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 数日後には二人の時間がなくなった。正確には二人きりの時間が、である。


 出し抜けに寺山君が言った。


「クラスの奴が勉強教えてくれって言ってるんだけど、ここに呼んでもいい?」


 私は平静を装いながら返事をした。


「クラスの奴って?」


「遠藤と渡辺。嫌ならどこか別でやるけど」


 渡辺は指揮者だった人だろう。部活があるのではと訊ねようと思ったけれど、考えてみればもうすぐ中間試験である。試験休みがあるはずだ。それはそうと遠藤……はて、誰だったか。


「遠藤って、男の子?」


「うん。一学期にウィスキー瓶にお茶入れてきて叱られた」


「ああ、あの人ね」


 嫌かと問われれば、もちろん嫌だった。せっかく二人きりだというのに、自らふいにしたくはない。しかし断る上手い方便がない。「いいよ」と言うのにさして理由は必要としないが、「いやだ」と突っぱねるにはそれなりの理由がいる。遠藤君も渡辺さんもよくは知らない。そのうえで断るとなれば、それはもう、寺山君と二人でいたいと言っているのに相違ない。たしかに相違はないけれど、こんな形で伝わるのは違うだろう。


「嫌ではないわ」


 精一杯の妥協である。さすがに歓迎する気にはなれなかった。


 そうして部活が試験休みになると、二人きりの図書室は四人寄り合う勉強会となった。


 遠藤君は、髪の長さにうるさい校則から少しばかり逸脱していた。部活の都合か短めにしている渡辺さんと同じくらいだ。寺山君とくらべて動作が多くていちいち大きい。クラスメイトを見るかぎり、寺山君が特別静かなのだろうけれど。


「いつも二人で勉強してんの?」


「ええ、勉強だけじゃないけれど」


「へー、マジメ」


 四人の中で一番字が汚いのは遠藤君だ。書き順からバランスから、まるで小学生。男の子はみんなこうなのだろうか。そういえば、同級生の字はあまり知らないな。


 成績もおそらく、遠藤君が一番悪い。質問の回数をみればあきらかで、ちらりと手元をのぞくと、基本的な部分さえあやしい。次に渡辺さんがよく質問した。このところ成績の良い私には、質問しなければならないほどわかっていない部分というのがなかった。なんだかとても疎外感。時折、私にも関係があるような話が出ると、隣に座った寺山君がさらっと通弁してくれたけれど、やはり寂しい。


 口数がやけに多いのをみると、勉強をしながら雑談をしているらしい。こればかりは筆談ではかなわない。手と目は勉強にむけ、口と耳で談笑する。いいなと思うと、胸が苦しくなった気がした。


 聾を恨むのではなく、健常な耳を羨ましいと思うのは、たぶんはじめてだった。


 理科のノートをぱらぱらとめくる。厚さでは文庫本のページと大差ないのに、どうしてこちらは「ぱらぱら」だと感じるのだろう。比較対象がないからかしらん。


 二学期中間試験の範囲は動物についてである。動物の分類を簡単になぞり、人体について学んだ。耳のしくみを習ったときには、おぼろげな病院の記憶だとか、自分で調べた書物だとか、いろいろな記憶があふれてきた。この分野だけであれば寺山君にだって負けない自信がある。


 こぼれそうな自嘲をかみ殺しながらページを繰っていき、単元の頭で手を止めた。脊椎動物の説明と魚類から哺乳類までの特徴をまとめた表。その下で無脊椎動物について触れている。背骨の有無での分類である。ぼんやりとした頭に、授業中には思いもしなかった疑問が浮かんできた。


 会話が途切れるのをやきもきしながら待って、寺山君の肩を叩いた。「どうかした?」とでも言いたげな顔で私を見る。


「無脊椎動物って、背骨がないから無脊椎でしょう? それじゃあどうして体を支えていられるの? それにどうして動いているの?」


 人間は脊椎をやってしまうと、各部の麻痺を引き起こすことがあるらしい。全身のあらゆる神経と脳を繋ぐパイプが脊髄だからだ。それがそもそもないのに、どうして無脊椎動物は生きていられるのだろう。


 私の質問に寺山君は自分のあごをさすりながら、記憶をさぐるような仕草をとる。


「たぶん、高校にでもいけば習うだろうけど」


 と、前置き。「中で支えているか、外で支えているかの違い。昆虫なんかは外骨格っていうのがあるんだ。甲虫を想像するとわかりやすいと思う。あれで体を支えたりしてるわけ。どうして体が動くかといえば、脳も神経も筋肉もあるから」


「脊椎がなくても、ちゃんとあるの?」


「そりゃま、あるよ。ああ、でも人間とはやっぱり違う。昆虫は頭・胸・腹の三つに分かれているだろ。それぞれ神経節っていうのがあって、ある程度独立して動ける。だから頭を切られても動けるってわけ。まあ、動けるというよりは、動くって感じだろうけど」


 渡辺さんが呆気にとられた顔をして何かを言うと、寺山君は面映そうにした。おそらく褒めているのだろう。ふと見れば、遠藤君がつまらなそうにしていた。その様子にピンとくる。遠藤君は渡辺さんが好きで、その子が別の男を褒めるものだからおもしろくないのだ。勉強のまったくできていない彼が勉強会に参加したのも、彼女目当てだろう。わかりやすい人だ。そうと気付いてみれば、渡辺さんのほうばかり見ている。


 私もそうなのだろうかと思わず視線を寺山君へむけると、彼とばったり目が合った。とっさにそらしてしまう。あちらは何事もなかったように、シャーペンを走らせた。


「それで思い出したんだけど、イヌってネコなんだ」


 言葉の意味を理解しようとして頭が停止してしまう。ひょっとして寺山君、勉強のしすぎで頭がおかしくなったのではないだろうか。みんな口をぽかんと開けて固まってしまった。犬が猫だなんて、ちょっとよくわからない。


「分類学上の話だよ」


「あ、そうよね。よかった」


 寺山君が続きを書くのを、どうしたことかと渡辺さんと遠藤君ものぞきこむ。


「哺乳綱ネコ目が、ネコ亜目とイヌ亜目にわかれているってわけ」


「でもよ、そりゃボーロンだろ」


 と、遠藤君が反論した。「ミジンコと人間が同じっていうのと同じだぜ」


「それで言うなら、ヒトは霊長類――サル目だから、ヒトはサルだって言えば、ああそうかって思うだろ」


 私はいたく感心した。ヒトがサルであるという事実を否定できるのは、熱心な宗教家くらいのものだろう。遠藤君も赤べこみたいに肯いていた。が、男の子の意地なのか、やがて気を取り直したように反論を続けた。


「でもネコとイヌなんて見ればわかるだろ。サルと人間だってよ」


「じゃあ、ハイエナはどっちだ?」


「イヌだろ。近所のブチなんてハイエナそのまんま」


 渡辺さんが何かを言うと、寺山君が指差した。すると彼女は得意満面に遠藤君をバシバシと叩く。その様子だけでどういう流れだったのかは想像がついた。


「ネコ亜目が正解。こいつらの違いは、耳の構造らしい」


 寺山君は自分の耳をちょんと触る。一瞬また、目が合った。


「でも遠藤の言うことも正しいよ。見ればわかる。でもそれは、知っているからだ。ネコ亜目だって知らなくても、ハイエナの姿と名前がわかればそれがハイエナだってわかる。でもハイエナを知らない奴からすれば、たぶん犬と一緒だ。ややこしい分類学なんてなくても、名前っていう言葉さえあればハイエナとイヌとネコは区別できるわけだ。言葉が世界を広くして、知識が世界を深くする……と、思うんだけれど、どうだろう」


 疲れたというふうに手をぷらぷらさせる寺山君。眉間に皺をつくった遠藤君が言った。


「よくわからん」


「聖書かなにかに『はじめに言葉ありき、言葉は神と共にありき、言葉は神であった』って一節があるんだ。『光あれ』って神様の言った言葉だって説もあるけど、俺が言いたいのは世界を規定するのは言葉って説のほう。世界を作っている言葉は、財産たりうるということで、つまり何が言いたいかというと、勉強はまじめにやろうということだ。暴論くらい、漢字で書けるようになれよ」


 痛いところをつかれたという顔をして、遠藤君が私に訊ねた。


「おまえらいつもこんなこむずかしい話してんの?」


「いつもじゃないけれど」


 答えながら私は、寺山君がどうしてこんな回りくどい話をしたのかを考えていた。


 もしかして私は、励まされたのだろうか。小説を読みあさり、言葉に関心を寄せていた私に向けてなら、十分な励ましである。それを今する理由は? 考えるまでもなかった。二人きりでなくなって少々気が落ちていた。そうと悟られぬようにしていたのに、どこか態度に出ていたのだろう。


 恥ずかしさにのぼせるが、背筋が甘く痺れるような感覚。寺山君に気を遣ってもらえたことが、嬉しいのかしら。餌をもらって尻尾を振るイヌみたいで、すこし悔しかった。


          ○


 市を越えると給食が出るそうだけれど、こちらの市立中学校はお弁当制である。それもどこで食べても良いことになっているから、よそにくらべると断然自由なのだろう。しかしそこは市立中学である。自分の教室以上に食べやすい環境はそうそうないので、結局は適当に寄り集まるか、遠くても別のクラスの友達と、というのがお決まりだった。


 私はといえば、一人で食べるのが常だった。誰かと食べたとしても箸と鉛筆は同時には使えないからである。


 なんとはなしに教室を見渡しながら食べるのが私の日課だ。いつもはきちんと並んだ机が、人の移動に揉まれたようにぐちゃぐちゃになっている。四角や三角のグループがあちらこちらにでき、その猥雑さは目にもざわざわとした。


 年に一度か二度、すべての動きがぎくしゃくし、牽制しあうように視線が動き、一転全員が笑い出すということがある。きいてみたところ、クラス中の会話がいっせいに途切れて誰が最初に声を出すのか駆け引きをしているらしい。たいてい、誰かが吹き出してしまってつられてみんなが笑うのだという。音のない世界からすると、本当に奇妙な光景だ。


 まったくのふいに、その静寂が訪れた。しかしどうも様子が違う。視線が一所へ集まっている。そちらを見ると、寺山君のお母さんがいた。ちょいちょいと手招いて寺山君を呼び、どこかへ行ってしまう。元気な男の子などは窓から身を乗り出して行く先を見届けている。あ、遠藤君もいる。


 はじけた笑顔はおかしくてたまらないという物ではなく、好奇心に溢れていた。誰も話を聞きたくてうずうずしていたけれど、結局寺山君が戻ってきたのは五時間目が始まってからだった。最後の休み時間も、放課後までも寺山君の周りには人だかりがあって、話しかけられそうになかった。


 図書室で待っていると、先に渡辺さんたちが来た。


 どことなくぎこちない空気。寺山君とならずっと黙っていたって気まずくはないのに、黙っていることがこんなにむずむずするだなんて、今まで思わなかった。


 私の気持ちを察してくれたのか、遠藤君が言った。


「あいつまだかこまれてる」


「やっぱり」


「オレもびっくりしたもん、あいつの母ちゃんめっちゃくちゃキレイ」


「私もはじめて見たときは驚いたわ」


「そういやあんましおどろいてないけど、会ったことあんの?」


 自分の軽率さに歯噛みした。秘密にしろと言われたわけではないけれど、私はあの日のことを、寺山君の家に行ったことを二人の秘密にしておきたかった。幼稚な独占欲が、むしろそれを損ねることになってしまった。


「偶然にね」


 と、今度こそ漢字で嘘をついた。


「もしかしてつき合ってたり?」


「まさか。そんなことないわ」


 遠藤さんが体を乗り出し、わきから会話に入ってきた。


「本当に?」


「ええ、本当に」


 これも嘘である。ならばどんなにいいか。


 流れで自分たちの親の話をしていると、ようよう寺山君が図書室に現れた。思わぬ災難に揉まれたせいかその笑顔に力はない。


「お母さん、どうかしたの?」


「ま、進路相談、みたいな」


 それよりも勉強しようとばかりに、教科書をひろげた。目立つことが嫌いなのに、いつも以上に注目されたのだから、今日は本当にお疲れなのだろうと思って、私は静かに勉強し、復習を終えてからは小説を読んで過ごした。



 しかしそれは一過性のものではなかった。そのあと試験勉強の間、試験中も、そのあとまでずっと上の空だった。そのせいか、ついに学年一位から陥落してしまった。それでも平均で九三点を取っているのだから、感服を通りこして憎らしい。


          ○

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