追手が怖いわけじゃなかった
呪いは巡る。
裏切りと怨嗟が渦巻く、行き止まりの夜。
絶望の底で少女が抱いたのは、恐怖ではなく――冷ややかな殺意だった。
※ホラー・サイコ要素を含みます。苦手な方はご注意ください。
ようやく全てを焼き尽くすかのように暑かった夏が、終わりに近づきつつある気配があった。
わたしは、マーティンキムのハンカチで額の汗を拭い、少し歩を速めた。
━━コツコツコツ…
それでも後ろから追ってくる革靴らしい足音は決して止むことがなかったのだ。
意を決して振り返ると、そこには見覚えのある顔が息を切らせて立っていた。
「ちょっと、待ってよ! ハンカチ、それ僕のだってば!」
彼はわたしの手に握られたマーティンキムを指さし、大真面目な顔で抗議してくる。……あ、そういえばさっきカフェで隣の席のやつを間違えて持ってきちゃったんだっけ。
なんだか急に緊張感が吹き飛んでしまい、わたしは思わずクスッと笑ってしまった。
でも、この物語は、ここでは終わらなかった。
「ごめんごめん、返すよ」と笑いながらハンカチを差し出すと、彼は青ざめた顔で首を振った。
「違う……返すんじゃない。お願いだから、今すぐそれを僕に押し付けたことにしてくれ!」
意味が分からず固まるわたしの背後から、突如として黒塗りの高級車が数台、猛スピードで滑り込んできた。ドアが一斉に開き、黒スーツの男たちが黒い眼光を光らせて降りてくる。
「おい、そこまでだ! ……ん? 待て、そっちの女がその『極秘データ入りのハンカチ』を持っているのか!?」
「え?」
わたしは自分の手元に視線を落とした。ただのマーティンキムのハンカチ。……ではなく、よく見ると刺繍のフチから小さなmicroSDカードが覗いている。
男たちは一転して、鋭い視線をわたしに向けた。
「おい、お前! 組織を裏切ってそいつにデータを渡したな! 追え!」
「いや、ちょっと待っ――」
言う暇もなく、さっきまで追いかけられていたはずの彼は「助かったー!」と叫びながら、反対方向へ全速力で逃げ去っていった。
残されたのは、真夏の路上。見知らぬ黒スーツ軍団と、手の中のハンカチ。
「……は?」
わたしは汗を拭う暇もなく、今度は追われる側として、夏の終わりを全力で駆け出す羽目になった。
アスファルトを蹴りつけ、路地裏へ飛び込む。背後から追っ手の足音が迫る中、わたしは必死に逃げ続けた。だが、曲がり角を抜けた先は――逃げ場のない行き止まりだった。
「ひっ……!」
絶望して振り返ると、いつの間にか黒スーツの男たちの気配が消えていた。静寂が路地を包み込む。安堵したのも束の間、手に握りしめたハンカチが、じわじわと異常な熱を帯び始めた。
ゾクッと悪寒が走り、手元に視線を落とす。
刺繍のフチから覗いていたmicroSDカードから、ヌチャリと音を立てて、黒い泥のような液体が溢れ出していた。それは脈打つように蠢き、わたしの指先へと侵食してくる。
「なに……これ……離れな――」
振り払おうとしても、皮膚に粘りつき、引き剥がせない。黒い泥は毛穴から皮膚の下へと潜り込み、腕の静脈を真っ黒に染め上げながら、心臓を目指して這い上がってくる。
やがて、頭の中に直接、聞いたこともない無数の怨嗟の叫びが響き渡った。
『見つけた』
『次は、お前だ』
意識が暗転する直前、路地の暗がりからさっき逃げたはずの彼がぬっと顔を出した。その顔は醜く歪み、虚ろな目で薄笑いを浮かべながら、血の涙を流していた。
「ごめんね。誰かに『それ』を押し付けないと、僕、殺されちゃうからさ」
わたしの身体はもう、指一本動かない。声も出ない。冷たい泥が眼球を覆い尽くし、視界が漆黒に染まっていく中で、わたしは悟った。
追いかけられていたのは、組織なんかじゃない。
論外。
【了】
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
静かに芽生えた殺意がどこへ向かうのか、そして「巡る呪い」がどのような結末をもたらすのか――少女の歩む暗い道のりを、ぜひ最後まで見届けていただけたら嬉しいです。
もし少しでもゾクッとしたり、続きが気になったりしましたら、ブクマや評価、感想などをいただけますと執筆の大きな励みになります!
それでは、また次の「夜」でお会いしましょう。




