9 見逃してはくれませんか
今、1番会いたくはなかった存在と出会い、知らず知らずのうちに足が一歩引いていた。
「松野先生……どうしてここに……?」
「どうしたも何も、今帰りですよ。先生は忙しいのでふ……噛んじゃった」
容姿が整っている唯が頭をコツンとあざといポーズを取っても可愛く見えるのは世界の不条理を恨むしかない。
「浅野君はどうしてこんなところに?もう19時ですよ。家に帰らないと」
「先生、19時なんてまだ早い部類ですよ」
学校帰り、それも部活終わりとなると必然的に時間は18時以降になる。そこから駄弁っていたり、遊んだりしていると今くらいの時間になる事は決しておかしくない。まだ若い唯なら遅いという感想はそう浮かばない筈だ。
しかし、この時思い出したのは夢の内容。彼女の過去話の中で、家出した際に見知らぬ誰かに襲われそうになったと話していた事を思い出した。そんな経験があれば、生徒を心配する気持ちも理解できる。それに繁華街が近い高校だからこそ、夜には不審者が彷徨く可能性が大いにある。
「いや、俺が間違ってました。よく考えてみれば、危ないですよね。今すぐに帰ります」
元々、帰路には着くつもりのところを話しかけられただけなので、逃げるようにその場を去ろうとするも後ろからシャツの首根っこを掴まれる。
「待った。逃げるように避けられたら、私も傷つくんだけど。じゃなくて、折角だから家まで送ってくわ」
「いえいえ、本当に大丈夫なんで。先生こそ若い女性なんではやく帰った方がいいですよ」
「私は大丈夫。こう見えて、空手有段者だからそんじゃそこらの相手ならこうよ」
耳の横で背後から拳が空をきる。その時に耳を震わせるほどの風切り音が鳴り、また心臓がヒュンと縮んだ。耳の横を抜けた拳は肩に置かれ、強制的に顔と顔を向き合わされる。
武道をやっていたなんて印象に似合わない、そんな話は過去話では聞かなかったが、自己紹介の時に話していたらしく、口を尖らせていた。
「私が自己紹介してる時、全然顔を前に向けないと思っていたらやっぱり寝ていたのね。教師の事なんて生徒からすれば興味のない事かも知れないけど、担任なんだから少しは興味を持ってほしいな」
「わかりました、わかりましたから。じゃあ、そこの駅まで送ってください。俺、電車通学なんで」
勿論、嘘である。学校から家までの距離は徒歩5分。今いる駅前の繁華街からも家までは徒歩10分と電車を使う距離ではない。逆に最寄駅から別の駅まで乗る羽目になってしまう。なので改札まで唯に着いてきてもらい、そこで解散すれば彼女と一緒に行動するのは最小限に抑えられる。
本当はこの繁華街すら一緒に歩きたくはなかったが、幸い近くには地下道への入り口がある。地下街と駅は直通なので地下を歩く事はなんらおかしくない。
「それと地下街を通りましょう。人は多い方が良い。そうでしょう?」
「そういう訳でもないですが……まぁ、よろしい。早くいきましょう」
早く行けと急かすように背中を押され、目の前に見える1番近い地下街へと歩き出す。間にある信号が唯一の気掛かりではあったが、予知の中にあった唯との会話が1つもなかった……というよりも唯は教室では饒舌で常に笑顔を浮かべていたにも関わらず、少し顔を見てみると彼女の面持ちは真剣そのもので口を閉ざしたまま何かを考えているようだった。そのおかげもあって地下街の入り口まで、特に何が起こる訳でもなくたどり着く事ができた。
余計な会話をしてはいけないとわかりつつも、つい何かあるのか聞いてしまったが、彼女からは何もないという返事が返ってくるだけで、それ以上改札に着くまで会話が続く事はなかった。
時刻は19時過ぎ。ちょうど賑やかさを見せる地下街の人混みを掻き分けながら前へと進む。歩き続ける事5分。人混みの中を進むのは時間がかかるもので、体感はいつもの倍以上はかかっている気がする中でようやく改札まで辿り着いた。
「では、松野先生。僕はここで失礼します」
「はい、さようなら……じゃないですよ。浅野君はどちらへ向かいますか?」
「……えーと」
ここで気づく。しまった……と。唯は見送ると言っていたが、彼女が電車通学である可能性を排除していた。というよりも、改札に着いてから先の事を考えていなかった。
「ちょっと買う物を思い出したんで、そこのスーパーへ」
「待ちなさい。浅野君。君は嘘をついたでしょ。本当は近くに住んでいるんじゃない?」
「そ……そんな訳」
「ほら、また動揺してる。私相手に誤魔化しは聞かないよ。だから、早く家の場所がどこか吐きなさい!」
改札前で大勢の道行く人々に注目されながら体を揺さぶられ、時は既に遅かったと諦めてされるがままになるのだった。