神様が釣れた日に(三)
夕日の色に朱く染まる、池の畔。
「小魚って難儀よね。毎日毎日、痛い思いをしてまで針に掛かって」
「痛い思いしてんの気づいてんなら、もっと丁寧に外せよ、釣り針は」
「誓って、雑に扱ってはいないのよ? ちゃんと毎回、上手に針を外す努力はしているの。
ただ、どうにも結果が出せていないだけで……」
難儀な二人が不意に顔を見合わせて、ほんの数秒、黙り込む。
「ま、そういうことにしといてやるよ。
なにしろ、こんな寂れた池に来る人間なんて、最近じゃあ、お前だけだしな」
「なのに、わたしのお願いは聞いてくれないんだよね」
凪いだ水面に波紋を描いて、浮子が揺れる。
「しつけーよ、小娘」
「なによ。小魚なんて……小魚のくせに」
「名前知らねーんだから、しょーがねーだろ、小娘」
八つ当たりじみた少女のつぶやきに、しれっと返して。
「だって、小魚だけわたしの名前を知るの、不公平だよ」
「不公平って……」
魚は、わざとらしく溜め息をついた少女の、膨れた頬を盗み見る。
「不公平は、不公平なの」
こんな願いがあるなんて、知らなかった。
こんなことを言い出す人間が居るなんて、思ってもみなかった。
「そういやぁ、そろそろ日が暮れてきたな」
「今、無理矢理、話を誤魔化そうとしたでしょう?」
でも、その願いを叶えることの意味を、多分、魚は知っている。
「そう思うなら、素直に誤魔化されてろ。ついでにもう、家に帰れ」
少なくとも、それを願う少女の思いが自分と同じであることを、どこかで望むくらいには。
そして、願いを叶えた後に訪れる、別れを恐れるくらいには。
「あ」
「何だ?」
名前を告げることは、出来る。
「小魚ってさ、寒くないの?」
「……は?」
「水の中って、なんか寒そう」
けれど、少女の願いを、少女が望む形で叶えてやることが出来るのか、水色の魚には分からない。
「何言ってんだ、お前。魚だぞ、俺は」
「えー、本当の本当に、寒くないの?」
「寒くねーって」
「でも、夏場はともかく、それ以外は寒い日もあるんじゃない?」
叶う願いは、ひとつだけ。
魚は、願いを叶えた人間の前には、二度と現れない。
「ったく。あーもー、んなこといいから、早く帰れ!」
現れることは、出来なかったから。
「うわっ!?」
ぱしゃり、と。
小さな尾鰭で跳ね上げた飛沫が、茜色に細かく散って、波立つ水面に降り落ちる。
「酷い……水かけた……!!」
「へっ。ガキは早く家に帰れ」
胸鰭をちょいちょい小さく振りながら、軽くいなした小さな魚を、恨みがましく見下ろして。
「お返し」
少女は手の平で思い切り弾いた水を、魚の顔を目掛けて、ばしゃりとかける。
「うわ、冷──たくなんかねーんだよ。
俺に、そんなことしたってな」
「えい」
ざぶん。
「おわっ!? ちょっ、待て、おま……」
予想通りの内容を、予想以上に小憎らしく返してきた、からかう声音に腹を立て。
「えいえいえいえい……えいえい、ええーーいっ!!!」
ざぶざぶざぶばしゃ、ざぶがぽざば、ざぶんっ!!!
「をぶ……っ」
小さな魚が姿を消した波立つ水面の隙間から、最後のあぶくが、ぷくりと消えて。
「えっと……大丈夫、よね。小魚……魚だし」
少しの不安を胸に抱き、少女は、自分が起こした大波に飲まれて沈んだ魚が、浮いてくるまでじっと待つ。
「お前なぁ……!!」
数分後。
やっとの思いで顔を出した、案外平気そうな魚の姿にほっとして。
「ふっ。小魚、恐るるに足りず」
「って……意味分かんねーから、お前」
それなのに、何故か嫌味を込めて勝ち誇る少女に、冷めた調子で切り返せば、
「うわー、思いっきり濡れちゃったなー」
「聞けよ」
「日も暮れてきちゃったし」
水気を振った濡れた手で、泳ぐ視線を隠された。
「だから、暗くなる前に早く帰れって」
「うん」
そうして、他愛もなく過ぎた時間を、名残惜しげに見送って。
今日も池の畔には、岸に腰掛け暮れ行く空を見上げる少女と、池の水に鰓まで浸かった、小さな小さな魚の姿。
「それじゃあ、また明日。晴れたら、ね」
「おう。またな」
あの日から、少女が魚の名を呼ぶその日まで。
あるいは誰かが願うなら、その先も、ずっと。
神様が釣れた日に・終
神様を釣った日に、に続く