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花に蜜蜂  作者: 十夜凛
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第一章 其の花は薊

 蜂が一匹、(たお)れている。

「お前、どこの隊の所属だ」

 うつ伏せた体の背中に縫い取られた金の蜂章(ほうしょう)が、暗闇の中でわずかに上下しているのを認めて、手袋を外した手でごろりと仰向かせた。濁った眼に、白い月が映る。逆光が浮かび上がらせた自分に呼びかける影に、若い蜂は一瞬、その目を見開いた。紅く濡れた唇が、細く、嗄れた息を吐く。

「――――」

 声はかすれて、足音一つでも鳴れば消されてしまいそうだった。でも、身を屈めた男も彼の後ろに付き従う者たちも、皆一様に息をひそめていたので問題はなかった。ア、と喉の奥で血のせり上がる声がして、月を背にした男がもう一歩、体を屈める。

「花の名は」

 周囲に物音はなかったが、今度の問いに答えた声を拾えたのは、問いかけた男一人であった。若者は懐かしむような眼差しで、自らの花の名を答え、事切れた。

 首が重たげに撓り、まだ温かな体が脱力する。身を屈めていた男は、琥珀色の目を静かに伏せて、その亡骸を地面に横たえると、

「支部へ運べ。丁重にな」

「はっ」

 後ろに控えていた者たちが、素早く集まり、黙祷を捧げる。そうして慣れた、無駄のない動作で一人が脚を、一人が肩を持ち、明かりを持つ者を左右につけて遺体を運んでいった。角灯の中で揺れる蝋燭の火が、暗闇を規則正しい速度で遠ざかっていく。やがて人の輪郭が闇に溶けても、まだ光だけは仄かに動いている様は、夏の盛りに見た灯篭流しの光景を彷彿させた。

「橘少尉」

 ベルトに挟んでいた革の手袋を嵌め、ポケットから煙草を一本咥えかけたとき、人群れをかき分けて少年が現れ、彼を呼んだ。通信兵だ。軽装備に角灯を腰へ吊り下げて、手に電報と思しき紙を握っている。

「本部から連絡が入っています」

 橘が手を差し出すと、少年は肩を上下させながら電報を手渡して、

「少尉の毒に適合する花が見つかったと。至急、黎秦(れいしん)へ戻られるようにとの連絡です」

 煙草を挟んでいた橘の指が、ぴくりと動いた。風が折りたたまれていた電報を開かせ、月明かりの下に短い指令が浮かび上がる。

 氷柱のようにまっすぐ下りた、金色の髪の間から目を動かして、橘は電報を片手で折り直し、ダブルカフスの奥に押し込んだ。カーキ色の厚い上着と黒い手袋の間で、白皙の手首が月を照り返す。

「分かった」

 短く答えて、橘は煙草に火を点けた。紫煙に混じって白い呼気が、冷えた夜の中を漂い昇っていく。彼の歩く後に、軍刀を下げた一群が続いた。革のブーツを踏み鳴らして、いくらかの血の匂いと共に、無言で夜風を切って進む。

 黎秦はここより冷えるだろうと、橘は思った。あそこは東の海から入る風が山間で冷やされ、木枯らしとなって吹き下ろす。きっともう薄い雪が舞っていることだろう。一年以上、花を持たずに過ごしてきた今の体には、寒さが只人のごとくひしひしと染み入る。

 寒さと水を防げる、オーバーコートが必要だ。箪笥の奥を思い返しながら、灰を振るい落とした。じきに師走もやってくる。そうなればこの香綬(こうじゅ)にも、雪が降るだろう。



 その蜂の毒は、花にとっては蜜となる。

 ひゅう、と木枯らしの吹き抜ける音が漆喰の割れた壁のむこうを走っていった。遅れてガタガタと、木戸が煽られて騒ぐ。所々に板を継ぎ足して古い木と新しい木の色がとりどりになっている木戸は、木枯らしのたびに昼夜を問わず鳴るし、防寒性もあってないようなものだった。ひとつ屋根の下に十軒余りが箱詰めされた、あばら家のような長屋だ。カランカランと外で柄杓の転がっていく音がする。お隣の富さんが打ち水に使う柄杓を、相も変わらず出しっぱなしにしているのだ。

「は……、くしゅんっ」

 擦れた畳の上に煎餅布団をきちっと敷いて、それ以外はろくなものが見当たらない部屋で、千歳は一人くしゃみをした。鼻の奥がじいんと痛む。冷えた空気を思いっきり吸い込んだせいだ。薄い羽毛布団を肩で巻き込むように被り直して、はあ、と吐息で自分の指先を温めた。

 ――東黎(とうれい)国の帝都・黎秦というけれど、郊外は寂れたものだ。

 大通りの一本裏が、得体の知れない小さな店で犇めき合うのと同じ。華やかなものの陰には、その煌めきからこぼれたものが行き場を求めて吹き溜まりを作る。わずかな空間に身を寄せ合って、風に吹かれては押し合いへし合いしながら、自分の隙間を見つけて息づくのだ。

 この長屋も、そんな裏空間の典型だ。ぼろぼろの天井を眺めていると、段々とここに横たわって震えている自分を俯瞰しているような思いがしてきて、体が浮いたように軽くなり、天井の高さを越えて天に向かっていく心地がした。寒さが薄れ、見えない布でくるまれたかのような、妙な安心感が手足に纏わりつく。

 カランと、外で柄杓が割れんばかりの音を立てて転がった。

 千歳はかぶりを振り、意識を切り替えた。いけない。朦朧として、妄想から軽い幻覚を見そうになっていた気がする。こうも熱が高いと、考え事と現実の境目はひどく曖昧だ。加えてそれが、霜月の上旬からもう一カ月続いている。そろそろ、体力も限界を迎えようとしているのだろう。

 ここまでなのかしら。

 千歳は薄く、隈の濃くなった目を開いて、枕元に手を伸ばした。富さんの置いてくれた水差しと、茶色の瓶がひとつ転がっている。水差しの水が眠る前より嵩を増している気がした。もしかしたら、眠っているあいだに入れ換えてくれたのかもしれない。

 後でお礼を、とぐらつく頭で思いながら、瓶を開ける。手が滑って、畳に褐色の錠剤が散らばった。

「ああ……」

 千歳は一瞬、心の底から愕然とした表情を浮かべた。だが、すぐに上体を起こして、片腕で這うようにして薬をかき集めた。東黎軍製特別支給薬、H75――Hは花のH、数字は改良を重ねた回数だ。貴重なそれを、片手で握れるだけ口に放り込んで、水で流し込む。

 後先のことを考えて、今死んだら意味がない。それにどのみち、もう意味を成さない薬だ。瓶の蓋を閉める気力もなく、枕の上に頭を仰向かせて、千歳は水で冷えた喉を冷やし続けようとするかのように大きく息を吸った。吐く息は熱く、清涼な水の心地よさはあっというまに消えてしまう。

 生まれたときから薬を飲み続けて、早ければ十六で効力がなくなると言われながら、用量を増やしたり回数を増やしたりと、ごまかしごまかし二十一年。春先に変な風邪を引いたかと思ったら、それが最終通告だった。体調が回復する兆しはなく、外に出られなくなり、歩けなくなり、みるみるうちに弱り果てて今に至る。

 長い息をひとつ吐き、千歳は静かな瞬きを繰り返した。そうして薬が効くのを待ってみたが、秒針の音がいくらコチコチと鳴っていっても、容体は一向に変わらなかった。大量に服用すれば、少しは効果があるかもしれないと心のどこかで期待していたが、無駄だったようだ。寝返りを打つ力もなく目を閉じる。すると途端に頭が少し軽くなって、銅鑼を打つような頭痛が遠ざかっていく感覚がした。眠りに就こうとしているのか意識が消え入りそうになっているのか、自分でも区別がつかない。

 死という灰色の不定形なイメージが、現実の形と足音を持って差し迫ってきているのを感じる。千歳は朦朧とした頭で、これが今際の際というものなんだわと確信した。脳裏に淡い、春の緑の着物を着た女の子が現れて、真っ赤な癖毛を靡かせて笑う。

 ――ネリネ。あの子も最期は一人だったんだろうな……

 千歳、とその唇が懐かしい声で自分を呼んだ気がした。ここまで来て彼女の手を取らないのも、往生際が悪い。迎えがいてくれるなら、いてくれるうちに案内を頼むのだって懸命だ。行きはよいよい、帰りはない。長い旅路に友がいてくれるなら、例え幻でも、孤独よりはましだと思える。

 手足に降りかかる浮遊感に、千歳が今度こそ身を任せかけたときだった。

「薊さん! あーざーみーさん!」

 バタバタと表を走る足音に、閉じかけた瞼が開いた。富さんの声だ。転がっていた柄杓が蹴飛ばされて、激しい音を立てた。いつになく慌ただしい様子で近づいてくる足音は、あっというまに千歳の部屋の前へたどり着く。

「開けるわよ!」

 言うが早いか、彼女は木戸を破らんばかりの勢いで開けた。瞬間、ああそういえば水差しのお礼を言おうと思っていたんだっけ、と妙に現実的なことを思い出す。雲の中から引き戻された千歳は、彼女の勢いに飲み込まれながら、よろよろと体を起こそうとした。富さんは興奮した様子で、

「お客さん」

「え?」

「薊さんを探してらっしゃったから、連れてきたわ。ああ起きなくてもいいわよ。具合が悪くて臥せってるって、ちゃんとお伝えしてあるから」

 入り口のほうで、誰かが靴を脱いでいる気配がする。こんな場所まで、しかもこんなときに自分を訪ねてくるような相手など、千歳にはまったく心当たりがなかった。起き上がって確かめようとしたのだが、支えにした腕の力が入らずに、布団の中へ倒れ込んでしまって顔を見られない。

「どなたですか……?」

 掠れる声で、千歳が問いかける。

「東黎軍の将校さまですって。あなたの適合者だそうよ」

 答えたのは富さんだった。安堵と喜びをいっぱいに詰めた声色が、現実から離れかけていた千歳の意識を温めて、揺り起こす。適合者。その言葉に、はっと顔を上げた。視界に白い靴下と、カーキのズボンが映って、音もなく膝をついた。

 それじゃ、と木戸を閉めて富さんが出ていく。後ろ姿を視界の端に――千歳は突如として現れた青年を、呆然と見上げた。喋ったせいか、また熱が上がったようだ。揺れる視界の中で、枕元に片膝を下ろした彼の容姿をひとつひとつ、滲みそうになる辺りの景色と切り離して捉えていく。

 金色の糸で、蜂の紋章が縫い取られた帽子。帽子と揃いのカーキ色をした、東黎国 騎蜂(きほう)軍の指定軍服。近くで見たのは初めてだ。前面に並んだ八つのボタンや、肩章、飾緒がすべて目映い金色で、長らく太陽の下に出ていない目の奥がきりりと痛んだ。

 青年は髪さえ金色だった。きっちりと下を向いた金色の髪は、癖がなさすぎて作り物めいた影を彼の鼻梁に落としている。白皙の肌に、玉眼のような透明な琥珀色の目が二つ嵌まっている。

「薊千歳で間違いないか」

 その目に微笑みひとつ宿さず、黒革の手袋で千歳の(おとがい)を上げさせて、青年は訊ねた。瞬間、千歳の脳裏に亡き友の姿がフラッシュバックして、

「――いやっ!」

 パン、と乾いた音が響き渡った。

 腹の底にまだこんな力が残っていたのかと驚くくらい、明瞭な声が出た。肩で息をして、そろりと起き上がった千歳に、青年ははたかれた手をそのままに鋭い視線を向けた。眉間に皺を寄せて、怪訝な顔をしただけで人を震え上がらせることができそうな、感情の底が読めない眸をしていた。

 千歳は一瞬、怯みかけた。だがすぐに深く息を吸って、改めて青年を頭の先から爪の先まで眺めた。

「薊千歳で間違いないかと、訊いているんだが」

「ええ。……貴方が私の蜂――適合者だっていうの?」

「そうだ。証明書なら持参している。何か問題でも?」

 ポケットから四つ折りにした紙を取り出して、見たければ見ろというように差し出す。あっけらかんとしたその態度に、千歳はこれ以上熱など上がらないと思っていた体の底から、腸が煮えくり返るのを感じて彼を睨み上げた。

「東黎国騎蜂軍曹長、橘・F・カーティス」

「……惜しいな。今は少尉だ。なぜ俺の名前を知っている?」

 ああ、やはりそうだ。以前に聞いていた通り。この男だ、この男が。

「――門井ネリネを、覚えているでしょうね?」

 彼女を、殺したのだ。

 ネリネ。その名が発せられた瞬間、面をつけたように動かなかった橘の顔に衝撃の色が走った。間違いない、と千歳が確信を掴んだ瞬間でもあった。心当たりがないとは今さら言えない顔だ。橘はすぐに元の冷淡そうな表情を取り戻した。端正な、日溜りを知らない人形のような顔である。だがその奥に隠れている残酷な本性を、千歳は決して見逃しはしない。

 隈に囲まれた眸で睨まれて、橘は観念したように、

「ああ。忘れはしない」

 短く答えて、それ以上は話す気がないことを示すように口を引き結んだ。そうして千歳が受け取らずにいる証明書を開いて、向きを千歳のほうへ合わせ、軍からの通達を見せた。

「血液検査の結果、この通り、お前には俺の毒への適性が認められた」

「だから、何? この状況で、私が同意するとでも?」

「ネリネのことは、俺と彼女の間で起こり、過ぎたことだ。お前には関係ない」

 頭が爆発するかと思った。千歳は信じられない思いで橘を見上げ、その眸の芯には氷しか詰まっていないのだと思い、奥歯を噛みしめた。

 ネリネは千歳の、女学校時代の親友だった。千歳と違って生粋のお嬢様育ちだったが、戦争で家族を亡くし、軍が経営する孤児のための女学校に通ってきていた。同じ花で、飾らない純真さがいつも周囲を和ませる少女だった。世間知らずに見えるわりには何をさせても卒がなくて、そういうところがまた、育ちのいい娘の学びや経験の豊富さを思い起こさせた。

 女学校を出てからも同じ工場に勤め、親交があった。だが彼女は卒業から一年足らずで、適合者が見つかったと言い、従軍の道を選んだ。

 橘・F・カーティス曹長。ネリネが配属先の支部から送ってきた手紙に記されていた、彼女のパートナーの名前だ。金の髪に琥珀色の目、初対面のときには冷たい印象を与えるけれど、戦場での統率力の高さと身体能力においては一級の人――ネリネは橘をそう評していた。

 最前線で戦う人だから、いつも最良の状態でいられるように支えたいと、彼女は綴っていた。本人にだって、誠意を持って接していたはずだ。応援している旨の返事を送り、慌ただしい日々の中にあるのかもしれないが、また彼女から連絡がくるのを待った。

 しかし、千歳が次に受け取ることができたのは、東黎軍からのネリネが死んだという知らせだった。彼女が従軍して、わずか二年のことだった。

「関係なくなんてないわ。全部知ってるもの」

 橘の目が、わずかに険を帯びる。

「私、彼女が死んだ知らせを受けて、軍の本部へ行ったのよ。信じられなくて、何があったのか教えてほしくて」

「……成程。確かにここは帝都だったな」

「偉い人たちはだんまりだったけれど、兵士さんたちはこぞって教えてくれたわ。解剖されたネリネの体には、毒が一滴も残っていなかったって。あなたが供給を断ったから、彼女は死んだのよ。ネリネを殺したのは、貴方なんでしょ!」

 たったの一年前の話だ。済んだことだなんて、勝手に収められては困る。この一年、どうして彼女がそんな目に遭わなくてはならなかったのか、そればかり考えて生きてきた。千歳にとって、ネリネは生まれや育ちの垣根を越えて、この世で初めて出会った家族のような存在だったのだ。

 奪った人間が、目の前にいる。怒りと悔しさで震える拳を布団に押しつけて、千歳は泣かないよう、気丈に口を開いた。

「契約なんてすると思う? 力があったら、掴みかかってネリネの仇を討ってやりたいくらいなのに」

 親友を殺した男に助けを求めるほど、弱くなんてない。倒れそうになる体を腕で支えて、憎しみを込めた目で見上げた千歳に、橘は眉ひとつ動かさないで言った。

「契約をしなければ、もう幾許の命もないように見えるが?」

「貴方と生きるくらいなら、死んだほうがましよ」

「なら寝首をかくつもりで生きたらいいだろう。生きて、俺から力を得て、ネリネの仇を討てばいい」

 その後で死ぬのなら、あいつも浮かばれるだろう。淡々と言い捨てられた言葉に、千歳は驚いて、彼の顔を凝視した。革の手袋からは、かすかな火薬の匂いが漂っている。その匂いが近くに感じられたということの意味を、千歳が理解するより早く、橘は畳についた膝を支点に身を屈めた。

「それだけ元気が余っていると、野垂れ死にを待つのも長いだろう」

 やつれた頬に、革の指先が食い込む。師走の帝都を歩いてきた手は木枯らしに冷やされて、千歳の熱と反発しあい、互いの体温をまざまざと感じさせた。冷たさに気を取られて、今度は振り払うのが一瞬遅れた。

 瞠目した千歳の唇に、橘は自らの唇を押し合わせるようにキスをした。キス、とは名ばかりの、なんのセンチメンタリズムも含まない、判でも捺すような躊躇のない所作だった。そういう経験がからっきしの千歳にもはっきりと分かるくらい、橘は千歳を雑に扱った。カッとなって振りかぶった手を、いとも容易く捕らえられる。

「――――ッ、ん」

 離しなさいよ、と言葉で抵抗しようと開いた千歳の口に、橘が舌を捻じ入れた。千歳の黒水晶の目が、これ以上ないほどに見開かれて、掴まれた腕が逃げるように跳ねる。バランスを崩した千歳の肩を咄嗟に支えたせいで、橘はその手からは手を離した。

 だが、千歳は自由になったことに気づく余裕がなかった。歯列を押し開き、熱のこもった腔内を踏み荒らす侵略者の舌。その舌が齎す唾液に触れるたび、揺れていた視界が、銅鑼を打つような頭痛が、鼓動に合わせて痛む肺が、驚異的な速度で鎮まっていく。

 千歳は長らく身を蝕んでいた熱が引いていくのを感じながら、急速な体の変化についていけず、殺されているような錯覚をおぼえて固く目を瞑った。


 ――その蜂の毒は、花にとっては蜜となる。

 蜂とは、自身の体内で毒を生成してしまう人間のことだ。ルーツはかつて、諜報員として他国に送り出されていた東黎の軍人たちである。彼らは毒薬を使った尋問への耐性をつけるために、自ら毒を取り込んで、体を慣らしていった。百年以上に渡ってそんな手段を繰り返すうち、彼らの子孫の中に、生まれながらに毒を持った子供たちが現れたのだ。それが今日の蜂に繋がる、始祖である。

 彼らは身体能力が、只人のそれを遥かに凌駕していた。あらゆる毒を克服しようとして進化した体は、それまでの人間の概念を覆す強さを持っていた。生身の人間には到底できないような、高い楼閣の屋根から飛び降りてみたり、風のような速度で走って身の丈ほどもある剣を振るったりする。

 半面、無限に湧いてくる自らの毒には苦しめられた。彼らの体は毒に一定の耐性を持っていたが、それはあくまで遺伝的な免疫によって分解できる量が普通より多いというだけである。いかなる酒豪でも、度を越せば命を落とすのと同じだ。限界は存在した。生きているあいだ中、昼夜を問わず生成される毒を跳ね返すには、彼らの肉体の内部構造はまだ只人のそれと近すぎる。

 彼らは血清剤を飲み続けないと、大人になることさえ敵わなかった。体液に溶け込んだ毒が全身を巡り、身体機能を麻痺させるのだ。血清剤による血の浄化や唾液の不飲、自慰によって、毒に蝕まれた体液を吐き出すことでのみ、どうにか生きることができた。だが、生成され続ける毒によって彼らは常に弱っており、持ち前の身体能力の高さが発揮される機会はめったに訪れなかった。

 そんな折、偶然にも見つかったのが、花である。花のルーツは神子や霊媒師、呪術師など、魔術的な力を持つ家系の者だったとする説が有力だ。民間から突然現れるようになったものだから、発祥が蜂ほど明確ではない。とある蜂と交わった娘が、命を落とさなかったのだ。只人であれば少なからず影響を受けるはずの毒に、彼女は影響されなかったばかりか、以前には持っていなかったはずの不思議な力を持ちえたという。

 すなわち、火、水、土、木、風などを操る力を。

 体内に入ってきた毒から自らを守ろうとした結果、生来の魔術的な素質が大きく覚醒したと考えられている。悪しきものを打ち負かさんとする覚醒が、偶然にもその悪しきものを受け入れる器を生み出し、まったく新しい人間を作り上げたのだ。

 彼女のような者たちは次々に現れ、花と呼ばれるようになった。蜂が花弁に潜り込むように、我先にとこぞって求めたからだ――と後世には揶揄されているが、実際の由来は分からない。しかしながら実際に花の多くが蜂と結婚し、子供をもうけた。

 蜂と同じで、子供の中には生まれながらに魔術の力を操る子供がいた。そうした子供たちは、体力を得るために食事が必要なのと同じで、魔力を得るために、蜂の生成する毒を命の水としており――つまりは、蜂の体液を摂取しなければ生きることがままならなかった。

 そこで開発されたのが、H75だ。東黎軍製特別支給薬で、中に蜂の毒とよく似た成分を含ませてある。これによって花の子供たちは、物心つく前から毒の提供者を見つけなくても、大きくなれるようになった。だが、薬には服用し続ければ抗体ができる。生まれたときから薬を飲み始め、平均して十六歳から二十歳が、H75で生きていられるタイムリミットだ。

 だから花は、年頃になると、ペアとなる蜂を探す。軍に血液を提出して、成分の適合する相手を見つけてもらうのだ。軍は蜂の血液も保有していて、混ぜ合わせて変色を起こさなければ、めでたく適合となる。その日から、二人は一心同体の、互いに対する提供者だ。例え、顔も見たことがない相手であっても。

 花に毒を供給することは、蜂にとっても大きなメリットがある。それは花が、毒を吸収する性質を持つということだ。血清剤で血を清めたり、唾液や精液を自力で吐き出したりするだけでは、体内から追い出せる毒は、そのとき薬に触れて清められた分や外に出た分だけに限られてくる。だが、花はもっと奥の、壺の中から毒を吸い出すことができるのだ。さながら見えない根を張るように、蜂の体の芯から毒を誘い出し、命の水を飲み干すかのごとく吸収する。

 体内の毒が抜けるほど、蜂は生まれ持った身体能力の高さが発揮される。そしてその毒を与えられるほどに、花もまた魔術的な力を強め、強く美しく咲き誇る。力の満ちた花は、馨しく美しい。肌や髪が真珠の艶を帯び、眸は千里を見通さんとするほどに透き通る。

 その姿は俗に、蜜を湛えた状態と称されるほど。


 ――はっ、と潤んだ息を吐いて、千歳は布団を握りしめていた手をそろそろと解いた。目を開けると、すぐ近くに橘の顔があって、糸を架けた唾液を舌で切る仕草に心臓が飛び出しそうになる。

 視界はもう揺れていなかった。体のどこにも痛みはなく、先刻まで意識が遠退きかけていたのが嘘のように冴え冴えとしていた。冷えた頭で、千歳は今一度橘を見やって、唇を噛みしめた。

 救われたのだ、この男に。死の際から引き戻された。親友を奪った男に。もう熱くも寒くもないはずなのに、全身がぶるぶると震えた。

「悔しければ、俺と香綬へ来い」

「なんで、貴方なんかと」

「来て、俺に報復する機会を探せ。それなら生き長らえる理由になるだろう?」

 千歳の顔に、かあっと熱が上った。死なずに済んで安心している心を見透かされたことが、キスなんかより遥かに恥ずかしく、絶望的だった。本当は分かっていた。橘の舌を噛み切って、自分も死ねばよかったのだ。そうすればあの世で、大手を振ってネリネに会いに行けた。裏切りたくなどなかったのに、死ぬのが怖いと思ってしまった。

 橘はいつのまにか脱いであった帽子を取って、

「出立は明朝七時だ。荷物をまとめておけ」

 単調な声音で言って、すっくと立ちあがった。千歳は黙って布団を膝にかぶり、彼が木戸を開けて出ていくのを、下を向いて足先だけ見送っていた。



 夜のあいだに降った雪が、半透明の氷となって舗道を覆っている。子供か誰か、朝一で走り回ったか、わずかに土の汚れをつけている雪の上に立って、橘は木戸の開く音に顔を上げた。

「来たか」

「……おはようございます」

 顔を覗かせた千歳は、合わせた視線をふいと逸らしたものの、両手を前で揃えて律義に挨拶をした。おはよう。やや面喰らいながら、返事をする。橘は煙草の火を雪で揉み消して、千歳を一瞥し、眉間に皺を寄せた。

「それだけか?」

「よろしくお願いします」

「ああいや、そういうことじゃない。荷物だ」

 ぶっきらぼうに答えた千歳は、橘がそれ、と指さした手元の風呂敷包みを見下ろして、ええと頷いた。元々、寝具も家具も前の住人が置いていったものばかりだ。あの家に千歳の持ち物は、ほとんどなかった。

 持ってきたのは寝間着にしている浴衣と夏の草履、古いひざ掛け、それに手紙を書くための道具一式くらいのもので、それが千歳の持ち物のすべてだった。それと、着ているもの一式――中紅の矢絣柄着物、茄子紺の袴、枯茶の革ブーツ――である。唯一、持ち物の中で高価そうなのが髪留めで、ハーフアップにした髪の結び目に、赤い漆の蝶が留まっている。片側の翅に朝露のような硝子粒がひとつ、下がっていた。

 木戸を閉める千歳の後ろ姿にその髪留めを見て、橘は人知れぬため息をこぼした。見覚えのある品だった。あれは黒漆でできていたが。真っ赤な癖毛の片側に、ネリネはいつもそれを留めていて、友人と卒業の記念に買ったものだとはにかむように話していた。

「香綬へは、それで?」

 橘の後ろに控えている馬車に視線をやって、千歳が訊ねる。馭者が馬上で帽子を取って、恭しく頭を下げた。

「山を迂回して、途中 幽安(ゆうあん)の支部に手紙を届ける。むこうに着くのは、六日後だ」

 荷物がこんなに少ないのなら、もっと手狭な馬車でもよかったな、と橘は思った。一晩で引っ越しの準備をしろといったところで、大した取捨選択はできないだろうと思い、大きめの馬車を頼んだが。積み荷が少ないのでは、無意味に寒いだけだ。

 そこまで考えて、はたと気づく。

「上着は」

「ないので、ひざ掛けを入れてあります。お構いなく」

 淀みなく答えて、千歳は橘の横をすり抜け、馬車の扉を開けた。馭者が慌てて降りてきて手伝うのを、ありがとう大丈夫です、と幾許か愛想よく遮って馬車に乗り込む。さっさと出発しましょうと話を切り上げる態度に、橘が浅いため息をつく。

 ――嫌われたものだな。

「着ておけ」

 オーバーコートを脱いで投げるように渡すと、席に座ってそっぽを向いていた千歳が、驚いて小さな悲鳴を上げた。結構です、と返そうとしてくる手を車内に押し込んで、馬車を出すよう馭者に命じ、自分も向かいの席に乗り込む。

「橘少尉、これは」

「意外だな。もっと悪意のこもった呼び方をされるとばかり思っていたが」

「寝首をかく以上、周りには私が貴方を従順に慕っていると思われたほうが、都合がいいもの」

「ああ、成程」

「……軍に入るなら、規律と風紀に従うわ。契約者の花にコケにされる将校なんて、部下に示しがつかないでしょう?」

 本心は後者にあるのか。思いがけない言葉に上げた橘の視線から逃れるように、千歳はコートをばさりと広げて、肩からかぶった。襟の毛皮が寒さに竦めた首筋をくすぐって、息をすると、自分の呼気で温かさが広がっていく。

「お気遣いどうも」

「軍の士気のためよ」

 毛皮の上から澄んだ目で睨みつけた千歳を見て、橘はそれ以上なにも言わず、窓の外に目を向けた。ガタンと馬車がひと揺れして、雪に覆われた舗道を走り出す。千歳が窓の外に手を振った。見れば、あの富さんとかいう隣人の女が、割烹着に柄杓を持ってその手を大きく振っていた。

 ……家族がいないのか。

 今さらながらにそう気づいて、橘はそういえば事前に渡された資料で読んだ気もするがと、千歳の生い立ちについて思い出そうと眉間に指を当てた。が、あまりはっきりと思い出せない。契約者の生い立ちだの以前に何をしていたかだの、知ったところでどうなるものでもないと思い、そういった些末な情報にはほとんど目を通してこなかった。だが、ネリネの学友ということは孤児か。

 自分が見ていると気づいたら、強がって手を振るのをやめそうだ。

 橘は窓に肘を預けて頬杖をつき、目を閉じた。持たざる者の気持ちは、持たざる者にしか分からない。ただでさえ憎まれ、恨まれている相手に、今この場で家族はどうしたなどと不躾なことを訊くつもりはなかった。


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