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 しおりの家を出てからは、住むところも仕事も転々とした。

 最初に転がりこんだのはコマの家である。来い、という言葉に甘えた。

 とりあえず仕事をしなければとフラフラ探し、そのときちょうどアルバイトを募集していた近所の美容院で働くことになった。免許を持っていないから、もちろんカットなんかはできない。受付、電話応対、チラシ配り、レジ打ち、あとはシャンプーと時間つなぎのマッサージ。やってみるとなかなかおもしろく、会社づとめよりは自分にあっているような気がした。客の大半が若い女の子で、話すことと言えば仕事や彼氏の愚痴なのだが、そういうのを聞くのが楽しかった。ひとと話している間は、いろんなことを忘れていられた。

「クーラー直さねーの?」

 風呂上り、扇風機の前で、克大は先住者である友人に言った。

 もう夏の盛りだというのに、コマの部屋のクーラーは壊れてぴくりとも動かなかったのだ。

 ワンルームの古くて狭い家は夜でも蒸し暑く、プライバシーなど当然存在していなかった。部屋の中だけの話ではなく、外の廊下に面したドアをいつも開け放していたため、隣家との境目すら曖昧だった。

「金がねーよ。自分でやってみよかな」

「やめとけよ、素人は分解しちゃ駄目なんだぜー、電化製品」

「ある日突然直らねーかなー」

 シャワーですっきり流したそばから汗が噴き出る。風呂から出たばかりのコマは、髪をぐしゃぐしゃぬぐいながら克大を押しのけた。

「あっちぃー」

 ごろん、と剥き出しの床に転がると、傷だらけのそこはほんの少しひんやりしている。玄関の方、キッチンの側が一番涼しい。冷たい板に頬を押しつけて目をつむる。こういうとき、頭に浮かぶのはいつも直哉のことだった。

 もう一か月近く経とうとしているのに、少しも薄くならない。

「おまえまた別れた女のこと考えてるな」

 じっと動かずにいると、後ろでコマが言った。正確には違うのだけれど、克大は答えない。

 あの家にいた最後の夜、直哉はひどく辛そうに泣いた。

 ----好きだよ、でも、家族にはなりたくなかったんだ。

 その言葉に、彼の苦痛のすべてが閉じ込められていた。

 うなだれたうなじの細さが痛々しく、克大はどうにもできずにただすべらかな肌を手のひらで撫でた。

「だからさ、子どものせいで別れるなんてバカらしいっておれが言っただろうが」

 カシ、カシ、とライターの石を擦る音が聞こえる。

「子どものせいじゃないんだって……」

 頬を床につけたままもごもご言った。

「子どもが嫌がるから別れたんだろ? 子どものせいじゃねーか」

「うーん……」

 そうじゃなくてさあ、とうめく。眉が寄った。

「おれ、あいつのことすごいかわいくってさー。彼女のことよりナオが大事だと思っちゃったから駄目になったんだと思う……」

「大事?」

「もうしんどい思いさせたくなくて別れたんだけど、泣いてたなあ、最後」

 克大はため息をつき、コマは沈黙した。いつまでたっても何も言わないのを不思議に思って寝返りを打ったら、彼は固まって口元をひくつかせていた。

「おまえ……年増好きだと思ってたら、そういう気もあったのか」

「そういう気?」

「それは世間的に問題あるぞ。熟女はいいけど少年はやめとけ」

 克大はぽかんと口を開けた。

「なんていうんだっけ? ロリコンとは違うんだろ。少年愛ってやつ?」

 想定外の言葉に目をみはった。まさかそうくるとは。

「バカ、んなわけあるか」

「だって父性愛にしちゃいきすぎてるだろ。うん、いきすぎてるな。だいたい自分の子でもないのにそんなにかわいく思えるもんか?」

 普段なら笑って流すところだが、克大はめずらしく真剣にへこんだ。

 胸のあたりがもやもやする。直哉のことをそういう目で見ること自体、考えられないと思う。しかしその反面、彼に対する複雑な気持ちに自分でも名前をつけられないでいる。だからやもやしてしまうのだ。

「そういうんじゃないんだって、マジで」

 我ながら声が重たい。かなりのダメージを受けている。

「違うっつーなら、さっさと忘れて誰かに自分の子ども産んでもらえよ。そしたら忘れるだろ、しょせん他人の子なんだから」

 自分の子ども、と胸のうちで繰り返した。

 なんだかしっくりこない。自分の子どもが欲しいなんて思ったことは一度もなかったし、今も思わない。それとはまた別なのだ。

(ナオだからかわいかった)

 考え、子どもじみていると自分で呆れた。まるで、お気に入りのぬいぐるみを抱きしめてこれじゃなきゃ嫌だ捨てたくないと駄々を捏ねているみたいじゃないか。これを言ったらコマはますます邪推するに違いない。

 克大は答えず、ごろごろと部屋の真ん中まで転がって煙草を吸った。

「なにうだうだしてんだよ。なんかおれの言ってることおかしいか?」

「いやー……、正しいよな、うん。どの道もう会うこともないんだし……」

 口に出したらせつなくなった。直哉にはもう一生会えない。誰に確認しなくても、それは決まりきったことだった。

「……写真くらい、もらってくればよかったかなあ……」

 ふうっと煙を吐きながら言ったら、コマはくるっとこちらを振り向いた。

「あるよ」

「え?」

「そういや、預かったままだった。一枚借りただろ」

「ああ……」

 コマは部屋の隅に放置してある雑誌の山をごそごそさぐった。

「おー、あったあった。悪い、ちょっと端が折れた」

 差し出された写真を目の前にかざし、そこに写る直哉を見た。

 そして、こりゃあ駄目だと思う。写真なんかあったらますます駄目だ。辛い気持ちが煽られる。

 ふと瞼の裏に浮かぶのは、別れる夜、うなだれて泣いた直哉の姿。

 しおりとの生活の記憶が薄くなっても、彼のことだけがいつまでも忘れられない。

 どうしてだろう。

 ふ、と考えかけ、眉間を寄せた。煙が目にしみただけでなく。

(いやいやいやいや)

 変な方向へ思考が流されそうになっている。

 それは違う。違うというより、あってはならない。

 胸の中で打ち消し、克大は言った。

「おれは女の子が好きだ」

「なんだよいきなり」

 コマは弾かれたように笑った。

「でも、そうなんだ、うん」

 ひとりごち、もやもやするものを全部振り払う。

 今でも直哉が気になるのは、やはり自分の子どものように思っていたからなのだ。

 一刻も早く彼女を作ろう。それがいい。

 そうしたらきっと、何もかもきれいに忘れてしまうだろう。



***



 コマのところには、三か月もいなかった。

 あのあとすぐに恋人ができ、克大は適当な住まいを見つけて移り住んだのだ。しかし、彼女とそこで暮らしたのは半年と少し。それでもまだ持った方で、次は二か月で破局を迎えた。短い周期で別れてはつきあう、それを繰り返していた。誰かがいないと駄目だった。

 何人も彼女がかわったけれど、結婚したいと思ったことは一度もない。自分の子どもがほしいとか、家庭を持ちたいとか、そういうことも考えなかった。

 そのくせ、女の子に親切にすることは忘れないのだ。そうしていなければいけないような気がしていた。もともと女の子は好きな方だったが、離婚して二年くらいの間は、そういう気持ちにガチガチにとらわれていた。

 久しぶりに姉から電話がかかってきたのは、ちょうどその頃である。

 夫と共にアメリカへ渡っていた姉が離婚し、日本に帰ってきて再婚したことは知っていたが、まだ直接連絡を取っていなかった。

「久しぶり、元気にしてる?」

 何年かぶりに聞いた姉の声は、若い頃とあまり変わっていなかった。確かもう四十は過ぎているはずなのだけれど。

「元気だよ。姉さんは?」

「わたしもなんとか落ちついたわ」

「旦那さんとうまくいってんの?」

「まあね。前よりはずいぶんしあわせかな」

「そう。よかったじゃん。秋人あきとは? どうしてんの? 一緒に帰ってきたんだろ?」

 姉はそこでほんの少し沈黙した。

「バタバタしててあの子も大変だったんだけど、春からそっちの大学に行くことになったのよ。それで、克大にちょっとお願いがあるんだけど」

「うん?」

「あの子ね、今そっちのマンションでひとり暮らししてるの。受験の少し前から……。きちんと生活できてるって本人は言うんだけど、ひとりじゃなにもできない子だから心配なのよ。わたしが行くって言っても来ないでいいって言うし。悪いんだけど、あなたちょっとどうしているか見てやってくれない?」

「マンションで一人暮らしって……」

「主人の持ち物なの。仕事用の部屋だったんだけど、もう使わないからって、秋人に」

「ああ、そっか。いいよ、どのへん? 秋人の携帯も教えといて」

「ありがとう、助かるわ。あの子にもよく言っておくから」

 マンションの住所と電話番号を聞きながら、それでは意味がないなと思ったが、言わずにおいた。姉が心配しているのは息子の健康状態であり、素行ではないのだ。信用しきっている。克大の方でも、秋人が母親に知られて困るようなことをしているとは思わなかった。

 実際、仕事終わりに教えられたマンションに赴くと、秋人はちゃんとそこにいた。久しぶりに会った彼はずいぶんと変わっており、そちらの方に克大は驚いた。芋虫が蝶、とでも言うのだろうか。

 まるっと太っている頃からかわいくはあったのだが、脂肪が落ちて初めて自分の甥がかなりの美形であることを知った。黙っていても女の子が寄ってくるような。

「久しぶりです、克大叔父さん」

 ニコッと笑った顔はしかし、本心が見えないという点で昔とあまり変わらなかった。相変わらず礼儀正しくて、品がよくて、穏やかでにこやか。

 だけど、子どもの頃とは明確に変わった部分があった。あの頃曖昧でよく見えなかった、彼の中の影の部分が、今はくっきりと浮き出ている。両親の離婚がこたえたのだろうか。

(それとも、再婚の方かな……)

 自分の過去と重ね合わせ、ほんのわずか苦い気持ちになったが、克大はそれを押し隠した。

「久しぶり。ずいぶん変わったな」

「よく言われます。どうぞ」

 入ってみてまず思ったのは、フローリングがくすんでいる、ということだ。リビングに通され、ソファに腰かけて、ふと目がいったのはテーブルの側にあるマガジンラック。

「姉さんから、おれが行くって連絡あったか?」

 何か出してくるつもりなのか、秋人は台所に入っていきながら「はい」と答えた。

「そっか」

 それで、慌てて戻ってきたってわけか。

 大学生がひとりで住むには広すぎる部屋を眺め回し、克大は思った。

 よくよく検分するまでもなく、普段人間が生活している部屋でないことは明らかだ。電気スタンドやテレビ、リモコンにとどまらず、部屋のどこもかしこも埃っぽい。そのくせ整えられすぎている。そして、マガジンラックに突っ込まれた新聞の日付は一か月以上前のもの。雑誌にも埃が積もっている。

 顔色を見ると健康に問題はなさそうだ。これは、素行の方を心配した方がいいだろう。

 克大は出されたコーヒーに口をつけた。インスタントだというのに泥のようにまずい。一口で遠慮し、まずそうに飲む秋人の分も奪って淹れ直した。

「叔父さん、上手ですね、コーヒー淹れるの」

「これが普通だ。豆から挽いたわけじゃあるまいし」

 ふ、とため息を漏らす。料理をしている痕跡どころか、台所にはフライ返しひとつ見当たらなかった。

「秋人、おまえ、ここに住んでないだろ」

 単刀直入に言うと、秋人は一瞬驚いたように目をみはり、すぐにニコッと微笑んだ。

「わかりました?」

 多少は慌てるかと思ったのに、彼は少しも動揺していない。開き直ったというのとも違う。

「住んでないんです」

 しれっとしてコーヒーに口をつけた彼の、カップを運ぶ手の動き方がやわらかだ。

「なんで。せっかくこんないいマンション借りてもらって」

 その問いに秋人は沈黙した。

 答えは得られそうにないなと察して、克大は質問を変えた。

「じゃあどこに住んでんだ? 友だちのとこにでもいんのか」

「友だち……」

 カップを離し、秋人はつぶやく。

 視線が床に注がれ、動かない。笑みが薄れ、その下に隠れている冷たい表情がかすかに浮かび上がった。剣呑な雰囲気だ。なにか危うい。得体の知れない暗いものが彼の中に巣食っている。

 克大は眉をひそめた。どうした、と訊ねようとしたが、それより先に秋人はぱちっとまばたきして上向いた。そこには元通りの微笑みが浮かべられている。さっきのは勘違いか、と首を傾げたくなった。

「友だちはいません」

「ああ、そっかまだ学校はじまってないんだったな」

 くす、と彼は吐息を漏らすように笑った。どうして笑ったのかは知らない。

「……女のひとのところにいるんです。母には内緒にしてもらえませんか」 

 だいたい想像していたことではあったが、正直に告げられると少し困った。

 この年の男なら彼女と一緒に住んでいたってそうおかしいことはない。だけど姉はそれを知ったらひっくり返ってしまうだろう。かと言って克大は秋人に説教できるような生き方をしておらず、姉に黙っていることもできそうにないのだった。

「内緒っつってもなあ……」

「叔父さんだってお祖母ちゃんに言えないようなことがひとつくらいあるでしょう」

 それを言われるときつい。ひとつではすまない。それに、実はしおりと離婚したことをまだ実家に知らせていなかったのだ。滅多に連絡を取らないし、バレるまでは黙っていようと決めていた。

「うーん」

 答えに困ってくしゃくしゃと髪を掻き乱した。

 わかってしまった以上、姉に言わないでいていいものかどうか。年が離れている分、秋人の母親には子どもの頃ずいぶんかわいがられたし世話になっている。心労をかけたくないと思うし、つつがなくしあわせでいてほしい。

(ん? じゃあ、むしろ言わない方がいいのか?)

 息子が元気かどうかということだけを気にしている姉に、わざわざ素行のことまで告げ口する必要はないのかもしれない。

「別に悪いことしてるわけじゃないしなー」

 恋人がいることも、その家でずるずる暮らしていることも。考えてみれば取り立てて悪いことではない。結婚するわけじゃなし、克大だってわざわざ母親に報告したりしないだろう。

「そうですよ」

 秋人はにこっと微笑んだ。

「学校が始まれば勉強をおろそかにするつもりはないし、母をかなしませるようなことはしません」

「それ、約束できるか?」

「できますよ」

 秋人は簡単に言い切った。まあそうなのだろうとあっさり納得し、だけどこいつは一体本当に恋愛なんかしているんだろうかと不審に思った。そういう顔をしていないのだ。彼女と一緒に暮らして毎日楽しい、という感じに見えない。どこか淡々としている。

「おまえさ、姉さんが再婚したこと、どう思ってんの?」

 ふと気になって訊ねたら、秋人は驚いたような顔をした。

「どうしてですか?」

「いや……ちょっと気になって」

 言葉を濁すと、彼は目元をやわらかくゆるめた。

「そう言えば、叔父さんは子どものいるひとと結婚したんですよね」

「ああ、そうだよ」

「その子はどうなんです? お母さんの再婚をどういうふうに思ってるんですか?」

 克大は沈黙した。どういうふうに----。問いを繰り返すと、苦い気持ちになる。

「ぼくは、母がしあわせならいいと思ってますよ。親元を出た今は、自分にはほとんど関係ないことだし」

「さみしいこと言うなよ。関係ないってことはないだろ」

「でも、実際そうだから」

 どいつもこいつも、と思う。直哉もあのとき、おれが口を出すことじゃないと言った。

 でもそうじゃないだろう。

 そう言いかけて結局飲み込み、かわりにため息を漏らした。

「ま、いっか」

 からりと言い、伸びをする。関係ないと言われた時点で、扉は閉ざされてしまったに等しい。

「姉さんには元気だったって伝えとく。なんか困ったことあったら電話してこいよ」

「ありがとうございます」

 さほど心配だと思わないのは、彼がもう大人の男の部類に入っているからだろうか。しかし、大人と子どもの境目というのは一体どのあたりなのだろう。

「秋人、おまえいくつだっけ?」

「十八です」

「そっかあ……」

 ポケットの煙草をさぐりかけたが、この家にはたぶん灰皿がない。

「十八じゃ、少年のうちには入んねえな」

「そうですね」

「でも大人じゃないよなあ」

 かと言って家に閉じ込めておかなければと思うほど心配でもない。結局、年齢は関係ないのだろう。問題は相手が誰かということなのだ。

「なんですか、さっきから」

「いやー、なんでもない」

 立ち上がり、無意味に彼の肩をパンパン叩いた。

「じゃ、おれ帰るわ。彼女と仲良くな。そんで、姉さんを泣かすようなことは絶対すんなよ」

 最後に念押ししたら、秋人はにっこりしてうなずいた。

 しかし、それから何年も秋人から電話がかかってくることはなかったし、こちらから様子をうかがいに行くこともなかった。そのときは、彼が会社を興すことも、自分がそこに呼ばれることも、まるで想像していなかった。

 次に会ったとき彼は立派な大人になっており、見え隠れしていた薄暗い何かはどこかへ消えてしまっていた。


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