08. 頑固親父となんちゃって息子
高橋剛三、五十七歳。某建設会社社長。二回り以上も年の離れた若い後妻と反抗期真っ盛りの一人娘を持つ頑固親父。
彼の目下の悩み事は、建設業界の不況でもなく、なかなか育たない若手社員の育成方法でもなく。
「冴子……そろそろ、帰って来てくれ……」
という独居生活の苦悩だった。
近頃は娘の光子も、実父である自分よりも、継母である冴子とばかり行動を共にしている模様。
その冴子も、最近は
「貴方はこーこちゃんを子ども扱いし過ぎよ、もっと信用してあげてもよくなくて?」
と、下世話な世間の汚い部分まで愛しい光子に教え込む始末。
孤立感でいっぱいの剛三の眉間に皺が寄る。
「け、携帯電話なんぞ持たせおって……光子が出会い系サイトとやらに嵌ったらどうするんだ!」
と反対したのに、新学期キャンペーンとかを機会に、勝手に冴子が契約して持たせてしまった。もう学校も始まったというのに、光子はあの下品な店の上の部屋から通っているらしい。冴子も光子の保護監督という名目で、全く自宅に寄り付かない。家政婦がいるので生活には事欠かないものの、閑散とした屋敷の夜の寂しさはこの上ない。
「むぅ……」
剛三は、コートを羽織って、電話をかけた。
一時間後、剛三は高架下の赤提灯で飲んだくれていた。一人立ちして間もない頃からの馴染みの店だ。小さな店の向かいの席には、やはり泥酔状態の由貴が一緒になって管を巻いていた。
「女って奴ぁ、何でああやってすぐ徒党を組むんだか」
剛三が恨み言をぼやくと
「そーそー、何考えてるか、でんっでんわがんでぇ」
と由貴が呂律の回らない口調で合いの手を打つ。
自分で愚痴をこぼした癖に、同意する由貴に腹を立てた剛三は、
「お前は冴子の弟の癖に、わからんとは何事だ!」
と八つ当たりをして、テーブルに突っ伏している由貴の頭を思い切りぐーで殴り飛ばした。
「……っのクソ親父……てめぇらって親父の癖に娘が何考えてるか解んねぇ、って今言ったらねぇかよ! いちいち殴るんじゃねぇっつの!」
負けじと由貴も剛三の胸倉を掴んだ。
店の常連と店主の親父は、慣れた仕草で他のテーブルをたたみ、一斉にカウンターへ移動した。
「久しぶりに始まったな……。似非親子喧嘩……」
「っていうか……外でやれって……」
呆れる周囲の目も気にせず、殴り合いを始める二人だった。
剛三がへばり、由貴がゲロゲロと嘔吐し始めた頃、店主が二人に水を持って近づいた。
「きったねぇなぁ。ほれ、もう商売になんねぇから、続きは家ででもやってくれ」
痣だらけの顔をして、二人は同時に起き上がりそれぞれ水を飲み干した。
苦笑した店主に、剛三が会計を渡す。
「釣りは迷惑料だ。いつもすまんな」
店主が「毎度のこった、慣れてらぁ、気にすんな」と金と空になったコップを受け取った。
「あたたた……」と腰をさすりながら立ち上がろうとする剛三に、由貴が手を差し出した。
「親父もそろそろ年考えろよ。ほれ、送ってくよ」
肩を組んで去っていく野暮ったい二人を、店主は苦笑して見送った。
由貴が剛三の家に泊まるのは、冴子と彼の新婚旅行で不在だった時に光子の子守をした時以来だった。今時希少な広い和風の屋敷で、通された客室には趣味の名刀が床の間と欄間に飾られていた。
それを目にして、由貴に若干の恐怖が走る。
「何か……増えてる……?」
殺されない様に、くれぐれも失言はよそう、と酔いが醒めた由貴だった。
「おぅ、野郎の手製でろくなつまみがないが、まぁ飲みなおそうや」
剛三が一升瓶と乾物のつまみを持って入って来た。
「あー、俺、ワインがいいや。冷蔵庫から勝手に持って来ていい?」
おぉ、勝手に好きなもん取って来い、という剛三の返答を確認して、ワインと一緒に、適当なつまみを作って運んだ。
「お、流石男やもめ、器用なもん作れるもんだな」
と、剛三は美味そうに茄子の鉄火炒めを口にした。互いに時折「いてて……」と酒が傷口に染みるのを嘆きながら、ちびちびと無言で酒を酌み交わす時間が流れた。
「冴子は……お前に何か言ってはおらなかったか?」
剛三が、口火を切った。すっかり爺さんになって、わしもとうとう愛想をつかされたのかな、と、自嘲気味に笑った。
そんな剛三に酌をしながら、由貴は無表情で答えた。
「親父さんの光子への執着が心配なんじゃないの? 冴子、光子を自立させたがってたから」
ん? という顔で剛三は由貴の話の続きを待った。
由貴は、とつとつと語った。
光子は決して頭の悪い娘ではないのに何処か世間離れしていて、学校でも浮いている、と冴子は昔から心配していた。光子が自分のそういう部分に違和感を持ち始めて来たから、今が潮時、と見てアイツなりに何か考えてるのではないか、今はきっと、冴子は光子よりも、光子に置いていかれる親父さんの方が心配なのではなかろうか――。
「だって、アンタ全然子離れする気、ないんだもん。冴子、自分が良かれと思ってしてるものの、惚れた旦那のそんな面見るの、心苦しいんじゃねぇの?」
と、にかっと笑った。
剛三は、年甲斐もなく赤面して、むせ返った。
「と、年寄りをからかうなっ、若造が!」
まぁまぁ、と剛三をなだめ、由貴は続ける。
「こう言っちゃなんだけどさ、順当にいけば、親父の方が光子より先に死ぬんだからさ、アイツが残されてもちゃんと世間を渡っていける様に、って、冴子は自分の経験から光子の先々を考えてるんじゃないか、って俺は思うんだ。光子もやりたい事見つけたみたいだし、頑張ってるっぽいよ」
と、ネイリストになる勉強を由貴の店でしている事や、冴子と自炊をしている事などを掻い摘んで話した。
「ふむ……」
と言ったきり、剛三は無言で酒をちびちびと飲み下していた。
「由貴、じゃあお前は何が“ぜんっぜんわかんねぇ”んだ?」
唐突に自分に話題を振られ、由貴は心臓が飛び出るかと思う程狼狽した。
“俺、既に失言してるし……っ!”
酔いかけた頭が一気に覚醒してぐるぐると言い訳を脳内で探った。
「あ……いや何だ、ほら、冴子がな、俺に仕事の事、光子に教えてやれ、みたいな事言ってたんだよ。それが、俺の為にもなるんだ、とか何とか。俺、別にネイリストじゃないから無関係なのに何が俺の為なんだ、とか意味わかんねぇし……」
どうせ嘘は見抜かれるんだ、かいつまんだ事実を言えば、アウト! な事実には気づかないだろう、と踏んで、由貴は店に出入している事を正直に話した。
「ネイルあ~と、ねぇ……ふぅむ……。光子には、娑婆の辛さを味わう事なく、無事嫁に行って欲しいと思っていたんだがな……」
「マジ? 親父さん、嫁に出すつもりでいたの?!」
剛三の独り言に由貴は本気で驚いた。
剛三は渋々、という顔で、頷く代わりに酒を煽ると
「あの子に見合うだけの男がいれば、の話だがな」
と、鼻で笑う様に言葉を吐き捨てた。
由貴は何故か無性に剛三に腹立たしさを覚えた。
冴子の考えに賛成もしていたし、選ぶ職種は違えども、同じ業界の道を光子が歩みたいと言った時は喜ばしくも感じた。
なのに、剛三がそれを認めようとしている事が、無性に不愉快だった。
饒舌だった由貴が、おもむろに寡黙になっていく様子を感じた剛三が、彼の胸の内を探るかのようにしばし彼を凝視し続けると、再び杯に視線を戻しながら呟いた。
「……お前の様な無駄に年くったガキにだけは、娘はやらんぞ」
仏頂面でワインを飲んでいた由貴が、剛三の唐突な一言に噴き出した。
「べ、別に要らねぇし! っていうか、そもそも身内じゃねぇかよ、何モウロクしてんだよ、クソ親父!」
アンタと違ってロリじゃねーよ、と毒づく由貴に、剛三は立ち上がって床の間の真剣を取り出した。
「お前今、ワシを馬鹿にしただろう……? 訳のわからん横文字を使っても、馬鹿にされた事が解らない程耄碌しとらんわぃっ!」
深夜の閑静な住宅街に、色気の無い濁声がかすかに漏れた――。