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 そろそろいいと思うのよね、と言ったのはしおりの方だった。

 それはふたりの関係を直哉に知らせるということであり、同時に結婚するということでもあった。

 すでに実家の両親にはふたりで挨拶をすませていたが、克大はどうも今一歩踏み切ることができずにいた。

 愛情が冷めたとかそういうことではなく、罪悪感があったのだ。

 克大は直哉にしおりの友人なのだと紹介されている。そして、子どものことだから当然なのだが、彼はそれをまったく疑っていない。事実を知らされたら、騙されたと感じるのではないだろうか。

 直哉はすでに中学二年になっていたが、そのあたりをうまく受け入れてくれるかどうか。

 克大はそれを案じていた。そして、そんな自分に違和感を覚えた。

 普段ならこんなことで悩んだりしない。思い立ったらすぐ行動し、あとのことは考えないたちなのだ。だけど、直哉に対してだけは慎重にことを運ばなければならないような気がしていた。

「いいのかな、このタイミングで」

「大丈夫でしょう、もう十四なんだし」

「いやー、むずかしい年頃でしょ。いっそもっと小さいうちに言っといた方がよかったんじゃないかなあ。ま、今さら言ってもしょうがないけど」

「平気よ。分別のある子だから。それに、あんまり先おくりにすると、よけいに印象が悪くなるでしょ」

「うーん……」

 分別があるからよけいにかわいそうなんじゃないだろうか。だけど、しおりの言うとおり、先おくりにして解決するような問題でもない。ズルズルすればするほどだらしなく見えてしまう。友人の誘いで就職もしたことだし、今がちょうどいいのかもしれない。こうなったらもう、嘘をつかずに正直に伝えることくらいしか不誠実のつけを払う方法はないだろう。

 しかし、やはり思春期の直哉にこの告白はこたえたらしく、話を聞いたときの彼の様子は胸が痛むほどだった。無理をしているのがありありとわかり、このまま婚姻届を出していいものかどうかためらわれたが、結局ほとんどどさくさまぎれのような形で籍を入れてしまった。

 今考えたら、あのときに思いとどまっていたらよかったのだ。

 あとになってから何度も思った。

 その日をさかいに直哉は変わった。反抗的な態度を取るようになり、学校をさぼって行方をくらませ、しまいには泥酔状態で家に戻った。それも日付を超えた頃に。

 玄関先に倒れた直哉を見てしおりは青ざめ、近寄ってすぐ感じた酒気に怒鳴り声を上げた。彼女が感情的になっているのを見たのは初めてだった。

 吐きそうだと言う直哉をトイレに連れていくと、彼は酒と胃液ばかりを戻し、やがてぐったりしたまま動かなくなった。しおりは直哉をつねったり脈を取ったりし、克大はとにかく水を飲ませてと言う彼女に従ってコップを運んだ。

 直哉は酒を飲むような子どもではないし、飲みたがるような子どもでもなかった。誰のせいで彼がこんなことになってしまったのかは、問うまでもなく明らかだった。

 克大は沈鬱な面持ちで直哉を介抱していたが、本当に衝撃を受けたのはそのあとだ。

 服を着替えさせようと、夏服のシャツのボタンをゆるめたときである。

 あらわになった首や胸元に、鬱血のあとがあった。白くすべらかそうな肌に、いくつも醜く散らばっていた。それがどういったものなのか、見たことがある者なら一目でわかっただろう。

 しおりはその場におらず、克大は彼女に何も伝えなかった。しかし彼女は落ちついてから真っ先に「もしかして女の子と変なことしてたんじゃないかしら」と疑った。女の子が電話に出たと言ったことから推察したのだろう。いや、そうでなくとも、あのときはそれを疑うのが当然だったのかもしれない。直哉の年を考えれば。

 しかし、克大は直哉が女の子と一緒だったのだとわかったときもそういう疑いを少しも抱かなかった。それどころか、鬱血を見たあともまだ信じられずにいた。克大の中で直哉はいつまでも小学生のころのかわいい子どものままであり、酒を飲んだり女の子といかがわしい遊びをするようなことは永遠にありえないはずだったのだ。

(子どもだと思ってたのに)

 食べられずにまるまる残った弁当なんかより、そちらの方がよっぽどショックだった。そんな自分を、あとから笑った。子どもはいつまでも子どものままではない。直哉だって男なのだから、克大がこれまで通ってきたのと同じような道をたどって大人になるのだ。

 どういうわけだか苦い気持ちはおさまらず、それでもなんとか自分を納得させたが、翌々日意識のはっきりした直哉と言葉を交わして、やはり彼は変わったりしないのじゃないかと思わせられた。

 直哉はすっかり元の顔に戻っていた。そして言った。

「おれ、克大さんのこと好きだよ」

 笑った顔がかわいかったから、思わずぎゅっと抱きしめた。これでなにもかもうまくいくだろうと思った。

 しかし、直哉が再び家を出たのはそのすぐあとのことだった。




 別れた方がいいと思う、と言ったのは克大の方だ。

 どう考えても、そうするより他道がないように思われた。

 直哉がいなくなってから、しおりとはうまくいかなくなっていた。

 警察に捜索願いを出したものの、克大の毎日は直哉を捜すことだけに費やされた。彼の携帯電話はつながらず、何度もメッセージを吹き込んで、あてもないのに捜しまわった。

「やみくもに捜したって見つからないわよ、どこにいるかもわからないのに!」

 心配と苛立ちでしおりの神経はかなり参っており、責めては謝る、ということをずっと繰り返していた。直哉が心配だ、捜したい、でも仕事がある、警察は見つけてくれない、イライラする、つい怒鳴ってしまう、だけど年下の男に八つ当たりするようなみっともない自分でいたくない。彼女の思考はそういうふうに堂々巡りをしているようだった。

「直哉のことばかり優先させるのはやめてよ!」

 ヒステリックにわめいたかと思ったら、

「ごめんなさい、心配してくれてるのはわかってるの。あの子のことで面倒かけて申し訳ないって思ってる」

 そうやって彼女は苦しそうに謝った。

 こんなこと、いつまでも続けられない。

 昼を過ぎても少しも暑さのやわらがない街の中を歩きながら、克大は額の汗を拭った。

 平日だというのに道は混み合っている。前に直哉と来たことのある通りだ。

 行く先にまるで心当たりがないから、以前一緒に出かけたことのある街を片っ端から探すしかなかった。わかっているのは大学生と一緒にいるらしいということだけ。だからそれくらいの年齢の男女をつかまえては写真を見せて、この子を知らないかと訊ね回った。成果は全く得られていない。

 無理があるのはわかっている。だけどじっとしてはいられない。

「克大?」

 背後から肩に手をかけられ、克大は振り返った。目に飛び込んできたのは、サングラスと顎髭だ。

「やっぱりそうか。なんだよ、おまえ就職したとか言ってなかった? なにやってんだこんな時間に」

 さぼり? と軽い調子で訊ねたのはコマだった。思わぬ出来事に、うっすらと口が開いた。

 なんで、と考えかけ、そういえば彼はこのあたりに住んでいたのだった、と克大は思い出した。彼は相変わらず休日の露店でアクセサリーを売り、平日は確かアパレルショップでアルバイトをしていたはずだ。

「おー、久しぶり……。つか、さぼってんのはそっちの方じゃねえのか?」

「今日は休みなの。おまえは? おまえも?」

「いや、辞めたんだよ、こないだ」

「え? なんで?」

 意外そうに訊ねたコマは、前から来た男とぶつかりそうになり、ひょいっと避けて克大の腕を引いた。そのまま細い路地へ入った彼は、奥の方を髭に覆われた顎でしゃくった。行こう、ということだろう。両側からビルに押しつぶされそうな窮屈な道だったが、少し歩くとビルが途切れて視界が開けた。

「で、なんでよ。友だちに誘われて入ったとか、そういうんじゃなかったっけ? 会社」

「先輩だよ。呼んでくれたんだけど、おれ今ごたごたしててさ。迷惑かかるから辞めた」

「ごたごた?」

 首を傾げ、彼は右手にある公園の中へと入ってゆく。克大も黙って従った。平日であるせいか、暑さのせいか、公園に子どもの姿はない。小さいのにがらんとしている。コマはちょうど木の影になっているベンチに掛けて煙草をくわえた。

「なにをごたごたすることがあんだよ。ガキとはうまくいってんだろ?」

「こないだまではな」

 となりに座り、差し出された一本を取って火ももらう。すうっと煙を吸い込んで、ずいぶん久しぶりに吸ったな、と思った。

「うまくいかなくなったのか?」

「……籍入れたんだ」

「ああ、そりゃおめでとう。式やんなかったのかよ」

「やんなかった」

「せっかくなんだからやりゃいいのに。……ん? うまくいかなくなったのと籍入れたのと、一体なにが関係あるんだ?」

「ナオ……彼女の子どもだけど、あいつはおれと彼女が結婚すると思ってなかったから」

 コマはまばたきを止め、なんのことだかわからないという顔をした。

「おれ、お母さんの友だちだって紹介されてたからさ」

「……わからねえか? だいたい」

「わかんなかったんだよ、子どもだから」

 悪いことしたよなあ、と克大はひとりごち、うつむいて自らの爪先を見た。

「それで、ガキは嫌だって駄々捏ねてんの? あ、でも結婚はしたんだよな。結婚したのが気に食わなくてハンストしてるとか?」

「いや……」

 思い返すと気持ちが沈み、口が少し重たくなった。そんなことならまだよかった。

「嫌だって言われたことは一度もない。そういうこと言わないんだよ。ためこむタイプでさ……。で、なんにも言わないで、家出しちゃった」

「そりゃあ……」

 コマはめずらしく言葉を濁した。事態が事態だけに軽々しいことは言えないと思ったのだろう。

「その、子どもは今いくつなんだっけ?」

「十四。中二」

 ううーん、と聞こえたのは唸り声。ふと目を向けると、彼は前のめりになって頭をくしゃくしゃ掻き乱していた。

「まあ、難しい年頃ではあるわなあ。おまえが気に入らなくて家出したってこと……なんだよな?」

 克大は煙を吐き出して眉間を寄せた。

「それがけっこう複雑なんだよ。おれ、あいつが出てく直前に話したんだ。でもそんときはすっかり元に戻ってて、このままうまくいのかなって感じだったんだよな。すげーかわいいこと言ってたし」

「かわいいってなに」

「おれのこと好きだって」

「はー、はーはー、うん? それ本心だとしたら、なんで出てく必要があるんだ?」

「そのあと会社行かなきゃなんなくて出かけたんだけど、おれがいない間にしおりさんが父親のこと話したらしいんだよ。どうもそれがあんまりよくない話し方だったみたいで……」

「よくない?」

「まあ、言ってみれば、あれだ、本当の父親はおまえに会いたくないって言ってんだから、新しいので我慢しろ的な」

「うわー、言われたくねー」

 コマは心底嫌そうな声を出した。ぐっと眉間が寄せられ、ひどく人相が悪くなる。

「なんでそんなこと言っちゃったかね。それじゃあひねくれちゃうぜ」

 事を焦ったな、と彼は呆れたように言った。

 ひねくれちゃう、という部分に克大はため息を漏らした。確かにコマの言うとおり。直哉は少しひねくれてしまったようだった。素直だからこそまともに打撃を食らったのだろう。

「あのひとはあのひとで、ナオが本当の父親のとこに行くって言い出すかもしれないと思ったらこわくなったんだよ。ナオは母親の言ったことそのまま受け止めて、もう話したくないってさ。一回だけ電話がつながったんだけど、取りつく島がなかった」

「そりゃあそうだろうよ」

「だよなあ……」

 くたっと首を下げたまま、頭を上げられない。声がひどく重たくなった。

「どんだけへこんでんだよ、おまえ」

「だってさあ、死んだと思っていいとか言うんだぜ。いなくなった方がいいって思ってんだろって」

「うーん、いきつくとこまでいっちゃったな。で? おまえ、思ってないの?」

「なに?」

「だから、いなくなりゃいいのにって」

 克大はぽかんと口を開けた。眉がゆっくりと歪んでゆく。

「思うわけねえだろォ、思ってたら捜さねーよ」

 あー、と呻いて、片手で目を覆う。どうでもいいなら楽だった。

「一体どうしてんだか……飯食ってんのかなあ……」

「どこにいんのか見当つかないのか?」

「わかんねー。学校さぼったときに大学生と知り合ったらしくてさ、そいつの家にいることは間違いないんだけど。どこだか教えてくれなかった」

「家出する気なら教えねーだろ。じゃあ、おまえやみくもに捜しまわってるわけ?」

「一緒に遊びにきたことあるとこをな……。歩き回って、大学生くらいのやつつかまえて写真見せてる」

「写真? 今あんの? おれにも見せろよ」

 好奇心を剥き出しにしたコマに、克大は財布の中から写真を抜いて差し出した。入学式のときに撮った写真だ。校門の前で、直哉はどういう顔をしていいのかわからないというふうに立っている。

「はー、イメージと違うな」

「どんなイメージだったんだよ」

「中学生男子だろ? もっとじゃがいもみたいかと思ってた」

 えらいかわいいな、とコマは写真を掲げて日に透かすようにした。かわいいんだよ、と克大はつぶやく。本当にかわいい。外見のことだけではなく。

「心配だな、このツラじゃ」

 コマが言ったのに、克大は首を傾げた。なにが、と訊ねたら彼は片眉をふっと上げた。

「人間、若いとかかわいいとかいうだけで巻き込まれなくていいような悪いことに巻き込まれたりするだろうが。いかがわしい大人にたぶらかされて」

 一瞬意味がわからなかった。

「今、子どもだけの売り部屋とかあるって話だぜ。まったく変態の多い世の中だよ」

「……男なんだぞ」

「男でもさ。言っただろ、変態が多いんだって。あと、ガキの上前ハネるような悪い大人がさ、いっぱいいる」

 ぞわっと首まで鳥肌が立った。そんなこと、考えもしなかった。まばたきもできないでいると、コマは笑った。

「おまえやっぱりおぼっちゃんだよな。警察には? 当然届けてんだろうな」

「……捜索願い出してる」

「大学生のとこかー……。ま、そいつがまともで、泊まるとこあるならそう悪いことにはなってないだろ」

 戻された写真を、沈鬱な気分で受け取った。そこに映っている直哉をじっと見つめる。

 こんな子どもをどうこうしたいと思う人間がいるなんて、どうしても想像できなかった。現実味がなさすぎる。だって、本当に子どもなのだ。ただかわいくてあどけなくてすこやかな。

 戻した写真を、コマは再びひょいっとつまんだ。

「やっぱりこれ貸しとけよ。おれも店の客に訊いてやるから。ま、その年頃のガキなんて単純だから、気がすんだら案外けろっとして帰ってくるかもしれないけどな。帰ってきたらうまいこと言いくるめてせいぜいかわいがってやりな」

 コマの声が遠い。克大はぽつんとつぶやいた。

「おれ、離婚しようと思ってる」

 まだ誰にも言っていなかった。誰かに相談するつもりもなかった。自分のことはいつだって自分で決めてきたのだ。それなのに、なんだか、急に自信がなくなってしまった。

「ガキのために? 別れてなんか変わるのか? おまえが嫌われてるってわけじゃねんだろ」

「んー、たぶんな……」

「なら見つかったらちゃんと説得しろよ。話せばわかることじゃねえか」

「そうだな……でも」

 克大は言いよどんだ。うまく整理できていない。ごちゃごちゃしている。

「なんだよ、はっきりしねーな。おまえそんなやつだったっけ?」

 うん、とつぶやく。確かにそうだ。こんなに物事をぐだぐだと考える人間ではなかったはずなのに。どうも今回に関しては直感が働かない。

「その話、嫁さんにはもうしたのか?」

「した」

「それで、なんて?」

「考えさせてくれって」

 おれたちが結婚してるのは、ナオのためにならないよ。

 別れを切り出したあと、そう言ったら、しおりは疲れ果てたようにうなだれた。

 ちょっと、考えさせて。

 しんとしたリビングに、彼女の声はひどく重々しく響いた。

「ナオはおれを好きだって言ったけど、あの家でおれが家族になることは望んでないと思う」

「なんでそう思うんだ?」

「わかんないけどさ。おれたちが結婚してからあいつすごい荒れたし、嫌なのは嫌なんだよ、絶対。騙されてたんだっていう気持ちがあるだろうし、母親を取られた感じがすんのかな? 他人ならうまくやれても、家族になっちゃうと駄目ってこともあるだろ」

「まあなあ。でも別れることはないだろうよ。子どものせいで別れるって、そんな、バカバカしい」

 子どものせい、と胸のうちで繰り返した。なんだかそれは違う気がした。うまく言えないけれど。

 黙り込んでいたら、コマは煙を吐き出して傍らの灰皿で揉み消した。

「別れたとして、どうするんだよ、おまえ。行くとこあんのか。実家に戻るとか?」

「別にどこででも暮らせるけど、仕事やめたからなあ。部屋探すの面倒そうだな。実家は兄貴がうるせーし、今さら親父の会社には入りたくねーし。そもそも田舎は性に合わないしなあ」

「そんなに田舎なのか?」

「田舎だよ。山ばっかとか田んぼばっかとか、そういうんじゃないけど。やっぱりこっちとは全然違う」

「あー、わかる。垢ぬけねえってことだろ。うちもそうだ」

 空を見て、彼は後ろ頭をくしゃくしゃ掻いた。

「ま、行くとこなきゃうち来いよ。死ぬほど狭いけど、一、二か月なら暮らせないこともねえだろ」

 にこ、とサングラスの向こうの目が細められた。彼は気安く、面倒見がいい。

 助かるよ、と克大は微笑んだ。




 直哉の学校の友だちから電話がかかってきたのは、その何日かあとのことだ。

 菊崎という少年だった。ちょうど、直哉が家を出てから一か月くらい経った頃だったと思う。

「直哉、家に戻ってますか?」

 それは明らかにおかしな質問だった。クラスメイトには直哉は入院していると伝えてあるはずなのだ。

「どういうこと?」

「入院って、嘘でしょ。おれ、直哉と会ったんです。学校の帰り。乗り換え駅で。あいつ、家出じゃないって言ってたけど、なんか様子が変だったから……」

 受話器を持つ手がぴくっと揺れ、心臓の鳴り方が変わった。それは初めて得た手がかりらしい手がかりだった。このチャンスを逃してはいけない、とおかしなくらいに気が逸った。

「悪い、それ、どこの駅だか教えてくれる?」

「じゃあ、やっぱり家出なんですか?」

 答えにつまった。おいそれと口にできることではない。

「あの、おれ、口固い方です。ひとに言ったりしません」

 彼はずいぶん直哉を心配しているようだった。こんな友だちがいたのか、と考えかけ、克大は「あっ」と思った。

「菊ちゃん?」

「えっ?」

「あ、ごめんごめん、ナオが言ってたなーと思って。えーと、水泳部の」

「そう、そうです。あの、ええと、お手伝いのひとですよね」

 うん、と答えたら、菊崎は矢継ぎ早に問うた。

「直哉、どうしちゃったんですか? 学校いくのヤになったとか、担任になんか言われたとか言ってたけど、ほんとですか? おれが、学校来いよって言ったとき、あいつわかったって言ったんだ。でも、全然来ないから……」

 学校が嫌だなんて、そんなことを言ったのか。

 少しぼんやりしてしまった。

 本当のことは言いたくなかったのだろう。直哉の気持ちを思うとたまらない。

(友だちには、知られたくないか……)

 お母さんの友だちだと思っていた男が本当は恋人で、自分を騙して何年も一緒に暮らしていたなんて。

「入院してないんですよね?」

 その問いかけに、今度は正直に返事をした。

「……入院は、してない。家を出たまま戻らないんだ。理由は……帰ってきたらあいつに直接訊いてやって」

 電話の向こうは静かになった。追及されるかと思ったが、彼は同じことを訊ねたりしなかった。訊いたのは克大の方である。

「あいつ、どんな感じだった? 怪我してるとか、病気してるとか、そういう感じじゃなかった?」

「そういうのはないです。いつもと変わんなかった。元気そうに見えました。笑ってたし。ただ、髪が短くなってて、着てる服が合ってなかった。サイズ、たぶんでかいの着てたんだと思う。あいつ、だらしないの着ないのに」

 そっか、と克大はつぶやいた。複雑な気持ちだった。元気だったらいい、と安堵するのと同時に、妙な胸騒ぎを覚えた。もしかしたら直哉は新しい生活に馴染みつつあるのではないか、それならもうここに帰ってこないのではないか。そう思ったら少し不安になったのだ。

 沈黙していると、菊崎は直哉と会ったという駅を教えてくれた。そして、訊ねた。

「帰って、来るんですよね」

 もちろん、と克大は答えた。

 その言葉に嘘はなかった。どんなことがあっても、直哉だけは無事で見つけて連れ戻す。そのためだけに、自分は今ここにいるのだと思っていた。

 教えられたそこは、学校の最寄駅からほど近く、何度か捜しに行ったこともある場所だった。克大は呆れ、それと同時に希望も感じた。駅が特定できただけでも見つかる可能性は高くなる。

 克大はそれからその駅にへばりつき、中学生から大学生くらいの男女にしぼって声をかけた。

「もしかしたらご協力できるかもしれません」

 たったひとりそう言ったのは、高校生の女の子。このあたりでは有名な名門女子校の制服を身につけていた。

 変わった子だった。最初彼女は、「知らない」と言ったのだ。それなのに、引き返してきて声をかけた。物腰のやわらかいその女の子に、克大は写真と自らの携帯電話の番号を渡した。

「わたしは葛原結衣といいます。たぶん----お電話さしあげることになると思います」

 おかしな物言いをする子だと思った。物憂げに伏せた睫毛が、白い頬に濃い影を落としていた。

「それは……この子を知ってるって意味? どこにいるか知ってるなら、今----」

「今は言えません。確かめないと」

 彼女は手元の写真をじっと見つめていた。自分の知っている子であっているのかどうかを確かめる、という意味なのだと克大は解釈した。

「じゃあ、この子が、きみ……葛原さんの知ってる子だったら、すぐに連絡してくれるかな」

 彼女はうなずき、一旦背中を向けたが、再びこちらを振り返った。

「あの、この男の子、あなたのなんなんですか?」

 問われて、克大は唇を薄く開いた。だけどそのまま何も言えずに固まった。

 なんなんですか?

 なんなんだろう。

 自分と直哉との関係を表す言葉が見つからない。

 戸籍の上では義理の息子、小学生のころから一緒に暮らしている、弟のようなもの?

 どれも本当のことなのに、すべてしっくりこなかった。克大が黙り込んでいると、彼女は言った。

「あなたの、大事なひとなんですか」

 それでやっと、ああ、と思った。

「……うん、そう。すごく大事な子なんだ。だからはやく顔が見たい。無事なのを確かめたい」

 すると彼女はなぜだかひどくかなしそうな顔をした。おかしな話だが、克大はそのときやっと、彼女がとてもきれいな顔をした少女なのだと気がついた。

 軽く頭を下げて、彼女は階段を下りていった。

 しおりが離婚届に判を押したのは、その夜だ。

 もう他にどうしようもないのかしらね、と彼女は言った。しんと静かな夜のリビング。ほつれた髪がひどく痛々しく見えた。

 他にどうしようもないのだろうか、と克大は考えた。何かが間違っているような気がした。しかし、答えを出す前に、思考はしおりの声に遮られた。

「こんなこと死んだって訊きたくなかったけど、あなた今、わたしと直哉、どっちを大事だって思ってる?」

 なんだかいつかも聞いたような言葉だ、と思った。改めて考え、克大はうつむいた。そうして、さっき考えかけていたことの答えを出す。

 他にどうしうようもないということはないのだ、きっと。

 コマだって言っていた。普通はここで離婚はしない。とにかく子どもを見つけて、説得するという道を選ぶだろう。根気よく話し合えばどうにかならない問題ではない。たとえ時間はかかっても。子どもはいつか大人になる。大人の言うことを理解できる日は必ず来る。

 だけど、克大はもうそれをしたくなかった。

 しおりのことを嫌いになったわけではない。今だって好きだ。でも、その気持ちは明らかに形を変えている。

 彼女と夫婦になることで、これ以上直哉を傷つけたくなかった。

 気づいたら、その思いが強くなっていた。

 しおりと別れることで直哉を楽にしてやれるのなら、彼女との生活はなくてもよかった。

 我ながら最低だ。自分に驚く。

「……ごめんね」

 その一言だけで、しおりは納得してため息を漏らした。

「いいのよ。お礼を言うのは変だけど、母親としては感謝してる。直哉をかわいがってくれてありがとう」

「これでいいって、本当に思う?」

 訊ねたら、しおりはちょっと笑った。そして小さく「ええ」と答えた。

「わたしもやっぱり、あなたより直哉のことが大事みたい。あの子にかわりはいないから」

 かわりがいないという、その気持ちが不思議なくらいよくわかった。

 しおりはそこで、口を覆って声を震わせた。

「本当に帰ってこなかったらどうしよう。なにかひどいことになってたら……」

 ぽた、ぽた、とテーブルクロスの上に涙が落ちた。彼女ももう限界だった。

「大丈夫だよ。絶対見つかる。ナオの友だちが、元気そうだったって言ってたじゃない。自分で外にも出てたんだし。それに、さっき言っただろ、高校生の女の子。あの子が電話くれるかもしれない」

 向かいからとなりに移り、彼女の肩を抱いてなだめた。そうしながら、やはりもう元のようには戻れないなと思った。

 お互いの気持ちが、男と女という部分を完全に通り過ぎてしまっていた。




 葛原結衣からの電話は、その翌日にかかってきた。

「直哉くんを迎えにきてあげてください」

 開口一番、彼女は言った。

「じゃあ、きみの知ってる子が……」

「鈴木直哉くんです。わたしの従兄のところにいます」

「従兄? あの、ナオはどうしてる?」

「元気ですよ。あそこにいるの、もう慣れてしまったみたい。でも、直哉くんはやっぱりおうちに帰った方がいいんだと思います」

 そりゃあそうだろう。中学生がいつまでも他人の家に引きこもっていていいはずがない。

「わたし、今駅にいるんです。これからでよかったらお連れしますけど、ご都合は……」

「今から行くよ、すぐ」

「じゃあ、西口のカフェで待ってます」

 電話を切り、時計をちらりと見た。まだ昼前、十一時を少し回ったところだった。

 しおりはもちろん仕事中だ。それに、これで本当に直哉に会えるかどうかわからない。連絡するのははっきりしてからの方がいい。

 克大は駅へ急いだ。

 そして結衣と合流し、連れて行かれたマンションで、本当に久しぶりに直哉の姿を見た。

 菊崎の言ったとおり、髪が少し短くなっていた。

「か……つひろさん」

 驚愕の表情を浮かべた直哉は、どこか怯えているようにも見えた。

 やっと見つけた。その瞬間にこみ上げてきた気持ちをなんと言っていいかわからない。

 とにかく、もう離したくない、と思った。つかまえて家に閉じ込めたかった。誰かに対してあんなふうに思ったことは一度もない。これからもきっとないだろう。

 ソファに座りこんでいる彼の腕をつかみ、立たせたが、その体はびくっと震えた。視線が反れたときに、克大は自分が拒まれていることを知った。直哉は結衣の従兄の方へ目を向けたのだ。まるで助けを求めるように。

 それに気づいて、初めて彼の姿を確認した。結衣の従兄で、おそらく直哉の言っていた大学生。

 えらくきれいな顔をした男だった。ひとなつこそうに笑った彼は、森園千尋という名前なのだとあとから名乗った。

「帰ろう」

 あの家で、何度そう言ったかわからない。だけどとうとう直哉はうなずかなかった。

「ここにいたい」

 震える声でそう言って、彼は千尋の影に隠れた。

 克大はまばたきを忘れた。

 今までずっと、心のどこかで、見つけさえすれば直哉は自分の元へ帰ってくるだろうと信じていたのだ。それなのに。

 たった一か月がいろんなことを変えてしまったのか。

 衝撃に息を飲み、やがて克大は小さくため息を漏らした。

(仕方ないな)

 自分が考えなしだったことに対する、これが報いなのだろう。

 無理やり連れて帰ったってどうなるものでもない。これは千尋の言葉だが、確かに彼の言うとおり。

 直哉を連れ帰るのは自分でない方がいいのだろうと思った。だけど、離婚した、と今伝えるべきなのかどうか迷った。迷った結果、言わずにおいた。言えば直哉はきっと複雑な思いを抱くはずだ。

 居場所は確かめた。あとはしおりに任せて自分はさっさといなくなるのが一番いい。母親とふたりで暮らしていたところまで時間が戻れば、直哉も楽になるだろう。

 さらりとした髪の毛を、久しぶりに撫でた。たった一か月の間に、彼はずいぶん痩せてしまったように見えた。髪を切ったせいかもしれないし、少し背が伸びたのかもしれなかった。

 ごめんな、と言ったとき、これが別れになるだろうと思った。だけど、意外にも直哉はその夜家に戻った。

 帰りたい、という電話を、受けたのは克大だ。

 迎えに行きたい気持ちを押さえ込み、たいして多くもない荷物を黙々と片づけた。もしも直哉から電話がなくても、翌日にはしおりが千尋の家に行くことになっただろう。出ていくことは、もう決めてしまっていた。

 言葉を交わさずに別れた方がしあわせだったかもしれない。

 さみしさが胸に穴をあけるような、そんな感じを生まれて初めて味わった。


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