05. 拓朗クンとの出会い
一.
夕方、たくさんの子供達がお母さんと手を繋ぎながら明かりの点る家に帰って行く。
その中を、買い物袋を提げた光子は急ぎ足でアパートに向かっていた。
近道をしようと公園を横切るつもりで園内に入ると、薄暗い中で、キィ、キィ、とブランコが揺れている。小さな男の子が、つまらなそうな顔をしてブランコに乗っていた。
「ボク、もう暗いよ。お家に帰らなくちゃ、危ないわよ。ママを待っているの?」
光子が、つい気になって声を掛けると、男の子は、驚いた顔をして光子を見た。しかし、すぐまた俯いて、ブランコをこぎ続けて言った。
「誰もお迎えになんか来ないよ。今日はママ、怒ってる日だから、お家に帰れないんだ」
光子は理解出来なかった。ママが怒っている事と、この子が家に帰れない事の関連性が想像付かなかったからだ。
「え? え? どして? ママ、怒ってるの? じゃあ、余計に早く帰らないと、心配してもっと怒られちゃうじゃない」
ああ、そうか。もしかしたら、遅くなった事を怒られるから帰るに帰れないのか、と思った光子は彼に提案した。
「そうだ! 私、一緒に行ってあげるっ。他所の人がいたら、きっとママもボクの事、そんなに怒ったりしないよ、ね?」
光子はそういうと、男の子の返事も聞かず、手をとって歩き出した。男の子は戸惑いながらも、光子が足を向けた方とは逆を指差して、申し訳無さそうにこう言った。
「お姉ちゃん……ボクん家、あっち……」
二.
男の子の名は、拓朗という。お母さんと二人暮しで、今年まで保育園に通っていたそうだ。お母さんはお仕事がなくなってしまって、拓朗も来年度から保育園に通えなくなってしまった。その事で、お母さんは毎日とても苛々して怒ってばかりいるのだと拓朗は光子に話した。
「ボク、ママの事、大好きなんだ。早く大人になって、ママの迷惑にならない様になりたいんだ」
そう語る拓朗の表情は、健気なくらいに母親への愛情で満ちた未来への希望の笑顔だった。
光子は、とても恥ずかしい気持ちを味わっていた。
「まだこんなに小さいのに、私よりもすごく将来の事を考えてシッカリしてて……」
何か、自分が出来る事はないかしら、と考えながら、拓朗の家路を共に歩く。
拓朗の住んでいる団地に着き、ドアホンを鳴らすと、やつれた女性が扉から顔を出した。
「誰?」
と仏頂面で問う女性に、拓朗が説明した。
「あのね、このお姉ちゃん、光子ちゃんって言うの。遅くまで公園にいたら危ないから送ってくれる、って、ボクを送ってくれたの」
それを聞くや否や、母親は拓朗に平手打ちをした。
「またアンタは人様に迷惑をかけたの?! ただでさえアンタのお陰でこっちが仕事にも就けない迷惑を被ってるっていうのに、他所様にまでこんなお世話を……っ!」
光子は驚いて、拓朗を背に庇い、彼女に向かって頼み込んだ。
「あの! 違うんです。私が、拓朗クンに助けてもらったんです。お話、聞いてもらえませんか?」
母親は、驚いた顔で光子を見つめ返した。
「お礼、させて下さい」
光子はそう続けて、買い物袋を目の前にかざして笑顔を見せた。
「あの……お礼と言いつつ……レシピ持って来るの忘れちゃって……教えてもらっていいですか?」
本当は、加奈子が置いて行ってくれたレシピを見ながら、すき焼きを作るつもりだった。場当たり的な行動をとっている今、そのレシピは手元に無い。
呆れた拓朗の母親は
「ったく今時の女子高生って本当に何にも出来ないのね」
と言いながらも、一緒にキッチンに立って下ごしらえをしてくれた。二人がキッチンに立っている間、拓朗は嬉しそうに配膳をしてくれていた。
「お母さんが呆れちゃうくらい、私、本当に世間知らずなんですよ」
光子は、語り始めた。
家出少女である事、親の心配も考えない甘ったれな自分の事、今の自分が嫌いで、自分探しをしている事、そして、まだ幼い拓朗を尊敬している気持ちを、正直に話した。
「私、拓朗クンに大事な事、教えてもらったんです。自分の事で精一杯で、親の気持ちや苦労なんて、全然考えてなくって。恥ずかしかったなぁ、拓朗クンのあの言葉聞いた時。すごく、お母さんに会いたくなったんです。きっと、拓朗クンをこんなステキな子に育てたお母さんは、絶対ステキなお母さんだ、って思ったから」
そう言って、にこりと母親に笑顔を向けた。
「思った通り、やっぱり優しいお母さんだったから、嬉しい」
母親は、「何言ってんの、馬鹿馬鹿しい」と視線を外した。
「私はアンタの言う様なご立派な母親じゃないわよ。今日だって、児童相談員に説教されたばかりだしね。まともに食事も出さないのは虐待なんだってさ。好きで出せないんじゃないよ、金がないんだって言っても働く気がない、って決め付けられるし、やってらんないわよ」
悔しさを発散するかの様に、大きな声で吐き捨てた。
光子はきょとんとした顔で反論した。
「え……虐待って……だって、お母さん、拓朗クンの食べ易い大きさに、当たり前みたいにカットしてるじゃないですか。愛情なければこんな事しませんよね?」
拓朗の母親は、光子の言葉に驚いた。今まで、自分自身でも気づいていない事だったから。
食卓を囲みながら、奇妙な関係の三人で「いただきます」と食事を摂った。拓朗は
「うひょ~、ひっさしぶりのご馳走だー!」
とおおはしゃぎで、光子と肉の奪い合いをしていた。
拓朗の母がそんな拓朗を眩しげな眼差しで見つめているのを、光子は見逃さなかった。
拓朗を寝かしつけた後、光子が「それじゃあ、本当に今日は有難うございました」と席を立とうとすると、「今日はありがとう」と拓朗の母親が呟いた。
「拓朗に、私、嫌われていると思ったの。あの子から父親を奪って、偉そうに一人で育てていく、なんて言って家を飛び出しておいて。なのに、ろくな生活させてやれない、駄目な母親だと自分でも自分が嫌になっていたわ。仕事は残業出来ない人は要らないって言われて首になるし、正直、拓朗が疎ましくさえ思っていたわ、この頃は。忘れてた、あの子を愛してるんだ、って事。目の前の生活で精一杯で。ありがとう」
言い終える頃には、拓朗の母は肩を震わせて俯いたまま、嗚咽を漏らして泣いていた。
光子は、そんな彼女を抱え込むように抱きしめて、しばらくそのまま彼女を抱き続けた。
「他所の誰がわからなくても、拓朗クンが解ってくれてる、それってすごく幸せですよね。拓朗クン、お母さんの頑張ってる姿、解ってるから早く大人になりたいんです。解ってくれる人がいる、って、すごく、お金に替えられない幸せなんですよね。拓朗クン、お母さんが自分のお母さんで、きっと、絶対、すごく幸せって感じてると思うんです。だから、お母さん、もう自分を責めないで、拓朗クンを大好きな自分を好きになってあげて下さいね」
光子の言葉を、拓朗の母親は小さく頷きながら、嗚咽を漏らして聞いていた。
三.
拓朗の家を後にして、光子は現状に気づいた。
「……由貴の晩御飯……どうしよう……」
財布を見ると、預かったお金の残金は数百円しかなかった。
冴子に助けを求めて電話をした。
「あら、こーこちゃん、もう音を上げちゃうの? 自分で考えて御覧なさいな」
とあっさりばっさり切り捨てられ、途方に暮れる光子だった。
取り敢えず駅で由貴の帰りを待つ事にした。“働かざる者食うべからず”という言葉が頭の中で渦巻いていて、どうも食事の用意も出来ていないのにあのアパートに帰るのは忍びなかった。
大学生位と思しき酔っ払いの集団が改札付近にやって来た。一人でぼーっと立って待っている光子を見つけると、その中の一人が
「あっれ~、ねぇねぇ、もしかして、待ちぼうけ?」
と声を掛けて来た。
酔った勢いの所為かかなり強引で、光子は今まで感じた事のない恐怖を覚え、今まで父親が門限を九時といって絶対に外に出さなかった理由を痛感した。
大声を出すのは恥ずかしい事と教えられて来たので、どうしても抵抗があって助けを呼べない。涙目で改札口を縋るように振り替えると、由貴がバッグから煙草を取り出しながら改札を通るところだった。
「あ! 来た! ほら、来た! だから、ほらお願いっ! もう離してっ」
由貴の姿を見た途端、恐怖心が和らいでいく……。彼らの手を振り切った後、もし追いつかれたら怒らせたら逃げ切れなかったらどうしよう、という恐怖が消えていた。
“由貴がいたら大丈夫”
そういう信頼感が、光子を行動に移させてくれた。
酔っ払い共の手を振り切って彼の方へ走り寄る。
「お帰りなさいっ!!」
光子は即座に由貴の後ろに逃げ込んだ。
「あ? 何でお前こんな夜中にこんなトコにいるんだよ」
と、状況がわかってない由貴は、煙草を咥えながら光子にゲンコツをお見舞いした。
「あだ……っ、違うの、今はその、そーいう場合じゃなくってね……」
と、酔っ払い達の方を指差すと、彼らはこちらに背を向けて立ち去るところだった。
「ちぇ、何だ、本当に男つきかよ」とか何とか言いながら立ち去る彼らを見て、今度は大体の状況を察した由貴の方が激昂した。
「この……っ馬鹿野郎!! 危なかったんなら“お帰り”の前に先に言えボケ!」
光子が拓朗と会った公園で、由貴はコンビニの握り飯を頬張りながら、光子の話を聞いた。
「生真面目っつーか不器用っつーか……ホント、馬鹿だよな、お前」
由貴はブランコを降りると、隣のブランコを元気なく揺らしながら腰掛けている光子の前に屈み込んだ。
「焦らなくてもいいじゃんか。晩飯作り損ねただけで、他の全部まで帳消しなのか? 俺としては予想以上に頑張ってると思うし、正直随分お前に助けられてると思ってるんだけどな。飲み込み早いじゃん? もう加奈子ちゃんのヘルプなしでやってるんだろ? そういう自分を、もっと誉めてやれよ。傍が何言っても、自分が認められなかったら意味ないんだからさ」
お前、拓朗クンとやらの母ちゃんには偉そうにそう言った割に、自分はてんでなってねぇな、と笑った。
「“叔父さん”は洗濯と掃除から解放されただけでも既に今日の分、楽させてもらってるんだぜ、姪っ子クンよ」
と肩に腕を回して頭をぐしゃぐしゃする由貴の腕の下で、光子は愛想笑いを浮かべた。
この人は、いつになったら私を一人前って認めてくれるのかな……。
四.
光子が入浴している間に、由貴は冴子に電話をかけた。
「お姉サマお願い、マジ今度こそもう限界、俺のキャパ越えてるって!」
と、今日の出来事を報告し、自宅へ光子を引き取るよう懇願した。
冴子は、そんな由貴の切迫感を無視する様にまた茶化す。
「さては今、こーこちゃんお風呂タイムね? 覗いちゃ駄目よ~。うふっ」
「てめぇ、いちいち茶化すんじゃねえよ! 仮にもお前が母親だろうが! 心配とかねぇのかよ! 危なかったんだぞ!! まだ子供だぞ光子は!」
冴子の笑い声が、消えた。
「……子供じゃないわよ。自分の十七歳の頃を考えなさい。それからね、こーこちゃんに言えない事をアタシに言うんじゃないの。狡いわよ。そんなに面倒見るのが“嫌”なら、本人に直接言いなさいよ」
受話器越しでも、姉の怒りが伝わるほどの冷たい声だった。
思わず由貴は怯んだが、辛うじてどうにか反論した。
「嫌……つーか……、でもさ……俺、アイツの泣く顔、何かかなり苦手みたいなんだよな……。何度かちゃんと直接言ったけど、言い通せねぇから冴子に頼んでんじゃねぇかよ……」
冴子はふん、と、鼻で笑って、由貴の頼みをあっさり却下した。
「なーにが今更“泣き顔は苦手”よ。どんだけ今まで女泣かせて来てるんだっつの。自分で考えなさい、イロイロ、ね」
と、言いたいだけ言って、由貴の反論を聞かないまま電話を一方的に切ってしまった。
「く……クソ姉貴ッ!」
思わず携帯電話を寝床にたたきつけた。
「ねぇ、由貴、人って、本当は、本当に一人では生きていけないものなのね」
寝床から、光子が隣でシュラフに包まって寝ている由貴に話しかけた。
「そうか? 俺は一人で生きてけるつもりだけど」という由貴に、光子が「ううん」と強く否定をした。
「私は考えた事もなかったんだけれど、例えばこのお布団ひとつとっても、たくさんの人や生き物に与えてもらって、こうして寒い夜も温かく眠らせてもらえるのよね。鳥さんの羽根や羊さんの毛皮、縫製してくれる人たち、売ってくれる人たち、労働力を引き取ってくれる人のお陰で、お金に換金してお布団を買える。何もかも由貴頼りの私が言うのはおこがましいんだけど、由貴だって、きっと一人で生きてる訳じゃないのよ」
由貴は、続きを促す様に黙って聞いていた。光子は、とりとめもなく思うままに、独白の様に次々と思いつくまま語り続ける。
「私、美容関係の仕事に就きたい、って、ただ由貴のいるお店を見て、ステキだな、恰好いいな、って思って、自分もそんな風にイメージどおりのものを形にしたい、って思ってただけだったのね。才能、とか、技術、とか、努力、とか、それだけじゃないんじゃないか、って、今日、ふと思ったの」
“由貴は、何を思いながら髪を切っているの?”という光子の問いに、考えるよりも言葉が先に出た。
「お客様の“ありがとう、気に入った”って笑った時に似合うヘアスタイルをイメージしながら、かな」
光子は由貴の方に向き直った。その大人びた微笑に、由貴は少しだけ驚いた。
「そうよね、やっぱり、そういう事よね。私、今日初めて拓朗クンや拓朗クンのお母さんに、心からありがとう、という気持ちのこもった言葉を貰って、とても嬉しかったの。逆に、今まで自分が何も誰にもして来れなかった事を感じたの。して欲しい事ばかり考えてたのね、由貴の言う通り、お姫サマだったのね。何か、自分が役に立てる事、出来る事、探してみようと思う」
巧く見つけられるかわかんないけど、由貴、また相談したら聞いてくれる? と少しおどおどとした様な目で、光子は由貴にそう尋ねた。
「……“叔父さん”で役に立つなら、幾らでも」
由貴はひとつくしゃみをしてから、変な顔をして答えた。寂しいような、嬉しいような変な顔をして。
光子はにっこり笑うと、ありがとう、と言って掛け布団をはだけた。
「それじゃ寒いでしょ。“叔父さん”に襲われるとか思ってないから、お布団で寝ようよ」
今はこんな事しか出来ないからごめんね、と言う光子は子供の様に他意のない笑顔だった。「アホか!」と赤面している由貴の方が、明らかに動揺していた。光子は、クスクスと笑いながら、シュラフごと、由貴を掛け布団で包み込んだ。
「上に乗っかるな! 重たいんだっつの!!」
ふと、冴子の結婚当初を思い出した。
まだ幼かった光子に付き添って、彼女の家で過ごした一週間。あの頃の光子はまだ小学生で、新婚旅行で父親がいない夜の寂しさを、由貴と過ごす事で紛らせていた。
そういえば、よくこうしてじゃれて来ては、はしゃぎ疲れて眠っていたな、と、懐かしい気持ちを思い出した。
光子はもう寝息を立てて眠っている。昔のひと頃の様に、シュラフから腕だけ出して、懐かしい想いと共に光子を抱きかかえて彼も眠った。