《短編シリーズ 》博士の事実資料ファイル「わたしが愛したのは彼女の脳みそ」
白黒の映画さながらの生活感の無い排他的な空間に、紳士的な老人は白衣姿で、資料に目を通している。
そんなところに、助手である中年の男が、寝癖のついたブラウンの髪を片手で掻き、もう片手にコーヒーを持って博士の立っている近くの机の上にある物と物の隙間、ほんの僅かな隙間に置いた。
「少し休憩でもどうです?博士」
「ありがとう、助手くん。そうさせてもらおう」
香ばしい湯気が上がるカップのとってを掴み、まずはその香りを思う存分楽しんだ。それから、コーヒーを一口啜る。味わい深い苦味が口内に広がると、顔面をくしゃり、皺を寄せた。
「うむ。丁度いい。君が女性で、わたしの嫁なら良かったのに、残念だ」
「僕が女性だったら、きっと博士の事を好きになるのは難しいでしょうね」
「女性には優しいつもりなんだがね」
「実験と研究という強敵な浮気相手がいては勝ち目がありません」
「君はわたしという人間を、よく理解してるよ」
博士はカップの淵に口を近づけ、ブラックコーヒーをもう一啜りすると、不意に、過去を思い出すかのような表情を浮かべ、遠くを眺めた。
「昔、わたしにもそういった女性がいた。頭は賢く、わたしの価値観から脳内に至るまで全てを理解してくれた女性がね」
博士は語り出した。
これはもう何十年も前の昔の話だ。その頃のわたしはよく、〝人間にとって恋愛というのは脳内麻薬の一種〟だと、信じて疑わなかった。それは、科学者ならば承知の事実であり、ドーパミンだとかセロトニンだとか、とにかく脳内に気持ちの良くなる成分が流れ込むのである。無論、子孫を残す為に必要な分泌物であり事は間違いないが、それ以上の何者でもない。
その為か、自分は性行為の最中に言葉を交わすのが嫌いであった。特に、愛やら何やら呟いた日には喉から機械音のように発音するだけで、感情的にはなれないので、嫌いだった。性行為自体は嫌いではない。思春期にそれを処理する事は人生経験でも意味を成す事だろうし、女性の神秘は十分に研究の対象になった。
ただ、恋愛というとまた別である。愛する事と、愛でる事は別である。慈悲深さと己の自己満足との間で揺れ動く事になる。しかし、殆どの場合、勝るのは後者の方では無いだろうか。
永遠と思える程長く続いていく人生の中で、一生を添い遂げられる人間はいないのだと、わたしは大分若いうちからもう存分に理解していた。それでも不都合はない。生物の役割を果たすことは望めないが、この内なる偉大な探究心の前ではそれも不必要である。
博士の言葉に、助手は全く理解出来ないといった顔で首を傾げた。
「それって、寂しいだけじゃありませんか」
「しかし、それも人生において何に重きを置くかが問題なだけなのだよ、助手くん。わたしには恋愛よりも重要なものがあった。その時はそう思っていた」
博士は話を続けた。
わたしは、狂ったように研究にとりつかれていた。朝から晩まで寝る間も惜しまず。世間の流れについても、わたしとは全く無関係な出来事のように思えていた。外に出るのすら億劫だったわたしは、買い物は当時の助手に行かせていたし、身の回りの世話も全てやらせた。当時の助手についての説明は、この話には無意味なので省こう。助手はよく尽くしてくれたよ。だが人間、身体が不健康になると同時に精神もおかしくなってくるものだ。おかしくなったのはわたしの方だ。ろくな栄養もとらず、生活サイクルが乱れ、脳みその使いすぎ。助手は自ら辞表を差し出してきた。理由は想像の通り。わたしは助手に最後の手当を施して背中を見送った。
とうとう孤独になったわたしは、机にある膨大な知識の事実と共に研究室へ残されたのだ。
途端に生活は今まで以上に困窮し、倍の苦痛が自分に降り掛かってくるようになった。これでは研究にすら身が入らないと思い、どうにか藁にすがるような思いで求人の報を上層階に出したのである。
それから数週間もしない内に揃いも揃って、洗練された頭脳の持主達が手紙と論文を送ってきた。
全て読み通したが、どれも丁寧で説得力はあるが決め手にするには何かが欠如していた。そして、自ら研究室を出て、探してみようと思ったのだ。気晴らしと言う言い訳を自分にしながら。思えば、愚かな行動だったが、科学的に言えば、人間同じリズムを続けていれば変化に気づけないものだからな。
上層階に行く為の無難な服に着替えた。人の目に触れても通報されたり怪しまれたりしないような、何の個性も持たないようなつまらぬ服に。上層階に行く為のエレベーターに乗り、地上に着くと、エレベータから降りて、地面のマンホールの蓋から這い上がる。久々の陽の光が目に染みた。街の外観は、僅かに変わってはいたが特に変わったのは人々が身につけているものであった。わたしは黒いジャケットから、研究用のメモを取り出し、今の状況や自分の思考のことなど、諸々の事柄を書き溜めておいた。
曖昧だったが初めの角を曲がった所に珈琲店があったと記憶していた。そこで、これからの事を考えようと思った。黒いジャケットにメモ用紙をしまい、珈琲店へ向かいはじめた。それが一つ目の分岐点だった。
最初の目的地を難なく曲がり終えると、後ろからとんとんと誰かがわたしの肩を叩いてきた。振り返ってみると、――ああ、これは人生で一度限りの体験だった――衝撃が身体を貫いた。
内なる衝撃。眼に映りこんだ女性がわたしに与えたもの。赤茶の髪は波打つ度に艶を発し、慈愛に満ちた、たれ目がちの瞼の中にエメラルドの宝石が輝いていた。彼女は、赤ん坊のような穢れの知らない肌をしていて、無邪気にこちらを見ながら微笑んでいる。わたしは、なるべく動揺を抑えながら彼女に対応した。
「何かご用かね?お嬢さん」
「ええ。貴方のその上等な上着からメモが落ちていくのが見えたものだから」
ようやく、彼女の手に見覚えのある黄色のメモ帳が握られているのに気づいた。
「これは失敬。どうもありがとう」
頭を下げながらメモ帳を受け取り、彼女に深く礼を言った。彼女は「いいえ、別にいいのよ」と言うように小首を振り、背中を向けた。その瞬間、空っぽの頭の中から言葉だけが勝手に飛び出してきた。
「どうかな。お礼にコーヒーでも一杯」
彼女は、特に驚く様子もなく振り返って、愛想笑いを浮かべた。
「嬉しい誘いだけれど、ごめんなさい。今日は日が悪くて」
「ほう。そうか。それは引き留めて済まなかったね。急ぎかな?」
「ええ。今日中に、この人宛に手紙を書かなくちゃならないから」
彼女の細く白い指は新聞のとある一ページの隅っこの目立たない記事をさした。運命という言葉は嫌いだが、その時、脳が訴えてきた。これは、後に何らかの結果に繋がる大事な出来事であるのだと。わたしは迷うことなく、彼女に次の手を差し出した。満面の笑みで。
「それなら、好都合だ。手紙を送る切手代と手間が必要無くなった。それも、一杯のコーヒーというおまけ付き」
彼女は最初、何を言っているか理解が困難な様子だったが、次第に雲は晴れて明るい表情に変わった。
「もしかして、あなたが……?お会い出来て光栄です。私、ブルー・ブレアと言います。あの、大学で――」
「自己紹介はコーヒーを飲みながらゆっくりと聞こう。さ、おいで」
彼女はわたしにとって驚異の存在だった。己の人生だけでなく、自分自身に影響する大きな変化だ。二人は珈琲店の窓際のテーブルに座った。向かい合っている時、わたしは彼女の仕草を眺めていた。何と魅了されていたのだ。今でもその光景は脳内映画のように時折蘇る。長い髪を耳にかける仕草、頬に出来るえくぼ、食指には小さなほくろがあった。周りが無音になり、それでいて彼女の言葉だけが心地よく耳に響いてくる。
「ごめんなさい、博士。私の論文なんですが、今は手元に無いので、後日改めて拝見して頂きたいのですが、よろしいでしょうか?」
「いや、その必要は無いよ。君は今から実際にわたしの研究室に来てもらい、二三の質問を受けてもらう」
「質問ですか?」
「何、大それたものじゃあない。気構えしないでくれたまえ」
わたしは、自分の世界を見せたがるただの男となり、一刻も早くわたしの秘密基地に彼女を招きたくて仕方が無かった。コーヒーを飲み終えて店を出ると、わたしは彼女を研究室に連れていった。
彼女は最初戸惑った。ジョークか何かと思ったに違いない。それに、わたしを心底変人とも思ったろう。疑問を携え戸惑いながらも、一度好奇心の扉を開いてしまえば、たちまち瞳は輝き、初めて目にする知識の宝庫を彼女はぐるりと見渡した。
「ここが、住所だなんて、おかしな人」
「許可はとっているから問題はない。とりあえず掛けたまえ」
わたしは、机の前の椅子に座り、彼女にも腰を下ろすように促した。そして約束通り二、三の質問をした。
「それじゃあ、君に質問をしていこう。わたしが先程飲んでいたコーヒーには砂糖をいくつ入れていたかね」
彼女は、わたしの思ってもみない質問に、面食らったのか、目を丸めて唇を開閉していた。
「あの、質問というのは」
「何個入れていたかね」
「0。0個です。あの、思考実験についての――」
「正解だ。それじゃあ、そこから推測されるわたしの性格を君なりに解いてごらん」
彼女は押し黙った。わたしの表情を眺めながらゆっくりと言葉を吐き出す。
「大人になりきれない子供、でしょうか」
「それはつまり、君は、ブラックを飲んでいる人間は、味の好みで選ぶのでなく、単に格好つけたいからだと?」
「いいえ、博士。ブラックを選ぶというのは、何も混じりけのない、純粋な味を率直に感じたい人。ただ単純にカフェインで眠気を吹き飛ばしたい人など様々だと思います。どちらにしても混じりけのない純粋な人間はブラックを選びますよ。ただし、きっと性格的には甘えられない人間じゃないでしょうか。責任などの負荷を背負いやすいような」
「そうかな。君が言っているのも正しいとは思うが、そんな人間だけかね」
「だって、砂糖もミルクも入れないなんて。絶対こだわりがあるでしょう。でも入れなかったら苦いのに、それをそのまま受け入れるなんて――それから、この質問から感じるに、いやここに招かれた時から思いました。貴方は偏屈な人物で、そんな自分を嫌いと思っていないし、頑固です。その上着のボタンも」
彼女は、わたしのジャケットのボタンを指さした。
「糸が少し解れています。普段から気づいた事を書き留めるようにメモ帳を持ち歩くような性格なら普通は治すはずなのに、そのまま放置して出歩くなんて、貴方は普段は不精者なのでしょう。だけどそんな自分を誇らしいと思っている。そのジャケットの糸で、他人がどう思おうと気になさらない。以上の点から、こういった結論に辿りつきました」
想像以上の回答を聞き、わたしは至極満足して両手を叩いた。
「面白い。多少は粗があるが、納得がいく説だ。わたしの助手になるに劣らない。ブルー・ブレア。君を雇いたい。いや、雇わせてくれ。構わんかね?」
彼女の肩をぽんと叩いて、立ち上がった。彼女も同じように、腰を上げて、わたしに向かって頭を下げた。
「勿論です、博士。喜んで」
一瞬にして喜び明るく華やいだ彼女の顔を、わたしは素直に愛らしいと感じた。
この感情はわたしが嫌っていた愛や恋という妄想を見せる麻薬物質であると頭の隅では理解していた。だが、人間の理性など簡単に壊されてしまう。麻薬に溺れる日々が続き、わたしは類稀無い幸福感に包まれていた。
わたしと彼女、二人研究室で『生物別、命の価値観と重要性』について論議している時、ベッドの上で交わす愛よりも、甘く満ち満ちた時間となった。彼女の考え方や価値観に深く魅了された。
しかし当然、気持ちが良くなることだけで済むのが麻薬ではない。長くわたしの心と身体を蝕んできた快感に、つけを払わなければならない日がやってきたのだ。今まで、目を背けていた内側の溶かされていた内臓部分と、とうとう向き合う日が。
「博士。私、もう仕事を辞めようと思っています」
暗く淀んだ瞳は床を向いて、そう言った。
「理由を言いたまえ」
「結婚……するんです。もう、ここに居られることが出来なくなりました」
少なからず予想のつかない出来事では無かった。だが、こうも急に訪れてしまうと、戸惑わずにいる事は難しい。その時のわたしは、極々ありきたりな言葉しか思いつかず、必至に表情筋を吊り上げるので精一杯だった。
「結婚か、おめでとう。お祝いに参加してやれないのは申し訳ないが」
「いいえ。そんな、身に余る言葉です。博士にはお世話になりました」
「ああ。幸せになるのだよ」
「ええ。ありがとうございます。博士も、どうか幸せに」
彼女の冷たく、力の無い手がわたしの手を掴んだ。出会った時よりも、生気を感じられなかった。世間一般では、素晴らしいニュースの筈だ。しかし、何故その表情に活気は満ちていないのだろう。何故、バラの花弁が開いていないのだろう。マリッジブルーというやつなのだろうか。結局彼女にその理由は聞けないまま、研究室を去る彼女の背中を視線で追い、さよならを告げた。わたしは、また孤独と二人きりになった。
それから、生活は逆戻りする一方であった。むしろ、以前より精神的なもののダメージが大きく、睡眠はおろか、食事も喉を通らず、見るからにやせ細った。研究にも身が入らない始末だった。
何ヶ月か過ぎ、気力と精神をすり減らしながらも、少しずつ研究成果を残していった。体調は以前より回復を辿り、思い出と名称した引き出しに仕舞う位に、彼女の事を気にしなくなった。
わたしが、〝脳みそだけで波長を読み取り過去の記憶を復元する〟研究をしている最中、滅多に来ない来客が扉を開けて尋ね、会うなりわたしに泣きついてきたのである。
「ブレア君。一体――」
「助けて、博士。殺される!」
そこにいたのは、わたしが知っているブルー・ブレアではなく、顔中痣だらけで髪も抜け、左瞼は赤く腫れ上がり綺麗な瞳は覆われ、歯も数本抜け、十歳くらい歳を取ったような感じだった。その姿を見た途端、わたしは激しい怒りと憎しみと殺意がふつふつと沸き上がり、拳が震えた。自分の中で純粋であった彼女をこんな状態にした相手に対して。
わたしは最後に会った記憶の彼女の顔が浮かび、直ぐに犯人を推測出来た。
「君をこんな状態にしたのは、君が結婚した相手の彼だね」
「責めないで。彼は私を愛する余り、私を殺したがってるの」
そう言った瞬間、ダムが決壊したように泣き崩れた。
「賢い君まで、そんなものが愛と信じるとは。それは愛じゃなく欲というものだ。彼は自己満足しているだけだ。君の旦那は病気のようだ。わたしは医者では無いが、それはDVという心の病だよ。もう会ってはいけない。まずこれから君は警察に行ってこの事を話さなくちゃならない」
彼女の足元を見ると、泥だらけの裸足で、疲労困憊の様子が伺える程ふらついていた。足の中指など、色が青紫に変色している。 今も旦那から逃げている最中なのだろう。彼女の旦那は今、彼女を探しているに違いない。
「先に病院へ行って手当てをして貰おう。随分と酷い怪我だ。立てるかい。車まで運んでやる。いいね」
肩を抱いて彼女の体を支えると、そのまま腕の中に抱き上げた。扉の奥までゆっくりと歩いていく最中、彼女の左手の薬指に金色の指輪が見えた。それは、愛の証ではなく彼女を縛り付ける手枷のように見えた。車の前に到着し、キーを取り出そうと彼女を一旦腕から降ろすと、急に床に雪崩るように座り込んだ。わたしは、彼女の顔をのぞきこんで背中をさすった。
「おい、ブレア君。大丈夫か?」
「お願いがあります、博士」
「何だ」
「ここで私を殺して」
か細い、切なる声で、わたしの前で懇願する彼女は、恐怖よりも決心のついた瞳をしていた。その要望に、わたしは心が痛めつけられた。
「すまないが、それは出来ない。わたしは君の旦那とは違うのだ」
「あの人に殺されるくらいなら、博士に殺されたい。ねえ、お願い、殺して」
「どんなに頼まれても君を殺すなど出来ない……何故なら――」
わたしが言いかけると、彼女は素早い動作でポケットから液体の入った小瓶を手にした。
「待ちたまえ!早まるな!」
彼女が小瓶の中の液体を口にする一歩前に手をはたいた。彼女の掌から小瓶が床に抜け落ち、液体が零れた。
「愛や恋などというもので自分を見失い、命すら落とすのか?わたしは君を評価していた。君にはもっと別の方法で自分を高める能力があるはずだ。愛などに振り回されるな」
「博士。長い付き合いだけあって私達お互いを知り過ぎました」
その言葉の意図に気づいたのが遅かった。赤い舌の上に乗せられた白い錠剤を、彼女は飲み込んでいった。
「ブレア君、何てことを。直ぐに吐き出すんだ」
「前に、生き物の命の価値について話したのを覚えていますか……?貴方の考えが好きでした。だから、このまま……」
彼女は、痙攣しながら白目を向いた。わたしはその状況を見ながら心拍数が上がるだけで何も出来なかった。やがて、彼女は全く動かなくなり、硬直し、彼女自身が終わった。
わたしは、まず彼女の体を抱き上げ、風呂場に連れて行き隅々まで綺麗にしてやった。その後に、忌まわしい薬指の手枷を外し、自分のポケットにしまった。
それから再び数ヶ月が経ったある朝、新聞に目を通すと、暴行された後に殺害された二十九歳の男の記事が載っていた。男の体には毒物反応と数カ所の打撲や傷、左薬指に嵌められた金の指輪の他に、もう片方の同じ左薬指にサイズの小さい指輪が、皮膚を剥ぎ落とされ無理矢理嵌められていたとの事だ。
博士は、黒い椅子の、クッションに腰を沈めて話を終えると息を吐いた。
「その話は全部実話ですか?」
助手は、目を丸くしながら博士を見つめた。
「勿論。わたしは小説家にはなれないからね」
博士の言葉に、助手は躊躇うように口を開く。
「博士も、そんなに人を愛したことがあったんですね。僕もそんな恋愛してみたいですよ」
「助手くん、それは違うよ」
博士は否定して、椅子の回転軸で遊ぶように左右に揺れては、コーヒーを飲み干したカップを机の上に置く。
「ごちそうさま、うまかったよ」
「お代わりはいかがです」
「もういい。今日はこれで終わりとしよう。ご苦労」
「はい。それでは、お先に失礼します」
助手は一礼をして、研究室を後にした。
博士は誰もいない研究室に取り残されると、鍵を持って研究室の外に出、廊下の隅のとある一室の扉を開け、中に入る。
暗闇に明かりをつけると、部屋の中央には脳みそが一つ水槽の液体の中に浮かんでいる。その脳みそは電気コードの蜘蛛の巣に捕われている。
水槽に近づき脳みそをじっと見つめ、近くにあるボタンを指で押した。すると、スクリーンから映像が流れはじめる。そのシーンに登場した人物は、偏屈そうな科学者の男と、子供のように無邪気に笑う赤茶色の髪をした女性だった。二人は談笑しながら、見つめあっている。映像の中で科学者は言った。
『わたしが思うに、生物はただ生きて死ぬだけならば傍から見て価値は一緒なのだ。人間よりも賢く強く巨大な生物が現れたら、わたし達など虫同然に過ぎないのだから。ただし、人間の脳というのは美しく神秘に満ちている。宇宙の研究をするなら、人間の脳の中身をことごとく知りつくさなければならん。わたしはこれだけは、はっきり言えるが――』
奇妙な愛の台詞が流れている中、博士は、脳みそを眺めたまま、優しく笑んで呟いた。
「違うよ助手くん……、わたしが愛したのは彼女の」
博士は、電気を消して部屋を出た。映像は途切れることなく最期まで愛の形を映し続けていた。




