13
学校へ戻るとしばらくして職員室に呼び出された。部屋の奥に、ガラスの衝立で仕切られた空間があった。ソファとテーブル、観葉植物だけだった。
ソファに座ると、生活指導の先生は難しい顔をして紙をさし出す。
「あいつらのこと、なにか知らないか?」
知らないということは、ない。きっと彼らこそが犯人で、寺山君はどうしてか謝るように説得してくれたのだろう。説得むなしく、あの有様なのだろうけれど。
しかしそのことは先生に伝わっていない。
「けんか、ですか?」
「あいつらは口そろえて土手を転げ落ちたって言ってるが」
「そうですか。心当たりはありません」
意図的に黙っていたのだとすれば、判断を私に委ねてくれたということだろう。彼らのことを報告するか、胸にしまっておくか。
だとすれば私は言わない。謝ってもらったし、驚いた以上の実害はないのだから。
先生は疑いの目を私にむけたまま退室をうながした。謝罪の気持ちもこめて、お辞儀をしてから職員室を出る。
グラウンドにはもう部活動の人たちが出てきていた。さっきまでマラソンしていたのに元気だな。彼らを見下ろしながら廊下を歩いていき、教室のドアを開けると電気が消されて、がらんとしていた。整然とした机の間に冬じみた窓明りが射し、寺山君と渡辺さんが向かい合っていた。二人は同時にこちらを見ると、渡辺さんが私の前に来た。
涙の浮かんだ瞳できっと私を睨んでから頭をさげ、面を上げきらないうちに教室を駆け出した。
なんとなく、全容が頭に浮かんだ。
寺山君のそばに歩み寄り、素直に動かない手をごまかしながら訊ねた。
「私のため?」
「それもあるけど、俺もむかついたしね」
文字は震えていた。寺山君の右手は、あちこち傷だらけだった。
「保健室、行かないの」
「あの先生、嘘じゃ許してくれないから」
「そう。それじゃあ家に来て」
断られたくなくて彼の手を、まだマシな左手をとって家まで引っぱって帰った。寺山君は魂が抜けたかのように、されるがままについてきた。
玄関口で母親が驚いた顔をするけど事情を話す余裕はなかった。
「薬箱、取って来て」
それだけ伝えて、寺山君を洗面所に連れて行って傷口を洗わせる。体操服でむき出しだった足にもけがをしていたはずだけど、さすがに脱がすことはできなかった。脱いでと言っても脱いではくれまい。
鼻の下にこびりついた血を拭ってから私の部屋に入った。机の上に薬箱があった。
寺山君をベッドに座らせ、あらためて手を見る。両手とも指の間が裂けていた。右手はその上、指の付け根あたりの皮がめくれている。それで間に合うのかはわからなかったけれど、消毒液をかけて絆創膏を貼っていく。腕には擦過傷。とりあえず軟膏を塗る。
生傷をみるたびに、胸が苦しくなった。
鼻血はもう止まっているらしい。ティッシュを渡して、鼻の穴を綺麗にするように身振りで伝えた。唇は数箇所が割れていた。綿に消毒液を吸わせて、とんとんと軽く叩く。沁みたのか、寺山君が表情をゆがめた。その拍子に口の中が見えた。私は治療を中断し、紙とペンを探した。
「はがない、歯!」
奥の歯が一本、抜け落ちていた。
寺山君は顔に疑問符を浮かべて口をもごもごした。やがて恥ずかしそうに笑った。
「大丈夫、乳歯だから」
「まだ残っていたの?」
「最後の一本だった。これで大人だな」
ひととおり私にできるかぎりのことを終えて、寺山君の隣に腰かけた。謝ろうと思っていたし、弁解もするつもりだった。でももう少し話を聞いてくれても良かったのではないかと、文句も言いたかった。そういうことは全部、言葉にならなかった。
「なにがあったの?」
「芳賀を襲ったのがあの三人だった。謝れって言って、こじれてこんなことに」
「どうしてわかったの」
「ノートを盗んだ奴と同じだろうと思ったから、体育で俺の後に教室を出て、先に戻ってきた奴の家を回った。遠藤があからさまに動揺してたからな。あいつは、驚かすだけのつもりだったって」
「それで、渡辺さんは?」
「あいつは」
と書いたきり、しばらく寺山君はぼんやりと手元に視線を落としていた。「あいつが遠藤に頼んだんだってさ。あることないこと吹き込んで」
遠藤君からすれば好きな人を守るため、だったのだろうか。先生に白状しなくて良かったと思った。それで咎められたのでは、すこし気の毒だ。
「それで、まあ、なんというか……芳賀も当事者だから言うけど、渡辺に告白された。逆ギレ気味に」
「なんて返事をしたの?」
袖にしたと聞きたくて、なかば知れきった質問をした。
「断わったよ」
期待通りの返答――のはずだった。
「転校することになったからさ」
簡単な文章を、何度も何度も目で追った。それでも理解できなかった。心が受け付けようとしない。
ペンを持つ手がどうしようもなく震えた。
「転校?」
「本当は黙っているつもりだったけど、東北の母親の実家に引っ越すんだって、冬休みの間に。わりとお金持ちらしくてさ、俺の進路がどうとかって」
このところの違和感がカチリと音をたてて納得に変わった。早すぎたクリスマスプレゼントもそれだ。クリスマスにはいないかもしれないから、前倒しにしたのだ。職員室に呼ばれた「進路相談」なんて、本当は気付いてほしいと言っているようなものだ。決めたはずの進路を覆す何かがあったのだと、私は今のいままで想像もしなかった。
奥の歯がくすぐったくなる。頬が痙攣したようにぴくぴくし始めると、世界が水底に沈んでいく。
寺山君の手が戸惑いながら、それでも優しく髪に触れた。
わっと感情がこぼれだし、私は寺山君の体を押し倒した。そして、声をあげて泣いた。物心ついてからはじめて、涙が堪えられなかった。
寺山君がいなくなることが哀しいのか、気付いてあげられなくて悔しいのか、それとももっと別の感情なのか。どれかではない。なにもかもがごちゃ混ぜになって、喉を通り瞳を濡らしてこぼれ出るのだ。
私はきっと、醜い声で泣いた。慣れないことですぐに喉は悲鳴をあげたけれど、涙はとめどなく溢れてきた。異変に気がついた母が駆けつけても、ずっと泣き続けた。
母はたいそう驚いたことだろう。娘の聞いたこともない声に、よもやと思って駆けつけてみれば、男女の上下は逆さなのだから。
頭の隅には俯瞰した冷静さもあったのに、気持ちが次から次へと湧いてくる。
ようやく落ち着いた頃を見計らって寺山君は帰宅した。見送った途端にまぶたが重くなって、そのまま眠ってしまった。
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二学期の最後までを私たちは、ほとんど会話に費やした。話すべきことはたくさんあった。伝えたいことも山とある。それでもそれらは胸にしまい、なんでもないことばかりを話した。今ではない。そんな気がしていたから。
進展させない恋にかまけていたせいで、期末試験の結果は散々だった。国語はなんとかなったけれど、そのほかはまるで駄目だった。私と同じようにしていたはずの寺山君は、なぜか全教科満点だった。本人は「前回の二位が悔しかった」と言っているけれど、たぶん嘘だろう。
マラソン大会の一件のせいで、黙って転校するつもりだった寺山君の計画は泡と消え、二学期最後の日にはささやかながらお別れ会が開かれた。寄せ書きを受け取って挨拶をする彼の顔は、恥ずかしさを貼りつけてはにかんでいた。誰にも言わずに行こうとしたのはこれが嫌だったのだろう。筋金入りの照れ屋だ。
その日の放課後、私は自分の住所を教えた。向こうについたら一番に年賀状を出すことを言い含めて、それぞれの家路についた。
そもそも紙面でしか会話をしないのだからどれだけ距離がひらこうとも、時間以上の不都合はないのだと自分に言いきかせながら、寂しい家路についた。
髪をわけてそっと触れた耳の痕が、凍えた指先をあたためてくれた。
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