神様が釣れた日に(二)
「こんなに面倒くさい人間は、初めてだ」
ゆらゆら揺れる水面から、尖った尾鰭の先だけ出して。水色の、小さな魚は考える。
見上げた水面の向こう側、池を囲んだ木の葉がはじく光の粒に透かされて、淡く桜の色に煙る少女の髪を見やりながら。
人間の願いは単純だ、人間自体が単純だからだ。
奴らの願いはいつだって、金か名誉か、その程度。
世界平和だなんだのと、時にはトチ狂ったことを言い出す奴も、わずかながらに存在したが。
叶う願いの数を増やせ、死んだ人間を生き返らせろ、なんていうのは言うまでもなく論外だけれど。
雨を降らせろ、病気の家族を助けてくれ──そんな、些細な願いもたくさんで。
けれどいつだって、同じ状況下に置かれた人間達は、必ず決まって、魚に同じ価値観を見せつけてきた。
神と名乗った小さな魚が、人間の言葉で願いを叶えてやるぞと言えば、人間はここぞとばかりにその願いを口にした。
得体の知れない魚に怯えて逃げ出す奴も居たけれど、結局みんな戻って来る。
半信半疑の奴だって、物は試しと取りあえず、その場で思いついた願いを言ってみる。
願いの代償を求めることはなかったが、降って湧いた幸運に浮かれる人間を前にして、警戒心の欠片もないのかと思うこともしばしばだった。
詰まる所はそんなもの、人間なんてみな同じ。
いつだって魚と人間は、出会って願いを叶えるまでの、ほんのわずかな時間を共有するだけだった。
何度名前を呼ばれても、たったひとつの願いを叶えてしまえば、それでおしまい。
願いが叶って満足すれば、そして何度名前を呼ばれても魚が姿を現すことがないと知れば、人間はすぐに魚のことなど忘れてしまう。
二度と呼ぶことのない名前なんて、それこそ覚えてもいないだろう。
だから、同じ人間の前に二度と現れることが出来なくても、何も思うことなんてなかった。
釣り上げられた竿の先、初めて見上げた少女の不思議な髪の色を見たときも、こいつもこれまでの奴らと同じだと、そんな風に決めつけた。
魚と少女が生きるこの国で、黒髪ではない人間は、同じ人間達から不吉とされて忌み嫌われる。
それがこの国の人間の理だったから、少女の願いを聞くまでもなく、きっとこの少女は自身の髪色を変えることを望むだろう、と。
生まれながらの神として永い年月を過ごしてきた魚ですら、初めて見る黒以外の髪の色に驚いたのだ。
山ひとつ越えた陸続きの他国には、焦げ茶や赤。海の向こうの大陸には、金や銀の髪を持つ人間さえ居ることを知りながら、自国の理を絶対のものとして生きることを良しとするこの国で。
余計な軋轢を生まずに暮らしていくために、それは当然のことなのだと、そんな風に決めてかかった。
だから、信じられなかったのだ。
あの日、神と名乗った小さな魚を──願いを叶えてやると持ちかけた自分を、少女がひとつの願いも口にせず、迷わず池に返したことも。
それから何日か、同じように池に向かって投げ返される日が続いたことも。
何ひとつ、信じることが出来なくて。
そして、その日突然に、いやに神妙な面持ちで告げられた少女の願いに、魚は訳が分からなくなった。
「それじゃあ、あなたの名前を教えてくれない?」
きらきら揺れる、水面の向こうに目を向けて。
改めて、胸の内で反芻してみた少女の願い。
あの時、一瞬にして何も考えられなくなってしまったのは、きっと、名前を教えろなんて願いは、想像さえしたことがなかったからだろうか。