、南輝、北明。四つの国はかつて、一つの帝都を中心に戴く広大な一国だった。偉大な始皇帝、またの名を征服王の元に、彼の四人の息子たちが国を四分して治めた。長男は雪と鉱山に覆われた北の地を。双子の次男は山と川に恵まれた東西の地を。末弟が湿地と深い緑に覆われた南の地を。それら四つの都の中心に、始皇帝は自らのための都――大帝王都――を作り上げ、その支配の目で大陸全土を見渡した。

 だが、どんな偉大な存在もいずれ世を去る。始皇帝の没後、四人の兄弟は空になった王都を誰が治めるかで争いを始めた。それはやがて、四人の中での代表――〝大帝〟を決める争いへと発展して、次の代に継がれ、また次の代に継がれ、時を経て戦争に変わった。

 人も物も、自由だった往来は途絶え、一つだった国は四つになった。四国はそれぞれに皇帝を立て、今や独自の政治と文化のもとに動いている。他の三国に対する、同胞の意識など今となっては思い出せない。確かに昔は一つだった。教科書ではそう書いてあったが、そんな時代はかれこれ二百年以上前の話だ。皇帝同士の血の繋がりも、とうに桜色くらいまで薄れている。

 度重なる戦争で、王都は各国に踏み荒らされ、分割され、組み込まれて消えてしまった。それでも大帝争いは終わらない。王都という目標物がなくなってしまったからこそ、終われないのだ。

 王都が優勝賞品ならば、勝者も敗者も、得るもの失うものは王都だけだった。しかし王都という境界線なき今、勝者となった大帝が得るのは、王都が生まれる前の始皇帝と同じ。大陸全土の支配権だろう。

 ――ゴオ、と風が唸るような叫び声が聞こえた。

 見れば、窮奇が後ろ足で巨躯を持ち上げて、兵士たちを踏みつぶさんとしているところだった。赤ん坊とは桁違いの地団駄に砂ぼこりが舞うたび、足元がズンと揺れる。

 大帝争いに、西華国が西鬼を投入したのが、今から百年ほど前。西華は当時、滅亡寸前の危機に瀕していたが、他国はこの未知の生物に対応する力を持たなかったため、瞬く間に圧倒され、戦況は大きく覆った。

 西鬼は脅威だった。それまでの戦争とはまったく違う、人間と人間の戦いを越えた戦争が始まったのだ。剣も銃も、言葉も命乞いも通じない。西鬼が各国の軍を次々に蹴散らし、西華は一躍、大帝争いのトップに躍り出た。誰もがそのまま、西華の帝が大帝の座を手にするのだと確信していた。

 東黎の蜂花軍が、それを打ち破るまでは。

 建物が踏み潰されて、梁や天井の砕ける音が響く。千歳は柵に腕をかけたまま、戦闘の様子をじっと見つめた。騎蜂軍と花繚軍、合わせて蜂花軍と呼ばれるが――東黎がこれを結成するのがあと半年遅かったら、大陸は西華のものになっていただろう。人間の常識を超えた身体能力を持つ蜂と、魔術を操る花。どちらも東黎で発展したものだ。西鬼と同じで、なぜそんなことができるのか、他国にとっては未知の兵器である。

 長引く戦争から、北明はついに手を引いた。南輝は昔から、のらりくらりと激戦を躱して、時の潮流に身を任せて動く。今はもっぱら、東黎と西華が戦っているようなものだ。戦況は膠着状態に近い。南輝は北明の非正規軍との小競り合いが続いていることを建前に、どちらにも協力する態度は見せず、傍観に徹している。

 ……なるほど、魔術は敵の側で戦っている騎蜂軍の兵士を巻き込まないために、号令に合わせて一斉に放つのが基本なのね。

 千歳は目を凝らして、戦闘を見つめ続けた。黎秦にいた頃、一度だけ近くに西鬼が現れたことがある。でも当時は子供だったから、軍服を着た女の人たちに手を引かれて走って逃げた。その後、女学校に上がって西鬼についても学んだが、練習用に捕らえられたものや麻酔で大人しくなったものではなく、本物の荒ぶる西鬼を見たのはこれが初めてだ。

 あれが、私たちの戦うもの。

 静かな覚悟を噛み締めたとき、弾丸のような影がひとつ、神社跡に残された五重塔の上から西鬼の背中に向かって飛び降りた。翼が片方、根元から切り落とされて、仰け反った喉から太い咆哮がびりびりと上がる。黒い灰になって消えていく翼が、風に乗って、むっとした甘い匂いを漂わせた。西鬼の朽ちるときは、いつも腐った葡萄を燃やすような、形容しがたい匂いがする。

 砂煙と灰が晴れた背中の上に、もう片方の翼のつけ根を掴んで、軍帽を目深に被った橘が立っていた。サーベル型の湾曲を持つ軍刀の腹が、振り上げた彼の腕の先で、魚のように青白い光を流す。

 その切っ先が、首の後ろに深々と沈んだ。西鬼の絶叫が、いつのまにか鳴り止んでいたベルを思い出すけたたましさで、辺りを震わせた。



 蜂花第三資料室の壁は、一面のファイルで埋め尽くされている。壁だけではない。正方形の室内に作りつけられた五列の書架もまた、背中にラベルを貼った揃いのファイルがぎっしりと、縦になったパイ生地のように隙間なく並べられている。

 香綬支部は煙草に緩いが、書庫の中はさすがに禁煙だ。考え事をしていると無意識にポケットへ伸びかける手をおっとと引っ込めて、橘は黴臭い空気を振り切るように、咳払いをした。ここにある資料は、東黎軍が収集した蜂と花の記録。蜂花が軍隊として結成されたときからだから、過去百年分である。正確にはその、黎秦本部に保管されている資料の写しであるが。

 飴色に焼けた紙の並ぶ棚を横目に、橘はラベルを目で追って、近年のものを集めた棚を探した。五つある資料室の中でも、一番足を運ぶ機会のない部屋だ。効率の良い探し方をしたかったが、結局部屋をほぼ一周したあたりで、やっと目当てのファイルを見つけた。

 書架に背中を預けて、角灯を壁に引っかける。ぼんやりと暗闇を照らす光の中で、橘はまたしてもポケットに伸ばしかけた手を止めて、パイ山から引き抜いた一冊を開いた。

 ――ふむ。

 黎秦へ行く前、渡された千歳の資料だ。最初に見たときも思ったが、写真の顔が今と変わらない。多くの花は十六、七で血液を軍に提出する。そのときの写真が使われるものだが、彼女は今年の夏まで登録を行っていなかったようだ。

 生年月日、出身地、血液のデータなど、基本的な記述を飛ばしてページをめくる。家族構成の詳細を記録した欄で、橘は手を止めた。第三資料室に来るときは、いつもこの欄を調べに来ている気がした。かすかな感傷が胸をよぎる。今はそのために来たわけじゃない、と意識を千歳の資料に戻した。

 黎秦の個人病院で誕生、出生後の検査で花であることが発覚。両親と三人の祖父母は一般人で、母方の祖母のみが花だったとある。隔世遺伝か。橘の眉がぴくりと動いた。花は蜂と違って、一般人と家庭を持っても、配偶者に及ぼす身体的な影響がない。ゆえに、少数ではあるが一般人と結婚する者もいる。千歳の祖母も、蜂との関係は契約として割り切った上で、一般人の祖父と家庭を持ったのだろう。

 だがその祖父母は、千歳の出生以前に戦争で亡くなっている。父方の祖父母については、詳細な記録が見つからなかったのか単に特筆すべき点がなかったのか、記載がなかった。

 一般人だった両親には、蜂花の知識が乏しかったのだろう。H75の継続的な服用や蜂との契約など、病院側が花について説明した晩、生まれた子供を育てきれないと判断したのか、寝台に置き去りにして行方知れずになったとある。この情報を軍に提供したのは、間もなく病院から千歳を引き取り、女学校に入るまで世話をした孤児院の管理者だ。彼女は親の顔を知らず、国が運営する蜂花専門の孤児院で、零歳から十五歳まで育てられた。

 どうりで、戦場に出ようという意識が強いわけだ。

 橘はふうとため息をついて、さらにページをめくった。昼間の千歳の態度が引っかかって、そういえばと彼女の経歴を読み返しに来たのだが、これなら納得できる。施設育ちの彼女は、花とはいずれ東黎のために戦うものだと、幼い頃から当たり前に言い聞かせられてきたのだろう。そうでもなければ、年若い娘が自ら戦場に出たがることなどない。花を娘に持った家族は、大概、女は後援部隊にいればいいのだからと、娘を少しでも危険から遠ざけるように育てる。

 ふと、人の気配を感じて顔を上げたとき。部屋の奥にある磨硝子の扉が、ウィン、と音を立てて開いた。

「弟切」

「橘少尉? こんな時間に、どうされましたか」

 角灯を片手に、現れたのは弟切だった。見知った顔に、何となく拍子抜けしたような気分になる。壁の内側は支部の兵士しかいないというのに、分かっていても夜更けに誰かの気配を感じると、妙に警戒してしまうのが人間というものだ。橘は資料を目で示して、ちょっと調べ物をな、と答えた。

「お前こそ、血液保管室なんかに何の用だ?」

 磨硝子の扉の向こうは、蜂花の血液が保管されている部屋だ。現役の軍人の他、契約者を探すために国内各地から提出されたサンプルもあって、傷まないよう常に一定の暗さと寒さを保たれた室内には、細い硝子瓶に入った真っ赤な血がずらりと並んでいる。夜分に進んで来たいと思うような場所ではあるまい。弟切はええ、と頷いて、

「廊下でナーシサス大尉に行き合ったのです。お忙しそうだったので、使いを承りました」

「使い?」

「提出している血液のサンプルが古くなったので、新しいものと交換しに」

 ああ、と橘は納得した。サンプルは年に一度、新鮮なものに換える。花も蜂も、戦場にある以上いつ契約者を失くすか分からない。そのとき、迅速に次の契約者を探せるよう、常に傷みのないものを補充しているのだ。

「その資料……」

 前を横切って出ていこうとした弟切の目が、橘の手にある資料に止まった。正確にはその資料の右上に記された、名前に、だ。

「千歳のものだ」

「何か、彼女に気がかりな部分でも?」

「いや、これまでの経歴を、やはり見ておいたほうがよかったかと思ってな。黎秦へ行く前に見ればよかったんだが、必要ないと思って見なかった」

 千歳がネリネの知り合いでなかったら、今も必要はなかっただろう。必要なことはその都度訊けばいいし、彼女だって橘に答えを渋る理由はなかった。だが何の因果か、彼女はネリネを知っている。あれほどまっすぐに憎しみを向けてきた千歳が、素直に自分のことを語るはずもない。

「契約者の過去には、それほどご興味がありませんか」

「そうだな、必要を感じたから見に来たが、正直に言ってない。重要なのは経歴よりも、相互の相性だ」

「少尉らしい」

 橘の意見に、弟切は賛同することも対立することもなく答えた。暗に、ああ彼は違うのだな、とは感じたが、橘もそれを悪くは思わなかった。本心の伴わない同調や、上の立場の人間を持ち上げるだけの誉め言葉は、橘が最も嫌厭するものの一つである。

 弟切はそういう浮ついたところがない。かといって橘に意見するような血気溢れる青年でもないが、粛然とした佇まいの中に、どんなときも己の意思を持っている。命令に忠実だが、無暗やたらに靡かない。戦場における彼の能力と同じくらい、信用に値する性質だ。

「窮奇との戦いで疲れただろう。明日も何があるか、分からないからな。用が済んだなら、早めに休むといい」

「お気遣いありがとうございます。橘少尉も、あまり遅くまで無理をなさいませんよう」

 おやすみなさい、と一礼して、弟切は資料室を出ていった。腕時計の針は間もなく、十一時を指そうとしている。もう一度、ざっと目を通したら終わりにしよう。橘はページを一枚戻して、資料に視線を流した。


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