絶対零度の親友と俺
目覚まし時計の音が鳴り響く。一定のリズムで刻まれる電子音は安眠を妨害するには充分だった。布団の中でもぞりと身動ぎ、片手を伸ばして時計に触れた。
今が何時かも確認せずにボタンを押して音を止める。不快な音は止み、安心して寝直した。
「浩樹ー。朝ご飯出来てるわよー」
だがしかし、第二の布陣が現れる。部屋の扉を叩く音と一緒に聞こえてくるのは母親の声だ。寝起きが悪い為、数分経っても起きてこない時に自動で発動するようになっている。
流石に起きなくてはならない。何故なら今日は学校だからだ。
「あと、十分……」
ぎりぎりまで寝ていたい欲が言葉となって零れ落ちる。朝飯を急げば間に合うと、謎の自信を持って眠りに就こうととした、その時だった。
バンッっと勢いよく部屋の扉が開かれる。ずかずかと入り込んできた足音には聞き覚えがあった。ソイツは力尽くで毛布を奪い取り、肌寒さに眠気も吹っ飛んだ。
「さむッ!!」
「いつまで寝てんだよ! 俺も遅刻すンだろーが、はよ準備しやがれ」
「お、起きる! 起きますから!」
目蓋を開ければ、絶対零度の眸が睨み付けていた。凍て付いた氷のような眼差しには、心臓を掴まれたかの如く縮こまる。
「いつもごめんねぇ、隼人くん。浩樹の迎えだけでなく、起こしてもらって」
「いえ、慣れてますから」
彼は母に対しては穏やかな笑みを浮かべて階段を下りていく。この格差はなんだ。
これが最終兵器、九条 隼人の目覚ましである。高校に入ってから、ほぼ毎朝こんな感じだ。だるそうにベッドから降りて、遅れながら階段を下りてリビングに向かう。リビングでは既に妹の悠里が朝飯に手をつけていた。
「あ、お兄ちゃんやっと起きた。いい加減一人で起きれるようになりなよ」
「うるへぇ……」
大きな欠伸を漏らして席に着く。朝食のパンに齧り付き、牛乳に手を伸ばす。味わう余裕すらなく、流し込むようにし全てを平らげた。ご馳走様と短く告げて食器を下げた。
学生服に着替えて鞄を持ち、慌しく玄関に赴く。其処で待っている隼人を見つけた。
「わりーわりー、待たせた!」
「全くだ。ほら、行くぞ」
呆れた素振りで先に外へ出る親友の後を追う。朝の日差しが眩しく、眼を細めながら学校への道を駆けていく。
晴天が気持ち良く、今日が休日ならどんなに良かったか。そんな事を思っていると、前方の電柱前に人が立っているのを発見した。女子生徒は此方に気付くなり手を振っている。
「おはよう」
「おはようさん」
「おーっす」
「相変わらず仲がいいね、二人とも」
「だろ?」
柊 沙耶香。浩樹にとっての幼馴染だ。貴重な女子の友達と言える。いつもこの三人で学校まで通っていた。
ここまでがいつも通り。何一つ変わらぬ日常だ。
「よし、誰が一番早く学校に着けるか競争でもするか!」
「えぇ? またー?」
「一人でやってろよ」
「勝った奴にはアイスを奢る!」
「乗った」
親友の速攻な手の平返しに口端が吊り上る。二人は一気に駆け出した。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
本気で走り出した二人の後を追って沙耶香が叫んだ。二人はお互いしか眼中にないのか、ほぼ互角の走りを見せていた。
この後の信号を渡り切ったら真っ直ぐ突っ切ればいい。こいつにだけは負けられない。成績では負けているが、体力勝負でも負けるなんて嫌だ。
もう少し。もう少し距離を離したい。だから無理をして速度を上げた。最早意地だ。
「ッ! 浩樹、止まれ!!」
「はっ、俺に追い付けないからってその手には乗らないぞ!!」
「ちげーよ! 信号見ろ!」
「え?」
顔を上げると、何時の間にか赤信号に切り替わっていた。やばい、と思っても急には止まれずに、浩樹は道路へ足を踏み出してしまう。横から走ってくる車を視界に入れた。
固まった浩樹はその場から動けずに、車から目を離せない。焦燥感に拘束されて身体がぴくりとも動かせなかった。急ブレーキの音と、車の警笛が轟いた。
その時だ。後ろから物凄い勢いで腕を掴まれたのは。後方へ引っ張られ、地面に尻餅を突く。何が起きたのかわからずに、呆然としていた。
「──大丈夫?」
ふわりと、花の香りがした。淡い桃色の髪が、風に靡いている。凜とした佇まいで、彼女は振り返る。
見上げた視線が交わると、胸の内が高鳴るのを確かに感じた。強張っていた身体が解れ、緊張が解ける。
──この時、俺は運命的な出会いを感じた。
「浩樹! 怪我してない!?」
「お前……! スピード出し過ぎなんだよ!」
「あ、わるい……」
駆け付けた隼人に怒鳴られて、漸く声を発する事が出来た。目前の彼女は薄く笑い、再び前を向く。
「あの、ありがとうございました」
「気にしないで。無事ならいいの」
戸惑い気味に礼を述べたが、彼女は素っ気無く返して青に切り替わった横断歩道を渡っていく。その背中を追いかける事も出来ず、浩樹は彼女が渡った先を見つめた侭だ。
※ ※ ※
「はぁ……」
「完全に上の空だな」
昼休み中、黄昏ている浩樹の下に隼人が訪れた。
あれからギリギリだが学校には間に合った。それはいい。けれど、助けてくれたあの子の名前を聞く事が出来なかったのを、後になって悔やんでいる。同じ制服だから、此処にいる筈なのは間違いない。
どこのクラスか、せめて学年くらいの情報は欲しかった。
「そんなにあの子が気になるのか?」
「あったり前だろ! 命の恩人だぞ! 惚れるに決まってる!!」
「そうかよ」
ううん。親友が何時にも増して冷たい。流石絶対零度の渾名を持つだけはある。イケメンはどんな態度でもイケメンなのだ。
そうだ、とマイフレンドの顔を見て案を思いつく。数人の友人しかいない平々凡々の自分と違って、交流の広さを活用する時だ。
「頼む! お前のイケメン力なら彼女の連絡先くらい教えてもらえる!」
「やだよ。自分でいけよ」
一生のお願いだと付け足しても嫌だの一点張りだ。このやろう。その茶髪を黒髪にしてやろうか。
「あ、こんなところにいた」
「沙耶香」
廊下の向こうから沙耶香が近付いてくる。片手を挙げて迎え入れ、三人が揃う。親友が駄目なら矢張り同性である女子に頼むのがいいか。
「沙耶香、今朝の女の子に心当たりはないか?」
「うーん……。私はわからない。うちのクラスにはいないよ?」
「そうか……」
がっくりと項垂れる。手当たり次第に聞くしかなさそうだ。
「でもほら、同じ学校なのはわかってるんだし、いつかばったり会うかもしれないでしょ?」
「だな。そう焦らなくていいだろ。もしまた見かけた時にでも、話せばいいんだし」
二人のフォローを受け止めて渋々肯いた。
「あっ、そうだ隼人。今度また数学教えてほしいんだけど……」
「おお、いいぞ。テストも近いしな」
控え目に尋ねる沙耶香に、思い出した。沙耶香は隼人の事が好きなのだと。以前相談された記憶が甦る。ここは二人きりにさせてやるか。
「わり、俺先に教室戻ってるわ」
「ああ、わかった。また放課後な?」
我ながらナイスな気遣いだと思う。沙耶香がちらりと此方を見た。直ぐに照れ臭そうに目線を伏せる。
隼人はモテるから、早めにゲットしておけと伝えてはある。それにしても、今まであいつの彼女やらの噂は聞かない。モテているのに、付き合ったりはしないんだろうか。なんて贅沢な奴なんだ。
二人の様子が気掛かりだが、浩樹は早めに教室へと戻った。その背を、じっと見つめていた視線があったとは知らずに。
「たっだいまぁ……」
「あらおかえり。今日は早いのね」
学校から寄り道せずに帰ってきたお陰で、意外そうな顔をされた。こっちだって本屋とか行きたかったが、横の隼人がうちに泊まると言うので準備を手伝った。
「お邪魔します。すみません。今日は泊まりで来ました」
「本当? それじゃあ晩ご飯は一人分多く作るわね」
隣の隼人が軽く頭を下げた。靴を脱いで上がり、二階へ行こうとする。
「隼人くんだ!」
「こんばんは、悠里」
声に反応したのか、リビングから妹の悠里が顔を出した。嬉しそうに手を振るので、隼人は軽く手を振り返した。
「イケメンが来たからってでれでれすんなよ」
「なに? 別にいいじゃん。お兄ちゃんには関係ないでしょ」
この差はつらい。割とシスコンだから余計につらい。不満そうに唇を尖らせながら階段を上がっていった。部屋の扉を開けて電気を点ける。鞄を放り投げ、脱いだ靴下をその辺に捨ててベッドに沈んだ。
隼人は荷物を脇に置いてベッドでうつ伏せになる浩樹を見下ろした。
「靴下くらい洗濯籠に入れろよ」
「やっといてー……」
「俺はお前の母ちゃんじゃねぇぞ」
そりゃそうだ。母親が二人もいてたまるか。気だるそうに横になっていると、呆れた溜息が聞こえた。
ぎし、と軋む音を立てて布団が凹んだ。ベッドに腰掛けた隼人を見上げる。隼人は面白そうに俺を見ていた。
「お前、ぜってぇ一人で暮らせなさそう」
「うるせーよ。だったら隼人が面倒見てくれ」
「別にいいけど」
「へ?」
絶対断られると思っていただけに、予想外の返答が返ってくる。親友の唐突なデレ期に思考が追い付いていない。
「ルームシェアって言うんだろ? 高校を卒業した後ならいいと思うんだけどな」
「いやいや…、え? どうした? お前が俺に優しいなんて何があった? あ、さてはあれだな? ついに彼女が出来て浮かれてるんだな?」
「は?」
あの後沙耶香に告白されたんだなと、勝手に判断して納得した。無事に結ばれたなら二人の友としてこれ以上の喜びはない。
眉間に皺を寄せて、不愉快そうな隼人が映る。皆まで言うな、俺は全てを知っている。
「彼女なんている訳ないだろ?」
「なに!? 沙耶香から告白されたんじゃないのか!?」
「ああ……」
沙耶香の名前を出されて隼人も理解したようだ。面倒くさそうに視線を外したかと思えば、真剣な眼差しを向けてくる。
「告白、されたよ」
「ほら、やっぱり!」
「でも断った」
彼はきっぱりと言い放つ。その言葉にがばっと起き上がった。断った。え、なんで。明らかにお似合いだろうに。
混乱している浩樹に対し、隼人は肩を竦める。浩樹の手を取り、その手を両手で包み込んだ。
「好きだ」
「えっ」
「俺は、お前が好きだ」
聞き逃さないように、明瞭な声音で告げられる。氷のような眸が、熱を帯びている。思考が停止し、何て言えばいいのかわからずに口をぱくぱくさせていた。
そんな驚く浩樹の姿を見て、隼人は口許を綻ばせた。
「ずっと黙っていたんだが、俺……同性が好きなんだ」
「えっと……」
「だから俺にとって、沙耶香は恋愛対象じゃない」
「じゃ、じゃあ、クラスの女子に告白されても断り続けてたのって」
其処まで言いかけて、やめた。振る度に勿体無いって思っていたのに、鈍器で頭を殴られた気分だ。親友だと思っていた相手から、性的な目を向けられていたショックがでかい。
びぃえるというジャンル自体は多少だが知っている。妹がこっそりと嗜んでいた。同性愛なんて、ほぼ架空のものだと思っていた。今この時までは。
「ふ、ははは。今時そんな冗談なんか通じないぜ」
そうだ。これはどっきりだ。冗談で振り回すなんてドエスな親友にぴったりだと、現実逃避をした。
「冗談で言ったりしねぇよ。俺は本気で──」
「あー、あー、聞こえない! 大体、なんでよりにもよって俺なんだよ! 親友だと思ってたのに、裏切られた気分だわ!」
「……!」
握っている手を振り払い、耳を塞いだ。頭の中には、今朝出会った女の子が浮かぶ。そうだ、俺は彼女が好きだ。だから気持ちには応えられないと、はっきり言ってやったらいい。
でもそう言えないのは、言ってしまえば友人関係が終わってしまうような気がしたからだ。今ならまだ間に合う。嘘だと言ってくれ。心の奥底で、そう願った。
「ヒロ、俺は本気だ」
懐かしい呼び名だ。昔はそう呼んでくれていたのに、今は普通に名前で呼んでいる。何故急に呼び名が変わったのかは知らない。好きに呼べばいいと思ってたから深くは追求しなかった。
先に冷静さを取り戻した隼人が目を伏せる。何かを耐えるように膝の上で拳を握っていた。
「……悪いな。困らせるつもりはなかった。あの女子生徒が気になっているのはわかっている。ちょっと焦ったみたいだ」
「そ、そうだよ。俺はあの子が気になるんだ。男とか、考えた事もねーし……ないない。あり得ないって」
「ん、そうだな。伝えたかっただけなんだ」
そう言って隼人はベッドから立ち上がった。
「ちょっと夕飯の手伝いしてくるわ」
「隼人」
「ん?」
「同性が気になるって、やっぱり気のせいなんじゃないか? もしくは何かの病気かもしれないし、沙耶香のこともちゃんと見てやってくれよ」
男が好きという感覚が理解出来なくて、気の迷いなんじゃないかと尋ねてしまう。沙耶香と三人で一緒だった関係を壊したくなくて、無理を承知で頼んだ。
すると隼人の目が見開かれた。瞠目していた彼は直ぐに眸を細めて、なるべく平静を保っていた。
「……わかった」
薄く開かれた唇は震えた声を奏でる。その侭踵を返して隼人は部屋を出た。パタンと音を立てて扉が閉められる。無言で俯いていた隼人は崩れるように扉の前でしゃがみ込んだ。
涙で視界が滲む。腕で顔を覆い、苦しそうに息を吐き出した。
「病気って、なんだよ……」
拒絶されるのはある程度予想していた。それでも好きな人から罵倒されるのは想像以上に辛かった。好きになった相手が、異性じゃないだけで全てを否定されなければならないのか。明日から女を好きになれと言われても無理だ。
脳裏に浮かび上がるのは、突然現れてヒロの心を奪っていったあの女。あれが引き金となり、俺等三人の関係は呆気なく崩れ去った。
・登場人物紹介
羽柴 浩樹:ごく普通の高校生。ある日、運命の出会いを果たす。
彼女とお近付きになりたいが、ヘタレ故に中々距離が縮まらない。
親友に甘えまくり。シスコン寄り。
九条 隼人:クールさが目立ち、女子の告白を全て断っている冷たさから、クラスでは絶対零度の渾名を持つ親友。
浩樹の家に泊まる事が多く、家事などの手伝いをしてくれる母親的存在。浩樹の事が好きで、同性愛者である事を隠している。
柊 沙耶香:浩樹と隼人とは幼馴染。密かに隼人に想いを寄せている。
羽柴 悠里:浩樹の妹。隼人に懐いていて、こっそりとBLを嗜むようだ。
謎の女子生徒:浩樹を助けた女子生徒。同じ学校の生徒である事は確かだが、まだ不明な点が多い。
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