オルテンシアの花嫁【短編版】
わたしの名前はルフィナス・ラナ・レイス=ラクリエマ。悪魔族の中で侯爵位を賜るラクリエマ家の長女です。
悪魔、と言っても、人間と仲が悪いわけではありません。但し、和平の証として婚姻を結びます。
そしてわたしは、ハルクスブルグ王国の王太子殿下──ジークフリート様の元へ嫁ぎました。
……裏切り者を排除するために。
***
「──ルナ様」
その声に、わたしは我に返りました。
すると長年付き従ってくれている侍女のレベッカが心配そうに顔を覗き込んでいます。
「体調が優れませんか? それとも……旦那様のことをお考えになられていらっしゃったのですか?」
その言葉に、胸がチクリと痛みます。しかし出来る限り明るく見せようと笑いました。
「お父様が疑いをかけられているのはとても心苦しいけれど……大丈夫よ。お母様もきっと無事よ」
わたしの父と母は三ヶ月前、突如として行方を眩ませました。
そしてその時期はちょうど、反魔王派の勢力が魔界を襲ってきた時期なのです。
当然、父と母は内通者ではないかと疑われました。その娘であるわたしも疑惑の目を向けられました。
反魔王派の勢力、というのは、魔界を統べる四名の魔王様方に反発する勢力のことです。大多数が悪魔族なのは、悪魔族の知性が酷く高いことにある、といっておりました。
勿論わたしは弁解しましたが、そのタイミングの悪さに誰もが陰口を叩きました。わたしの無実を訴えてくれたのは、父が長年側仕えとして仕えたシュタットフェルト公爵閣下と公爵のご息女でありわたしの親友のマリアージュ様だけ。貴族階級、というのはどこの世界でも同じで、落ちるのは一瞬です。
そんなわたしに届いた唯一の釈明方法こそ──人間との婚姻でした。
しかし用は、ていの良い追い出しです。
その時ちょうど魔族を欲しがっていた王族がいましたから、魔界側からしてみても都合が良かったのでしょう。わたしは必要最低限の荷物を持って、人間の元へ嫁ぐことになったのです。
ジークフリート様。
胸の中でぽつりと呟いてみましたが、未だに自覚はありません。何せ顔すら見たことのないのですから困ったことです。
ハルクスバルグの王宮で生活をすること三日間。まるで何もなく平和な日々が続いていました。
あまりにも手持ち無沙汰だったので、わたしは部屋の中から気になっていた庭園に足を運ぶことにしました。
「ルナ様。日傘は忘れずお差しください」
「はい」
「人が来たら適当に挨拶を述べて直ぐに戻ってらしてください」
「はい」
「昼食にまでは必ず帰ってきてくださいね?」
「……ねぇ、レベッカ? わたしはもう子供ではないのよ?」
レベッカの過保護に思わず苦笑してしまいます。しかしレベッカは妙に真剣な顔をして言いました。
「人間なんてろくでなしが多いのですから、気だけは抜かないでくださいまし」
その認識に、わたしは少しだけ悲しくなりました。
人間も魔族も、同じ生き物の筈なのに。
片腕にお菓子と本の入ったカゴをかけ、わたしは庭園の散策を始めました。季節はちょうど初夏で、夜に浴びた雨粒が光に反射して、花々を飾る宝石のように綺麗です。
しかしわたしの目にどれよりも綺麗に映ったのは、零れそうな膨らみを幾重にも広げ咲き誇る、薔薇の花でした。
「…………」
思わず、ほぅ、と溜息が零れてしまいます。
赤、ピンク、白……様々な薔薇の花が絡まり、しかし調和を乱すことなく凛と咲いていました。
薔薇の芳醇な香りが鼻腔をくすぐります。
その中でも一際異色を放っていたのは──葡萄酒を思い起こす深い紅の薔薇でした。
そぅ、と花を両の手で包み、顔を寄せてみます。
「……良い香り」
深い紅色は光を浴びて黒のような赤のような深みを見せ、とても綺麗です。
この薔薇を見て当たり前のように思い出したのは、わたしの大好きな憧れの方の姿でした。
「……お手紙くらい、したいんですが……」
優しいあの方のことですから、今の状況を聞けば我が身に起こった出来事のように起こってくださる筈でしょう。
……ですがわたしは別に、あの方に縋りたいわけではないのです。
それでも会いたいと思ってしまうのは、わたしがまだ未熟だからでしょうか。
思わず溜息を吐いた、その時でした。
「──どなたですか?」
低い、でも良く通る、男性の方の声。
その声に、思わず身を固めてしまいます。男性と言うのは何故か苦手で、いつも身構えてしまいます。
しかしわたしも貴族。礼儀作法はしっかりと身に付けています。
振り返り、わたしはスカートの裾を持ち上げて作法通りの礼をしました。
「御機嫌よう。わたしは先日、王宮に入らせて頂いたラクリエマ侯爵家のルフィナス・ラナ・レイス=ラクリエマ、と申します」
相手方が、息を呑む音が聞こえました。
どうしたのでしょう?
思わず小首を傾げてしまいます。
すると相手方が声をかけてきました。
「失礼致しました。どうぞ顔を上げてください」
「……ありがとうございます」
肩に力が入ってしまいます。
力みながらも顔を上げた瞬間、思わず息をするのを忘れてしまいました。
「…………きれい」
柔和な空色の瞳。風にそよぐ金色の髪。服はシャツにスボン、ブーツ、そして腰に吊り下げた剣、と軽装ですが、男性はとても見目美しい方でした。
空色の瞳。その眼が、憧れのあの方の視線と重なった気がしました。
悪い方ではない。少なくとも、変なことをする方ではない。
そう悟った瞬間、男性が首を傾げました。
「……綺麗?」
その時、わたしは自分がとんでもない醜態を晒していたことに気付きました。
も、もしかしてわたし、声に出してしまっていた……!?
慌てふためきますが、嘘など言えるたちはしていません。なので必然的に、正直に本心を述べるしか出来ませんでした。
「そ、その……失礼かと思いますが、その、……貴方様は、お綺麗な瞳をしていらっしゃるな、と」
恥ずかし過ぎて顔から火が吹き上がりそうです。
ああ、ほんとに、なんでわたし、口に出してしまったの……!!
羞恥心で思わず顔をカゴで隠した時でした。
「──ふ、」
男性が、おかしそうに笑みを零すのが見えたのです。
その笑みの破壊力と言ったら! 並の女性ならきっと卒倒してしまうような笑みでした。
わ、わたしはあの方の笑みで慣れていますからまだしも、し、心臓に悪い方ですね……!!
あまりにも笑うものですから、わたしの羞恥心は最高潮です。恥ずかし過ぎて穴があったら埋まりたいです、寧ろ穴を掘って埋まります、ええ!
「も、もう、やめてください……! 笑わないでください……! 自分でも変なことを口走ったのは分かっていますから!」
「ふふふ、すみません。……申し遅れました。僕のことはどうぞ、ジーク、と呼んでください」
「……ジーク様、ですね、分かりました」
少しだけ不満もありましたが、ジーク様は素直に謝ってくれたので不問します。
ひとしきり笑った後、ジーク様は首を傾けました。
「ところで、ルフィナス様はどうしてこちらに?」
「あ、はい。部屋から見えたお庭があまりにも綺麗でしたので、散策でもしたいな、と。……こちらは、入ってはいけない場所だったのでしょうか?」
人間界でのマナーやモラルについては赤子同然のようなわたしは勿論、立ち入ってはいけない場所などの分別もついていません。
そのため顔から血の気が引いてゆく思いでした。ここから放り出されたらわたしは、行く宛などまるでない、ただの能無しです。
そんなわたしの表情に気付いたのか、ジーク様は安心させるように微笑んでくださいました。
「いえ、違います。ですがここは奥まっているので立ち入る者が少ないのです。なので珍しいな、と」
「……こちらはもしかして、ジーク様のお気に入りの場所なのですか?」
そう問えば、ジーク様は少し悩んだ仕草を見せてから頷きます。
「はい。僕以外の者はあまりここには立ち寄りませんから。それにここは綺麗でしょう?」
「はい、とても綺麗で、見惚れてしまいました……」
ジーク様はお優しい方でした。余所者のわたしを邪険に扱うことなく笑いかけてくださいます。
そこでわたしは思いきって、ジーク様に提案をしてみました。
「ジーク様。宜しければ一緒にお茶を致しませんか? わたし、お菓子を作るのが得意なのです」
そう言い、お茶のセットが入ったカゴを掲げます。するとジーク様は少し躊躇ったような顔をした後、頷いてくださいました。
「僕で良ければ喜んで」
その日を境に、わたしとジーク様はここでお茶を楽しむようになりました。
優しいジーク様と会話が出来て、城の外の話を聞いて、少しだけ人間というものがどういうものなのか分かった気がします。
──だからわたしは知らなかったのです。これから起こることの、その可能性さえ。
「……ラクリエマ家の御令嬢を拉致監禁?」
「初めまして。……ジークフリート、と申します」
「いま、の……な、に?」
「所詮、悪魔と人間は相入れねぇ。そうだろ? なぁ、ラクリエマぁ?」
「それでもわたしは──」
──ありがとう、大好きです。