神様を釣った日に(三)
「ちょっと待て、小娘。
一応、念のために言っておくが……この池に来てんのは、俺じゃなくて、お前だからな?」
昇り切った太陽が真上から照りつける、池の畔のささやかな木陰で。
「ええ。困ったことに、そうなのよね」
「いや、この状況で、急に『わたしの所に来なくていい』とか言われて困ってんのは、お前じゃなくて、俺の方だからな?」
許されるなら、このままずっと終わらせたくはないと。
そう思っていた穏やかな時間を、その日突然、打ち切られそうになった、小さな魚は戸惑いながら。
「まぁ、そうでしょうね」
「そうでしょうねと来たか、小娘さんよ」
こんな時にもいつもと変わらず、平然と魚を見詰める少女を見やって脱力する。
「でもね、毎日毎日、釣り上げる度に、今日こそは願いを言えと言わんばかりの小魚さんのその態度に、わたしもいい加減、辟易としているわけなのですよ」
案の定、自分を見上げて憎まれ口を叩く魚を見下ろし、一息にそう言って。
きちんと言葉にしなければ、こちらの気持ちを汲むこともできないのか、と。こちらも少し気抜けして、少女が大きく長いため息をつく。
自分の願いは何だろう、と。伝説の水神とおぼしき小さな魚を釣り上げたあの日から、少女は毎日いつになく、それは真剣に考えていた。
例えば、毎日釣りだけをして過ごしていたいだとか。
自室から出ても、誰にも会わなくなりたいだとか。
いっそ何もしなくても、退屈しなくなりたいだとか。
きちんと真面目に考えて、考え続けてはいるけれど。どうしても、そのくらいしか思いつかなかった。
しかし、それらは既に長年続けて、今日も繰り返されている、ただの少女の日常で。それが変わらないことが、誰にも邪魔されないことが、魚と出会う直前までの、少女の願いだったように思う。
「そりゃあ……まあ、それは、分からなくはないけども……」
こうして魚と過ごしているこの時でさえ、何もしなくてもいいのなら、それに越したことはないのかもしれないと、そう思う部分は大きかった。
「だから、ちょっと一波乱起こして、この停滞気味の現状に、緩急をつけてみようと思ったの」
少女が垂れた釣糸の先に、不意に強く吹いた風が、木の葉をひとつ水面に落とす。
「お前……当たり前のように波風立てるんじゃねーよ。
しかも、思いつきでこんな大波を」
「わたしが思いつきで波を起こすのなんて、それこそ毎日のようにやっていることじゃない」
風に吹かれて流れた浮子を、追って魚が右を向く。
「手で池をかき回して大波立てるのとは、明らかに種類が違うだろうが」
魚の毎度の口上を聞く度に、魚が、少女の願いを叶えるためだけの存在であるかのように思えてきて。
釣り上げた少女の願いではなく、ただ、釣り上げた人間の願いを叶えるだけなのだと、そう、言われているような気がしてきて。
「少し手法を変えただけで、狼狽えて怒って不貞腐れるだなんて、神様って、汎用性だけじゃなくて順応性も低いのね」
機嫌が悪いのは、むしろこちらの方なのだと、少女は小さく息をつく。
「うるせーよ」
「お互い様よ」
魚は、何でもないことのように言っていた。
叶う願いはひとつだけで、彼は、再会なんて言葉は知らないのだと。
その言葉は今も、つらく悲しく少女の中に響いている。
「それはそうと、願いごとについて色々と考えている内に、ひとつの疑問が浮かんだんだけど」
言って少女は竿を引き、戻った浮子を受け止める。
「何だよ、疑問って?」
「小魚、毎日『俺を釣り上げた褒美に』って言ってるけど、それって、一番最初の日に釣り上げた時のことなの?
それとも毎日の……例えば今日の、一日の始めに釣り上げた時のこと?」
「そういや、どっちだ?」
軽く小首をかしげる少女に、問われて魚は絶句する。
「今までは全員、初日に願いを叶えてやってるからな」
言われてみれば、魚は今まで、ひとりの人間に何度も釣り上げられたことがない。
「まあ、どっちにしても、わたしの願いが別のものになることなんて、絶対に有り得ないんだけどね」
「こんなに何度も俺を釣り上げてんのは、こいつだけだしな」
「……小魚、今のを聞いていないのは、流石に物凄くひどいと思うよ」
天に向かった竿先を手首を返してくるりと回し、少女は諦めたような面持ちで、浮子を魚の真横に落とす。
「つーか、それはつまり、一番最初に俺に告げた願いを叶えてる……ってことなのか?」
「まったく……そうやって、好きなだけ考えてたらいいのよ、ほんとにもう」
「そう、不貞腐れるなよ。時間はまだ、いくらでもあるんだし。
お前、明日も明後日も、晴れれば毎日来るんだろ?」
穏やかに吹き始めた午後の風が、たくさんの木の葉を揺らして水面に散らす。
「当たり前でしょう? 雨季に入る前に、頑張って保存食をたくさん作るんだから」
そうして、他愛なく過ぎる時間を、ふたり一緒に分け合って。
今日も池の畔には、力強く釣り竿を掲げた気合だけは十分な少女と、未だ少しの不満がにじむ少女の視線を物ともしない、小さな水色の魚の姿。
あの日から、変わらずふたり並んだままで。
彼等がそれを望むから、これからもずっと。
神様を釣った日に・終
神様が告げた日に、に続く