04. 加奈子ちゃんの生き様
一.
翌日、少々寝不足気味の由貴は、招かれざる客の来店で眠気が覚めた。
「は~い、ユキちゃん、今日こそカラーリング、宜しく~」
鬼姉・冴子だった。
「冴子ちゃん、ちょっと貴女からも言ってやってよ、今日、この子二回もお客様からクレーム来てるのよ」
と訴える店長に、あらあらと合いの手を打ちながら、由貴にコートと手荷物を手渡し、いつもの個室に入っていった。淡々と仕事をこなしながらも仏頂面で無言の弟に、冴子が楽しげに茶化した。
「ぷぷ……寝不足っぽそうねぇ。イケナイ事してないでしょうね?」
逆に由貴は益々不機嫌な顔をして、わざと乱暴に椅子を寝かせてタオルを顔面にかぶせた。
「てめぇは何を企んでるんだよ。継母でも親は親だろ。迎えに来いよ! 俺の子供じゃねぇんだぞ、光子は!」
ガッシガッシと、苛立ちを込めて洗髪をした。
「いったいわねぇ、なーにカリカリしてんのよ。いいじゃない、可愛い子と同じ屋根の下で過ごせるなんて。その辺の三十路近い女より初々しくて可愛いでしょ?」
由貴の苛立ちなど意に介さない様子で冴子が更に挑発した。
「……お姉サマ、ゴメンナサイ、ほんとにマジもう勘弁。俺に子育ては向いてない。今日も朝から晩飯の心配ばっかしてる自分が惨めで仕方ないのよ。頼む、解放してくれ……」
シャワーでシャンプーを流している間、冴子は無言のままだった。
洗髪が終わると、冴子は由貴に携帯電話を取る様指示して、どこへやら電話をかけていた。
電話を終えると、さわやかな笑顔で鏡に映る由貴を見ながら言った。
「晩御飯はもう心配ないわよ。お手伝いさんの娘さんに、ユキちゃん家に行く様伝えたから」
「はぁっ?!」
ひとしきり、由貴の狼狽っぷりに大爆笑した後、本題に入った。
「何もアタシはこーこちゃんの為だけにアンタにあの子を預けたんじゃないわよ。アンタもこーこちゃんから学ぶ事があるわ。今はまだわかんないでしょうけど。一緒に暮らしてみないとわかんないもんなのよね、こういうのって、特にアタシやアンタみたいなのはね。子守だと思わないで、自分の為に続けてみなさいよ。あぁ、それから、お手伝いさんの娘さん、加奈子ちゃんって言うの。こーこちゃんと同い年で、お母さんのお手伝いを良くする子でいい子なのよ。昼間のこーこちゃんの事は、あの子に任せてけば心配ないから、仕事に専念なさい」
話が終わる頃には、施術が終わっていた。
「ん~……確かに、今日のアンタはいまいちね。色、ちょっといつもより明るすぎよ」
憎まれ口を叩きつつも、機嫌よく支払いを済ませて店を後にして行った。
二.
「加奈子ちゃん!」
光子は訪問して来た加奈子に抱きついた。助かった……心の底からそう思った。光子には、加奈子が神様にさえ見えた。
昨夜、由貴に「自立宣言」した手前、まずはお世話になっている由貴の部屋の掃除と洗濯くらいはしたい、と取り掛かったのだが、たった一度、説明されながらのレクチャー後、すぐ一人で、というのは無理だった。
途方に暮れていたところへ、冴子からの電話で加奈子が来てくれると知り、今か今かと待ち構えていたのだった。
加奈子は、由貴と違いとても丁寧で解り易かった。また、全部自分でしてしまうのではなく、光子のペースに合わせて、光子自身が全て一人で段取りを追って行う事で、大方の家事炊事は頭に入れる事が出来、昼までに買い物まで終える事が出来た。
「光子ちゃんは、こういう場所って口に合うかなぁ」
と言って連れて行ってくれたのは、ハンバーガーショップだった。
二人でイートインでランチを摂った。
光子には、加奈子がとてもステキな女の子に見えた。何でも自分で物事が出来て、何気ない気配りも気遣いさせない言い回しも、何もかもが光子にはない女性らしさを感じて、とても羨ましく眩しく見えたのだ。
と同時に、自分がとても幼く取り柄のないつまらない女の子に見えて切なくなった。
「加奈子ちゃん……私、今まで自分がどんな子か、なんて、考えた事も人と比べた事もなかったの……」
今、自分が何も出来ないとてもつまらない人間で、とっても自分が嫌になっている、と感じているままを加奈子に愚痴った。
加奈子はハンバーガーをほお張るのを止めて、光子を優しい目で見つめて微笑んだ。
「私は、ずっと光子ちゃんが羨ましかったのよ。お母さんをずっと雇ってくれる、お金持ちの家に生まれて、お手伝いの娘でしかない、貧乏な家の私でも、分け隔てなく光子ちゃんのお友達でいさせてくれる優しいお父さんがいて、ピアノもバイオリンもお習字も英会話も出来て、頭もよくて、相談し易い気さくなお母さんも出来て、恰好いい叔父さんも出来て。光子ちゃん自身もね、私みたいなちんちくりんじゃなくて、綺麗なストレートの黒髪で、日本人形みたいな色白で、なのに性格も明るくて素直で曲がったところも卑屈なところもなくて、私にはないもの、何でもたっくさん持ってる、って、とっても羨ましかった。本当はね、時々、ずるいな、って思った事もあるわ。どうして光子ちゃんばかりこんなに何でも持ってるの、って、とっても卑屈になっていた時もあったのよ」
でもね、と、加奈子は続けて言う。
私は、加奈子なの。光子ちゃんじゃない。
自分の嫌なところばかり見ていても悲しいだけでしょ? だから、自分と人とを比べて嘆くより、自分の好きなところを見つけたり、自分が幸せ、って感じられるものに関心を寄せたりしようって思うようになったの。
何でだと思う?
「実はね……彼が、出来たの。彼が私を好き、って言ってくれるのに、私が私を嫌い、なんて、彼に言えないでしょ?」
加奈子は、顔を光子に近づけて、小さな声で照れ臭そうにそう告白した。
「お母さんにはナイショね」という一言を付け加えて。
光子は、とても驚いた。心友だと思っていた加奈子が、実はそんなにいろんな事を考えていたなんて全く気づかなかった。いつも穏やかでニコニコ話を聞いてくれていた、その裏側で、そんなにいろんな想いがあったのだ、と初めて知った。
そして、それを変わらずニコニコ笑顔で話せる加奈子を、とても大人だと感じた。
「加奈子ちゃん……私……恋しちゃいそうなくらい、ステキ……」
加奈子は一瞬目を丸くし、その後大爆笑した。
「やめてよ、もぉっ! 光子ちゃんに言われたら、余計恥ずかしいじゃないのっ!!」
二人は、大笑いしながら、これまで内緒にしていた互いの想いを語り合って、スッキリとした気分になった。
「光子ちゃん、これ、私が彼に教えてもらったおまじない、みたいなものなんだけどね」
帰り道、加奈子が光子に提案した。
幸せとか、ステキな事って、結構そんなにドラマティックなものじゃなくて、あちこちに極普通に転がっているものなのよ、と。
例えばほら、と、道端の花に視線を促す。
「普段、車で通っていたら、こんな春の訪れになんて気づかないでしょう? 見つけた途端、何だか“春だぁ~……”って、あったかい気分になって来ない?」
と、加奈子は本当に温かそうな顔をしてにっこり笑った。
「だから、落ち込んだり悲しい気持ちになったりくじけそうになった時、“幸せはいつも目の前にあるよ”って、自分に語り掛けるんだって」
気持ちを切り替えるおまじない、って、私は思ってるんだ。見つけようと思えば、たっくさん、あるのよ、幸せって。
加奈子は光子を見つめて、もう一度優しく微笑んだ。
アパートに戻り、二人で洗濯物を取り込んでたたむ。
「見てー、こーんなに白くなったーっ」
二人できゃっきゃとはしゃいで喜んだ。
掃除の時、押入れから大量に溢れ出た由貴の下着や季節外れの洗い忘れのシャツなどを、
「これ、絶対恥ずかしがって絶叫するよね、きっと」
と爆笑しながらたたんだり。
加奈子に、ビーフシチューの作り方を教わった。
コトコト煮込んだそれを、光子は加奈子と一緒に食べようと思ったのだが、それは由貴さんと食べてね、と帰って行った。
「光子ちゃん、頑張らなくっちゃ、って思うより、由貴さんの笑顔を想像しながらだと、何でも遊び感覚で楽しかったでしょ」
と微笑む加奈子の表情は、とても大人びていて綺麗だ、と光子は思った。
好きな人が喜ぶ事で、自分も嬉しい。そういう意識を初めて感じた。
してもらうばかりで、ただ一緒にいて楽しい時間を過ごす事ばかりで、今までそういう生活観を持った事が無かった光子には、とても新鮮でウキウキした高揚感のある感覚だった。
「おぉ?! すごいじゃん。お前一人で作ったの?」
由貴の驚いた顔が、嬉しい。
「美味い」とおかわりをしてくれるのが嬉しい。
「げぇっ! 洗濯されてる!」と真っ赤な顔をしてうろたえながら、慌てて洗濯物を取り込んでいる姿を見て、笑いがこぼれる幸せ。
二人で笑い転げる時間が、何をするでもなく、普通に会話してる時間がとても幸せ。自分が何か出来る様になる、という幸せ。
光子は、加奈子にとても大切な事を教えてもらった気がした。
“明日の私は、彼に何が出来るだろう”
そう考えるだけで、明日が楽しみで眠るのが惜しいほどだった。
楽しい明日を夢見て眠る光子の寝顔を確認すると、由貴は「お疲れさん」と微笑んで、照明を消した。