神様を釣った日に(一)
人里離れた森の中に、小さな寂れた池がある。
小さいながらも枯れることない澄んだ水を湛え続けるその池を擁するその森は、異形の姿でありながら、人間の言葉を操り、人間と同じ心を持ち、彼と出会った者の願いをひとつだけ叶えてくれるという、水神に守られているのだと。
遠く神代の昔から、そう言い伝えられてきた水神は、森の奥深くの池に棲む、小さな魚の姿をしていて。
「お前、運が良いな。
俺はこの池の神だ。俺を釣り上げた褒美に、どんな願いでもひとつだけ叶えてやるぞ」
「おはよう小魚、今日も元気ね」
「おう、小娘。お前は今日も早いのな」
輝く鱗に凪いだ水面の色を映したその魚は、とても気さくに楽しそうに、彼を釣り上げた少女と挨拶を交わした。
「そんじゃ、そろそろ針を外してくれよ」
「うん。ちょっと待っててね」
竹で作った手製の竿から真っ直ぐ伸びた糸の先で、引き上げられた勢い余り、くるくる速い小さな魚の回転を、軽く手の平を添えて止めてから。
縫針を熱して曲げた、手製の釣り針に掛かってぶら下がる魚を、少女はそっと手の中に握り込む。
「まだかよ小娘。おせーよ小娘。不器用だなぁ、小娘さんよぉ」
「小魚、黙って」
少女の細い手の中で、全身で調子をとるように、胴をうねらせ、尾鰭をぴちぴち振りながら。
煽るように軽口をたたく魚の口から、浅く刺さった釣り針を、両手を使って慎重かつ丁寧に外すべく。
少女はその場に腰をおろし、利き手に持っていた釣り竿を、小脇に挟んで固定した。
「大体、針が刺さると痛がって文句を言うくせに、どうしていつも、針を外そうとしているときに限って、そんなに喋って暴れるの?」
「そりゃあ、お前が、毎日毎日いつまで経っても、針を外すの上達しないからだろーが」
「……あなたが怪我をしないように頑張るの、今日を限りにやめてもいいんだけど?」
半ば本気の脅しと共に、指先で頭部を強めにつままれ、口の端に刺さった針を軽く引かれて。
ようやく黙った小さな魚をじっと睨み、少女は唇を尖らせる。
「そもそも、初回以降は釣り上げられる必要なんて、ないんじゃないかと思うんだけど」
それから、ひとしきり手間取って。無抵抗な魚の口から、どうにかこうにか外すことができた釣り針を竿ごと地面に置くと。
少女はそっと握っていた左手を水に浸し、小さな魚を池に放した。
「それはまぁ、しょうがねぇだろ?」
「なにがどう、しょうがないのよ?」
水面に細かく立つ波の隙間に小さな顔を出し、げんなりと見下ろしてくる少女の顔を見返して。
「何しろ俺は、俺を釣り上げた褒美に、お前の願いを叶えるんだからな」
小さな魚は悪びれもせず、水の中で踏ん反り返った。
「それじゃあやっぱり、毎日針に掛かる必要はないんじゃない」
そう、ため息まじりに呆れながらも。
あの日から、晴れた日には必ず池にやって来ては、初めて魚を釣り上げたこの場所から釣りを始めて、こうして小さな魚の小さな我が儘に付き合っている少女は、
「さて、と」
これからが本番だ、と。
場所を変え、本腰を入れて食料確保に臨むために、気合を入れて立ち上がる。
「まだしばらくは晴れの日が続きそうだから、今日こそはたくさん魚を釣って、干物と塩漬けを作りたいのよね」
決意を胸に、釣り竿を肩に担いで歩き始めた少女の後を、すいと気持ち良さそうに魚が泳いでついてくる。
「昨日は釣果ゼロだったもんな、お前」
「ゼロではないわ。最近はいつも、朝一番で小魚が釣れているもの」
「俺を数の内に入れるなよ」
そのまま並んでゆっくりと、小さな池をひと回りして。
それからさらに、もう半周ほどのんびり歩き。
「ねぇ小魚、ここって釣れそう?」
「さぁ、どうだろな」
水面に大きく迫り出した枝葉の下の、涼しい木陰を今日の釣り場と陣取った。
「よし。目指せ、大漁」
少女と魚の気配に驚き、生い茂る岸辺の葦の間から、慌てて逃げたアメンボが走って消えた辺りを狙い、少女は力強く浮子を飛ばす。
「大漁の前に、まずは脱ボウズからじゃね?」
「……小魚の意地悪……」
小さな魚の心ない野次を受け、これ以上ないくらいに不機嫌に頬を膨らませて。
「小魚、もしかして、水の中で何か妨害とかしていないでしょうね?」
「言い掛かりも甚だしいな、オイ」
木陰の波間に時折覗く小さな魚の頭や鰭と、暗い木陰の先に広がる照り映ゆ水面に佇む浮子を、交互にぼんやり眺めつつ。
「俺は、本当に何もしてねぇし。
それに俺くらいの大きさなら、多少泳ぎ回ったところで、釣りの邪魔にはならんだろ」
「確かに。浮子や針からも、離れた場所に居るものね」
ふと、水の中からちょこんと出ている魚の顔を覗き込もうと屈んだ拍子に、肩に掛かった髪がひと房、少女の視界をふわりと遮る。
下草や、木の葉や水面で跳ね回る木漏れ日の、光の粒に透かされて。淡い桜の色にも見える、色素の薄い長い髪。
「ねえ、小魚」
「うん?」
黒髪以外は存在しないこの国では、少女が持つ髪の色はとても異質で、そして不吉なものだった。
「あのね、小魚が願いを叶えてくれるっていう話。
わたし、ずっと考えていたのだけど」
「おう?」
かれこれ既に、小一時間。
ぴくりとも動くことのなかった浮子を、少女は一度、力任せに引き戻す。
「わたしの願いごとって、現状では多分、叶えられないわけじゃない?」
「あー……まあ、そうなんだよな」
冷たい雫を散らしながら大きく揺れる浮子を受け止め、強く手の中に握り込む。
「うん。だから、ね」
拳から垂れた糸を伝い、釣り針の先から続けざまに落ちていく、水滴だけを凝視して。
「わたし、他に願いごとなんて何もないから」
新しい餌へと伸ばしかけた手で、胸に下がった髪をはらい。
少女は釣り針に餌もつけずに、どこを狙うでもなく、ただ、遠くに向かって浮子を投げた。
「だから小魚、もう、わたしの所に来なくていいよ」
人里離れた森の奥、小さな寂れた池の畔で。
繰り返された他愛ない会話は、ある日突然、打ち切られる。