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初恋の味の続きです。
克大の回想。
時が経てば子どもは大人になるのだと知っていた。
当たり前のことわりだ。
しかし、大人になるということがどういうことなのか、具体的に想像したことは一度もなかったような気がする。
別れたとき十四だった子どもが今、二十二の姿で自分の前に立っている。
身長はさほど変わっていないが、顔つきが違う、体つきが違う、着ているものが違う。だけど、そこだけは変わらない猫に似た目で見つめられ、大島克大は足元から石で固められてしまったかのように硬直した。
「ねえ、聞いてる?」
深い紺のスーツと、赤地に細い白のストライプの入ったネクタイ。あのころは前ホックの学生服だった。さっきまでモニターを見ていたはずの目は疲れも知らず澄んでいる。自分たち以外に誰もいないフロアはしんとしていて、彼の声がよく通る。聞こえないはずはない。
「おれ、克大さんのこと好きだよ」
それはついさっきも言われた言葉。そして、ずっと以前にも聞いたことのある言葉。だけどあのときのように受け止められない。
戸惑う克大を見つめたまま、直哉は微笑した。子どもというより猫のように。
「どういう意味なのか、説明しなくたってわかるよね」
彼はもう、すっかり大人の顔をしていた。
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鈴木直哉と初めて顔を合わせたのは、かれこれ十年ほど前のことである。彼は当時つきあっていた年上の女性、鈴木しおりの息子だった。
その日、初めて自宅に招かれることになっていた克大は、待ち合わせ場所がよく見える道端の露店で屈み込み、しおりが来るのを待っていた。少し早くついてしまったから時間を潰していたのである。売り物はシルバーアクセサリー。露店を広げていたのは友人で、克大は店の外側ではなく内側の低い椅子に腰かけていた。
蝉のうるさい、夏の日だった。
「せっかくいい大学出してもらったのに、おまえヒモになっちゃうの?」
日陰にいてもなお暑い中、パタパタと団扇で自らを扇ぎながら、顎髭のむさくるしい店主は言った。みんなが「コマ」と呼んでいたため克大も自然そう呼んでいたのだが、本当の名前は今でも知らない。
「なにそれ、誰に聞いた?」
「中田。克大が年増女の家に転がりこんでヒモをやるってさ」
克大は眉を下げ、アハハと笑った。
「あいつはー。どうしてそうねじまげるかな。確かに彼女の家に就職するわけだけど、ヒモじゃないし。年増っていうほどでもない」
「家に就職って、嫁にいくんじゃねんだからヒモだろうよ」
「違うって。労働するもん」
「セックスだろ?」
「そんなもん労働のうちに入るか。家事だよ家事」
「家事ィ?」
サングラスの上の細い眉を歪め、コマはすっとんきょうな声を上げた。
「そんなんできんの? おまえ、あれだろ、おぼっちゃんなんだろ?」
確かに実家は裕福だ。父はいわゆる地元の名士というやつで、スーパー、ガソリンスタンド、工務店、いたるところに同じ名字がくっついている。どこの誰がどういう親戚なのか末端までは知らないが、克大は田舎でいうところの本家の次男坊というやつなのだった。
「どんなおぼっちゃんでも、四年一人暮らしすりゃ家事くらいはできるようになるさ」
「掃除や洗濯はともかく、料理なんかできるようになるもんか? おれはいまだにラーメンと目玉焼きしか作れねえぞ」
「こっちきて最初につきあったのが料理学校の先生だったんだ。ただで教えてもらっちゃった。ケーキだって焼けちゃうんだぜ。作ってやろっか?」
「いらねーよ、男の作ったケーキなんか」
コマが心底嫌そうに言ったので、克大はまた笑った。
「ケーキ屋のケーキだって大半は男の手作りなんだぜー」
「それとこれとは話が別だ。……で? 今の彼女はなにやってんだ?」
「医者」
「医者ぁ!? なんでそんな女と知り合えるんだ? 合コン?」
「まさか。主治医だったんだよ。盲腸切ったときの」
コマはかくんと顎を弛緩させた。
「主治医って、おま……、よく口説こうって気になるな……。いくつだよ、その、先生は」
「三十……五? 六だったかも」
戻った顎がまた落ちる。
「おまえいくつだよ!」
「二十二」
「普通つきあうか? そんな年増と」
「だからそんなに年増じゃないって。うちの姉さんより若い」
コマは呆れたようにしばらく口を開けていたが、やがて盛大なため息を吐き出した。
「そうまで年いった女と同棲して、まさかいずれ結婚するつもりなのか? その若さで」
「さあ……。おれはしてもいいって思ってるけど、そう簡単にはいかないだろうな」
「なんでだよ」
「子どもがいるから」
「こ……っ」
サングラスがずるっとずれた。
「子どもォ!?」
「うん。今日会いにいく」
「バツイチってこと?」
克大は首を傾げた。
「さあ。どうなのかな。そのへんのことは訊いてない」
「訊けよ!」
「過去にはこだわらない方なんだ」
「興味ないのか?」
「あるよ。でも、言いたくないって感じだから、訊かなくていいかなーと」
「心広いなあ……」
「だろー。心は広いし料理はできるし顔はいいし、おれほどの男はなかなかいないぜ」
にやっと口の端を上げたら、「そこまでは言ってねえ」と後ろ頭をはたかれた。
「しっかし、子どもがいんのかよ。ひとり? まさか二人も三人もいるんじゃねぇだろな」
「ひとりだよ。えーと、十一歳? 小五だって」
「小五!? おまえ、今日一日でどんだけおれを驚かせりゃ気がすむんだ。小五っつったらもう自我めばえてるだろ。おまえみたいのが行って受け入れられんのか?」
「どうだろうなー。男だしなあ……。でも、どうなんだろ、男と女の子ってどっちがむずかしいと思う?」
「おれが知るかよ」
「だよなあ。あっ」
待ち合わせ場所にしおりを見つけ、克大は立ち上がった。
「来たのか?」
「そう、あそこにいる」
指さして教えると、コマはサングラスの向こう側の目を細め、値踏みするようにそちらを見た。
「うーん、まあ、確かに……」
「年増ってほどじゃないだろ」
「おれの感覚から言やあ十分年増だけど……。ま、美人だな」
「今度紹介する。じゃあな」
「そのときはナースとの合コンをセッティングしてもらってくれ」
訊いとくよ、と笑い、克大はしおりのところへ急いだ。
***
素直ないい子、だと、しおりは自分の息子についてそう言った。そしてとてもかわいいのだと。
実際に直哉に会ってみて、それが親の欲目ではなかったのだと克大は知った。
確かにかわいい。色が白く、目がくるんとして、背が低くて華奢だった。男の子のようにはちょっと見えない。かと言って女の子のようだというほどなよなよしているわけでもなく、その間の独特の雰囲気を彼は持っていた。
素直ないい子というのも正解だ。初めて会った瞬間、警戒されているのがはっきりと伝わってきた。母親がいきなり男の家事手伝いを連れてきたら、普通はいぶかしく思うだろう。その気持ちを彼は隠そうとしなかった。警戒して、抗って、そのくせそういう態度を取った後は決まって居心地悪そうな顔をした。
(ちょっと繊細そうだけど、秋人よりわかりやすい)
何日か一緒に暮らし、克大はそういう感想を抱いた。
秋人というのは一番上の姉の子で、だから克大には甥にあたる。確か直哉よりいくつか年上なのだが、これがまったくよくわからない子どもなのだった。いつもニコニコして当たり障りのないことしか言わず、いい子と言えばこの上なくいい子。しかし、内側まで本当にそうなのかどうか大人の目にもはかりかねた。
秋人に比べれば、直哉はずいぶん子どもらしい子どもだった。ふたりに共通したところがひとつだけあり、それは母親の言うことを異様によく聞くというところなのだが、秋人は母親に対する純粋な思いやりからそうしているのに対して、直哉は母親を必要以上におそれているように見えた。
直哉は、いつもリビングで勉強しているような、克大にしてみればかなり変わった子どもだった。小食で生白く、外に出るのを嫌がった。それでもしつこく誘えば、「しょうがない」というふうについてきた。元が素直なものだから、仲良くなるまでにさほど時間はかからなかった。
「おれ、海って一回しか来たことない」
強引に海へ引っぱって行ったとき、きらきらと輝く水面を眺めながら直哉は言った。
「幼稚園でさ、みんなと来ただけ」
「お母さんと来たことないのか?」
「ないよ。来たって楽しくないだろうし」
「なんで?」
「だって、お母さんと海って、なんか合ってないでしょ」
その意見にはなるほどと思った。確かにしおりは海の似合うタイプの女性ではない。どちらかと言えば、避暑地で読書、美術鑑賞という感じである。子どもを海へつれてきてボートをふくらませるだとか、一緒に泳ぐだとか、そういうことはしないだろう。
父親がいれば違ったのかもしれない。ふたりと一緒に暮らす間に何度かそう思うことがあったが、直哉がそれを口にしたことは一度もなかった。しおりと直哉の間では、父親の存在は完全に消去されているようだった。
「よし、じゃあ今日はおれがボートをふくらませてやろう」
「ボート?」
「うん。ボート。シャチがいいなー。その前に、おまえ泳げるか?」
「プールなら泳げる」
克大は直哉の手を引いて砂浜に下りた。
借りたボートに直哉を乗せて沖に出ると、彼はビニールのシャチにつかまってじいっとしていた。ぱしゃりとも手足を動かさず。
「支えててやるからもっと楽しげに遊べよ。これじゃおまえ、荷物運んでるみたいじゃねーか」
「やだ」
「こわくないって。おれの足ついてんじゃん」
「おれはつかないもん」
「うーん、よし、じゃあおれが揺すってやる!」
「え!?」
ゆさっと大きく左右に揺すると、直哉は泣き出しそうな顔をした。彼が振り落とされまいと取っ手にぎゅうっとつかまったから、さらに揺すった。足がバタバタして飛沫が上がり、やっと楽しげな感じになったのだが、本人は楽しいなんてものではなかっただろう。
「やだ! やだって、やめてよ克大さん!」
「揺れてこそのボートだろー。ほらほら、足で漕いで進めー」
ぐるん、と振り回すようにして向きを変え、沖ではなく岸の方へ向けて「えーい」と押しやったら、直哉はあっさり転覆した。
「あっ、バカ、手を離すなよ、つかまってりゃ浮いてんだから!」
驚きのためか、あれほどきつくつかんでいた取っ手を離し、直哉は沈んだ。さすがに焦った。じたばたしている体を水の中からすくい上げたら、彼はぜいぜい息を吐きながら強くしがみついて離れなかった。
「大丈夫か?」
水を飲むような暇もなかったばずだが、彼はしばらく「う、う」とうめくばかりで言葉らしい言葉を発しなかった。もしかしたら泣いていたのかもしれない。
首に直哉をぶらさげたままシャチを回収したけれど、それに乗ることはもうなかった。その夜、しおりにこの話をしたら、呆れられて叱られた。ちょっと加減してちょうだい、と。
「体中痛い。今日寝られないよ、絶対」
帰り際、道に伸びた長い影を見つめながら、直哉は言った。彼の体はどこもかしこも真っ赤っ赤。見ていてかわいそうになるほどだった。
「火傷と一緒だからなあ。帰ったら氷で冷やしてやるよ」
直哉は辛そうに顔をしかめていたが、電車に乗るとすぐにうとうとしはじめた。立っている上に吊革につかまれないものだから、腰に抱きつかせて肩を抱えてやらなければならなかった。
くっついた体は大人にはない独特の湿った熱を持っていた。子どもというのはこういうふうなのか、とめずらしく思うのと同時にひどくいとしい気持ちになった。
直哉は感情を表に出すのが苦手で、わざとひとをつんと突き放すようなところがあった。照れ屋なのだろう。母親が同じく感情表現の苦手なひとだったからというせいもあったかもしれない。他人に対して愛情を示すことがうまくできないようだった。それでも、不器用なやり方で甘える様子がいじらしく、たまらなくかわいく感じられた。
「なんだか最近、あなた、わたしより直哉の方を大事にしてるみたい」
しおりがそんなことを言い出したのはいつごろだっただろう。
直哉が眠ったあとの静かなリビングで、克大は笑った。
「比べる対象じゃないでしょ。かわいいのは当たり前じゃん。ナオはしおりさんの子どもなんだからさ」
当然のことだ。そう思った。
しかし、言ってから自分の答えにかすかな違和感を覚えた。何か胸にこつんとひっかかる感じ。
彼女の子どもだからかわいい? それだけだろうか。
疑問が浮かんだが、表には出さず、それだけだよなと思い直した。そして、克大はその違和感をやり過ごし、あっと言う間に忘れてしまった。