07. 穢れ王子と酔っ払いお姫サマ
一.
由貴の部屋に、久々に饐えた臭いが立ち込めた。隣の女性が、由貴から火をつけたばかりの煙草を奪って文句を言った。
「キミね、突然久々に呼び出していきなりコレはないんじゃないの? デリカシー、無さ過ぎ」
由貴は、もう一本を口に咥えて子供の様ないたずらっ子の笑顔で牽制した。
「えー、んじゃ、もう電話すんのやめとこか?」
それもアリね、と切り替えされて、由貴は煙草をぽとりと落としてしまった。
「え……マジ?! 何でよ。急に呼び出したのがマズかったんなら謝るって」
抱き寄せて機嫌をとろうとする由貴に、彼女は煙草の煙を吹きかけて拒否の意を示した。
「だって、キミもう心ここにあらず、だもん。それに、元々コレだけの繋がりなんだから、何もアタシに拘らなくても、キミなら他も当たれるでしょ?」
煙草を灰皿でもみ消すと、彼女はさっさと服を着て扉に向かった。
「アタシはね、キミのおつむの軽いトコが気に入ってたのよね。せいぜい大事になさいな、何を見つけたか知らないけど」
彼女は清々しい笑顔でそう言って、扉を開けて出て行った。
「……どいつもコイツも……訳わかんねぇ……」
誰にともなく、呟く由貴だった。
あれから、光子を追いかけて駅へ向かったが、タッチの差で電車に乗り込まれてしまった。
泣きながら「あっかんべぇ」をして去っていく光子に苛立ちを覚え、どうせ家か冴子のところしか行くところはないだろう、と諦めてアパートへ戻った。
むしゃくしゃして寝付けないので、気を紛らそうと三コール以内で電話に出た女を呼ぶ事に決め、何人かに電話をし、先程の人妻をつまみ食い。
つまみ食いのつもりが、意味不明な理由でバッサリと切られてしまって、踏んだり蹴ったりの気分だった。
「面白くねーっ!!」
不貞寝を決め込むしかない由貴だった。
二.
光子は由貴の予想通り、冴子の事務所に来ていた。
扉一枚でお店と隔てられているだけの部屋なので、店内の様子がよく解る。事務所内のモニタには、あからさまにホステスのスカートのスリットに手を入れて撫で回す客の姿や、胸にいやらしい視線を向けてにやけている中年の姿が映し出されていた。
眉間に皺を寄せて、嫌悪の目でそれらから視線を逸らせると、光子は更に上階の居室へと向かった。
エレベーターの進行状況を見ていたらしい冴子が、険しい顔で光子を出迎えた。
「直接ここに来なさい、っていつも言ってるのに、何故下に立ち寄ったの。貴女は立入禁止の場所よ」
「……ゴメンナサイ……」
素直に謝罪する光子の落胆の表情を見て、冴子が表情を和らげた。
「ま、パパの言いつけがなければ、私個人としては別にいいと思うんだけどね」
と言いながら、光子の背中にそっと手をおき、奥へと促した。
「男の人って、どうして皆あんな風に鈍感で頭悪くてスケベなんだろ……幻滅……」
冴子の淹れてくれたブランデー入りの紅茶をすすりながら、光子はぶつぶつと愚痴り始めた。
「あら、そこが可愛いんじゃないの」
くすくすと笑いながら、冴子は光子の言葉をやんわりと否定した。
「庇護したくなる様な女には神聖さを、甘えたくなる女には母性を、なんて、夢見る夢男クンばかりよ、男なんて」
“女は子を産み落とす性だから、必ず子供であることを卒業出来ちゃうんだけれど、男には永遠に子供でいられる権利があるんじゃないかしら、羨ましい限りよね――”
そう言いながら、冴子はブランデーを飲み干した。
「貴女の王子様も、おんなじよ」
冴子が意味深な目で真っ直ぐ光子の目を見ながら、そう言った。
その探るような視線から、思わず光子は視線を逸らしてしまった。
「あは~、ビンゴ、やっぱユキちゃんと何かあったんだ?」
光子の深刻さなど大した事ではない、と言わんばかりに、カラカラと笑いながらからかう様に冴子が言った。
「冴子さん……そこ、笑うトコじゃない……」
と、光子は弱々しく冴子を責めた。
冴子はもう数滴光子の紅茶にブランデーを落としながら、まぁまぁ、と光子をなだめた。 飲み慣れないアルコールを摂取して、光子は既にほろ酔い気分になっていた。
「ずっと優しかったのに、最近すぐ、冴子さん所へ行け、って言うの。私、甘えすぎていたのかな、由貴の優しいのに付け込んで、我侭が過ぎちゃったのかな。すっごく、私に嫌われたがる様な事、わざと言ったのよ。だから、もう鬱陶しいんだ、って思って……だから、言われた通り、冴子さんとこに来たの」
幻滅させる様な言い方するくらいなら、はっきり言ってくれた方がいいのに、と、光子は酔いに任せて胸の内を吐き出すだけ吐き出して、声を上げて泣き始めた。――まるで、幼い子供の様に。
冴子は、黙って手の中でブランデーを回しながら、穏やかな眼差しでそんな光子を見つめていた。
泣き声が嗚咽に変わった頃、冴子は光子の隣に腰掛け、光子の頭を撫でながら、子守唄を歌う様にささやくような声で語りかけた。
「こーこちゃんは、王子様な由貴が大好きだったのかな……。由貴にとって、こーこちゃんは貴女自身が思うより、とってもこーこちゃんの事、怖がってるのよ。アイツってば、私から見たら可笑しいったら……。こーこちゃんの前でだけ、いいお兄さんぶって恰好つけて、聖人君子みたいな顔して、ねぇ? つい、意地悪したくなっちゃうのよね……」
由貴はね、ホントはとっても、寂しがり屋で怖がり屋。
あの子が十七歳の時に、パパと私が結婚しちゃったでしょ? あの頃あの子、自分の居場所がない、一人って思い込んじゃってね、私に負担を掛けたくないって気持ちと寂しい気持ちとごちゃ混ぜになっちゃったんだと思うの。一人暮らしを始めたはいいけど、女遊びが派手になっちゃってねぇ。
あの子、「汚ねぇ」ってのが口癖でしょ? 自虐的よね、自分の事、そう思ってるの。
貴女が思うより、由貴は脆いし弱いし子供なのよ。そして、貴女が思うより、由貴は貴女に嫌われるのが怖いのよ。
光子は、冴子の話を不思議な感覚で聞いていた。由貴の事を話しているとは思えなかった。自分の思い描いていた由貴と、冴子から見た由貴があまりにも違うから、酔いで朦朧としている頭で必死に理解しようと聞き入っていた。
「由貴が、どうして私を怖がるの?」
光子の質問に、本当に心から可笑しそうに、笑いを堪えながら冴子が答えた。
「だって、由貴はこーこちゃん、っていうお姫様の王子サマ願望があるんだもの。本人全く自覚ないけど」
と堪え切れない様に大爆笑した。
光子は冴子の突飛な発言に目を白黒させて驚いている。
「貴女の前では、理想の自分でいたかったんでしょ。素直に自分らしく晒してる方が断然楽なのに、自分が嫌いなもんだから、嫌われたくない相手には必死こいていい恰好しぃしてるのっ。昔っからあまりにも変わんないから、いつこーこちゃんにバラしてやろうか、って、七年も我慢してたのよ、私。はぁ~、スッキリしたわぁ~。ずっと一緒にいる事で、限界が来たんじゃないの? アイツ。もう猫の皮被っていられる自信なくなったんでしょ。
こーこちゃんを傷つける前に遠ざけたかったのかも知れないわね」
もう由貴の言う通りにした方がいいかもね、と冴子は言った。そして、実はあんな奴だと解って幻滅しちゃった? と問うて来た。
光子は、混乱していて答える事が出来なかった。
それよりも、自分が全く人の素顔が見れていない事に大きなショックを受けていた。
「わ……わかんない、私……。どうして私、こんなにいつも独りよがりで何にも、誰の事も解れない子供なの……」
冴子はぎょっとした。苛立ちを全面に現して、冴子からグラスを奪い取り光子がぐいっ、とブランデーを一気飲みしてしまったからだ。
「ちょ……っ、こーこちゃん……?」
ぷはーっ、と大きく息を吐いた光子の目が、据わっていた……。
「あちゃ……荒療治が過ぎたかしら」と冴子は内心猛省していた。
「ろ~して、わらしはっ! 加奈子ちゃんとか~、冴子さんみたいに~、人の気持ちを解れない、……おバカさんなの、って聞いてるのっ! ……悔しいっ!!」
怒りながら泣いている。
冴子は、光子を抱き寄せると、苦笑しながら答えた。
「それはね、パパがちょっとだけ、こーこちゃんを大事にし過ぎちゃったから、ちょっと人より純粋なだけなのよ。みーんな、今のこーこちゃんみたいな気持ちを経験して大人になっていくわ。パパだって、今のそのこーこちゃんの気持ちを解ってくれるわよ、貴女がとっても大切なんだから。私が貴女を籠の外へ自由に出られる様に、出来るだけの事するから、こーこちゃんは、こーこちゃんの生きたい道を見極めなさい、ね?」
腕を緩めて光子を見ると、もう寝息を立てて眠っていた。
冴子は、クスリ、と笑って独り言を呟いた。
「あの人の娘なんだから、もっと自分に自信持ちなさい、こーこちゃん」