02. お姫様と不良少年
一.
光子は、やっとの思いで由貴のアパートに辿り着けたものの、途方に暮れていた。
思い返せば生まれてこの方、光子ほどの年頃の子が一般的に出来そうな家庭炊事をした事が、彼女には殆どない。自分の誕生と引き換えに母親が亡くなって以来、父はまるで外界から隔離する様に光子を溺愛した。住み込みの家政婦を雇い、ベビーシッター兼任で常にその人に何くれとなく世話をさせた。
メモを片手に迷子を繰り返した挙句ようやっと由貴のアパートについたのに、お茶のひとつも自分で入れられない状況に落ち込んでいた。そうだ、夕飯もまだ食べていなかった、と空腹まで思い出す。
「……もう……いやっ! 部屋は狭いし汚いし! お腹は空くし冷蔵庫にはお酒しかないし由貴はちっとも帰って来ないし! 私って、今すんごく可哀想くない??」
と光子は一人ごちた。
二.
ようやく最後の客を送り出し、閉店準備に取り掛かる。時計は午後の十時半を当に回っていた。
「やべぇ……絶対家のお姫様、ヒスってるに違いない……」
光子のお嬢様っぷりを認識している由貴は、疲労困憊で帰宅した上にまたあの泣き顔で責められるのかと思うと気が遠くなった。
「うぉーしっ! 明日は休みじゃー! 飲みに行くべ!」
という仲間達に
「悪ぃっ! 姪っ子の子守だ、今日はパス」
と断りを入れながら、自分の荷物を抱えバイクにまたがった。
「何か……今キャラ、変わってませんでした? 三波クン……」
呆然とする仲間達を尻目に、頭から汗マークを噴出させながら猛スピードで走り去った。
「ただいまっす……悪ぃ、遅くなった」
小声でそう声を掛けながら、そうっと玄関を開けると、室内は真っ暗で人の気配もない。一瞬いなくなったのかと焦ったが、照明をつけて、安堵した。
光子は、脱ぎ散らかされた由貴の衣類を掻き分け布団に入って眠っていた。目尻には、涙の跡が残っている。
「……お腹……ぐぅ……」
という光子の寝言を聞いて、由貴は思わず噴き出した。
「……ったく、お姫サマだよなぁ……」
そう呟くと、冷蔵庫からビールを取り出し、買って来た弁当を食べ始めた。
“俺がこの年の頃と、雲泥の差だよなぁ”と、振り返って子供の様なあどけない寝顔を見つめた。
三.
由貴と冴子に父親はいない。また、冴子と由貴は異父姉弟だった。
母親が自分たちを置いて新しい男と逃げた時は、親戚中に身柄を押し付け合いされ、幼いながらも既に母親譲りの美貌で色気を漂わせていた冴子が機転を利かせて、由貴の親族筋と一緒に暮らした。
そこまでは、「心優しい弟を守る美しい姉」という話なのだが、その後を思い出すと、眩暈がする。
元々色仕掛けで義理の叔父をたらしこんだので、冴子は身の危険を感じると、爆睡している由貴に自分の寝巻きを着せて、自分は押入れに隠れてしまう。由貴は、いつも寝込みを襲われては勘違いされた挙句に殴られる毎日を送っていた。
当然ながら、そう長い事親族筋に居候する訳にも行かず、二人は由貴の親戚筋を転々とする毎日だった。
冴子の義務教育終了後、冴子は年齢を偽って水商売に入り込んだ。
住み込みのホステスに就き、給料は割安で構わないから弟と一緒に住まわせて欲しい、と、これまたオーナーを色仕掛けで落とす。
由貴は、そんな姉に恩義を感じつつも嫌悪していた。彼の「汚ねぇ」発言はそこから生じている。
しかし、嫌悪の根底にあるのは姉のお荷物になっている自分の存在だった。姉の稼ぎで高校には通えた。だが、反抗期も相まって、素直に感謝も出来ず、自己否定ばかりの荒れた毎日で、今の光子の年齢の頃には喧嘩で警察の世話になる事が多かった。
そんな彼を更生させたのが、冴子の上客、光子の父だった。
光子の父は、冴子に惚れ込んでいる。妻亡き後の老いらくの恋で、冴子が望めば何でも聞き届けてくれた。由貴の件も、同様に冴子の口添えで進学の援助を申し出たのだが、由貴はその申し出に反発した。
「やり方が汚ねぇんだよ、俺が世話になる事で冴子の自由が犠牲になるなんざもう沢山だ」
光子の父は、そんな由貴を殴り倒した。
「デカい口は、一人前になってから利け」
と。冴子を自由にしたければ、お前が一人前になって冴子から自立しろ、と。
「悔しかったら、このわしを見返してみろ。本気で冴子から独立したいと思うのなら、何を利用してでも遂行する位の覚悟を決めるのが一人前の男じゃあないのか?」
そして、最後に吐き捨てた。
「お前への援助の見返りにと言ったところで、心が手に入る様な安っぽい女と冴子を見くびっとるのか、お前は」
冴子以外に、自分に手を差し伸べてくれる存在を初めて感じた瞬間だった。冴子を色欲でなく見る男がこの世に存在していると初めて知った瞬間でもあった。
本人に自覚はないものの、光子の父は、由貴にとって初めて男として尊敬する存在だった。不器用なまでに誠実で、冴子に一切の情欲を押し付ける事をしなかった。
それが冴子にも通じ、結局結婚と相成ったが、そこで一度は揉めた冴子の仕事の継続問題も、冴子の納得の上で店に立つ事を控え、オーナーとして経営する事を主体とする条件つきで合意して現在に至る。
由貴にとって、大きな存在である人間が、光子の父なのだった。現在の状況は、そんな男に恩を仇で返すに等しい行為だ、と思うとかなり気が滅入る状況であった。
大体、あの親父様とは思えないくらい、光子への溺愛ぶりは半端じゃない、と心の中で毒づく。
冴子と巡り会うまで、光子は唯一無二の愛情を注ぐ対象で、妻の忘れ形見だった。箱入り娘として可愛がって来た長い時間を考えると、飛び立とうとする娘の成長に複雑な想いを抱くのも無理からぬ話ではあるが、由貴の様な若造に、その親心が解る筈もなかった。
また、彼自身でも解らぬ混沌とした思いが胸の内に渦巻く。
「俺には冴子に甘えるな、とか言っといて、自分は娘に激甘、って、矛盾してるじゃねぇか」
腹立たしさのあまり、思わず声に出てしまった。
その声に反応してか、それとも弁当の匂いに誘われてか、光子が「ん……?」と目を覚ました。
「あ……悪ぃ、起こしたか?」
と弁当をほお張りながら謝る由貴を見て、光子は半分寝ぼけた顔で、起き上がった。ずりずりと、由貴の正面に這い向かい、不思議そうに弁当を覗き込んだ。光子は、皿に盛られた食事以外を見た事が無い。
「飯、お前の分も買って来てるぞ。食うか? それとも、もう一回寝る?」
んー……寝る、と言い終わらない内に、弁当の上に突っ伏しそうになる。慌てて弁当を両手で頭上に持ち上げて光子の頭を避けると、光子の頭がこてん、と由貴の懐に飛び込んで来た。……もう寝息を立てていた。
あまりの無防備さに、由貴の方が苦笑してしまう。
「叔父さん、これでも一応お年頃のオトコなんですけどね。もそっと警戒してくれませんかねぇ」
ひとつ大きな溜息を吐いて弁当をテーブルに置くと、光子を抱きかかえて寝床に横たわらせた。
「純粋培養も考えもんだよな」
こうして、騒々しい一日がようやく終わった。