第3話
「はぁ……でも、チョコ買ったはいいけれど、結局あげる相手はいないんだよね……」
次の日、仕事が終わった夕方のこと。
当て所なく街を歩いていた春子だった。
順子は智彦と今日は一緒であるし、彼女はすっかり沈みこんだままとぼとぼと歩いていた。
すれ違う人たちは、心なしかカップルが多いようだった。
そのほとんどが手にリボンをかけた包みを持っていて、おそらくチョコの包みなのだろうなあという連想を彼女にさせていた。
「…………」
春子は自分の手に持たれた包みを悲しげに見つめた。
本当なら智彦にあげる包みだった。
高校のときからの付き合いであった智彦。
男と女として付き合っていたわけではない。
何となく気が合っていつも一緒にいた。
それで何となく一緒に同じ大学にいき、何となく一緒の会社に就職した。
だから、そのまま何となく結婚するような気がしていたのだ。
だが、そこに順子が現れた。
入社当時からかわいらしい順子は男性社員の注目の的で、春子も順子のことを嫌いではなかった。
むしろ純粋なかわいさの持ち主の順子が好きだった。
自分はそんなに明るい性格ではなく、明るく元気な順子にとても癒されていたのだ。
そして、なぜか順子も自分を好いてくれて、それで入社以来何かと一緒にいるようになって、いつのまにか気の置けない友達となっていた。
最初は智彦を入れて三人で。
だが、その関係が崩れた。
智彦が順子を好きになってしまったのだ。
でも───
「順ちゃんの言ったことが本当なら……あたし、智ちゃんに気持ち言ったほうがよかったのかな……何も言わなかったから、だから智ちゃんも素直でかわいい順ちゃんを選んじゃったのかな………」
ポロリと涙がこぼれた。
そのとき───
遠く見上げた空から舞い降りる雪に
二人の想いが重なるそっと見つめ合う
闇に沈もうとした僕を救ってくれた
君にこの言葉をそっと囁いた
ゲクトの歌が突然流れた。
春子はハッとして顔を上げた。
いつの間に来ていたのか、そこはいつも来ているCDショップだった。
「ああ……そうか、今日は『冬のLove song』の発売日だもんね……CD、買って帰ろうかな……それでまたゲクトさんに愚痴メール出そうっと……」
彼女はCDショップに入ろうと足を進めた。
と───
───ドン!
「あっ…いたっ!」
「ごめん!」
誰かが春子にぶつかってきた。
彼女は思わずその場でしりもちをついてしまった。
バッグやチョコの包みが手から離れ、辺りに散らばった。
「大丈夫?」
差し出された手。
春子はその手を掴み、そして立ち上がる。
相手は慌てて春子のバッグやチョコの包みを拾った。
「ほんと、ごめん。ちょっと急いでたものだからさ……」
「あ、いえ、あたしも邪魔してたみたいで……ごめんなさい……」
「あ、君もこのCDショップに入ろうとしてたんだ」
「ええ」
「そうか、じゃあ、先にどうぞ」
「え…そんな…」
「いーのいーの、レディファースト!」
(ぷ……)
春子は思わず吹き出した。
なんかすごくおもしろい人。
そして、しげしげと相手を見つめた。
顔立ち自体はパッと見ではおもしろい人という感じではなく、黙っていればなかなかの美青年だ。物静かで神経質そうな雰囲気で、切れ長の目は少し鋭い。だが、今はニッコリと笑っているのでつめたい感じはしなかった。
長めの髪は明るい茶色に染められていてサラっとしている。どこかで見た髪型だなあと春子は一瞬思ったが、すぐに思い出した。
(あ…今のゲクトさんの髪型にそっくり……も、もしかして…?)
ゲクトはけっこう男にも人気があるので、それほど驚く事ではない。
だが、なかなか彼の格好を真似するのには勇気がいる。それほどゲクトは美しい男なのだ。
(うん……そのてんこの人はけっこう似合ってるかも……ゲクトさんよりちょっとだけ劣るけど……わ、あたしったらなんて失礼なことを…)
春子は慌てて顔をそむけると「あ、ありがとう…」と小声で答え、そそくさとCDショップに入っていった。
そして、足早に新譜のコーナーに行くと、ゲクトの新譜を手にとった。
「あ……すごい…これが最後の一枚だ……」
そう。その通り。彼女が手にしたCDがそこに置いてあった最後のようだった。
すると、春子の後ろからにゅっとさっきの男が顔を出し、覗き込んできた。
「あ、君もゲクトのCD買いに来たんだ?」
「あなたもですか?」
「うん、そう。俺、彼の大ファンなんだ」
「へーそうなんだ」
春子は何だか嬉しくなってきた。
彼のほうもゲクトファンに出逢えて嬉しかったらしく、少し興奮している。
「俺の彼女もさー彼のファンでねー、で、ゲクトとおんなじ髪型にしろってうるさくてさ」
「あーそうなんだ?」
照れくさそうに彼は笑いながら自分の髪を触った。
(そっか…そうだよね、あたりまえだよね、こんなステキな人だもん……)
「でさ、今日はバレンタインだろ? 彼女に呼び出されててさ、きっとチョコくれるんだと思うけど。その時にゲクトの新譜持っていったら喜ぶかなあって。ほら、昨日のゲクトのフラフラしてんじゃね~オマエラ、聞いた?」
「うん、聞いた」
(う…なんかタメで話しちゃったし~)
「そんときゲクト言ってたじゃん。好きな相手にチョコもらったらこの曲あげてくれって。俺、カンドーしちゃったなあ。好きな女に歌をプレゼントなんてさ。ちきしょ~コイツってばかっこいーじゃんか~ってなってさ」
「うんうん」
(なんか、この人かわいい)
「俺、歌なんて作る才能ないけど、でも、ゲクトの歌って、こーなんつーか男の切なさをさ、こうセツセツと歌ってるっていうか…あ、ごめん、なんか俺ばっかしゃべくっちゃって」
春子はブンブンと首を振った。
彼女はすごく嬉しかったのだ。
智彦はゲクトがあまり好きではなく、彼女が彼の話をしても聞いてくれなかった。
ナルシー男だの女の腐ったみたいな歌を歌ってるだのと言って取り合ってくれなかった。
こんなふうにゲクトの良さを恥ずかしげもなく言い切っている男を今まで彼女は見たことがなかったのだ。
とそのとき───
「えぇぇぇぇぇー!」
突然、彼の大声が上がった。
春子はびっくりして彼を見た。
「『冬のLove song』売りきれちゃったのぉぉぉ?」
そうだった。
春子も忘れていたのだった。
最後のCDを自分が今手にしてたことを。
「あの……これいいですよ?」
彼女は迷うことなく、手にしていたCDを彼に差し出した。
「え? いいの? でも、君が先に見つけたんだから……」
「いいんです。ほら、あたしはホワイトデーで誰かからもらえばいいんだし……」
自分でそう言ったはいいが、ズキン───と胸が痛んだ。
その誰かはいないというのに。
心配そうな表情をしていた彼が、春子が持っていたワインレッドの紙袋を見て得心がいったらしく、にっこりと満面の笑みを見せた。
「そっか、君も彼氏にチョコをあげにいくところだったんだね。じゃあその彼に頼むんだよ、ゲクトのCDを」
「うん、そうする……」
「ありがとう、じゃあ遠慮なく」
彼は春子からCDを受け取るとレジへと向かった。
それを見送る春子。
すると、レジに辿り着こうとしたとき、急に彼が振り返った。
「ねえ、君なんて名前? 俺は楽人、神山楽人。この名前けっこう運命感じてるんだ。ゲクトの名前に似てるだろ?」
「ほんとだ、ガクトだなんて……すごい偶然だね。あ、あたしは春子、藤堂春子」
「春ちゃんかー、かわいいね、じゃ、ありがと。今度何かおごるよ」
おごるって───と春子は思った。
今日逢ってすぐにこんなに打ち解けたのも驚いたが、そんな約束まで───彼女がいるのに、いいんだろうか───
春子は何となく居ずらくなってCDショップを出た。
彼女の背後で、ゲクトの歌が切なく響いていた。
君の手は温かく僕を包んでくれるいつまでも
愛してるいつまでも君に囁くよ忘れないで