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神様を釣った日に(二)

「名前が知りたいだけなのに」


 それは、神話の時代から。この地に生きる人々を、幾度となく、日照りや飢饉や疫病から救い、ずっと寄り添い見守ってきたという水神の伝説が残る森の奥で。


 戸惑うように眉根を寄せて、少女はそっと独りごちる。

 水面を割って揺れている、小さな小さな水神の、大きな目玉を見やりながら。



 人里離れた森の中に、古い石造りの神殿がある。


 今からおよそ十二年前。生まれて間もない赤子の時分に、淡い桜色の髪を持つ少女が捨てられていたその神殿は、伝説の水神が一番はじめに救った人間が住んでいたという集落に、水神を敬い救いを求める人々が集まり、やがて長い年月をかけて創建されたものだと伝わっている。


 いつの時代も滅多に姿を現さず、いつしか誰の前にも現れることがなくなっていたその水神は、今では誰もが、御伽話に語られる架空の存在だとしか思わなくなっていて。


 気味が悪いほどに深く鬱蒼とした森の奥深くにある、彼にまつわるすべてのものは、既に多くの人間達から省みられることはなくなっていたけれど。


 山間の小さな国を抱くように、山々の裾野をつないで広がる豊かな森は、人々を救い見守る水神を祀る聖域として、消えていくばかりの信仰心の最後の拠り所でもあった。


 だから、少女を神殿の門前に置き去りにした彼女の両親も、神の元ならば、あるいは不吉な髪色をした少女だったとしても、人里に居るよりは心穏やかに暮らすことができるのではないだろうかと、そんな風に思ったのかもしれない。


 しかし、一縷の望みに縋り託した、聖域を守る慈悲深く浮世離れした聖職者達から見ても、少女の髪色は受け入れがたいものだったのだろう。


 命の危険に晒されることこそなかったが、少女の記憶にある人間の大多数は、いつも彼女に対して嫌悪をあらわにしていたように思う。


 一方で、哀れな少女を大袈裟に慈しんでみせる者も少なくはなかったが、それらの者達が遠巻きに向けてくる眼差しは皆一様に冷たくて。


 少女の姿が見えない場所で囁き交わす声音には、むしろ侮蔑が色濃く感じられた。


 そんな視線に晒され過ごす中、ただひとり神殿の巫女頭だけは、自分は桜の色が大好きなのだと言いながら、厭うことなく少女の淡い色の髪に触れ、愛しむように少女の髪を梳き、暇を見つけては綺麗に結い整えてくれた。


 そして、少女の髪を梳りながら語り聞かせてくれたのが、神殿の由緒を小さな子供にも理解できるように編纂した、森の奥深くに住むという水神の物語だった。


 初めて聞いたその日から、どんな願いでもひとつだけ叶えてくれるのだというその水神の伝説は、切なる願いを持つ少女の心を奪い去り、惹きつけて離さなかった。


 その日以降、十年近くもの年月を、祭壇の中央に鎮座する人間の姿を模した異形の神像に向かい、少女は願い、祈り続けることになる。


 自分にも大人達にも、誰にもどうにも出来ないその願いを、神様だったら叶えてくれるかもしれないという、強い期待を抱きながら。


 けれども、人間はそれほど馬鹿ではない。

 十年以上ひとつ屋根の下で暮らしていても、ひとつの凶兆も現れなければ。

 そして、物心ついた頃から幾年祈り続けても、わずかな変化の兆しすら見えなければ。


 凶事を招く不吉な髪色などというものがこの世に存在しないことも、人間の手で作られた物語や神像が願いを叶えてくれるなどということも、ありはしないと嫌でも気づく。


 だからと言って、十年以上もの間、互いに相容れることができなかった相手となんて、歩み寄れるわけもなかったが。


 それでもいつしか、変わることのない髪色も、それを疎まし気に見やる視線も、以前ほどには気にはならなくなっていき。この髪がみんなと同じになりますようにと祈り続けた少女の思いは、今ではもう彼女の願いではなくなって。


 やがて、少女が抱いた神に対する畏敬の念は、誰に向けたものでもない鬱屈した暗い感情にすり替わり、彼女の内に根深くわだかまり続けることになる。


 そうして、不意に訪れたあの日。自分を含めた何もかもを持て余しながら、ただぼんやりと釣りだけをして過ごしていた、この池で。


 少女が釣り上げたのは、御伽話に語られていたとおり、人間とは異なる姿を持ちながら、人間と同じ言葉を話し、彼と出会った者の願いをひとつだけ叶えてくれるという、神域の奥深くにある池の神だった。


 その自称・水神が、人間の姿をしていたならばいざ知らず。人間の言葉で自ら神と名乗ったのは小さな魚だったから、恐らく騙りの類いではないだろう、と。人並み以上の疑り深さを持ち合わせていた少女も、妙にすんなり納得してしまった。


 そうなると不思議なもので、もしもそうだとするのなら、神殿に祀られた神像が魚の姿をしていないのは、私欲にかられて池を荒らす不届き者から彼を守るためなのだろうか、などとも思えてくるのである。


 神殿に祀られた見上げるほどに大きな神像の重厚な佇まいと、そこに少女が寄せていた思いの大きさとは正反対の、小さ過ぎるほどに小さな体から発せられる、粗雑な言葉に気安い態度。


 そのことごとくが明らかに、それまで思い描いていた、神や奇跡とは別種の何かで。


 気づけば少女は何とも言えない虚脱感に包まれながら、その稚魚と見紛うとても小さな池の神を、真っ当な稚魚が釣れてしまったときにするのと同じように、迷わず池に投げ戻していた──にも、かかわらず。


 それから毎日、朝一番に。来る日も来る日も飽きもせず、小さな魚は少女が垂れる釣り針に掛かり続けた。


 釣り上げる度に繰り返される口上は、代り映えも面白みもない一本調子で。池に向かって投げ戻す度、小さな体は水面に広がる波紋に紛れて、すぐに見えなくなってしまう。


 少女が釣り上げた小さな魚の何もかもが、彼女が信じ縋った神の姿とは、かけ離れていたけれど。


 磨き込まれた水神像の青白い光沢よりも、強い陽射しを弾いてきらめく魚の水色の鱗の方が、ずっと素敵で美しいと思った。


 魚と交わしたすべての言葉は、御伽話に語られる神が残したどの言葉よりも、ずっと近くて優しかった。


 魚と過ごす何気ない時間が、固くわだかまっていた恨み辛みも泣き言も、少しずつほぐして少女の中から消してくれた。


 そんな魚だったから、初めて釣り上げたその日から、不思議と彼を疑う気持ちは微塵も湧いてはこなかったのかも知れない。


「それじゃあ、あなたの名前を教えてくれない?」


 あの日、いつものように「どんな願いでもひとつだけ叶えてやるぞ」と踏ん反り返った水色の魚に告げたのは、そんなたくさんの思いの中から、迷いながらもひとつだけ選んだ、たったひとつの素直な願い。


 他のことなら少女ひとりで、あるいは魚とふたりで相談しながら解消していけるだろう。


 けれど、魚の名前を知る者は、この世にただひとり、小さな魚だけだったから。


 繰り返し繰り返し、何度でも、彼の名前を呼んでいきたいと。


 たった一度だけだなんて、絶対に嫌だと。

 そう、強く思ってしまったから。

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