追跡
須藤が気絶から目を覚ますと、黒ジャケットの一団に囲まれていた。顔中の傷に絆創膏や包帯が巻かれ、タンコブに氷が乗せられている。須藤は彼らに手当されていたことを悟った。
隣には白コートが横になっていた。顔には丸い青痣や瘤が広がっていて、須藤と同様に応急手当がされている。せっかくの渋い相貌も見るに堪えないものへと変わっていた。須藤は自分の顔も同様に傷だらけなのだろうと思った。
白コートは目だけ動かして須藤を見た。しばらく黙っていたが、彼は思い出したように口を開いた。
「良かった」
彼はそれだけ呟いた。
言葉の主語は分からない。ただ、須藤は何か心に通じるものがあり、頷いた。
肩の力を抜いて、息を長く吐き、夜空を見つめた。天上の世界は青い海のように静かで、砂金のような星々が水底に埋もれている。見ていると、心が洗われ、溶け出していくような気持ちになった。
「白コート、てめえ、凄く強えよ」
「兄弟もな」
「ああ、俺も強かった。知らなかった。俺も強かったんだな。喧嘩して初めて分かった」
誰かと喧嘩をしたことは久しぶりであった。
殴り合いの喧嘩など、それこそ学童期以来に思われた。思えば、誰かと本気でぶつかる機会は、小さい頃に比べていつの間に少なくなっていた。
須藤はふと気になったことを白コートに尋ねた。
「お前、どうして俺に蹴り掛かってきたんだよ」
「無粋な奴だ。理由などいらない」
「それじゃ、先制攻撃を受けた俺の気が収まらねえんだ」
白コートは困ったように眉をひそめていたが、不承不承に打ち明けた。
「俺はお前だったんだ」
「どういう意味だよ。とんちか? 禅問答か?」
「答えをすぐに求めるところが兄弟の悪いところだ。まったくクールではない」
「訳分かんねえよ。はっきり言えよ」
白コートは目を瞑り、一つ一つ思い出すように語っていった。
「お前の隣で寝ている人間はな、昔、御坊ちゃまの優等生だったんだ。腹違いの兄は奇跡の一万人の一人だった。奴は兄を慕い、兄に近づこうと努力した。まだ愛や正義という神話を信じていたんだ。今覚えば一番幸せな時だったのかもしれないな。奴は体の代謝活性を早める超能力に目覚め、教育都市へと入れられた。そこでも努力を重ね、S級のレベルを勝ち取った。だがある日、神話は終わりを告げたんだ」
「兄貴の電話越しの話を聞いちまったのか」
「ああ。俺は兄貴に失望した。世界が壊れていくような音が聞こえたんだ。早乙女さんに裏を取ると、真っ先に兄貴の元に駆け付けた。しかし、兄貴はもういなかった。書置きでアメリカに帰ったことを知った。俺の絶望は誰も受け止めてくれなかったんだ。俺はしばらく荒れに荒れた。道で会った奴にかたっぱしから喧嘩を吹っ掛けた。瞼の傷もこの時付いたものだ」
白コートの話は、須藤ばかりでなく、周りの黒ジャケットたちも神妙な面持ちで聞いていた。茶髪メガネに至っては、眼鏡を取り袖で目の辺りを擦り返していた。
「俺はある日、喧嘩に負けて路地裏で気を失っていた。気付くと、『にゃんにゃん』の中にいた。早乙女さんが看護してくれていた。早乙女さんは俺を叱ってくれた。よく考えたら、俺はこの時、初めて他人に叱られた。そして、俺に教えてくれた。俺よりももっと酷い絶望に苦しんでいる子どもたちが、この薄汚い都市にはごまんといることをな。俺はその時、俺のすべきことに気が付いた。そして、心に誓ったんだ。俺の絶望は誰も受け止めてくれなかったが、そいつらの絶望は、全部、俺が受け止めてやろうって」
黒ジャケットたちは一人、また一人と男泣きに口から嗚咽を漏らし始めた。
須藤は察した。
狂犬とはそうして組織された集団なのだ。教育都市の規律とは相容れない者たちの最後の砦である。白コートはその姿のごとく、まさに、絶望で黒く染まる彼らを包む光だったのかもしれない。
「兄弟、世界の壊れる音は聞こえたか? 絶望の暗闇の中で」
「ああ。お前に突き付けられた真実は心に刺さったよ」
白コートは目を開けると、須藤の顔を見つめてきた。
「その目ならもう大丈夫そうだ。兄弟は俺のように自暴自棄にはならない。一人で歩いて行ける。誰かを支えていくことができる。本当は兄弟を狂犬に引き入れたかったが、兄弟の居場所はどうやらここではなさそうだ」
その声が少し悲しげに聞こえたのは、もしかしたら須藤の願望がそうさせたのかもしれない。
須藤も少しだけ鼻の奥が湿っぽく痛んだ。須藤は気持ちを落ち着けるために長い長い息をゆっくり吐いた。
白コートは目を細めると、声音を戻し、須藤に言った。
「最後にこれだけ聞きたい。超能力は果たして人を幸せにする力なんだろうか?」
須藤は白コートを見つめ返した。黒と青のオッドアイが試すかのような視線を須藤に送ってきていた。
須藤は目を逸らさずに答えた。
「そいつは俺の信念だ。俺は超能力者を信じている。超能力の可能性を信じている。そして、俺の超能力を信じている。この力は、子どもが大人になる時に消えちまう。だが、だからこそ、俺たちが今、俺たちであることを裏付けているんだ。つまり、超能力は俺たち一人一人に与えられた個性だ。そして、俺たちはどんな奴でも人を幸せにする力を持っている。だから、どんな超能力だってきっと人を幸せにすることができるはずなんだ」
須藤は口に出すことで再確認できた。
自分は一万人に絶望した。しかし、まだ超能力に絶望したわけではなかった。
白コートは口の端を歪めて笑った。
「どうやら兄弟を俺の色に染めることは叶わなかったようだな。俺は兄弟が羨ましいよ。俺は答えを探し、遠く果てのない旅を続けている。ここにいる仲間たちと一緒にな」
白コートは周りにいた黒ジャケットたちを見回した。
黒ジャケットたちも白コートを熱く見つめ返していた。
須藤はその様子を微笑ましく眺めていた。
不意に黒ジャケットたちのずっと後方から、素っ頓狂な声が上がった。しばらくして寸胴なタヌキ人形が黒ジャケットの群れを掻き分け、茶髪メガネの前まで来た。片手には今どき珍しいガラパゴス携帯を持っていた。
「た、たたた、た、大変じゃい! リス公から連絡じゃい。人質の女の子が攫われちまった。あと、ジンと早乙女の姉御が死にかけの重体じゃ!」
場が騒然となった。白コートはタヌキ人形から携帯を受け取ると、事のあらましを聞いていた。
「ああ……ああ……そうか、お前の腕がレディーのポケットに入っているから位置は掴めるか。ご苦労だった、よく無事だったな。今から応援を送る。焼け死ぬなよ」
白コートは傷に障るのかゆっくり立ち上がると、周りの黒ジャケットにきびきびと指示を送っていった。黒ジャケットの一人が心配そうに白コートの肩を支えた。
「伊達さん、まだ休んでいてください」
「いいんだよ、俺のことは」
「おい、白コート。いったい何があったんだよ。教えやがれ、人質ってカイのことだろ!」
須藤も身体を起こし、噛みつくように白コートに問い詰めた。
「何者かが喫茶店に押し入り、レディーを誘拐していった。抵抗したジンと早乙女さんは爆破にやられたそうだ。リス人形の能力で追跡ができる。俺は今から追ってくる」
「俺も連れて行け」
「兄弟はその重傷では無理だ。責任を持って俺が連れ帰す」
「ふざけんな! カイはな、俺を頼ってきたんだ。俺が行かなけりゃ、ダメなんだよ」
その時、須藤は気が付いた。
白コートの身体から白い湯気が立ち上っている。みるみる内に彼の傷跡が癒えていき、腫れが収まっていった。
「俺は超能力により、人体の時計を人より早く進めることができる。超人的なスピードもそうだが、異常な回復力も含まれる。細胞分裂を無理やり進めるから、この回復を使った翌朝は副作用の激痛で動けないが、今はそんなことを言っている場合ではないな。兄弟はもう動けないのだろう」
須藤は片膝を付きながら、足を必死で伸ばして立ち上がっていった。
身体を動かすだけで、身体中の関節から激痛がした。痛みで声を上げそうだったが、堪え、須藤は前かがみで白コートの行く手を阻んだ。
「お前、俺がどれだけ我慢強いか、もう忘れたのか。お前に何発喰らってもまだ立っていただろ。ついでに諦めも悪いんだよ。俺も一緒にカイのところまで連れて行けよ」
「なら勝手にするがいい。振り落とされても責任は取れないが」
黒ジャケットたちは一台の大型バイクを白コートの前まで押してきた。車体は流線型で先がとがり、埃一つ付かない真っ白な装甲をしていた。すでにエンジンがかかっていて、爆音とともに、排気口から黒い息吹を吐いている。
白コートにヘルメットを渡され、須藤はそれを身に付けて、白コートと共にバイクに乗った。黒ジャケットたちもついていくと志願したが、白コートは首を振って断った。
「お前らの運転テクニックじゃ、俺にはついて来られない。死人は出したくないのさ」
「おい、いったいカイを連れた誘拐犯は今、どこにいるんだ」
須藤が尋ねると、白コートは誘拐犯が移動中と思しき道路の番号とその地区名とを告げた。
「犯人は海岸線に沿って移動している。人一人連れて教育都市の検問は突破できないから、おそらく海から逃げる気だ。早くしなくては永遠に追いつけなくなるぞ」
「だけど、第三区からその海岸線まではまともに走っても一時間はかかるぞ。どうするつもりだ?」
「まともに走らなければいいだけだ。行くぞ、俺の背にしがみつけ、兄弟!」
須藤が白コートの腹に腕を回した途端、白コートはアクセルをふかし、バイクは急発進していった。 白コートの裾が風にたなびき、夜の闇をはためいていく。バイクは骨組みのビルから抜けると、第三区の荒野を疾駆していった。
バイクは高速道路のある方角ではなく、海岸線に向けて真っすぐ走っていった。
「お前、まさか、愚直に海岸線まで突っ切る気か? 途中に山があるんだ。どうやって走り抜けるんだよ」
「兄弟、誰かの作った道路の上を走っていきがる奴らは所詮、暴走族ではない。本当の暴走族とは道なき道を己のバイクで暴走する奴らのことだ。いいから俺に任せて、振り落とされないことだけ考えていろ」
周りの景色が急速に後ろへと過ぎ去っていく。バイクは荒々しく飛び跳ね、喋っていたら舌を噛みそうだった。
須藤は口を閉じ、白コートの背にしっかりしがみ付くと、カイのことだけ考えることにした。
どうか無事でいてくれと、いるかどうかも分からない神に願った。